「最後の花火」の系列の最後は、「最後の」「最後の」というように、「花火」を修飾する「最後」が二つ重ねられ、「僕ら」という一人称複数の代名詞が使われることで、フィナーレを迎える。
最後の最後の花火が終わったら
僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ
「最後の最後の花火が終わったら」とは、「最後の花火」の最後(の花火)が終了する時点と捉えてよいのだろうが、「最後」「最後」「終わる」という言葉のたたみかけは、何かの終わりを強調しているかのようだ。花火をみている現在時から、時間の長短に関係なく、未来の終了時を仮定している。その未来の時点で「僕らは変わる」ということがある「かな」という問いを、現在時の「僕」が未来の「僕」と「僕ら」に投げかけているのだ。
「僕ら」という主語は「変わるかな」という述語で締めくくられている。「変わる」とあるが、どのような「僕ら」からどのような「僕ら」へ変わるのかという事柄は、当然のように描かれることがない。「僕ら」が「変わる」というのは、「僕ら」の関係性そのものが変わるのか、あるいは「僕ら」の個々が変わるのか。前者の可能性が高いのだろうが、後者も完全には排除できない。両者ということも考えられる。「変わる」方向を定めるのは難しい。「僕ら」というゆるやかな関係性は築かれているのだろうが、その関係の内実や個別性が明らかではないからだ。
「同じ空を見上げているよ」というのも、「僕ら」の関係のあり方を考察する上で興味深い。花火の場面では通常、人は隣り合わせで横に座り、前方上方の花火を見るという位置取りが考えられる。美しい花火の彩りに時に感嘆をあげ、光が消えて煙や空が広がり、次の花火が打ち上がるまでの 間合いには、とりとめのない、たわいない会話をする。その場に一緒にいるという雰囲気を楽しむ。花火の空を見上げるという行為自体が、夏の「余白」のような時の過ごし方である。
そして、「僕ら」が「同じ空を見上げている」のであれば、「僕ら」の眼差しは向き合っていないことになる。同じ位置で同じ空の方向に視線を向けている。時には互いに視線を交わすことがあるとしても。例えば、テーブルに二人が腰掛けるときに、向かい合うかそれとも横に座るかという選択がある。二人の視線が互いを見つめあように座るのかそうでないのかということは、二人のその時の関係性にもよる。
「僕ら」とは誰なのか。
『若者のすべて』の物語の鍵となる問いだ。「最後の花火」系列では、「会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ」と「まいったな まいったな 話すことに迷うな」という二つの対比的なモチーフが要となっている。「まぶた」を閉じた「僕」は「まぶた」の裏の幻の相手に対し「会ったら言えるかな」と、「まぶた」を開けた「僕」はその眼差しの向こうの現実の相手に対し「話すことに迷うな」と、心の中で語り出す。
「僕ら」という一人称代名詞複数形によって指示されるのは、歌の主体「僕」と、「僕」の眼差しの対象である相手との二人であろう。「僕」の強い欲望の対象となっている相手であるから、恋愛の対象とみるのも自然だ。「僕」にとってその相手は、恋愛の関係である、あった、あるだろう、あるいはありたい、という枠組みで括られると読むのが普通なのだろう。しかし、恋愛の物語としての『若者のすべて』というのは動かしがたい解釈なのだろうか。
「恋愛」という関係性は、その本質からして閉じられていくものだが、「僕らは変わるかな」という問い、「同じ空を見上げているよ」という眼差しからは、閉じられていくというよりも、開かれているような、そして、おだやかに変化しつつある関係性のようなものが伝わってくる。微妙ではあるが、その実質には「友愛」のような関係性も入り込んでいるように、私には感じられる。
この場合の「友愛」とは、「愛」と呼ばれる関係からエロス的なものを排除したものであり、友人、仲間、同じ世代や同じ志を抱く共同体にゆるやかに広がっていく。そのような関係に基づく「僕ら」は、『若者のすべて』が収録されている『TEENAGER』のコンセプトにもつながるような気がする。十代の若者たち、今その世代に属する者も、かってその世代に属していた者も、これからその世代に属することになる者にとっても、「僕らは変わるかな」という問いはリアルなものであり続けるだろう。
「僕ら」についてさらに異なる捉え方もある。「僕ら」が二人の「僕」自身で構成されていると考えるのはどうだろうか。「最後の最後の花火」の場面で、「僕」の幻の中で、「僕」はもう一人の「僕」に遭遇する。「僕」が二つの分身として、「過去の僕」と「現在の僕」、あるいは「現実の僕」と「仮想の僕」というように「僕ら」を形成する。「過去の僕」と「現在の僕」が、「現実の僕」と「仮想の僕」が、「僕らは変わるかな」と対話を試みる。『若者のすべて』の歌そのものからはかなり離れてしまうが、そのような解釈はやはりありえないものであろうか。
そのような解釈の延長線上に、「僕」と「僕ら」という一人称代名詞が指し示す対象を作者志村正彦自身にしてみると、どのような光景が描かれるだろうか。今回、この歌を繰り返し聴く中で、そのような想像が膨らんできた。
それは、「過去の志村正彦」と「現在の志村正彦」、あるいは「十代の志村正彦、Teenagerの志村正彦」と「二十代の志村正彦」が、「僕ら」の二人の分身となって、「僕らは変わるかな」と語りあう光景だ。
歌という虚構によってもたらされる非現実的な光景だが、そのような光景を想像する自由も、歌の聴き手にはあるのではないだろうか。「解釈」としては成立しないが、「歌を生きる」行為としてはあり得る。歌そのものからは遠ざかっていくようで、最も遠い地点から反転して、再び、歌の近くに戻ってくる。
歌との対話は終わりなく続く。「僕ら」は誰なのか。どう「変わる」のか。その問いかけが『若者のすべて』の解釈へと人を誘い、この歌の力の源泉となっている。
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