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2013年9月22日日曜日

言葉-『若者のすべて』9 (志村正彦LN 50)

 志村正彦は、『若者のすべて』について、『茜色の夕日』と同等の「リアルな思い」があることに気づいたと、『音楽と人』2007年12月号所収の樋口靖幸氏によるインタビュー記事で述べている。

 〈茜色の夕日〉以来です、こんなナーバスになってるのは。あの時は曲つくって自分の思いを表現して、あの人にいつか届けたいっていう、音楽やるのに真っ当な理由があったわけですよ。それに自信をつけられていろんな曲を今まで作ってきたけど、これは当時のその曲と同じくらいのリアルな思いがある……ってことを、作った後に気づかされたんだよなぁ。

 志村正彦の歩みの始まりの歌『茜色の夕日』は、「自分の思いを表現して、あの人にいつか届けたい」という歌であるが、次の一節にあるような屈折や断念も含まれている。

  僕じゃきっとできないな できないな
  本音を言うこともできないな できないな
  無責任でいいな ラララ そんなことを思ってしまった   (『茜色の夕日』)

 歌の主体「僕」は、本音を言うことができない。本当の言葉を伝えることができない。「僕」は、そのような「僕」のあり方を「無責任でいいな」「ラララ」と、幾分か自嘲気味に批評している。「君に伝えた情熱」と共にこのような醒めた自己批評が、『茜色の夕日』の切なさを際立たせている。
 『若者のすべて』でも「僕」は、「会ったら言えるかな」「話すことに迷うな」と、「言う」こと「話す」ことについての逡巡や葛藤の中にいる。「僕」は言葉で伝えることをめぐって揺れ続けている。

  ないかな ないよな きっとね いないよな
  会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

  ないかな ないよな なんてね 思ってた
  まいったな まいったな 話すことに迷うな           (『若者のすべて』)              

 『茜色の夕日』や『若者のすべて』は、失われてしまった他者への想いというテーマで語られることが多いが、失われてしまった言葉、伝えることのできなかった言葉というモチーフも重要である。言葉で伝達することの困難が「僕」に立ち塞がる。そのような意味で、『茜色の夕日』や『若者のすべて』に共通する「リアルな思い」がある。

 また、『茜色の夕日』の「できないな できないな」の「ないな」の「ない」「な」音の反復は、『若者のすべて』の「ないかな ないよな」の「ない」「な」音の反復と、作品を越えて、響きあっているようにも感じられる。 「ない」という否定表現を志村正彦がよく使ったのは、そのような否定形でしか語れない出来事、伝えられない世界に彼がいつも向き合っていたからであろう。

 メジャーデビュー作『フジファブリック』には、言葉で伝えることの困難をめぐる歌が幾つかある。

  ならば愛を込めて 手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ 僕は読み返しては感動している!   (『桜の季節』)

 「愛」を込めて、大切な人に向けてしたためられる「手紙」。しかし、「僕」は「作り話」を読み返して「感動している」だけである。結局、その手紙が投函されることはない。「僕」は本当に伝えるべき言葉、真実の話をまだ書くことができないのかもしれない。
 それにしても、宛先に届くことのない手紙とは、なんと志村正彦らしいモチーフだろう!

  もしも 過ぎ去りしあなたに 全て 伝えられるのならば
  それは 叶えられないとしても 心の中 準備をしていた

  期待外れな程 感傷的にはなりきれず
  目を閉じるたびにあの日の言葉が消えてゆく        (『赤黄色の金木犀』)

 「過ぎ去りしあなた」に「伝えられるのならば」という仮定形でしか語られることのない言葉。伝えることは「叶えられない」としても、その言葉を「心の中」で備えている「僕」。心の中の言葉も「あの日の言葉」も時の流れと共に消えていく。「赤黄色の金木犀」の香る季節に「無駄に胸が騒いでしまう」のは、そのような言葉の消失に対する痛切な想いがあるからだろう。

  話し疲れたあなたは眠りの森へ行く
    
      夜汽車が峠を越える頃 そっと
    静かにあなたに本当の事を言おう                 (『夜汽車』)

 夜汽車の音や揺れ、そのゆったりとしたリズムと共に「話し疲れたあなた」は「眠りの森へ行く」。その眠りの間に「そっと静かに」言おうとする「本当の事」。だから、その言葉は決して「あなた」には届かない。「僕」は「あなた」にではなく、自分自身に向けて「本当の事」を言おうとしているかのようだ。

 一つひとつの歌ごとに具体的な文脈は異なるが、共通するのは、言葉で伝えることそのもの、あるいはその困難という壁の前で佇立する「僕」の姿である。志村正彦はそのような「僕」を繰り返し歌ってきた。
 伝えられることなく差出人の元に留まる手紙の言葉、伝えられるのならばという仮定のもとに留まる言葉、現実としては伝えられることのない状況に留まる言葉。言葉は結局、伝えられることなく、「僕」のもとに留まる。そのような自分自身の中に留まる言葉を、志村正彦は誠実に丁寧に聴き取り、歌にして表現してきた。

 日本の歌の歴史の中で、志村正彦を希有な表現者、極めて優れた詩人にしているのは、言葉に対するこのような独特の位置にある。

 先のインタビューで、彼は『若者のすべて』について「この曲聴くたびに自分に向けて作った曲だなって思って」と述べているが、彼が「自分に向けて作った曲」は確実に私たち聴き手に届いている。「自分に向けて作った曲」が自分を越えて他者に届く。言葉が伝わる。それは不思議なことでもある。

 それでも、聴き手は一人ひとり自問してみるのがよいかもしれない。『若者のすべて』の言葉が本当はどこに届こうとしているのか。志村正彦の言葉を読むことの意味は、そのような問いかけに対して、聴き手自らが応答することの中にあるのだから。

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