前回のLN48では、「僕ら」についての読みをかなり遠くの地平にまで広げてしまった。宙に飛んでしまったような感じもあったので、今回は、『志村正彦全詩集』というテキストにしっかりと着地して、志村正彦の歌詞全体の中で、「僕ら」という言葉を検証してみたい。
『志村正彦全詩集』を最初から最後まで読んでいくと、インディーズ時代からメジャー2枚目までの4枚のアルバム、『アラカルト』『アラモード』『フジファブリック』『FAB FOX』では、「僕」と「君」との恋愛の関係性を示す言葉としては、「二人」だけが使われているということに気づく。
この4枚のアルバムには、「僕ら」という言葉は全く出てこない。「僕ら」が登場するのは、『若者のすべて』所収の『TEENAGER』が初めてであり、しかも全13曲中の5曲で使われている。志村は言葉の選択には非常に時間をかけていたので、この使い分けはかなり意識的なものであっと推測される。彼は「二人」と「僕ら」をどのように使い分けていたのだろうか。
志村の使う「二人」は、通常の日本語の歌の用例と同様に、恋愛関係にある「二人」という意味合いだと考えてよい。その関係が歌の中の現実であっても想像であっても、「二人」には、歌の主体「僕」と「君」あるいは「貴方」との恋愛の物語が設定されている。具体的に「二人」の用例をあげてみる。
「偶然街で出会う二人 戸惑いながら」 (『桜並木、二つの傘』)
「妄想が更に膨らんで 二人でちょっと 公園に行ってみたんです」(『花屋の娘』)
「波音が際立てた 揺れる二人の 後ろ姿を」 (『NAGISAにて』)
「黙った二人 喫茶店の隅っこ」 (『追ってけ 追ってけ』)
「真夜中 二時過ぎ 二人は街を逃げ出した」 (『銀河』)
「いつかはきっと二人 歳とってしまうものかもしれない」 (『唇のソレ』)
『桜並木、二つの傘』では、「桜並木」ときれいな「コントラスト」をなす「二人」の情景を浮かび上がらせている。歌詞の一節に「苛立つ僕」と「二人の沈黙」というコントラストもあるように、歌の主体「僕」と「二人」との間にはある微妙な距離がある。「二人」という言葉で、「僕」が恋愛関係にある男女を対象化する時には、その「二人」は「僕」から離れた、「僕」の外部にあるもの、幾分か風景に近いものとして表現されている。
『花屋の娘』や『NAGISAにて』にはその特徴がさらによく現れている。『花屋の娘』では、「僕」は電車の窓から見た「花屋の娘さん」に対して、「妄想が更に膨らんで 二人でちょっと 公園に行ってみたんです」とあるように、「僕」の妄想の対象として、「二人」は僕の外部にある想像のスクリーンに描かれている。『NAGISAにて』の「貴方」と歌の主体との間にも現実の交流はなく、主体の風景の中で「揺れる二人の 後ろ姿」が描かれている。
「僕ら」はどのように表現されているのか。『TEENAGER』中の5曲にある用例を引用してみる。
「記念の写真 撮って 僕らはさよなら」 (『記念写真』)
「そこだ 見事なタイミング 僕らなんかみだら」 (『B.O.I.P.』)
「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」 (『若者のすべて』)
「わがままな僕らは期待を たいしたことも知らずに」 (『まばたき』)
「僕らはいつも満たされたい」 (『TEENAGER』)
『TEENAGER』には、かなりゆるやかなものではあるが、「十代の若者」を主題とするコンセプトがあるだろう。このことと「僕ら」という一人称代名詞の複数形が登場したことには内的な関連性があるように感じられる。
なお、『TEENAGER』所収の『パッション・フルーツ』には、「まぶしく光る町灯り 照らされて浮かぶ二人」という一節がある。「夢の中」にいるような「僕」と「ゆうべの君」の「パッション」は、「町灯り」に「照らされて浮かぶ二人」という風景と、あるコントラストをなしている。『アラカルト』から『FAB FOX』までの4枚のアルバムでの用例と似た表現の特徴を持っている。
前回述べたように、志村正彦が表現する「僕ら」には、男女に限定されない、恋愛より広い関係性、世代的な共同性が込められている。このことと矛盾するようではあるが、恋愛関係が想定される場合、「二人」よりも強い結びつき、同じ記憶や経験を共有している絆の感覚が「僕ら」には込められているようにも感じられる。
「二人」は、「僕」の外部に風景のように「見る」対象とも言える三人称的な客体的なものであるが、「僕ら」は、「僕」と「僕」から構成されている一人称的な主体的なものである。「僕らはいつも満たされたい」(『TEENAGER』)とあるように、「僕ら」は欲望の主体でもあり、その実現のために何かを試みる。静的な「二人」に対して、「僕ら」は動的であろうとする。
『志村正彦全詩集』の中で、「僕ら」という用例を「二人」と比較する作業を通じて、「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」という最後の一節をもう一度読み込んでいくのも、読むことの可能性を拡げていくに違いない。
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