11月15日谷崎潤一郎「母を恋うる記」(甲府文と芸の会第2回公演)

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2021年4月30日金曜日

『桜並木、二つの傘』ABCDのかたち[志村正彦LN272]

 四月が終わる。今朝の朝日新聞「天声人語」では、北海道函館の五稜郭公園のソメイヨシノが盛りを迎えた、とあった。史上2番目の早さということだ。

 この園内1500本の大半は樹齢60年以上で衰えが目立ってきたので、昨年から「お礼肥(ごえ)」プロジェクトを始め、ボランティアを募って老木に肥料を挙げたそうだ。「桜が枯れた頃」とならないように桜を大切に養生する。記事は「今年の桜前線は列島を常ならぬ早足で駆け抜け、めでる余裕もなかった。来年こそは心穏やかに花の盛りを迎えたい。過度の負担を幹や根にかけぬよう気をつけながら」と結ばれていた。同感である。コロナ禍があり、桜を静かに眺めるという心のゆとりがもなかった。でも昨年も「来年こそは」という言葉が交わされていた気がする。ここ山梨の地元放送局テレビ山梨は、『若者のすべて』を音源にして「STAY HOME」のCMでそのようなメッセージを流していた。コロナ禍を含め、未来がきわめて不透明な時代だ。先が見通せない辛い現実がある。

 志村正彦・フジファブリックの『桜並木、二つの傘』のことを続けて書きたい。現代詩作家の荒川洋治は、『詩とことば』 (岩波現代文庫 2012.6、原著2004刊)で、詩の基本的なかたちを次のように示している。(p102)


 詩は、基本的に、次のようなかたちをしている。
    こんなことがある      A
  そして、こんなこともある  B
  あんなこともある!     C
  そんな ことなのか      D

 いわゆる起承転結である。Aを承けて、B。Cでは別のものを出し場面を転換。景色をひろげる。大きな景色に包まれたあとに、Dを出し、しめくくる。たいていの詩はこの順序で書かれる。あるいはこの順序の組み合わせ。はじまりと終わりをもつ表現はこの順序だと、読者はのみこみやすい。


 このABCDは確かに起承転結のかたちだが、それを〈こんなことがある→そして、こんなこともある→あんなこともある!→そんな ことなのか〉と述べているところが愉快だ。荒川洋治的な語り口がある。このABCDのかたちを志村正彦・フジファブリックの『桜並木、二つの傘』にあてはめてみよう。


1A あれはいつか かなり前に君を見たら 薄笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう
1B 偶然街で出会う二人 戸惑いながら 照れ笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう

1C 切り出しそうな僕に気付いたのなら 君から告げてはくれないのか
1D 降り出しそうな色した 午後の空が 二人の気持ちを映してるかのようで

2A されど 時が経てば覚めてしまうもので  そうなってはどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう
2B 何か少し期待外れの部分見つけ 膨らんではどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう

2C 解りきった会話続くわけもない 苛立つ僕はタバコに火をつけ
2D 強く降り出した通り雨の音 二人の沈黙を少し和らげた

3C DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA 最後に出かけないか
3D 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト

*リフレインの部分は省略


〈A こんなことがある〉
1A あれはいつか かなり前に君を見たら 薄笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう
2A されど 時が経てば覚めてしまうもので  そうなってはどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう

〈B そして、こんなこともある〉
1B 偶然街で出会う二人 戸惑いながら 照れ笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう
2B 何か少し期待外れの部分見つけ 膨らんではどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう

〈C あんなこともある!〉
1C 切り出しそうな僕に気付いたのなら 君から告げてはくれないのか
2C 解りきった会話続くわけもない 苛立つ僕はタバコに火をつけ
3C DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA 最後に出かけないか


〈D そんな ことなのか〉 
1D 降り出しそうな色した 午後の空が 二人の気持ちを映してるかのようで
2D 強く降り出した通り雨の音 二人の沈黙を少し和らげた
3D 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト


 三つのブロックがあるので、1,2,3の番号を付けた上でABCDに分けて靑色の字で示した。3にはABがなくCDのみがあると考えた(分け方はいろいろあるだろうが)。それをABCD別に再配置したのが赤字の部分である。

 そうするとこの歌詞も、荒川洋治の言う「ABCD」の基本的かたち、起承転結の構成を持つことが分かる。1と2のABは、過去や現在の状況をめぐる「何故なのだろう」という問いかけである。123のCでは、「僕」は別れを「君から告げてはくれないのか」と思い、「会話」が続くわけもないので「僕」は苛立ちタバコに火をつける。スキャットを挟んで、「最後に出かけないか」と「君」を誘う。3は明らかに転換の箇所である。そして物語の中の行動の箇所である。「僕」は苛立ち、そして急いでいる。123のDは、空・雨・桜並木というように、気候や季節の感触を活かして「二人」の情景を描いている。天気が「降り出しそうな色した 午後の空」から「強く降り出した通り雨の音」へと移ると共に、「二人の沈黙」が少し和らいでいく。空と雨に呼び込まれるようにして、「傘」のモチーフが現れる。そして、「桜並木」はこの歌詞全体の終わりの舞台として登場する。「桜並木と二つの傘」の姿と色が「きれいにコントラスト」をなすことでこの歌詞はエンディングを迎える。

 この『桜並木、二つの傘』では、志村正彦はサウンドに急き立てられるかのよう歌う。自分で自分の言葉を追いかける。そして、「二人」の物語を語るというよりもむしろ語らないままで追い越してしまう。この歌には、ABCDという起承転結のかたちはあるのだが、ほとんどかたちだけであり、具体的な物語は浮かび上がらない。

 志村は物語を置き去りにしてまで、「桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト」という情景へ疾走したかったのだろうか。

 『桜の季節』では、「桜が枯れた頃」という遠い時間が設定されていた。桜をめぐる循環した時間があった。その時間の中で「遠くの町に行くのかい?」「その町に くりだしてみるのもいい」という「町」がそこにはあった。その町にはそれなりに自然の景観が広がっている。そんな雰囲気がある。それに対して『桜並木、二つの傘』の場は、「町」というよりも「街」のように感じる。それも都会の街であり、街の桜並木だろう。時間もせわしく流れている。

 『桜並木、二つの傘』と『桜の季節』。志村正彦の二つの桜の歌は、時と場が、きれいにコントラストをなしている。


2021年4月25日日曜日

『桜並木、二つの傘』[志村正彦LN271]

  甲府では桜の季節はとうに過ぎ去ったが、今回から、志村正彦・フジファブリックの『桜並木、二つの傘』について書いてみたい。

 この作品は、2002年10月21日リリースのフジファブリックの1stミニアルバム『アラカルト』に収録された。その後、2004年4月14日、1stシングル『桜の季節』のカップリングとしてリメイクされた。この二つの曲にはアレンジや演奏の違いがあり、聞き比べるのも興味深い。

 他の四季盤のA面とB面(メインとカップリング)の曲が、テーマが明確に異なるのに対して、この春盤では、「桜」というテーマが一致している、しかも「別れ」というモチーフまでも共通している。なぜこのような組合せにしたのか。それこそ、この歌の一節「何故なのだろう」という気分である。あえて言うのなら、同一のテーマとモチーフによって、『桜並木、二つの傘』の一節で言うのなら「きれいにコントラスト」を作ったのだろうか。

 フジファブリック Official Channel に『アラカルト』の音源がある。これはありがたい。Vo./Gt. 志村正彦、Gt. 萩原彰人、Ba. 加藤雄一、Key.  田所幸子、Dr. 渡辺隆之の編成によるインディーズ時代の通称「第2期フジファブリック」の録音。その後のメジャーデビュー時のフジファブリックでは失われた独特のグルーブ感がある。志村の声も若々しい。

 桜並木、二つの傘 · FUJIFABRIC アラカルト

℗ 2002 Song-Crux Released on: 2002-10-21
Lyricist: Masahiko Shimura Composer: Masahiko Shimura


 

歌詞の全文を引用しよう。


 桜並木、二つの傘
 作詞・作曲:志村正彦

あれはいつか かなり前に君を見たら
薄笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう
偶然街で出会う二人 戸惑いながら
照れ笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう

切り出しそうな僕に気付いたのなら
君から告げてはくれないのか
降り出しそうな色した 午後の空が
二人の気持ちを映してるかのようで

されど 時が経てば覚めてしまうもので
そうなってはどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう
何か少し期待外れの部分見つけ
膨らんではどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう

解りきった会話続くわけもない
苛立つ僕はタバコに火をつけ
強く降り出した通り雨の音
二人の沈黙を少し和らげた

DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA
最後に出かけないか 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト

切り出しそうな僕に気付いたのなら
君から告げてはくれないのか
降り出しそうな色した 午後の空が
二人の気持ちを映してるかのようで

DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA
最後に出かけないか 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト
DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA
最後に出かけないか 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト

AH〜


 1番目のブロック。冒頭の「あれはいつか かなり前に君を見たら」という一節。「あれはいつか かなり前に」という過去の時間設定。それに続いて、「君を見たら」という過去における出来事の仮定というのか、ある種の提示があり、それに対して「薄笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう」という帰結がある。「あれはいつか かなり前に君を見た時に 薄笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無かったのは 何故なのだろう」が通常の表現だろう。この表現であれば、過去の回想と現在の「何故なのだろう」という問いかけがきっちりと分離されている。しかし、志村正彦の選択した表現は、時間にも構文にも、奇妙なねじれがある。ある意図が込められたのだろうが、それは判然としない。続く「偶然街で出会う二人 戸惑いながら」の「偶然」「戸惑いながら」という状況との関係から選択されたのだろうか。このあたりの表現の機微は、志村正彦的なあまりに志村正彦的な、とでも言うしかない。そして「薄笑い」にしろ「照れ笑い」にしろ、自分が自分を笑う。そのような位置の取り方をしている。

 2番目のブロックには、「切り出しそうな僕に気付いたのなら/君から告げてはくれないのか/降り出しそうな色した 午後の空が/二人の気持ちを映してるかのようで」とあり、「僕」「君」「二人」という人称代名詞やそれに類する言葉が出そろう。「僕」は「君」に対して、「切り出しそうな僕に気付いたのなら」「君から告げてはくれないのか」と心の中で呟く。ここでも「たのなら」「てはくれないのか」という仮定とその帰結という形式を取っている。「降り出しそうな色した 午後の空が/二人の気持ちを映してるかのようで」とあり、雨が降り出しそうな午後の空の色が描かれる。その色は「二人の気持ちを映してるかのようで」と捉えられるが、「かのようで」とあることから、歌の主体「僕」があたかもこの場面の外側にいて、その外側の視点から、「空の色」と「二人の気持ち」を「かのようで」で接続していると受けとめられる。つまり、「僕」と「君」が居合わせる「二人」の場と、それを眺める「僕」との間には、分離、隔たりがある。「二人」の場面をカメラのフレーム、枠組みの中に収めている「僕」がいる。「僕」はそのフレームの向こう側とこちら側の両方にいる。冒頭の時間と構文のねじれようなものは、このことに起因しているのかもしれない。

 3番目のブロックは、「されど」で始まる。ここで「僕」の想いの方へと焦点が当てられていく。歌の物語の転換である。「時が経てば覚めてしまうもので」「何か少し期待外れの部分見つけ」という「二人」の関係の変化。そのようにして「どうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう」と、自分が自分に問いかける。

 4番目のブロックで、一連の出来事がひとまずの収束を迎える。「解りきった会話続くわけもない/苛立つ僕はタバコに火をつけ」と、志村正彦の歌詞では珍しい「苛立つ」という直接的な感情表現がある。その感情は、「強く降り出した通り雨の音」によって少し鎮められたのだろうか。通り雨の「音」が「二人の沈黙を少し和らげた」とある。「降り出しそうな色した 午後の空」から「強く降り出した通り雨の音」への空模様の変化は、時間の進行を示している。

 5番目のブロック、サビの「DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA/最後に出かけないか 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト」は「僕」の内心の呟きというか静かな叫びなのだろう。「通り雨の音」と「二人の沈黙」の音をめぐるコントラストが、二人のいる室内にある。そこから外に出ることを「僕」は想像している。「最後に出かけないか」と「僕」は「君」を誘う。おそらく「二人」の別れの場面だろう。でもこの歌の中で、そこに到る物語が語られることはない。物語は覚めてしまって、期待外れに終わっている。「僕」の心の中には「桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト」という「最後」の情景が浮かび上がる。これははあくまでも僕が想像している光景である。その光景はあくまでも「きれいにコントラスト」を成していなければならない。そうでなければ、「二人」の物語の「最後」の光景が完結しないかのように。

 『桜並木、二つの傘』は、本編の物語がほとんど欠落している。(あるいは隠されていると言うべきかもしれないが)「桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト」を成すラストシーンだけが上映される短編映画のような作品である。そのラストシーンへの展開、時間の凝縮の仕方が、志村正彦の語りの技術でもある。

      (この項続く)