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2018年11月18日日曜日

少年期と現在、二つの系列-『陽炎』5[志村正彦LN201]

 フジファブリック『陽炎』論を二ヶ月ぶりに再開したい。

 この歌で描かれる世界は大きく二つの系列に分かれる。「少年期の僕」を描く物語の系列と、「少年期の僕を見ている今の自分」の想いを叙述する系列の二つだ。そしてその二つの系列の背後には、「少年期の僕」と「少年期の僕を見ている今の自分」の両方を見つめている自分が存在している。

 この二つは明解に分けられるのだが、視覚的に捉えやすくするるために前者の系列を赤、後者の系列を青で記してみる。最後の「陽炎が揺れてる」は青でも赤でもない紫色にする。


  陽炎 (作詞・作曲:志村正彦)

あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ

また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
残像が 胸を締めつける

隣のノッポに 借りたバットと
駄菓子屋に ちょっとのお小遣い持って行こう
さんざん悩んで 時間が経ったら
雲行きが変わって ポツリと降ってくる
肩落として帰った

窓からそっと手を出して
やんでた雨に気付いて
慌てて家を飛び出して
そのうち陽が照りつけて
遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる

きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう

またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
出来事が 胸を締めつける

窓からそっと手を出して
やんでた雨に気付いて
慌てて家を飛び出して
そのうち陽が照りつけて
遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる

陽炎が揺れてる


 『陽炎』のライブ映像をいくつか見ると、青色の部分では照明が落とされて、赤色の部分に転換する際に照明も光量が多くなる。テンポも速くなり、音量も大きくなる。歌詞の系列の転換を強調したアレンジや演出だろう。この歌のテーマでもある「ワープ」を意図したのかもしれない。『陽炎』のダイナミズムがここにある。

 歌の主体「僕」は次のように語り出す。


あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ


 「あの街並」を想起した時、「英雄気取った 路地裏の僕」が心の中で浮き上がる。それは「何故だか」とあるように訳もなく、しかも「ぼんやり」としか見えない像である。何かの拍子に脈略もなく、ある出来事が瞬間的に回帰してくることがある。はっきりとしない曖昧なものであってもその像を追っていくと、少しずつ像の実質が現れてくる。

 「今の自分が少年時代の自分に出くわすっていう絵が、頭の中あって。そこで回想をして、映画に出てきそうなシーンを書きたいなと思って作りました」(「oriconstyle」2004年7月14日付記事)という志村自身の発言にあるように、現在の自分と少年期の自分に出くわす「絵」の輪郭が作者の頭の中で確かなものとなる。舞台は作者の故郷の「路地裏」。そのような設定で物語が動き始める。
 今の自分が少年期の僕と遭遇し、二人は並んで走る。そうこうしているうちに、二人は一体化して路地裏を駆け巡る。そんな幻が浮かんでくる。


隣のノッポに 借りたバットと
駄菓子屋に ちょっとのお小遣い持って行こう
さんざん悩んで 時間が経ったら
雲行きが変わって ポツリと降ってくる
肩落として帰った

窓からそっと手を出して
やんでた雨に気付いて
慌てて家を飛び出して
そのうち陽が照りつけて
遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる


 十月、山中湖で開催された「Mt.FUJIMAKI 2018」に行く途中、富士吉田の「ハタオリマチフェスティバル2018」に立ち寄り、かなり久しぶりにこの「路地裏」界隈を歩いた。
 当時の彼の実家、駄菓子屋。せいぜい二、三百メートルくらいの距離に位置している。少年にとってのテリトリーの場所はこのくらいの距離内にある。それを超えるともう他所の地域なのだ。それを超えた場所に行くことは一種の冒険になる。

 路地裏。少年にとっての「自分」の居場所。おそらく夏休みという季節。「借りたバット」「駄菓子屋」「ちょっとのお小遣」。昭和の少年の夏のアイテムがそろっている。「さんざん悩んで 時間が経ったら」、これも目に浮かんでくる光景だ。どれにしようかさんざん悩む。駄菓子屋での買い物は少年の大切な時の過ごし方なのだ。

 先に引用した部分に続いて志村は次のように述べている。


でも、夏といっても“どこかに遊びに行きました”というよりは、“路地裏で一人遊んでいる”っていう歌詞が自分たちらしいかな、と(笑)。うだつの上がらない夏を過ごした感じの曲です(笑)。


 つまり、この物語に登場する人物は「一人」である。もちろん、バットを持っていくのであるから、どこかのグラウンドで仲間と野球をするのだろうが。そこに行く途中、そこに行くまでの時間は、一人遊びである。「うだつの上がらない夏」と話しているが、孤独な少年の影もうかがえる。一人でいることと仲間と共にいること。この二つの時の間で少年は成長していく。

 雲行きが変わり雨が降ってきて、少年は肩落として帰る。夏の通り雨だったのだろう。しばらくすると止み、陽が照りつけてくる。雨が上がり光が差し込んでくるモチーフは『虹』『蜃気楼』などにもある。作者が愛した表現だ。

 「手を出して」「雨に気付いて」「家を飛び出して」「陽が照りつけて」、動詞の連続が歌の主体の動きを現し、その連用形に接続する「て」という助詞が歯切れのいい脚韻になって、リズムを盛り上げ、路地裏の物語を加速させる。しかし、その運動を静止させるように、「遠くで」、「陽炎」が「揺れてる」。空気が揺れ、視界が揺れ、世界が揺れている。
 そのとき「僕」はおそらく立ち止まったのだろう。そして佇立したのだろう。

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