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2018年11月11日日曜日

『ルーティーン』の祈り [志村正彦LN200]

 「志村正彦LN(ライナーノーツ)」が200回を迎えた。ブログの開設は2012年の暮れ。実質的に始まったのは2013年3月。六年近くの時が流れた。

 最初に「志村正彦LN」を構想した時に、漠然とではあるが、300回くらいになるかなと思った。何となくの想定だったが、現時点での判断としてはおおよそ当たっているのかもしれない。そうなると後100回は続くことになる。今までのペースであれば三、四年はかかる。始まりから通算すると、十年一仕事ということになる。この想定通りに進んでいけるかどうかはわからないが、書き続けるという意志はある。

 今年の春から職場が変わった。後期から国語科教育法に加えて、文学講読(芥川龍之介の夢と無意識をモチーフとする小説)と初年次教育の演習(レポート作成方法)も担当することになった。ミッション系の大学なので、宗教主任をはじめとする教職員や外部からの講師がキリスト教やキリスト教に関連するメッセージを話す「チャペルアワー」という時間が週に三日ある。先日、そのメッセージを伝える番が回ってきた。
 僕はクリスチャンではなく、キリスト教の理解も浅いので、何を話したらよいのか思案したが、日本語の詩や歌に表現された「祈り」というテーマに決めた。具体的な作品としてフジファブリック『ルーティーン』が浮かんできた。若い学生も参加するので、この曲をぜひ聴いていただきたい。そのような思いもあった。

 題名は、「志村正彦『ルーティーン』の祈り」とした。
 会場はグリンバンクホール。日常の礼拝や講演会等で使われる多目的ホールで、正面には十字架が掲げられている。礼拝で演奏するパイプオルガンもある。学内で最も聖なる場だと言える。
 十五分弱の短い時間なので、最初に『ルーティーン』を再生し、作者と作品とついて簡潔に話し、最後に再び『ルーティーン』を流して終えるという構成にした。会場設置のオーディオ装置を事前に調整し、できるだけクオリティの高い音質にすることにこだわった。志村正彦の声や息づかいを忠実に再生したかった。

 当日配布した資料は、「志村正彦LN」の『ルーティーン』の回をもとにして、新たなモチーフを少し加え、書き改めたものである。以下、引用させていただく。


  フジファブリック『ルーティーン』 (作詞作曲:志村正彦)

 フジファブリック『ルーティーン』は、2009年4月8日、シングル『Sugar!!』のカップリング曲としてリリースされた。アルバム『CHRONICLE』収録曲と共に、スウェーデンのストックホルムで録音された。

 『CHRONICLE』付属DVDの「ストックホルム”喜怒哀楽”映像日記」には、志村正彦が「最後にちょっとセンチメンタルな曲を一発録りでもう、多分歌も一緒にやるか、まあでもマイクの都合でできないかな、もうみんなで一斉にやって「終了」って感じにしたくて」と述べるシーンがある。この曲が『ルーティーン』である。「Recording『ルーティーン』2009/2/6」と記されていて、2009年2月6日に録音されたことが分かる。帰国の間際に「一発録り」で収録されたゆえに、加工されていない彼の自然な声や息づかいが聞こえてくる。

 「ルーティーン (レコーディングセッション at Monogram Recordings)」という映像もある。志村と山内総一郎のアコースティックギター、金澤ダイスケのアコーディオンによる演奏の映像に、志村のボーカルの映像をミックスしたものだ。冒頭で志村は「わびさび日本系で」という指示を出している。海外での収録ゆえに「日本系」を意識したのかもしれないが、むしろこの歌には「日本」という枠組を超えたある種の普遍性がある。

 その十ヶ月後、2009年12月24日クリスマスイブの日、志村正彦は急逝する。結果として、『ルーティーン』は生前に完成された最後の作品となった。

 志村の声は限りなく優しい。甘く切なく、耳に溶け込むようでもある。
 二行七連構成の歌詞は日常的ないわば「ルーティーン」の語彙で綴られている。「君からもらった心がある」と、歌の主体は「君」に歌いかける。ラブソングという枠組で捉えるのであれば、この「君」は恋する人や愛する人であるだろう。しかし、そのように限定しない解釈もあり得る。「君」は父や母かもしれない。友であってもいい。もっと大きな存在、人に心を与えるような存在とも考えられる。あるいは「君」は音楽そのものとも捉えられる。
 人間の心は「自」ら成るのではなく「他」から与えられるものである。「他」からの贈り物のようにして存在している。そのような論理を考えることができるだろうか。

 いったん曲が終了し、一瞬の沈黙がある。第六連と七連との間だ。微かにギターをたたく音と共に七連目が歌い出される。                                       
 最後の二行は、歌うことそのものが祈りとなっている。「ルーティーン」の日々、永遠に繰り返される時への祈り。日が沈み朝が来ること。「昨日もね」と「ね」で一度小休止し、「明日も 明後日も 明々後日も」と続き「ずっとね」でフェイドアウトしていく。その後に続く言葉はない。
  志村の詩にはいつも余白がある。その余白、言葉にならないものが祈りを支えているかのように。

 時々、不思議に思う。音盤に刻まれた歌が再生されることを。声は生き続けることを。あまりにも自明になってしまって振り返ることもないが、録音という技術は人の声に関する「奇跡」のような出来事だったのかもしれない。
 志村正彦の「ルーティーン」、彼の「時」は永遠に失われた。彼の声は、歌は、少なくともその聴き手が存在する限りは、永遠のような時を得る。一人の聴き手としてそのように考え、そのように祈る。


 グリンバンクホールに志村正彦の歌が広がっていった。一発録りゆえの彼の地の声や息づかいが聞こえてきた。祈るようにしてその声に耳を澄ませた。

2 件のコメント:

  1. いつも ブログを楽しみに拝見させて頂いています。今日 車で聴いていたラジオから「ルーティーン」が流れてきました。そして 小林様のブログを訪れたら このテーマ、、思わずコメントを投稿してしまいました。

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  2. コメントありがとうございました。(今日気づいたので、一年以上経ってからの返信となってしまいました。申し訳ありません)車で聴いていたラジオから「ルーティーン」が流れてきたそうですが、すごい貴重な経験ですね。どの曲のどういう番組か興味がありますが、ふと聞こえてきたのかもしれないと想像します。ラジオから志村さんの声が聞こえてくるのは格別です。『ルーティーン』はあまり知られていませんが、志村さんの作品の中でも多くの人の心に響く歌のように思います。

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