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2023年12月31日日曜日

百年後の時代[志村正彦LN341]

 12月24日、朝日新聞デジタルに「今も故郷に流れるフジファブリック 志村君が残した音楽は生き続ける」(菅沼遼)という記事が掲載された。「うたと私のStory」という連載の第1回である。

 この記事は、2008年5月の富士吉田「凱旋ライブ」から始まり、2011年12月の同級生による「志村正彦展 路地裏の僕たち」、誕生日7月10日前後の「若者のすべて」と12月24日の命日前後の「茜色の夕日」と流れる防災無線のチャイム、地元FMラジオ局の番組、富士急行下吉田駅の電車接近音楽となったことなど、この十数年の地元での様々な活動やその浸透や拡大を伝えている。記事はこう結ばれる。

志村さんが亡くなってからの14年間に、富士山は世界文化遺産に登録され、街は海外からの観光客であふれるようになった。街が少しずつ変わっても、志村さんの曲は変わらず、富士吉田の日常に溶け込み、生き続けている。

 ここ数年、ハタオリマチフェスティバルに出かけてこの街を歩いているが、確かに、少しずつ街が新しくなっているような気がする。


 今日は2023年最後の日ということもあり、芥川龍之介の「後世」(1919)というほぼ百年前に書かれたエッセイを紹介したい。芥川は百年後の時代を想像して次のように述べている。

時々私は廿年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆い埃に埋もれて、神田あたりの古本屋の棚の隅に、空しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館に、たつた一冊残つた儘、無残な紙魚の餌となつて、文字さへ読めないやうに破れ果てゝゐるかも知れない。

 しかし、芥川はこう思う。

しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを読むと云ふ事がないであらうか。更に虫の好い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が、如何に私の信ずる所と矛盾してゐるかも承知してゐる。けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のある事を。


 誰かが〈偶然〉作品を見つけ出して〈短い一篇〉その中の〈何行か〉を読み、多少にせよ〈美しい夢〉を見ること。そして、読者の心に朧気であっても〈私の蜃気楼〉が浮かび上がること。 作品との偶然の遭遇による〈美しい夢〉と〈蜃気楼〉の発見。

 蜃気楼は、空気の温度差によって光が屈折し、遠方の風景が逆さまになったり伸びたりする虚像を指す。芥川はこの文章を書いた六年後に書いた短編小説「蜃気楼」を発表する。最後の場面では、芥川夫妻を思わせる〈僕等〉が鵠沼海岸を歩いて家に帰っていく。作品は〈そのうちに僕等は門の前へ――半開きになった門の前へ来ていた〉という文で終わる。〈半開きになった門〉とは、心の門が半ば開き、半ば閉じられていることを象徴する。無意識の開閉と言ってもよい。芥川の心には自らの〈蜃気楼〉が浮かんできたのかもしれない。

 最後に芥川は〈私は私の愚を笑ひながら、しかもその愚に恋々たる私自身の意気地なさを憐れまずにはゐられない〉と書いている。百年後の読者の心に浮び上る〈私の蜃気楼〉という想像を、〈愚〉、愚かな想いと捉えて自ら笑いながらも、その想いが捨てきれずにいつまでも追いもとめようとする自身の〈意気地なさ〉を憐れんでいる。〈愚〉を捨てきれるような〈意気地〉はない、心の強さはない、そのことを自ら慈しむような心情が芥川らしい。

 実際は、没後二年の昭和4年には『芥川龍之介全集』が刊行された。その後も何度も全集が発行されている。「羅生門」は高校国語の定番教材となった。批評や研究は膨大な数に上る。芥川が残した資料の大半は山梨県立文学館に収められ、その一部が常設展示されている。その他の資料も日本近代文学館、藤沢市文書館に収蔵され、芥川の田端の家の跡地には「芥川龍之介記念館」の建設が予定されている。

 芥川には自分の作品がある程度は残るという自信はあっただろうが、これほどまでの状況は想像していなかったと思われる。四年後の2027年に芥川没後百年を迎える。この百年近くを振り返ると、日本近代文学の傑出した作品として読み継がれてきたことは間違いない。

 学校教育で芥川の作品に出会うことは多いが、「羅生門」などの代表作に限られる。しかし、あまり読まれていない、ほとんど言及されることのない作品に魅力のあるものが少なくない。この「後世」で言われているように、〈誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して〉読むことが文学との本質的な出会いとなる。芥川の著作権は切れているので、青空文庫にもたくさん収録されている。さらに、岩波書店の『芥川龍之介全集』、筑摩文庫版の全集なども通して、作品に出あってほしい。


 このブログの中心テーマである志村正彦の場合はどうであろうか。

 彼の生が閉じられて十四年になるが、聴き手は着実に増えてきた。音源や映像を収めた『FAB BOX』などのボックスセットもⅠ・Ⅱ・Ⅲと三回リリースされた。歌詞の評価も高く、『志村正彦全詩集』もオリジナル版、新装版と版を変えて二回も刊行された。2022年から高校の音楽教科書『MOUSA1』にも掲載され、教材となった。一つだけ不満があるとすれば、音楽ジャーナリズム、日本語ロックの批評や研究のなかでいまだに正当な評価が与えられていないことだ。業界的な評価、旧来の価値観や基準などにしばられている。フジファブリックが成しとげた音楽にもっと向き合ってほしい。


 志村正彦の作品は、地元富士吉田の様々な活動、音源・映像のリリース、詩集の刊行、高校音楽の教材化などによって広まったことは確かだが、おそらく、聴き手がたまたまインターネットやラジオで耳にしてその素晴らしさを発見したことも少なくないだろう。芥川の言う〈誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出し〉た形である。


 芥川がそうであったように、百年後の時代でも、志村正彦・フジファブリックは、21世紀初頭の日本語ロックを代表する音楽として聴かれ続けていると僕は考えている。ある程度は歴史的なアプローチになるかもしれない。それでも、未来の聴き手も自らの心に響く歌として志村に出会うだろう。

 来年2024年はメジャデビュー20周年になる。志村正彦の歌との偶然の出会いがもっともっと増えていくことを願う。


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