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2019年11月14日木曜日

『若者のすべて』と『Hello, my friend』[志村正彦LN240]

 槇原敬之は、志村正彦・フジファブリックの『若者のすべて』について「ほとばしる愛を詰め込んだマッキーの成分文表 槇原敬之」という記事(取材・文 / 小貫信昭)で次のように語っている。


──ここからは、新たに録音された2曲についてお聞きします。まずはフジファブリックの「若者のすべて」です。

東京で花火大会があった日に、たまたま車の中で流れてきて、そのとき初めてこの曲を聴きました。フジファブリックは知っていたんですけど「若者のすべて」は知らなくて。「すごくいい曲だなあ」と思って、それから車内でこればっかり聴いていましたね。しかし残念なことに僕が知ったときには、曲を作って歌われていた志村正彦さんがお亡くなりになられていましてね。こんなことを言うと彼のファンの方がどう思うかわかりませんけど、こんないい曲を残した人と「一度くらいおしゃべりをしてみたかったな」と思いましたね。

──楽曲名の表記が「若者のすべて ~Makihara Band Session~」となっていますが、これはどうしてですか?

「Listen To The Music 3」を作ったときにライブをやろうよという流れになり(参照:槇原敬之、敬愛する名曲カバー&ヒット曲尽くしツアー完走)、当時のバンドメンバーに「この曲もやってもらえますか?」とお願いして、実はそのセッションの音にシンセを足したりして完成したのが今回のものなんです。

──だからこうしたサブタイトルなんですね。

そうなんです。ともかく「若者のすべて」を嫌いな人はいないんじゃないかと断言したいくらいです。もう、カタルシスの塊みたいな曲。この歌のような経験をしたことがない人でも、こういう経験をしたことがあるような気分になるというかね。そして、この若々しい歌を50歳の僕が歌ってしまいました(笑)。


 「SONGS」では「しかも衝撃だったのは作られた方はもうお亡くなりになられていたということがあって」と発言していたが、このインタビューでは「曲を作って歌われていた志村正彦さんがお亡くなりになられていましてね」と「志村正彦」の名に言及している。しかも「一度くらいおしゃべりをしてみたかったな」と述べている。『若者のすべて』を愛する者がこの類い稀な作品の作者に関心を持つのは当然のことだろう。槇原は「カタルシスの塊みたいな曲」と捉えているが、これは彼特有の解釈なのだろう。確かに「SONGS」で彼は「カタルシス」、ある種の感情を解放していく歌い方をした。

 今回の「SONGS」では松任谷由実『Hello, my friend』も歌われたが、この曲はアルバム「The Best of Listen To The Music」の中でひときわ魅力のあるカバーソングとなっていた。僕個人としては、『若者のすべて』と『Hello, my friend』の二つがこのアルバムのBestである。しかも、この二つの歌にはどこかに響き合うところがある。

 『Hello, my friend』(ハロー・マイ・フレンド)は、1994年7月27日にリリース。ユーミン25枚目のシングルである。歌詞の前半部を引用したい。


 Hello, my friend
 君に恋した夏があったね
 みじかくて 気まぐれな夏だった
 Destiny 君はとっくに知っていたよね
 戻れない安らぎもあることを Ah…

 悲しくて 悲しくて 帰り道探した
 もう二度と会えなくても 友達と呼ばせて


 「君に恋した夏」は「みじかくて 気まぐれな夏」とあるので、夏の終わり頃の季節の設定なのだろう。ある意味では『若者のすべて』の季節感に似ているかもしれない。夏が終わりつつある『若者のすべて』、夏がもう終わってしまった『Hello, my friend』という違いはあるが。
 「Destiny」運命を知っていたという過去表現、「戻れない安らぎ」という多様に解釈できる表現。ユーミンらしい歌詞の背景の設定ではあるが、心の深くにとどまる言葉である。直観だが、この「君」はすでに遠い世界に旅立ってしまった人であり、比喩ではなく現実に「もう二度と会えな」い存在ではないだろか。「悲しくて 悲しくて 帰り道探した」、歌詞の後半にある「めぐり来ぬ あの夏の日 君を失くしてから」という表現からもその印象が強まった。荒井由実、松任谷由実の歌う喪失感にはいつもどこかに、無くなったもの、亡くなったものへの想いが込められている。

 『Hello, my friend』の中で最も突き刺さる歌詞は次の一節である。(同じ箇所を槇原敬之も「SONGS」で指摘していた)


 僕が生き急ぐときには そっとたしなめておくれよ


 後半部にあるこの一節によって、歌の話者が「僕」であることが示される。『Hello, my friend』は、「僕」が「君」に対して語りかける作品である。この一節は通常、「僕」の「君」に対する呼びかけの言葉だと考えられるが、もう一つの可能性を提示してみたい。この一節の「僕」を「君に恋した夏」の「君」の方だと捉える解釈である。つまり、ここで視点が転換される。この「僕」は、歌の話者が失った対象であり、もう二度と帰ることのない存在だと捉えるのであれば、歌の様相は一変する。

 「僕」は生き急いでいた。「そっとたしなめておくれよ」は、「僕」が歌の話者に対して依頼した言葉、願いの言葉だった。もしもこの「僕」がすでに遠くの世界へと旅だった存在であるのなら、もう取り返しのつかないような痛切な意味合いを帯びてくる。

 このようなことを書いてよいのかためらいがあるが、一歩ふみこんで僕の想いを語ろう。この言葉を聴いた瞬間、僕は志村正彦のことを考えた。『若者のすべて』と『Hello, my friend』が互いにこだまし合っているようにも聞こえてきた。



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