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2019年11月30日土曜日

『Hello, my friend』と『Good-bye friend』[志村正彦LN241]

 前回、松任谷由実『Hello, my friend』の「僕が生き急ぐときには そっとたしなめておくれよ」という一節を聴いた瞬間、志村正彦のことを考えたと記した。ユーミンはどのような経緯でこの一節を歌詞に入れたのか。そのことが気になったのだが、『Hello, my friend』のwikipediaに次の記述があることを知った。


カップリングの「Good-bye friend」は今は亡き友人を歌ったナンバー。『君といた夏』劇中歌。ユーミン夫妻と親交があったアイルトン・セナの死を悼んで作られた曲。元々は「Good-bye friend」の方が主題歌として予定されていたが、ドラマのイメージに合わないということで、サビの部分以外作り直された。


 歌詞の謎が少し解けた気がした。『Good-bye friend』の歌詞を引用する。


 淋しくて 淋しくて 君のこと想うよ
 離れても 胸の奥の 友達でいさせて

 君を失くした 光の中に
 指をかざした 眩しくて見えない堤防
 なぜこんなにも 取り残されて
 どのざわめきも鏡の向こうへと消えてく

 悲しくて 悲しくて 帰り道探した
 もう二度と 会えなくても 友達と呼ばせて

 君はとっくに知っていたよね
 すぐ燃えつきるイカロスの翼に乗ったと

 淋しくて 淋しくて 君のこと想うよ
 離れても 胸の奥の 友達でいさせて

 僕が生き急ぐときには そっとたしなめておくれよ

 悲しくて 悲しくて 君の名を呼んでも
 めぐり来ぬ あの夏の日 君を失くしてから

 淋しくて 淋しくて 君のこと想うよ
 離れても 胸の奥に ずっと生きてるから
 友達でいるから 友達でいさせて


  『Good-bye friend』の歌詞を読むと、サビの部分は『Hello, my friend』とほぼ同一である。「君を失くした 光の中に」「なぜこんなにも 取り残されて」という深い喪失感、そして「離れても 胸の奥の 友達でいさせて」「もう二度と 会えなくても 友達と呼ばせて」という胸の奥から発せられる願いが聴き手に痛切に響いてくる。アイルトン・セナの死を追悼する歌であることが伝わってくる。

 アイルトン・セナ・ダ・シルバ(Ayrton Senna da Silva)はブラジル人のF1レーシング・ドライバー。1988年・1990年・1991年の計3度F1ワールドチャンピオンを獲得した。1994年5月1日、サンマリノグランプリの決勝レースで首位を走行中コンクリートバリアに高速で衝突する事故によって亡くなった。歌詞にある「すぐ燃えつきるイカロスの翼に乗ったと」という表現はこの事故の隠喩であろう。今年が没後25年目になる。
 当時は僕もF1レースに関心があったので、あの日もフジテレビの中継を見ていた。生中継と一部録画だったようで、途中でセナの訃報が伝えられた。壁へ激突するシーンも放送された。その衝撃、恐ろしさと痛ましさはよく覚えている。今思い返せば、セナの死によってF1の人気も下降していった。僕も見ることがなくなった。

 当初は『Good-bye friend』の方が主題歌として予定されていたようだが、やはり、テレビドラマとは齟齬を来すのだろう。サビの部分以外は作り直しとなり、その結果誕生したのが 『Hello, my friend』だった。しかし、直接的に「死」を想起させる表現は除かれたが本質的には死の追悼というモチーフは引き継がれたのではないだろうか。歌詞の奥深い場所にそのモチーフが継続されている。つまり、『Hello, my friend』も本質的には鎮魂の歌であろう。

 「僕が生き急ぐときには そっとたしなめておくれよ」という言葉が受け継がれていることも重要である。『Hello, my friend』の中のこの一節は『Good-bye friend』とこだまし合う。そうなると深い意味合いを帯びてくる。前回、『Hello, my friend』について、この「僕」は歌の話者が失った対象でありもう二度と帰ることのない存在だとする仮定は、おそらく真実に近いのだと思われる。
 この一節を聴いて僕が志村正彦のことを想起したことにも、ある無意識の根拠が見いだせるかもしれない。

 『Good-bye friend』そして『Hello, my friend』も、若くして亡くなった友の安息を神に願うレクイエムのように聞こえてくる。
 『Hello, my friend』では「my friend」に対して、「Good-bye」ではなく「Hello」と呼びかけている。そこに松任谷由実の祈りが込められている。

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