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2018年12月28日金曜日

「残像」と「出来事」-『陽炎』6[志村正彦LN204]

 『陽炎』5の回で、この歌で描かれる世界は、「少年期の僕」を描く物語の系列と、「少年期の僕を見ている今の自分」の想いを叙述する系列の二つから構成されると書いた。前者を赤、後者の青で色分けしてみた。
 今回は、「少年期の僕を見ている今の自分」の想いを叙述する系列、青色で記された箇所を論じていきたい。この系列は二つに分かれているので、それぞれ「残像」部分と「出来事」部分と仮に名付ける。

 「残像」部分を引用する。


あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ

また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
残像が 胸を締めつける


 「残像」部分では、「あの街並 思い出したときに」とあるように、歌の主体「僕」は、過去へと、「路地裏の僕」の時代へと回帰していく。「英雄気取った」少年期の物語を想起している。そういう行為を「そうこうしているうち」に、「残像」が次々に浮かんでくる。この場合の「残像」は、もうすでにそこには残っていない、消えてしまったのにも関わらず、記憶に残り続けている心象や感覚のことであろう。「残像」は時には執拗に現れて、歌の主体の「胸を締めつける」。

 次に「出来事」部分を引用する。


きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう

またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
出来事が 胸を締めつける


 「今」現在という時間。初めの二行を区分けしてみる。「きっと今では」と「きっとそれでも」、「無くなったもの」と「あの人」、「も」と「は」、「たくさんあるだろう」と「変わらず過ごしているだろう」。対比的な表現ではあるが、微妙なずれがある。対照的でもあり非対称的でもあるような世界が微妙な陰影をもたらしている。

 「あの人」に焦点化していくのだが、「あの人」がどのような人なのかはもちろん分からない。歌の主体そして作者にとっては特定の人なのだろうが、聴き手にとっては「あの人」と指示される存在はどこか曖昧な存在にも受け取められる。歌詞の一節をもじるならば、「あの人」は「陽炎」のように揺れている。だからこそ、聴き手は「あの人」を自分自身で補填して、自分なりの「あの人」を描いていくのかもしれないが。

 「またそうこうしているうち」というのは、志村らしい言い回しだ。そうしている、こうしている、回想や想像あるいは妄想を巡らせながら、時間を行きつ戻りつしていく。そのうちに、「次から次へと浮かんだ」ものがあふれてくる。
 ここでは「残像」ではなく「出来事」となっている。何かを想起していくうちに、それが繰り返されるうちに、過去から現在へと時間が戻ってくる。通常、回想は「過去」に対する想起である。しかしここでは、「過ぎ去っていたもの」というよりも「まだ過ぎ去っていないもの」「現在まであり続けるもの」に対する想起に次第に変化している。形容矛盾のような言い方になるが、「現在の回想」とでも名付けられる行為になっている。「残像」というよりも「出来事」が想起され、現在という時間につながっていく。

 そしてその「出来事」を想起することが「胸を締めつける」。「胸」とある以上、きわめて身体的な感覚でもある。単なる感情や感覚を超えて身体の領域にまで迫ってくるものだ。どういうものかは分からないのだが、痛みを伴う葛藤やある種の強い不安が身体を貫いていることは確かだろう。

 志村正彦は「ROCKIN'ON JAPAN 2004年12月号」のインタビューで1stアルバム『フジファブリック』の作品についてこう発言している。


考えすぎる性格なのか、常に今の自分と頭の中にある過去のものだったりを比べたり、いろいろな葛藤がありますね。基本的にそんなにポジティヴじゃないというか、子どもの頃からみんなと一緒にいて楽しんでいるようでうしろのほうでいろいろ考えている自分がいる感じがするんですよね。


 ここで述べられた「今の自分」、「頭の中にある過去のもの」、「いろいろ考えている自分」という区分けの仕方は、『陽炎』3の回で書いた、「少年期の僕」、「その自分(少年期の僕)を見ている今の自分」、「少年期の僕」と「その自分(少年期の僕)を見ている今の自分」の両方を「絵」として見ている自分、という三人の自分がいる、ということとほぼ同じである。作者の「考えすぎる性格」は、そのような複雑な構造を作品に与えている。
 そして、「いろいろ考えている自分」が自らにもたらす「いろいろな葛藤」は、『陽炎』の主体の「残像」と「出来事」にも刻み込まれている。


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