ページ

2018年12月25日火曜日

『茜色の夕日』と『ここは退屈迎えに来て』[志村正彦LN203]

 今年も12月末の季節を迎えた。
 前回から一月以上経ってしまったが、もう一度、映画『ここは退屈迎えに来て』について考えてみたい。

 調べると、今この映画が上映されているの山形県だけで、ほとんどの地域では公開が終わっているようだ。今後の上映予定は分からないが、いつかDVDになるのかもしれない。そういう状況なので、ネタバレになってしまうが、作品の内容に入っていきたい。雰囲気をつかむためにトレーラー映像の予告編を紹介したい。




 「私」橋本愛、「あたし」門脇麦、「サツキ」柳ゆり菜、「椎名くん」成田凌、「新保くん」渡辺大知が主なキャストである。予告編全体にフジファブリック『Water Lily Flower』が流れているが、映画本編では主にエンディングテーマとして使われている。

 この映画の考察のために原作の小説、山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』を読んでみた。八つの物語から構成される作品で、地方都市が舞台となっている。地方から上京しその後帰郷した女性、そのまま地方で暮らし続ける女性、関わり合う男性。地方都市の郊外の風景と「退屈」な日常。人物やテーマ的な関連はあるものの各々は独立した物語だと言えるが、全体を読み通すと、ひとつの群像劇と捉えることもできる。

 映画の基本的な枠組は、原作の1章「私たちがすごかった栄光の話」に拠っている。映画も原作も、「私」が「サツキ」と共に自動車学校の教官をしている「椎名くん」に会いに行く筋だが、原作の方はペーパードライバーの「私」の再教習という目的があるが映画にはそれがない。原作では「私」はあっさりと再会して車の教習を受け、「椎名くん」の「合格!」という言葉で終了するが、映画ではその再会までの間に、時間を遡る手法によって、『ここは退屈迎えに来て』のいくつかの話が挿入される。郊外の道路をドライブしていくロードムービーの物語が膨らんでいく。

 『茜色の夕日』が最初に登場するシーンは、原作4章の「君がどこにも行けないのは、車持ってないから」を基にしている。高校時代「あたし」は「椎名くん」と交際していたが、その後別れた。現在「あたし」は「惰性」で、椎名の友達の一人だった「遠藤」と関係を続けている。映画も原作も、「あたし」が「遠藤」と郊外のラブホに行く展開は同じである。細部が説明されている原作の方でこのシーンを補ってみる。事を終えて、二十三歳の「あたし」は「目を閉じて、椎名との思い出を忘れないように反芻する」。だが、「だんだん思い出せない記憶が増えていく」。いつの間にか眠り、目を覚ましたのは朝の六時半。まだ寝ている「遠藤」の「鼻ちょうちん」を見た「あたし」は「マジで無理。ごめん無理!」と思い、部屋から抜け出す。原作ではそのように描かれている。

 早朝の道を「あたし」は歩き出す。「誰か 誰でもいいんだけど」と叫ぶ。(このシーンが予告編に入っている)その後で唐突に口ずさむのが志村正彦・フジファブリックの『茜色の夕日』だ。BGMとして流れるのではなく、「あたし」が歌うのだ。原作にはこのシーンはない。映画独自の演出である。前回も述べたように賛否両論の使い方だろうが、どうしてこのように使われたのか。

 映画公式webの「Director's interview」で廣木隆一監督はこう述べている。


劇中で登場人物がフジファブリックの「茜色の夕日」を歌うのは、何より名曲ですし、あの時代を生きた彼らが共有している記憶でもあり、歌詞が彼らの気持ちを代弁しているような使い方をさせてもらいました。歌詞が物語やキャラクターにぴったりはまりすぎると世界が狭まってしまうので避けるようにしていますが、役者には「それぞれの役として歌って」と伝えました。


 廣木監督は素直に「歌詞が彼らの気持ちを代弁しているような使い方をさせてもらいました」と告げている。志村正彦の聴き手であれば、各々の『茜色の夕日』への想いや解釈があるだろう。虚構の人物である「あたし」もこの歌を愛していて、あの行き詰まりのような状況で自らの想いを重ね合わせた。このシーンに違和感を持つ人は少なくないかもしれない。しかし、歌は聴き手に届けられてからは聴き手のものである。「あたし」も聴き手の一人だ。「あたし」にとっての『茜色の夕日』は、絶ちがたい過去への追憶とその痛みそのものなのだろう。

 原作の小説では、「遠藤」と「あたし」との共通の話題は音楽という設定だ。「遠藤」は「ロッキンオン信者」。「あたし」は次のようなバンドを好んでいる。

あたしはアメリカやイギリスの、夢も希望もないド田舎出身のバンドが好きだ。打ち棄てられたような町で生まれ育った、貧乏で誰にも認められたことのない若い男の子が集まって作った、初期衝動のつまったデビュー作が好きだ。

 このような「あたし」の人物像から、『茜色の夕日』を唐突に歌うという演出が選択されたとも考えられる。

 廣木監督の発言の中で疑問符が付いた箇所もある。「あの時代を生きた彼らが共有している記憶」という発言だ。映画作品としてそのことが伝わってこなかったからだ。
 作中人物単独の記憶であればそれを明確に描く必要はないかもしれない。あえて隠したまま物語を展開することもある。あるいは、失われた記憶として扱うこともある。しかし、作中人物の「共有」の記憶であるのなら、フジファブリック『茜色の夕日』という歌の記憶が「共有」されていたことを何らかの演出で描く必要があるだろう。そうしなければ、「椎名くん」や「新保くん」や「私」によってリレーされるようして歌われるラストシーンの意味合いも伝わらない。

 さりげないものでいい。この映画の特徴からして大袈裟に取り上げるのは野暮になる。2004年という時代に、ある歌(『茜色の夕日』という名を明らかにしなくてもいい)が『ここは退屈迎えに来て』の主要な人物の間で大切にされていた、ということを描写か説明すべきだった。何らかの伏線を張って、『茜色の夕日』が歌われるシーンにつないでいく。積極的に使うのであれば、渡辺大知(黒猫チェルシー)演じる「新保くん」が歌うシーンをほんの短い時間でも挿入することも考えられる。難しい演出になったかもしれないが、廣木監督のセンスなら可能だっただろう。

 さらにあからさまなことを言えば、『茜色の夕日』という曲は、残念ながら、映画の観客一般が共有している記憶とはなっていない。この曲を知らない客にとって、歌詞を聞き取ることによって、「あたし」の「気持ち」の「代弁」として受けとめることはできるかもしれないが、もっと観客に伝わりやすい工夫がされてもよかったのではないだろうか。

 ここで、映画のパンフレットに記されていた加藤慎一(フジファブリックのベース)のコメントの一部を紹介したい。


「茜色の夕日」は、とても印象に残るシーンで、素敵でした。時が経っても、フジファブリックの、志村正彦の楽曲がこうしてフィーチャーしてもらえるのは本当に嬉しいです。作品は制作時から何度も観ていますが、登場人物の色んな感情が発見できます。


 ファンなら誰でも加藤氏と同じ想いだろう。「フジファブリックの、志村正彦の楽曲」が映画に使われる。こんなに嬉しいことはない。この歌が生き続けるからだ。この点において前回書いたように、賛否両論のこの映画について僕はどちらかというと肯定的である。

 また、原作者の山内マリコは志村正彦と同年の1980年生まれである。小説『ここは退屈迎えに来て』を読むと、映画や音楽やサブカルチャーにかなり親しんできたことが伝わってくる。同世代の表現者として、志村正彦・フジファブリックの作品に対する共感があったのだと思われる。映画パンフレットで山内マリコはこう述べている。


好きなシーンは、「茜色の夕日」を歌うところと、ラストシーン。ああいう洒落た、気取った演出に弱いんです(笑)。


 原作者にとっても『茜色の夕日』の存在は大きかったのだろう。

 志村正彦は映画に深い関心を抱いていた。
 彼自身が関わった『蜃気楼』(李相日監督『スクラップ・ヘブン』エンディングテーマ)、『蒼い鳥』(塚本晋也監督『悪夢探偵』エンディングテーマ)は、映画の本編を活かす意味でも非常に優れた作品だった。
  志村が亡くなった後、大根仁監督はドラマそして映画『モテキ』のオープニングテーマに『夜明けのBEAT』を流した。大根監督の志村に対するリスペクトを感じさせた。大根監督の志村作品起用がこの後の流れを作ったと言えるかもしれない。

 今年2018年、志村正彦・フジファブリックの作品が二つの映画で使用された。『虹』が飯塚健監督『虹色デイズ』(7月6日公開)のオープニングテーマ、『茜色の夕日』が廣木隆一監督『ここは退屈迎えに来て』(10月19日公開)の作中人物による挿入歌として使われた。

 志村正彦の歌は、一つの言葉、一つのフレーズで瞬間的に映像を喚起させる。物語を想像させる。その抜群の喚起力が映画監督を魅了する。

0 件のコメント:

コメントを投稿