山中湖というといつも思い浮かべる光景がある。子供の頃の夏休み、毎年のように湖畔の会社寮に出かけた。親戚が集まり、東京に住む従兄弟と会えるのが楽しみだった。60年代後半の頃だろう。ある年の夏、湖畔の砂浜に大勢の若者たち、二十歳前後の男女が夏のカラフルな装いをしているのを見かけた。山梨には海がないので、湖畔の浜辺が海のそれを代用していたのだろう。夏の水際の若者たちの姿がずっと記憶に残っている。
山中湖のかつての光景からの連想で、今日はフジファブリック『NAGISAにて』(詞・曲:志村正彦)を取り上げたい。2004年7月14日、2ndシングル『陽炎』のB面としてリリース。アルバム『シングルB面集 2004-2009』にも収録されている。
レトロなポップス風の軽快な楽曲に、捉えかたによってはかなり複雑な物語がのせられた不思議な作品。最初に聴いた時の戸惑いを思いだしながらこの歌について書いてみたい。
お嬢さん お願いですから泣かないで
ならどうぞ 宜しければどうぞ ハンカチを
辺りを埋める 潮風の匂い
お嬢さん 泣いてるお暇が有るのなら
すぐちょっと 気晴らしにちょっと 散歩でも
「NAGISA」で「お嬢さん」が泣いている。
理由は分からない。この情景と状況がこの歌のモチーフをなす。「お嬢さん」という古風で丁寧な物言いにまず戸惑う。ラブソング的な展開が自然に浮んでくるのだが、最初から紆余曲折が予想される。歌の主体と「お嬢さん」との間の距離を伝えているようでもある。
歌の主体は「お願いですから泣かないで」と思う。
ここまでであればひとまず、歌の主体と「お嬢さん」との間の男女の物語が浮かび上がる。しかし、次の一節に移ると、この物語は不思議な展開をしていく。「ならどうぞ」そうであるならばどうぞと、主体は次の行動を用意する。(「なら」「ならば」というのは、作者の志村正彦がしばしば使う「つなぎの言葉」だ)その行動は「宜しければどうぞ ハンカチを」というものだ。この二人はどういう関係なのかというと聴き手は問いかけるだろう。少なくとも恋愛関係にある相手に対して「宜しければどうぞ ハンカチを」と差し出すのは奇異だ。もしかすると、この「お嬢さん」はこの渚でたまたま出会った女性なのかもしれない。とにかく、歌の主体と「お嬢さん」との関係性が読み取りにくい。
さらにこの物語は不思議な展開をする。
「お嬢さん」が「泣いているお暇が有るのなら」という条件のもとで、歌の主体は「すぐちょっと 気晴らしにちょっと 散歩でも」と呼びかけようとする。「お暇」ゆえの「気晴らし」ゆえの「散歩」の提案。この二人にはどうやら何の関係もないことが確かになる。「ハンカチ」と「散歩」は見知らぬ女性に対する男性のアプローチの言葉ともとれる。それも古風な小説のようで生き生きした現実感がない。すべてが歌の主体の想像あるいは妄想のような気もしてくる。
「辺りを埋める 潮風の匂い」とあるので、歌の主体と「お嬢さん」が潮風の匂いが立ちこめる「NAGISA」にいることは間違いないのだが、それすらも何か幻のようにも感じられる。
言える訳もない 言える訳もないから
続く一節で歌の主体は「言える訳もない」を二度繰り返している。
なぜ「言える訳もない」のだろうか。言うことが全く不可能なのだろか。この疑問に立ち止まると、ここにまで至る物語の展開が、歌の主体の純然たる「想像」あるいは「妄想」だという可能性がにわかに高まってくる。想像あるいは妄想であれば、歌の主体は「お嬢さん」に言葉を投げかけ、「ハンカチ」を上げて「散歩」に誘うこともできるだろう。しかし、歌の主体は何も言えない。言う欲望がないのか、言う勇気がないのか。すでに想像してしまったのであえて言う必要がないのか。どのような「訳」があるのか分からないが「言える訳もない」。そして「言える訳もないから」こそ、主体は「言う」存在から「見る」存在へと転換していく。
渚にて泣いていた 貴方の肩は震えていたよ
波風が駆け抜けて 貴方の涙 落としてゆくよ
歌の主体はこの光景を眺めている。
「お嬢さん」は「貴方」へと言い換えられる。主体は、「貴方」の肩が震えたり涙を落としたりする光景を見ることのできる位置にいるのだが、「貴方」と歌の主体との距離はより広がっている。主体は「見る」存在、「貴方」は「見られる」存在に固定されている。主体の眼差しの中に「貴方」は捉えられる。映画のカメラのフレームの中に収まるかのように。
渚にて泣いていた 貴方の肩は震えていたよ
波音が際立てた 揺れる二人の 後ろ姿を
最後の一節で「揺れる二人」が登場する。
それも「後ろ姿」であるので、この「二人」を背後から見つめる「眼差し」がある。映画のカメラのフレームが拡大していき、より広い情景が映し出される。この情景を眺めている者はだれか。カメラの視線を操る者は誰なのか。
少なくとも二つの捉え方がある。
一つ目は作中人物としての歌の主体が眺めているという捉え方だ。主体は一貫して「貴方」の方向を見ているが、この場面で「二人」が登場するとしたら、「お嬢さん」の隣に新しい第三の人物が現れると解釈できる。その新しい登場人物こそが「お嬢さん」の恋人なのかもしれない。あまりに唐突な第三の人物の登場ゆえに、この捉え方にはかなりの無理があるだろうが。
もう一つの捉え方がある。
この最後の一節で、歌の作中人物としての「主体」と歌の物語を語る「話者」(作者の分身)が分離して、歌の話者が、歌の主体と「お嬢さん」の二人を眺めているという捉え方だ。この場合、歌の話者と歌の主体はどちらも作者の分身であろう。作者が話者(物語の語り手)となって、物語の世界の中の自分(想像の中の自分)を語っているという構造である。
筆者は後者の捉え方をしたいが、前者も可能だろう。もっと別の考え方もあるだろう。志村のつくる「歌=物語」の豊かさ、面白さである。
物語のラストシーンで登場する「二人」。
先ほど述べたように、この「渚」には、歌の主体と、彼が渚で遭遇し妄想の関係を結ぶことになった「お嬢さん」の「二人」がいると仮定しよう。彼らが「揺れる二人」であることがこの情景の中心のイメージとなっている。この二人の間に何かの関係性があって「揺れる」のではない。この二人の間には何もない。出来事は起きない。二人が言葉を交わすことなく、「波音」だけが聞こえてくる。そうだとすると、一人ひとりがおのおのの理由で「揺れる」。そのようにして二人が揺れている。奇妙な解釈かもしれないがあえてそうしたい。そうすると、おのおのの孤独だけが浮かび上がってくる。この「渚」にはおのおのの孤独を抱えた二人、交わらない男女がいるのだ。
『NAGISAにて』のサウンドは、60年代の「湘南ポップス」やグループサウンズを再解釈した楽曲である。歌詞の世界も、数多くある「渚」のラブソングの物語を反転させている。かつての若者が熱狂した現代思想的な語彙を使うならば、作者の志村正彦はラブソングを「脱構築」したと言えよう。だからこそ『渚にて』ではなく『NAGISAにて』という題名を与えたのかもしれない。
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