2026年1月3日土曜日

破魔弓や山びこつくる子のたむろ  蛇笏


 新年になると想い出す句がある。

  以前、芥川龍之介の〈元日や手を洗ひをる夕ごころ〉について書いたことがあるが、今日は、飯田蛇笏が正月の風景を詠んだ次の句を紹介したい。


  破魔弓や山びこつくる子のたむろ  蛇笏


 蛇笏が「雲母」昭和二年二月号の「山廬近詠」で発表した十三句のうちの二番目の句である。時節から題材は年末年始に関するものが多い。

 正月。神聖な破魔弓に守られるようにして、子供たちがたむろをつくり、その声が山びことなってこだましている。

 このような山国の情景が伝わってくる。蛇笏の住む村の子供たちの姿を描いたものだろう。そのなかには蛇笏の子どもが含まれているかもしれない。破魔弓は、弓の弦を鳴らす音には邪気を払う力があるという古来の教えから、男の子の健やかな成長と災厄から守るお守りとして、12月中下旬から1月中旬頃まで飾られる。


 飯田蛇笏と芥川龍之介は大正12年から手紙の交流や書籍の贈呈をするようになった。

  龍之介は〈春雨の中や雪おく甲斐の山〉という句を蛇笏に贈っている。〈春雨〉は冬から春へと移り変わる時期に降る霧雨。春が近づきつつある季節に〈甲斐の山〉には残雪が置かれている。この残雪を置く高峰、峻厳な山には、孤高の存在としての飯田蛇笏が重ね合わされている。蛇笏はおのれのなかに残雪のようなもの、厳しい冬の残像を抱えた孤高の俳人だと龍之介は感じていたのではないか。さらに言うと、龍之介が青年時代からの数回にわたる山梨への旅で実際に見て感銘を受けた甲斐の山々の記憶も刻まれているだろう。

 蛇笏は明治18(1985)年生まれ、龍之介は明治25(1992)年生まれ。七歳ほどの違いがあるが、俳句そして甲斐の山の風景を通して、この二人の間には深い心の交流があった。


 昭和2年4月10日、龍之介は蛇笏に宛てたの書簡で、「破魔弓」の句について〈人に迫るもの有之候。ああ云ふ句は東京にゐては到底出來ず、健羨に堪へず候〉と書いている。

 「破魔弓や」の句からは子供たちの生命力あふれる声が聞こえてくる。新年という新たなものが始まる季節。子供たちの元気な声が山々に反響し、山国の厳しい冬に暖かさや明るさをもたらす。龍之介は子供たちの命の声による〈山びこ〉に〈人に迫るもの〉を感じとったのではないだろうか。

 龍之介が東京と山梨という場の差異を意識して〈東京にゐては到底出來ず〉と率直に述べたのは、青年時代から何度が山梨を訪れ、山梨という場、土地の雰囲気、山々の風景をある程度まで実感として受けとめていたからであろう。〈健羨に堪へず〉は単なる儀礼ではなく、龍之介の本心からの言葉だと思われる。

 筆者は、龍之介の〈春雨の中や雪おく甲斐の山〉と蛇笏の〈破魔弓や山びこつくる子のたむろ〉との間に、〈山〉を媒介とする交響のようなものを感じる。蛇笏の「山びこ」は龍之介の記憶のなかの〈甲斐の山〉を想起させた。これは無意識の作用かもしれない。


 龍之介は東京と山梨の生活や風景の違いをかなり意識していた。

 大正十五年刊行の『梅・馬・鶯』では七十四の代表句を自ら選んでいる。実はこのなかで都道府県相当の名が句に詠まれているのは、〈木がらしや東京の日のありどころ〉と〈春雨の中や雪おく甲斐の山〉の二句だけである。この東京と甲斐(山梨)という選択と対比にも龍之介の意図を読みとってしまうのは筆者の考えすぎだろうか。


【付記】これまで芥川龍之介については、〈芥川龍之介の偶景〉と〈芥川龍之介(偶景以外)〉の二つのラベルに分けていましたが、〈芥川龍之介の偶景〉に統一します。(過去に遡って変更しました)



2025年12月31日水曜日

2025年


  大晦日の今日、2025年を振り返りたい。


 志村正彦・フジファブリックについてまず述べたい。

 2月にフジファブリックが活動を休止した。「フジファブリック LIVE at NHKホール」という休止前最後のライブがあったが、2010年以降の楽曲だけが演奏された。山内総一郎・金澤ダイスケ・加藤慎一の所謂「三人体制フジファブリック」の集大成となっていた。2024年8月の「フジファブリック 20th anniversary SPECIAL LIVE at TOKYO GARDEN THEATER 2024「THE BEST MOMENT」」は志村曲を映像と共に演奏するという特別な演出によって、志村への感謝とリスペクトを表現した。このライブは「志村正彦・フジファブリック」の集大成という意味合いが濃かった。2024年8月と2025年2月の二つのライブによって、フジファブリックの活動の円環は(ひとまず、をやはり入れるべきなのだろうか)閉じられた。

 今年もまた「若者のすべて」は夏の名曲としてよく聴かれていた。7月、マクドナルド・ハンバーガーのCM『大人への通り道』篇では志村の歌による「若者のすべて」が使われていた。夏のベストソング的な歌番組でも取り上げられ、いつも上位の位置にいた。

 志村正彦の命日12月24日の夜、片寄明人氏がX(@akitokatayose)の呟きで〈21年前、一緒にレコーディングした時の紙〉、『陽炎』の草稿ノートの画像を添付したことが、筆者にとって志村に関わる今年最大の出来事であった。この草稿については前回まで連続四回で書いてきた。草稿の〈出来事が 僕をしめつける〉から完成版の〈残像が 胸を締めつける〉への修正。〈僕〉と〈胸〉という漢字一文字の変化だが、その変化が意味するものを考察した。


 筆者個人の仕事についても触れたい。今年は原稿を書いたり、そのための調査や準備をしたりする日々が続いた。各々の仕事をなんとか仕上げることができて安堵している。

 筆者が探究しているテーマは大別すると次の三つである。

1.芥川龍之介(特に、晩年の夢をモチーフとする小説のテクスト分析。関連して、志賀直哉・谷崎潤一郎・内田百閒の夢小説)

2.志村正彦・日本語ロックの歌詞(歌詞のテクスト分析、歌詞の系譜や文化・社会的背景)

3.山梨出身やゆかりの作家とその作品(飯田蛇笏・太宰治、その他の作家たち)

1.については今年も「山梨英和大学紀要」に〈芥川龍之介「海のほとり」の分析〉を発表した。4年間連続で芥川や志賀の夢小説のテクスト分析を試みている。来年3月に新しい論文が掲載予定である。なお、これらの論文はすべて山梨英和大学のHPや電子ジャーナルプラットフォームのJ-STAGEで公開されている。

2.は〈この偶景web〉の批評的エッセイとして書いているが、今年はその回数が少なかった。この点は課題として受けとめている。

3.に関しては「山廬文化振興会会報」の第35・36・37号に、「蛇笏と龍之介」というシリーズで、各々、昭和二年の交流とその後の軌跡、「生存の実」と「第三の写生」、飯田蛇笏と小説というテーマで執筆した。昨年の第34号掲載の「甲斐の山」と併せて、全四回で完結することができた。この連載の概要を10月3日の「飯田蛇笏・飯田龍太文学碑碑前祭」で講演した。

 太宰治については、甲府での生活に基づいた甲府物語「新樹の言葉」と代表作「走れメロス」との関係についての批評を書いた(来年3月に発表予定)。これに関連して、11月3日、こうふ亀屋座で〈甲府 文と芸の会〉の第1回公演〈太宰治「新樹の言葉」「走れメロス」の講座・朗読・芝居の会〉を開催した。有馬眞胤さんの独り芝居とエイコさんの津軽三味線による「走れメロス」は、小説の全文を暗記して声と語りによってその世界を再現するという独自なものであり、観客を魅了した。来年もこのスタイルの公演を開催する計画である。


 この〈偶景web〉に関しては8月にリニューアルした。上記の筆者の研究や活動に対応するために、当初はこのブログを分割することを検討したが、結論としては、この〈偶景web〉にすべてをまとめることを選択した。現状では、分離するよりも統合する方が円滑に進むと考えたからである。ただし、〈偶景web〉の主要コンテンツが〈志村正彦ライナーノーツ〉であるのはこれまで通りである。このリニューアルによって、志村正彦とその作品をより広い文脈のなかで位置づけたいと思っている。


 この一年間、どうもありがとうございました。


2025年12月30日火曜日

すべてが揺れていく-『陽炎』草稿4[志村正彦LN377]


 『陽炎』の草稿と完成版を比較すると、〈残像〉部分と〈出来事〉部分との関係性が異なることに気づく。この二つの部分を完成版の歌詞で引用する。


  〈残像〉部分
あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ
また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
残像が 胸を締めつける

  〈出来事〉部分
きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう
またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
出来事が 胸を締めつける


 『陽炎』完成版の〈残像が 胸を締めつける〉〈出来事が 胸を締めつける〉という二つのフレーズは、〈胸を締めつける〉という表現が同一である。〈残像〉の延長上に〈出来事〉があるというニュアンスになるだろう。〈残像〉と〈出来事〉は、〈胸〉という身体の一部が象徴する〈心情〉や〈感情〉に作用していく。

 〈残像〉部分では、もうすでに失われた少年時代、〈路地裏〉という場と少年期の〈僕〉に対する愛着や愛惜が感じられる。その延長上にある〈出来事〉部分で焦点化される〈無くなったもの〉と〈あの人〉も、喪失感を伴う愛惜の情を読みとることができる。

 〈残像〉部分と〈出来事〉部分では共に、〈残像〉と〈出来事〉がもたらす愛惜の情が〈僕〉に迫ってくる。この二つの部分はある種の叙情性を帯びているともいえる。


 これに対して『陽炎』草稿では、〈残像が 胸をしめつける〉と〈出来事が 僕をしめつける〉という二つのフレーズは、〈胸をしめつける〉と〈僕を締めつける〉というように、〈胸〉と〈僕〉という明確な対比を成している。その結果、〈残像〉部分と〈出来事〉部分には対比の関係性が強くなる。〈残像〉の延長上に〈出来事〉があるのではなく、〈残像〉と〈出来事〉との間に微妙ではあるがある種の断絶を感じとることもできる。〈僕をしめつける〉にはそのような強い意味作用がある。

 〈残像〉部分にある、少年時代のノスタルジアや故郷への愛惜の想いは遠ざかり、その反対に〈出来事〉部分では、〈無くなったもの〉や〈あの人〉に関わる過去の重層的な〈出来事〉が〈僕〉という存在をしめつけるように迫ってくる。〈出来事〉が〈僕〉を圧迫し、拘束する。〈出来事〉は追憶や愛惜の対象というよりも、〈僕〉に対して苦しみをもたらすもの、抗うことのできないものと受けとめることもできる。〈出来事〉は心の傷に触れるような何かかもしれない。


 〈出来事〉部分の〈無くなったもの〉〈あの人〉が、どういうものか、どういう人かは歌詞の言葉からは不明である。作者志村にとっては特定のもの特定の人であるのだろうが、志村はそれをあえて語らなかった。むしろ、志村はそれを語ることを避けたのかもしれない。その結果、〈無くなったもの〉〈あの人〉という抽象度の高い表現となった。同じような心的機制が〈僕をしめつける〉という表現に働きかけ、〈胸を締めつける〉への修正となった可能性がある。意識的な判断かもしれないが、むしろ無意識的な選択であろう。精神分析的な観点からは、〈僕をしめつける〉という表現の強さや生々しさを抑圧したとも考えられる。『陽炎』草稿の〈僕〉という字に対する二重の×による抹消は、その抑圧を示している。


 しかし、志村が最終的に〈出来事が 僕をしめつける〉ではなく、〈残像が 胸を締めつける〉を完成版の歌詞にした判断は妥当だったと思われる。

 志村はおそらく〈僕をしめつける〉が歌詞としては重すぎる意味合いを持つことを意識的そして無意識的に避けたのだろう。ある言葉が突出すると、歌われる世界が破綻してしまうこともある。歌というものは、その歌詞にも楽曲にも調和が求められる。調和とはバランスでありハーモニーである。そして、歌い手と聞き手との間にも調和が形成されるときに、その歌の普遍性は高まる。歌が人々に共有されてゆく。



 『陽炎』は日本語ロックとしてきわめて完成度の高い作品である。四回に分けて、『陽炎』草稿には完成版には現れなかった表現を通じて『陽炎』の潜在的なモチーフが刻み込まれていることを論じてきた。


 最後に完成した『陽炎』のミュージックビデオを見てみよう。




 この映像のなかの特に冒頭の志村の表情には独特の陰影がある。何かに囚われた緊張感がある。『陽炎』草稿の〈僕をしめつける〉という表現は歌詞からは消えてしまったが、この映像で〈出来事が 胸を締めつける〉を歌う志村正彦の声や表情にはそのモチーフの痕跡がある。曲が進行して、最後の最後の〈陽炎が揺れてる〉でそのモチーフが転調し、微かなものかもしれないが、〈僕〉が何かから解放されてゆく。

 筆者はそのように感じる。過去への愛情や愛惜と過去からの分離や解放。『陽炎』という歌は、相反する方向へと振り子のように動いて揺れていく。根拠はないのだが、そのように考える。 

 

 〈残像〉も〈出来事〉も、過去も現在も、喪失も追憶も、愛着も愛惜も、〈陽炎〉も〈僕〉も、すべてが揺れていく。


2025年12月29日月曜日

『陽炎』の四つのブロック-『陽炎』草稿3[志村正彦LN376]


 『陽炎』の草稿によって、この歌をどう捉え直したらよいのか。今回はその点について考察したい。

 以前も紹介したが、志村正彦は『FAB BOOK』(角川マガジンズ 2010/06)で、『陽炎』の物語の枠組やモチーフについて貴重な発言をしている。再度この発言を取り上げたい。


僕の中で夢なのか現実なのかわかんないですけど、田舎の家の風景の中に少年期の僕がいて、その自分を見ている今の自分がいる、みたいな。そういう絵がなんかよく頭に浮かんだんですよね。それを参考にして書いたというか、そういう曲を書きたいなと思ってて、書いたのがこの曲なんです。


 つまり、〈少年期の僕〉という第一の自分、〈「その自分(少年期の僕)を見ている今の自分〉という第二の自分、〈少年期の僕〉と〈その自分(少年期の僕)を見ている今の自分〉の両方を〈頭〉に浮かべている第三の自分、という三人の自分がいる。この三項による構造が『陽炎』の歌詞を構築している。


 『陽炎』で歌われる物語の世界は四つのブロックに分けられる。

 順番に、〈少年期の僕〉の〈残像〉を〈今の自分〉が想起する〈残像〉部分、〈少年期の僕〉の物語を語る部分、過去から現在へといたる〈出来事〉を〈今の自分〉が想起する部分、(この後で再び〈少年期の僕〉の物語の後半を語る部分が挿入される)、最後の「陽炎が揺れてる」の部分の四つである。それぞれを色分けして、『陽炎』完成版の歌詞を引用する。


  陽炎 (作詞・作曲:志村正彦)

あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ

また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
残像が 胸を締めつける


隣のノッポに 借りたバットと
駄菓子屋に ちょっとのお小遣い持って行こう
さんざん悩んで 時間が経ったら
雲行きが変わって ポツリと降ってくる
肩落として帰った

窓からそっと手を出して
やんでた雨に気付いて
慌てて家を飛び出して
そのうち陽が照りつけて
遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる

きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう

またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
出来事が 胸を締めつける


窓からそっと手を出して
やんでた雨に気付いて
慌てて家を飛び出して
そのうち陽が照りつけて
遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる

陽炎が揺れてる


 『陽炎』は〈残像〉部分から始まる。

 〈あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ〉と過去を想起し、〈路地裏の僕がぼんやり見えたよ〉と〈路地裏の僕〉に焦点化したところから、〈次から次へと〉〈残像〉が浮かんでくる。そしてその〈残像〉が〈胸を締めつける〉。


 この〈残像〉部分の後で、〈少年期の僕〉の物語が語られる。

〈僕〉は〈隣のノッポに借りたバット〉と〈ちょっとのお小遣い〉を持って野球をするために小学校のグラウンドに行くが、途中で〈駄菓子屋〉で何を買うか悩んでいるうちに〈雨〉が降りはじめ、肩を落として家に帰ってくる。そのうち窓から手を出すと雨がやんでいることに気づいて、慌てて家を飛び出す。外では〈陽〉が照りつけて、遠くで〈陽炎〉が揺れている。

 「手を出して」「雨に気付いて」「家を飛び出して」「陽が照りつけて」というように、動詞の連用形に「て」という助詞が付加される形で繰り返されることで歯切れのいいリズムとなって、路地裏の物語、〈僕〉の残像がまさしく次から次へと想起されていく。

 しかし、その〈残像〉は〈胸を締めつける〉ものでもある。この感情の核には、もうすでに失われた少年時代、〈路地裏〉という場と少年期の〈僕〉に対する愛惜の情があると考えてよいだろう。この愛惜が強く〈僕〉に迫ってくる。

 この〈残像〉部分の最後で〈僕〉が見ている〈陽炎〉はおそらく少年時代に実際に見たものだろう。その実景を回想として想起しているうちに、過去と現在との間の境界線がぼんやりしてきて、過去も現在も揺らめいて見える。過去と現在が混ざり合い、時間が揺れてくる。その時間の揺れのようなものを、現在の〈僕〉は〈陽炎が揺れてる〉と捉えたのではないだろうか。つまり、〈陽炎が揺れてる〉のを見つめている主体は、少年期の〈僕〉であり、現在の〈僕〉でもある。


 少年期の物語が終わった後で〈出来事〉部分が始まる。

 「出来事」部分では、〈今では〉と〈それでも〉、〈無くなったものも〉と〈あの人は〉、〈たくさんあるだろう〉と〈変わらず過ごしているだろう〉という対比が強調されている。この対比は過去と現在の時間の対比に基づいている。歌の主体の眼差しは〈無くなったもの〉と〈あの人〉に焦点化していくが、〈無くなったもの〉がどういうものか、〈あの人〉がどういう人であるかは分からない。作者志村にとっては特定のものであり特定の人であるのだろうが、聴き手にとっては不明のままである。

 この〈無くなったもの〉や〈あの人〉が具体的に語られなかったことが、〈出来事〉が〈僕を しめつける〉から〈胸を 締めつける〉へと書き直されたことの原因の一つになっているように考えられる。

          (この項続く)


2025年12月28日日曜日

草稿と完成版の差異-『陽炎』草稿2[志村正彦LN375]


 今回は、片寄明人氏のXの画像に掲載された『陽炎』草稿と『陽炎』完成版の差異について詳細に検討してみたい。

 まず、この草稿では歌詞のブロックごとにAからHまでの記号が振られていることが目につく。歌詞とメロディのブロック単位の区切りを示すのだろう。


 歌詞については表記レベルの違いがいくつかある。草稿の該当箇所に下線を引き、()内に完成版を赤字で記す。

あの街並 思い出した時(とき)に 何故だか浮かんだ

残像が 胸をし()めつける

きっと今では 無くなったものも沢山(たくさん)あるだろう


 語句の微細なレベルでは次の違いがある。

駄菓子屋に ちょっとのお小遣い持ってく(行こう


 最大の違いは,前回述べた次の書き直しである。

出来事が 僕()をし()めつける  


 この草稿の〈出来事が 僕をしめつける〉が、完成版では〈出来事が 胸を締めつける〉となっている。〈僕〉という字が消され、その下に〈胸〉という字が記されている。また、〈しめつける〉も〈締めつける〉と表記されている。

 以上指摘した差異はあるが、全体としてみればこの草稿は完成版の歌詞にかなり近いといえる。この草稿がプロデューサーの片寄明人に保管されていたということからも、この草稿は最終段階のものだったと推定できる。いったん書かれた〈僕〉が二重の×で消され、その下に〈胸〉と記されて、表現が修正されていることからも、最後の段階でこのように書き直されたのではないだろうか。あるいは歌入れの最終段階で修正された可能性もある。


 完成版の〈出来事が 胸を締めつける〉と草稿の〈出来事が 僕をしめつける〉が、歌詞の意味の次元でどのように異なるかを考察したい。

 〈出来事が 胸を締めつける〉の場合は、〈出来事〉が締め付ける対象は〈胸〉になる。〈胸〉は身体の一部を指すが、通常は〈心〉や〈感情〉を指し示す。〈出来事〉の作用は歌の主体〈僕〉の心情や感情に働きかける。このフレーズ自体は基本として感情や情緒の表現として捉えられるだろう。ある種の叙情性を帯びているともいえる。

 それに対して、〈出来事が 僕をしめつける〉の場合は、〈出来事〉が締め付ける対象は〈僕〉になる。〈僕〉の一部としての〈胸〉ではなく、〈僕〉の全体としての〈僕〉が対象となる。〈出来事〉の作用は歌の主体〈僕〉の心情や感情だけでなく、〈僕〉の存在の全体に及んでくる。〈出来事〉の比重がより大きく、重くなっていると考えてもよい。

 〈出来事〉が歌の主体〈僕〉を締め付ける。〈出来事〉が〈僕〉に重くのしかかる。威圧する。〈出来事〉が〈僕〉を追い詰める。圧迫する。あるいは〈出来事〉が〈僕〉を拘束する。束縛する。〈出来事〉によって〈僕〉の閉塞感が強まり、〈僕〉の自由が奪われる。このような意味も生じてくるかもしれない。

 歌の主体〈僕〉にとっての〈出来事〉は、抗えないような何か、不穏とも感じられる何かに近いのかもしれない。この表現からは、〈僕〉の重い苦しみが伝わってくる。

 もちろん、〈胸を締めつける〉方も、〈胸〉というのが身体的な感覚でもあることから、単なる感情や感覚を超えて身体の領域にまで迫ってくるという解釈は可能だろう。どういうものかは分からないが、ある種の痛みや苦しみが身体を貫いていることは確かだろう。〈僕をしめつける〉になると、その痛みや苦しみが増して、強い不安感や切迫感にまで達すると捉えてもよい。〈出来事〉は、〈胸〉という身体の一部ではなく〈僕〉の存在の全体に強く作用する。


 志村正彦はアルバム『フジファブリック』の作品について「ROCKIN'ON JAPAN」2004年12月号のインタビュー記事でこう発言している。


考えすぎる性格なのか、常に今の自分と頭の中にある過去のものだったりを比べたり、いろいろな葛藤がありますね。基本的にそんなにポジティヴじゃないというか、子どもの頃からみんなと一緒にいて楽しんでいるようでうしろのほうでいろいろ考えている自分がいる感じがするんですよね。


 志村は『陽炎』の最終段階まで、〈出来事〉が締め付ける対象が〈僕〉なのか〈胸〉なのかについて模索していたのではないだろうか。彼には〈考えすぎる性格〉という自覚があり、〈常に今の自分と頭の中にある過去のものだったりを比べ〉ていろいろな葛藤をかかえた自分と向き合わざるをえなかった。

 『陽炎』の歌詞のなかでは、この〈出来事〉がどういうものでるかは語られていない。志村はそのことを隠した。しかし、その〈出来事〉が〈僕〉を締め付けるのか、〈胸〉を締め付けるのかという表現については考え抜いた。そのような過程がこの『陽炎』草稿から浮かんでくる。

     (この項続く)


2025年12月27日土曜日

〈出来事が 僕をしめつける〉-『陽炎』草稿1 [志村正彦LN374]


 志村正彦の命日12月24日の夜、片寄明人氏がX(@akitokatayose)でこう呟いていた。


メリークリスマス🎄 ハンバーガーを食べて、コーラを飲みながら、君のことを思い出す。21年前、一緒にレコーディングした時の紙を見つけたよ。
僕はいま連日のリハーサルのため、ホテルに泊まってGREAT3の新曲に歌詞を書いてる。こんな素晴らしい言葉が書けるかわからないけれど。 pic.x.com/yup0INW9Fc


 〈君〉は志村正彦。〈21年前、一緒にレコーディングした時の紙〉というのは、21年前の2004年、フジファブリックのメジャーデビューアルバム『フジファブリック』や「四季盤」のシングル4枚の録音時の資料のことだろう。そう思って添付されていた画像を見てとても驚いた。ノートの罫線の枠外上部に『陽炎(かげろう)』とルビが振られていた。その下に志村が『陽炎』の歌詞をノート用紙に手書きで記していた。そこにはある言葉が削除され、新たな言葉が書き込まれていた。その漢字一字の言葉に釘付けになった。画像から文字に起こしてみたい。


  出来事が をしめつける  
       胸

       *〈〉という形で抹消線を記したが、実際には二重の×で〈僕〉が消されている。


 この箇所は完成された歌詞では〈出来事が 胸を締めつける〉となっている。その元の形(の一つ)が〈出来事が 僕をしめつける〉だったことがこの画像で分かる。〈僕〉という字が消され、その下に〈胸〉という字が記されている。また、〈締めつける〉の表記も〈しめつける〉だった。志村正彦の歌詞やその生成について考察する上で、この資料は非常に貴重なものとなる。

 志村はアルバム『フジファブリック』についてのBARKSのインタビュー (取材・文:水越真弓)で、『陽炎』の成立についてこう語っている。


「陽炎」は、けっこうすんなりできましたね。この曲を作った翌日に、新曲用の“デモテープ発表会”を控えていて(笑)、「ヤバイ…、新曲がない」って言いいながら夜中に家で一人でピアノを弾いてたんですよ。そしたら、30分くらいでこの曲のメロディが降りてきて、歌詞も同時にスラスラできました。


 『陽炎』のメロディと歌詞が同時に30分位で出来上がったというのはきわめて珍しいことだったろう。楽曲や歌詞作りにはかなりの時間をかけたことが、彼の書いた文章や記録された発言から読み取れるからだ。また、「夜中に家で一人でピアノを弾いてた」という状況も興味深い。ピアノを演奏するなかで楽曲も歌詞も同時に浮かび上がってきたのだろう。それでも志村が作品の完成度を高めるための作業を惜しまなかったことも確かなので、実際に録音して完成するまでの過程で、〈出来事〉が〈僕をしめつける〉のか〈胸を締めつける〉のかという歌の中心軸にもなるモチーフについてあれこれと考えたのではないだろうか。


 『陽炎』についての個人的経験を振り返りたい。

 2010年の夏、「陽炎」を聴いたことが志村正彦・フジファブリックの歌との出会いだった。そして2012年の12月、富士吉田で開催された「路地裏の僕たち」主催の志村正彦展のために、この〈出来事が 胸を締めつける〉の箇所を中心に書いた「志村正彦の夏」という題のエッセイを書いたことが、結果として、〈志村正彦ライナーノーツ〉の原点となった。すでにこのブログで紹介しているが、今回の論の展開のために必要なので、この文章をあらためて記しておきたい。


 夏の記憶の織物は、フジファブリックの作品となって、ここ十年の間、私たちに贈られてきた。なかでも『陽炎』は志村にしか表現しえない世界を確立した歌である。

  あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
  英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ  (『陽炎』)

 夏は、想いの季節である。夏そのものが私たちに何かを想起させる。「街並」「路地裏」という場。「英雄」、幼少時代の光景。楽しかったり、寂しかったりした記憶が「次から次へ」と浮かんでくる。
 夏は、ざわめきの季節でもある。人も、物も、風景も、時もざわめく。「陽」が「照りつけ」ると共に、何かが動き出す。そのとき、「陽炎」が揺れる。

  窓からそっと手を出して
  やんでた雨に気付いて
  慌てて家を飛び出して
  そのうち陽が照りつけて
  遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる   (同)

 『陽炎』はここで転調し、詩人の現在に焦点があてられる。

   きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
   きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう

   またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
   出来事が胸を締めつける          (同)  

 今では「無くなったもの」とは何か。特定の他者なのか。風景なのか。十代や青春という時間なのか。あるいは、過去の詩人そのものなのか。そのすべてであり、すべてでないような、つねにすでに失われている何かが「無くなったもの」ではないのか、などと囁いてみたくなる。

 喪失という主題は青春の詩によく現れるが、大半は、失ったものへの想いというより、失ったものを悲しむ自分への想いに重心が置かれる。凡庸な詩人の場合、喪失感は自己愛的な憐憫に収束するが、志村の場合は異なる。
 彼の詩には、そのような自己憐憫とは切り離された、失ったものそのものへの深い愛情と、失ったものへ、時に遠ざかり、時に近づいていく、抑制された衝動がある。そして、喪失を喪失のままに、むしろ喪失を生きなおすように、喪失を詩に刻んでいった。それは彼の強固な意志と自恃に支えられていたが、「胸を締めつける」ような過酷な歩みでもあった。



 この〈失ったものそのものへの深い愛情と、失ったものへ、時に遠ざかり、時に近づいていく、抑制された衝動〉という〈愛情〉と〈衝動〉、〈喪失を喪失のままに、むしろ喪失を生きなおすように〉して刻んだ〈喪失〉の表現というところが、僕の志村正彦論の原点となるテーマでありモチーフである。


 この『陽炎』草稿ノートに記された〈僕〉から〈胸〉への修正はこの歌詞に大きな変化をもたらしたと考えられる。歌詞の解釈を変える可能性すらあるだろう。特に〈失ったものへ、時に遠ざかり、時に近づいていく、抑制された衝動〉というかつての捉え方についてはさらに考えを深めなければならない。

 2014年7月に開催された「ロックの詩人 志村正彦展」では、志村家が所蔵している「若者のすべて」の歌詞の草稿ノートを展示させていただいた。その草稿から完成版までの歌詞の変遷過程についての試論を展示室内の解説パネルに書いた。

 今回、片寄明人氏がXの呟きで添付した『陽炎』草稿の画像は誰もがインターネット上で閲覧できるので、このブログで四回に分けてこの重要な資料について書いていきたい。

   (この項続く)


2025年12月25日木曜日

「茜色の夕日」のチャイム、NHK甲府のニュース[志村正彦LN373]

 昨日12月24日は志村正彦の命日だった。〈フジファブリック志村正彦さんの命日「茜色の夕日」のチャイム〉というNHK甲府のニュース映像が、NHK ONEにアップされた。

  https://news.web.nhk/newsweb/na/nb-1040028670


 この映像は、昨日12月24日夕方の甲府局「Newsかいドキ」で放送されたようだ。これは見逃してしまったが、今朝の甲府局のニュースで見ることができた。毎年のようにNHK甲府はこのチャイムについて放送してくれるが、今年は例年以上に丁寧に時間をかけて映像が作られていた。残念ながら映像は一定期間が過ぎると消えてしまうので、Webの記事をそのまま引用して記録に残しておきたい。


富士吉田市出身のミュージシャンで、ロックバンド「フジファブリック」で活躍した志村正彦さんが亡くなって16年となった24日、地元で夕方に流れるチャイムが代表曲の「茜色の夕日」に変わり、多くのファンが訪れました。

志村正彦さんは、富士吉田市出身のミュージシャンで、ロックバンド「フジファブリック」のリーダーとして「若者のすべて」など世代を超えて愛される曲を発表しました。

その音楽センスを高く評価されていた志村さんは、16年前の12月24日に29歳の若さで亡くなりました。

地元の富士吉田市は、志村さんの音楽の魅力を語り継ごうと、毎年、命日の前後に代表曲のひとつ「茜色の夕日」を防災行政無線の夕方のチャイムで流しています。

24日は、志村さんが育った下吉田地区の富士急行線の駅に地元の人や全国から訪れたファンなどおよそ50人が集まりました。

雨が降り、霧がかかる中、午後5時を迎えて曲が流れると、集まった人たちは駅の様子を動画に収めるなどしながらじっくりと聴き入っていました。

この日のためにフランスから訪れたという50代の女性は「こみ上げてくるものがありました。ここに来てよかったです」と話していました。

また、志村さんの黒板アートを制作したという市内の50代の男性は「この街としてずっと覚えているという思いで描きました。志村さんには励まされたり、勇気づけられたりしています」と話していました。

「茜色の夕日」のチャイムは今月27日まで毎日夕方5時に流されます。


 昨日はこの山梨でも寒い雨が降り続いていた。そういう天候のなかで五十人ものファンが下吉田駅で集まったことはとてもうれしい。この場所以外でもチャイムを聴いていた人はたくさんいただろう。この映像でも分かるように、雨が霧のようにけぶる光景はどことなく幻想的で志村正彦の歌にふさわしい。

 記事で言及されていた〈フランスから訪れたという50代の女性〉と〈志村さんの黒板アートを制作したという市内の50代の男性〉の二人のコメントのすべてを映像のテロップから書き写したい。


〈フランスから訪れたという50代の女性〉
この日のためにフランスから訪れる

こみ上げてくるものがあって
来てよかったなと思って

詞の素晴らしさに まず胸を打たれまして
ご自身のお人柄とかいろいろ後から知って

“推し活”とか 初めてなんですけどね


〈志村さんの黒板アートを制作したという市内の50代の男性〉
市内から 志村さんの黒板アートを制作

この街として 志村さんのことを
ずっと覚えているよっていうことを

絵の形で いろいろな人にお伝えできたらなと

弱さを歌っているようで
非常に強い人だと思うので

その生き方に すごく励まされたり
勇気づけられたりしています


 フランスからわざわざ訪れた女性は“推し活”と述べていたが、海外で暮らしている方だからこそ志村正彦・フジファブリックの音楽は心に身に迫るものがあると思われる。このブログも海外の方からの読み込みがけっこう多い。

 志村さんの黒板アートを制作している男性は、志村ファンならよくご存じの「黒板当番」さんである。(ご本人がXでこの映像のことを紹介されていたので、こう書かせていただきます) 〈弱さを歌っているようで 非常に強い人だと思うので〉という見方は、志村の本質の一つを語っている。強固な意志がなければあれだけの作品は生み出せなかったことは間違いない。志村正彦は繊細な心と強い意志をあわせ持っていた。


 没後十六年が経つが、彼の心と志は、彼の歌は、時に胸に響き、時に励まし、人々に自分自身の歩みを進めていく力を与え続けている。


2025年12月21日日曜日

見えない銀河を渡ることにしよう[ここはどこ?-物語を読む 12]

  平野や西側が海という場所に住んでいる人には意外だろうが、山梨では真っ赤な夕陽は沈まない。 太陽は赤くなる前に西の山に沈んで、それから山の端からせり上がるように夕焼けが広がる。だいぶ昔のことだが、関東平野にある県に住むことになって、初めて丸くて赤い太陽が地平線に沈むのを見たとき、ああこれが夕陽というものかと思った。そもそもそれまで地平線を見たこともなかった。

 山がすっかり闇に飲み込まれてしまうと、空は月と星の時間になる。冬の空気はピリリと冷たいが、星を見るのは冬がいい。年のせいかだいぶ目が効かなくなっていて、カシオペアやオリオンなど見つけやすい星座しか見つからないが、それでも見つけられると嬉しくなる。


 さて、銀河である。 残念ながら、街の明かりのせいか、こちらの視力の問題か、肉眼で夜空に銀河を見つけることはできない。 子どもの頃は見えていたかと考えてみたが、あれが銀河だと確信した記憶はない。銀河のイメージはプラネタリウムやテレビの番組の望遠鏡の映像などによって作られた二次的なものでしかない。中国や日本の古典には天の川がよく出てくるから、昔の人は実際肉眼で見ていたんだろうが。

 何でも年のせいにするのはどうかと思うが、「銀河」を歌いこなすことができない。

 問題は「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」である。一回目はクリアしても四回も繰り返しているうちにほぼつまずく。口も舌も回らないのだ。

 ところで、この「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」はなんだろう。真夜中二時過ぎに街を逃げ出す二人の足音と考えるのが普通なんだろうか。では次の「パッパッパッ パラッパラッパッパッ」(心なしかこちらの方が歌いやすい)は何か?  走り続けた二人の吐く荒い息が立ち止まった丘の上で闇の中に白く浮かぶ様だろうか。

 歌詞の中にはこの二人についてほとんど説明がないから、例によってはっきりしたことは言えない。 わかっているのは二人が真夜中に街を逃げ出したことだけ。二人で手に手を取って逃避行。駆け落ちなのか?  いや、二人が恋愛関係にあるとは限らない。青春時代、閉塞的な社会から逃げ出したい友人同士かもしれないし、因習的な家制度から逃げてきた親子かもしれない。無実の罪を着せられそうな男とその日に出会ってなぜだか巻き込まれてしまった他人というミステリー仕立てもできないことはない。これは聴き手が自由に想像すればいいのであって、面白い設定を想像できたら、隣で志村正彦がニヤニヤしてくれそうな気もする。


 しかし、問題はここからだ。二人の行く先は「UFOの軌道に乗って」「夜空の果て」までなのである。いきなりジャンルがSFになってきたではないか。こうなると二人の設定も修正が必要になるかもしれない。なぜ逃避行しなければならないかも地球規模になる。人類滅亡を防ぐためとか。宇宙のどこかに閉じ込められている誰かだけが二人を救う方法を知っているとか。空を飛んで旅をするとなれば宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」や松本零士の「銀河鉄道999」のイメージも浮かぶ。

  夜空の果てに何があるのか。UFOは敵か味方か。 二人の行く末は吉か凶か。何もかもわからないまま、しかし、二人は宇宙へ旅立ったのだろう。


  きらきらの空がぐらぐら動き出している!

  確かな鼓動が膨らむ動き出している!


 これはつまり二人がUFOに乗り込んだということなのではないか?だから空がぐらぐら動き出しているのだ。

 そうなると「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」も「パッパッパッ パラッパラッパッパッ」もUFOに乗り込むための呪文のようなもの(言葉ではなく動作みたいなものかもしれない。ダンスとか)に思えてくる。それができた人だけUFOに乗ることを許される。二人はきっと淀むことなく難関をクリアして、UFOで夜空を渡っていくのだ。 


 歌いこなすことができない私はたぶんUFOに乗せてもらえないだろう。せめて想像の翼で夜空の果てまで向かう二人を追いかけ、見えない銀河を渡ることにしよう。


2025年11月30日日曜日

10月の甲府Be館 『六つの顔』『入国審査』

10月は、芥川龍之介の小説についての論文を書いたり、〈甲府文と芸の会〉の公演の準備をしたりと忙しい日々を送っていて、甲府シアターセントラルBe館には二度しか行けなかった。


『六つの顔』


 人間国宝の狂言師野村万作を撮ったドキュメンタリー作品。息子の野村萬斎、孫の野村裕基も出演している。犬童一心監督。題名の「六つの顔」は、万作が自身について思い浮かべる六つの自己像を表している。前半は野村万蔵家の歴史や野村万作の稽古の姿、後半は2024年6月の文化勲章受章記念公演の狂言「川上」の映像を紹介していた。

 狂言「川上」の能舞台は宝生能楽堂だった。万作が上演の直前に鏡の間で自身の姿を映し出す場面、その瞬間の眼差しに惹かれた。自分の姿を見つめることで役柄に変身していくようだった。(私の妻は趣味として能を稽古していた時があり、宝生能楽堂で二度ほど能を舞ったことがある。妻はこの鏡の間での緊張感が忘れられないと話していた)他にも、楽屋で弟子たちが万作に挨拶をする場面の映像が印象的だった。


『入国審査』



 ディエゴとエレナのカップルがスペインのバルセロナからアメリカへ移住するためにニューヨークの空港に降り立つが入国審査で尋問される。監督はアレハンドロ・ロハスとフアン・セバスティアン・バスケス。取調室で容赦なく尋問されるなかでディエゴの過去の婚約歴が明らかとなり、エレナはディエゴに疑念を抱くようになる。二人の追い込まれ方が尋常でなく、アメリカの入国管理の厳しさに直面する。

 海外旅行の際には誰もが入国審査で緊張するだろう。通常はパスポートの確認後にすぐに通過できるが、ある時に同行者がかなり時間がかかったことがある。どうしたのだろうかと心配したが、そのうちに何事もなく通過できたので安堵した。この映画も監督の実体験に着想を得て制作されたそうである。その実体験がリアリティを与えているのだろう。


 宝生能楽堂の楽屋や舞台裏。空港入国審査の取調室。

 全く異なる場ではあるが、表側では見ることのできない裏側での出来事、人間の姿が印象深い二つの映画であった。


2025年11月19日水曜日

有馬銅鑼魔

 有馬眞胤さんとの出会いを振り返りたい。二年前、2023年の6月、山梨市日下部公民館で彼の独り芝居を初めて見た。当時の館長内藤理さんがいろいろな素晴らしい企画の公演を打っていたが、そのうちの一つだった。太宰の「走れメロス」が演目だったので、私がその前座として「太宰治と山梨」について話をすることになった(それ以前にこの公民館の映画祭で何度か講座を担当していた)。

 この日の観客は四十名ほどだったが、皆、「走れメロス」の言葉そのものを声と身体で再現した芝居にとても魅了された。下座のエイコさんの津軽三味線も彩りを添えていた。前回、亀屋座での有馬さんの芝居に対する〈本物に出会った〉というコメントを紹介したが、私もまさしくそのような思いを抱いた。

 翌年2024年の9月、日下部公民館で浅田次郎『天切り松闇がたり』シリーズの「白縫華魁」の独り芝居があった。有馬さんの語りによって吉原遊郭を舞台とする物語の情景が浮かび上がった。12月、東京両国のシアターXカイで谷崎潤一郎「母を恋ふる記」の芝居があった。有馬さんが語り手兼主人公の〈わたし〉を、エイコさんが〈母〉を演じた。二人の芝居によって谷崎の文学がその場で可視化されていった。この舞台では照明が工夫されて、より演劇的な空間となっていた。

 有馬さんは自身のHPで〈有馬眞胤の語り芸は朗読ではない。本は持たず一篇の小説を全て覚えて演じるのです。落語でもなく、講談でもなく、新しい語りのジャンルを探るべく格闘しています。下座にはエイコ(津軽三味線)が務めております〉と述べている。確かに、文学作品の朗読でなく、文学作品を原作とする演劇でもない。一つの文学作品の言葉を彼の記憶のなかに吸収させて、彼の声と身体によって作品を再現し上演する行為である。有馬さん自身はこの行為を〈作品を立体化する〉と説明している。


 今年2025年、山梨英和大学で「太宰治と甲府」というテーマの講義をするために資料を読んでいたときに、太宰治が石原美智子と結婚して甲府に住んでいた時に執筆した「新樹の言葉」と「走れメロス」の人物関係やテーマが非常に似ていることに気づいた(この具体的な内容は後日詳しく書きたい)。その際に、有馬さんを招いて、学生に「走れメロス」の独り芝居を見せることを思いついた。幸いなことにすぐに有馬さんの快諾を得て、6月にその授業が実施できた。私が「太宰治と甲府―「新樹の言葉」から「走れメロス」へ」という講義をした後で、有馬さんが「走れメロス」を上演した。その芝居についての学生の感想を紹介したい。


  • 一人芝居で観た「走れメロス」は、文章で読んだ時とは全く違う臨場感と重みを感じた。声や表情、動きの変化によって、登場人物たちの感情の揺れがはっきりと伝わり、「走れメロス」という物語のテーマが理屈ではなく感覚として自然と胸に迫ってきた。一人芝居だからこそ生まれる緊張感の中で、太宰治の声と語りの力を改めて実感することができた。
  • 「走れメロス」の独り芝居を見た時、その声や立ち振る舞いでストリーに引き込まれ、思わずメロスに感情移入してしまいとても感動した。特にメロスやセリヌンティウスのセリフは声の抑揚により本当に目の前で会話が行われているのではないかとすら感じた。
  • 先生の話を聞き、そして有馬さんの芝居を見て、様々な作品にはそれぞれ作者がいて、作者は作品に対して様々な思いを持って制作をしているという背景があり、二次創作者がどのように解釈してどのように表現するのかという部分にとても興味を持ちました。有馬さんが演技をしている時、有馬さん自身が、メロスをはじめ他の登場人物ならどういう態度や声量や動きをするだろう、それがどうすればお客さんに伝わるだろうと考えた末にたどり着いた努力の演技だと一目見ただけで感じることができ、感動しました。


 学生はこの芝居に魅了され、「走れメロス」の世界に感情移入していった。魅了というよりも感動というべきだろう。学生は本物の役者に出会い、教室が本物の舞台空間に変わっていったのである。

 この公演後、有馬さんは私宛のメールで〈「走れメロス」という作品は文体にリズムがあり、テーマも解りやすくシンプルです。作品を自分流に演じるのではなく、出来る限り作品に忠実にシンプルに真直ぐに演じることに心掛けております。文学を立体化し芸術に迄昇華出来ることを目標にしております〉と書いている。文学の立体化が彼の方法であり目標である。

 そして、授業での学生の反応を見て、一般の方に対してこの芝居を公演することを考えた。その頃ちょうど甲府の中心街に「こうふ亀屋座」ができた。あの舞台なら有馬さんの芝居がいっそう引き立つに違いない。この話もまた有馬さんの快諾を得て、公演の実現へと動いていった。このような経緯を経て、11月3日にこうふ亀屋座で〈甲府 文と芸の会〉の第1回公演〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉が開催されたのである。


 有馬さんの経歴を紹介したい。劇団四季に所属して『異国の丘』『オンディーヌ』などを演じた後、蜷川幸雄の演出作品に20年間参加して、『王女メディア』『近松心中物語」『ニナガワ・マクベス』では世界ツアーに参加し、ロンドン、ニューヨーク、バンク―バー、香港、アントワープ、シンガポール、クワラルンプール、ヨルダン、エジプトなどで公演した。また、平幹二郎主宰の「幹の会」の公演『冬物語』『王女メディア』『鹿鳴館』などにも参加した。その後は劇団やプロジェクトから完全に独立して、2005年から「有馬銅鑼魔」と題する独り芝居、独り語りを始め、2020年からは両国シアターXカイに拠点を移し、精力的に活動を続けている。


 有馬眞胤さんはこのように役者としての豊富な経験とキャリアを持っているが、実に謙虚な方である。太宰治「走れメロス」の全文を暗記して声と語りによってその世界を再現し上演できる役者はおそらく彼一人であろう。独自の演劇を探究する孤高の存在である。

 私は「有馬銅鑼魔」の独自性を高く評価している。来年もまた甲府で、孤高の役者有馬眞胤の独り芝居を公演する予定である。


2025年11月5日水曜日

11月3日の公演 〈本物に出会った〉という言葉

 一昨日、11月3日、こうふ亀屋座で〈甲府 文と芸の会〉の第1回公演〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉が予定通り開催された。

 昼になると青空が広がり、日差しも暖かくなってきた。すがすがしい、おだやかな気分で公演を迎えることができた。三連休の最後、文化の日ということもあって、亀屋座のある「小江戸甲府花小路」の人通りが多く、活気もあった。賑やかな華やぎが甲府の中心街に戻ってきたような気がした。


 参加希望者は105名に達した。先着順90名の予定だったが、それを超える申し込みがあったために、2階の客席エリアを広げて対応した。開場は1時半からだったが、1時過ぎには入り口の前にかなりの人々が並んでいた。(亀屋座の担当者が五月のオープン以来初めて見る光景だと言われた)亀屋座前を通る人が何のイベントがあるのだろうと振り返る姿がときどき見られた。

 開演の10分ほど前には満員の状態になり、予定通り午後2時に開演した。私がまず〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」〉と題して15分ほ話をした後で。エイコさんが「新樹の言葉」の冒頭などの部分を10分ほど朗読した。休憩の後、有馬眞胤さんの独り芝居とエイコさんの下座(三味線)による「走れメロス」の上演があった。有馬さんは作品の全文を覚えて、声による語りと身体の動きによって「走れメロス」を演じきり、エイコさんの三味線が場面の展開に確かな彩りを添えていった。

 書物の二次元の世界を声と身体によって三次元の世界に変換していく有馬独り芝居のスタイルは非常に独創的である。観客はこの有馬独り芝居の世界に入り込み、魅了されていく。観客の眼差しが舞台を見つめ、語りの声を聴くことによって、亀屋座そのものが「走れメロス」の空間と化していった。

 50分ほどの時間だったが、芝居が終了すると、観客からまさしく「万雷の拍手」が起きた。亀屋座の小さいが濃密な空間が拍手の音で揺れるようだった。カーテンコールの後で主催者代表として私が御礼と感謝の言葉を述べた。来年度も有馬さんとエイコさんを招いて公演を行うことを告げてこの公演を閉じた。


 会場で書いていただいたアンケートの言葉を五つほど紹介したい。

  • 本物に出会った。そんな思いがしました。 
  • 有馬さんの迫力ある演技を見て、学生時代に読んだ走れメロスのストーリーが蘇りました。 
  • 素晴らしい朗読と芝居でした。三味線の音色に津軽の景色が広がりました。
  • 有馬さんの声の抑揚、身振り、手振り などとても引き込まれました。発声も素晴らしく、後方で見ていましたが、初めから終わりまで余すことなく楽しめました。 
  • 久しぶりにお芝居を見てとても満たされました。昔、蜷川幸雄さんが生きていた当時、何度が見に行きました。それ以来というわけではありませんが、久しぶりにお芝居の楽しさを感じました。


 〈本物に出会った〉という言葉が今回の公演の本質を語っている。アンケートには次回も必ず見たいという声も多かった。とてもとても有り難い言葉である。後日、この公演についてはさらに書くことにしたい。

 

2025年11月1日土曜日

昭和20年7月の別れ-太宰治と甲府 6

 昭和14(1939)年9月、太宰治は甲府から東京の三鷹へ転居したが、その後も何度も甲府を訪れている。妻美智子の実家、湯村温泉の旅館明治、甲府中心街の東洋館などに滞在して小説を執筆した。昭和20(1945)年4月、東京の空襲に遭い、甲府に疎開してきた。

 甲府の詩人一瀬稔は「太宰治点描―太宰治(1)」「追憶の酒―太宰治(2)」(『忘れ得ぬ人びと』甲陽書房 1986)で、その頃の太宰と井伏鱒二との思い出を語っている。まず、「追憶の酒」から引用したい。 

ぼくが太宰さんに初めてお会いしたのは昭和十七年ごろで、その当時太宰さんは、東京の三鷹から水門町の奥さんの実家と湯村温泉に滞在して創作に専念、夜はたいがい市内のどこかで酒を飲んでおられた。そんな時いつも甲運村(現在甲府市に編入)へ疎開されていた井伏鱒二氏がご一緒だったようである。ぼくが特に親しくおつき合いねがったのは、終戦の前の年から、甲府が戦災を受けて太宰さんが津軽の生家へ引き揚げるまでの一年余りの期間である。

 一瀬は太宰や井伏と甲府近郊の川魚料理屋へ行った思い出を語っている。

ぼくらは座敷に通されて、きっそく酒になった。飲むほとに酔うほどに太宰さんはすっかり上機嫌になり、酔った時のいつもの調子でにぎやかにはしゃぎ、「ぼくは今夜こそこの甲州に骨を埋める覚悟を決めましたよ」とくり返し言うのだった。

 一瀬はこの太宰の発言について〈太宰さん特有の大仰なゼスチュアではあるが、それほどその晩の酔い心地は格別だったように思われた〉と述べている。太宰の甲府時代を振り返って、次のように評した。実際に太宰と交流した人の証言でもある。

太宰さんのいわゆる甲府時代というのは約五、六年間であるが、この期間は太宰さんの生涯の中で、生活的にも、精神的にもいちばん安定しており、ばりばりと仕事のできた文字通り脂ののった時期ではなかっただろうか。時代こそ暗かったが、気持ちにかげりがなく、飲めば闊達にはしゃぎ、太宰さんの周りにはいつも明るい雰囲気が漂っていた。

 甲府時代の太宰は精神的にも安定して仕事に打ち込んでいた。作家仲間や地元の青年たちとの交流もあった。川魚料理屋での〈甲州に骨を埋める覚悟〉というのはリップサービスにも聞こえるが、案外、太宰の本音を伝えているのかもしれない。


 「太宰治点描」では、『オリンポスの果実』の田中英光が東京から太宰を訪ねてきた日のことを書いている。その当時、甲府駅の北口側にあった「峠の茶屋」という飲み屋に太宰と甲府の画かきや文学の仲間がよく集っていた。

僕たち四、五人の常連も加わって、その峠の茶屋へ飲みにおしかけた。体の大きい田中さんは、その時学生服を着ていて、酔いが回るにつれてますます元気になり、果てはハチ巻などして、持ち前の蛮声で何やら大気焔をあげていた。太宰さんもこの遠来の愛弟子を加えての酒席がたいへん愉しかったと見え、殊更上気嫌で、「今夜は徹夜でのみ明かそうや」と言って、やんちゃな子供みたいにさかんにはしゃいでいた。その夜はとうとう夜明け近くまで飲みあかし、それぞれ酔いつぶれたような格好で畳の上にごろ寝してしまった。昼近くなって目を覚ましたが、また太宰さんの提唱で、すぐ近くの山へのぼって飲み直すことになった。各自一本ずつブドウ酒の壜をさげて(その頃は高級料理屋以外には清酒がなかったので、僕たちは主にブドウ酒を常飲していた)、同勢はそこから二丁ほど先の愛宕山へくり出した

 太宰治と愛弟子の田中英光、甲府の仲間たちがはしゃぐ姿が目に浮かぶ。ブドウ酒の壜とあるが、山梨では一升瓶のブドウ酒がよく飲まれる。愛宕山は甲府駅のすぐ北側にある。この山に少し登ると周囲を展望できる場所があり、甲府盆地の全景と富士山、御坂山系、南アルプスなどの山々がよく見える。夜景も美しい。昔も今も変わらない風景がある。


 昭和20(1945)年7月6日深夜から7日未明までのあいだ、甲府は空襲された。焼け野原になってしまった日からまもなく、一瀬稔は街中を自転車で走る太宰を目撃する。

 甲府の街が空襲で焼けて間もなくだった。ある日街を歩いていたら、少し離れた車道を、太宰さんが自転車で颯爽と走っていった。その時の太宰さんの服装はいまはっきりと記憶にないが、白い開襟シャツにカーキ色のズボン、それにゲートルを巻いて編上靴を穿いていたようだった。そして背中に空のリュックを背負っていた。その時人道を歩いていた僕は、とっさに声をかけようとしたが、太宰さんは何か急ぎの用事でもあるらしく、傍目もせず真っしぐらに走っていったので言葉をかける間もなかった。僕はその時、何かいつもの太宰さんとはまるで違った人でも見るような気がして立ちどまったまま、颯爽とペダルを踏んでいくそのうしろ姿をしばらく呆然と見送っていた。その時が最後で、太宰さんとはもう二度とお目にかかれなかった。    

 この後まもなく、太宰は家族を連れて故郷の津軽へ帰っていった。一瀬のもとに太宰から「来年になったら、またお会いして、ブドウ酒を飲み、ウナギを食べて文学の談を交わす事が出来るかと思い、たのしみにして居ります」という手紙が来た。

 しかし、結局、太宰治が再び甲府を訪れることはなかった。昭和20年7月が甲府との別れの時となった。


 甲府空襲の後、太宰は故郷津軽の実家へ疎開し、終戦を迎えた。津軽に一年半近く滞在し、昭和21(1946)年)11月、東京に戻った。もしも、という仮定をあえてするが、甲府空襲がなければ戦後もそのまま甲府でしばらくは暮らしていたかもしれない。太宰の人生や文学も異なる軌跡を描いたことだろう。