この三月は、寒さが戻ったり逆に急に暑くなったり、強い風が吹いたり雪が降ったりと、天候が目まぐるしく変化した。
一昨日は朝から冷たい雨が降っていた。午後になると雨が上がり、視界を遮るものが取れて、甲府盆地の周囲が次第に見渡せるようになった。
春の季節に雨が降ると思い出す俳句がある。題名に挙げた芥川龍之介の句である。芥川龍之介が山梨の俳人飯田蛇笏に贈ったものだ。
龍之介は「ホトトギス」大正7年8月号の雑詠欄に「我鬼」の俳号で「鍼條に似て蝶の舌暑さかな」他一句を投句した。蛇笏は「我鬼」の「鍼條に」句を「雲母」大正8年7月号で「無名の俳人によって力作さるる逸品」と高く評価した。このとき蛇笏は「我鬼」が龍之介だということを知らなかったが、しばらくして気づくことになる。
この四年後、「雲母」大正12年10月号と11月号で、蛇笏は「芥川龍之介氏の俳句」と題して龍之介の俳句を論じた。これを読んだ龍之介は大正12年11月9日に御礼の手紙を書き、蛇笏の影響で作った句があることを告げた。手紙の往来や書籍や雑誌の寄贈を通じてではあるが、この時から二人の交流が始まる。龍之介は「雲母」大正13年3月号に「蛇笏君と僕と」を寄稿し、「これは僕の近作である。次手を以て甲斐の国にゐる蛇笏に献上したい」として、この「春雨の」句を披露している。
「春雨」は冬から春へと移り変わる時期に降る霧雨である。春が近づいても山梨の高峰には雪が残っている。春雨が煙るように降る中、視線を遠くへと放てば、残雪が置かれる「甲斐の山」が見えてくる。
甲府盆地の周囲には、東に大菩薩嶺などの甲州アルプス、西に甲斐駒ヶ岳、白根三山・南アルプス連峰、南に富士山・御坂山系、北に八ヶ岳・奥秩父山塊というように、二千から三千メートル級の高峰が連山のように連なっている。
飯田蛇笏には中学や高校の教科書にも掲載される名句がある。龍之介も高く評価していた。
芋の露連山影を正しうす 蛇笏
甲府盆地に住む私たちにとって、この「連山の影」は馴染みの風景である。四方を見渡せば連山に囲まれている自分と対話することになる。残雪が溶けていくと、春そして夏が訪れる。
この「春雨の」句は、龍之介が蛇笏への献上の句だと述べているとおり、蛇笏に対する敬意が込められた挨拶の句であるとひとまず理解できる。しかし、この句は単なる挨拶、儀礼にとどまらず、龍之介の甲斐の山々への親しみの想いが込められているのではないか。
明治41年の7月、龍之介16歳。東京府立第三中学校の四年生だった。親友西川英次郎と二人で東京を出発。日向和田までは汽車、そこからは歩いて氷川、丹波山、塩山へ行き、塩山駅で汽車に乗り甲府へ向かい、昇仙峡へは再び徒歩で旅した。この旅の日誌には塩山で見た山梨の風景がこう書かれている。
紫に煙つた甲斐の山々 殘照の空 鉛紫の橫雲。それも程なくうつろつて 終には野もくれ山もくれ 暮色は暗く林から林へ渡つて 空はまるで限りのない藍色の海の樣。涼しい星の姿が所々に見えて いつか人家の障子には 燈が紅くともる樣になつた。
龍之介の眼差しは、「紫」「殘照」「鉛紫」「暮色」「藍色」「紅」と、「甲斐の山々」の風景、空や雲の色や光の微妙な変化を追っている。東京では見ることのできない景観に感銘を受けたのだろう。俳句につながる可能性を秘めた表現でもある。
明治43年10月、龍之介18歳。第一高等学校の行事で甲府に二泊し、笛吹川まで行軍演習を行う。その際に友人に送った手紙には「甲州葡萄の食ひあきを致し候 あの濃き紫に白き粉をふける色と甘き汁の滴りとは僕をして大に甲斐を愛せしめ候」とある。
明治45年4月、龍之介20歳。富士裾野を巡る旅では「今日朝八時東京発大月下車七里の道を下吉田に参り候 空晴れて不二の雪さはやかに白く」という文面の葉書を友人に送る。四月初めだから富士山の残雪が白く輝いていたことだろう。
大正12年の8月、長坂町で開催された夏季大学では「人生と文芸」という題の講義を行った。その合間に、八ヶ岳、甲斐駒ヶ岳、南アルプスの山々を眺めたことだろう。
芥川龍之介は数回にわたる旅で奥秩父山塊、南アルプス、八ヶ岳、富士山などの山々を実際に見ている。その経験を日誌や書簡に書き残している。甲斐の山の情景は生き生きと記憶に刻まれることになった。
蛇笏は明示18(1985)年生まれ、龍之介は明治25(1992)年生まれ。七歳ほどの違いがあるが、俳句そして「甲斐の山」の風景を通して、この二人の間には深い心の交流があった。
春雨の中や雪おく甲斐の山 龍之介
残雪を置く峻厳な高峰には、第一に、孤高の存在としての飯田蛇笏が重ね合わされているだろう。第二に、龍之介が実際に見て感銘を受けた甲斐の山々の残像が投映されている。
織物、ファブリックに喩えると、孤高の存在の蛇笏という縦糸と甲斐の高峰の残像という緯糸の二つが、この龍之介の一句に見事に織り込まれている。