有馬眞胤さんとの出会いは、二年前、2023年の6月、山梨市日下部公民館の当時の館長内藤理さんが企画した「走れメロス」独り芝居の時だった。この公演の前座で私は「太宰治と山梨」について話した。公民館の観客は四十名ほどだったが、皆、「走れメロス」の言葉そのものを声と身体で再現した芝居にとても魅了された。下座のエイコさんの津軽三味線も彩りを添えていた。前回、亀屋座での有馬さんの芝居に対する〈本物に出会った〉というコメントを紹介したが、私もまさしくそのような思いを抱いた。
翌年2024年の9月、日下部公民館で浅田次郎『天切り松闇がたり』シリーズの「白縫華魁」の独り芝居があった。有馬さんの語りによって吉原遊郭を舞台とする物語の情景が浮かび上がった。12月、東京両国のシアターXカイで谷崎潤一郎「母を恋ふる記」の芝居があった。有馬さんが語り手兼主人公の〈わたし〉を、エイコさんが〈母〉を演じた。二人の芝居によって谷崎の文学がその場で可視化されていった。この舞台では照明が工夫されて、より演劇的な空間となっていた。
有馬さんは自身のHPで〈有馬眞胤の語り芸は朗読ではない。本は持たず一篇の小説を全て覚えて演じるのです。落語でもなく、講談でもなく、新しい語りのジャンルを探るべく格闘しています。下座にはエイコ(津軽三味線)が務めております〉と述べている。確かに、文学作品の朗読でなく、文学作品を原作とする演劇でもない。一つの文学作品の言葉を彼の記憶のなかに吸収させて、彼の声と身体によって作品を再現し上演する行為である。有馬さん自身はこの行為を〈作品を立体化する〉と説明している。
今年2025年、勤務校で「太宰治と甲府」というテーマの講義をするために資料を読んでいたときに、太宰治が石原美智子と結婚して甲府に住んでいた時に執筆した「新樹の言葉」と「走れメロス」の人物関係やテーマが非常に似ていることに気づいた(この具体的な内容は後日詳しく書きたい)。その際に、有馬さんを招いて、学生に「走れメロス」の独り芝居を見せることを思いついた。幸いなことにすぐに有馬さんの快諾を得て、6月にその授業が実施できた。私が「太宰治と甲府―「新樹の言葉」から「走れメロス」へ」という講義をした後で、有馬さんが「走れメロス」を上演した。その芝居についての学生の感想を紹介したい。
- 一人芝居で観た「走れメロス」は、文章で読んだ時とは全く違う臨場感と重みを感じた。声や表情、動きの変化によって、登場人物たちの感情の揺れがはっきりと伝わり、「走れメロス」という物語のテーマが理屈ではなく感覚として自然と胸に迫ってきた。一人芝居だからこそ生まれる緊張感の中でより、太宰治の声と語りの力を改めて実感することができた。
- 「走れメロス」の独り芝居を見た時、その声や立ち振る舞いでストリーに引き込まれ、思わずメロスに感情移入してしまいとても感動した。特にメロスやセリヌンティウスのセリフは声の抑揚により本当に目の前で会話が行われているのではないかとすら感じた。
- 先生の話を聞き、そして有馬さんの芝居を見て、様々な作品にはそれぞれ作者がいて、作者は作品に対して様々な思いを持って制作をしているという背景があり、二次創作者がどのように解釈してどのように表現するのかという部分にとても興味を持ちました。有馬さんが演技をしている時、有馬さん自身が、メロスをはじめ他の登場人物ならどういう態度や声量や動きをするだろう、それがどうすればお客さんに伝わるだろうと考えた末にたどり着いた努力の演技だと一目見ただけで感じることができ、感動しました。
学生はこの芝居に魅了され、「走れメロス」の世界に感情移入していった。魅了というよりも感動というべきだろう。学生は本物の役者に出会い、教室が本物の舞台空間に変わっていったのである。
この公演後、有馬さんは私宛のメールで〈「走れメロス」という作品は文体にリズムがあり、テーマも解りやすくシンプルです。作品を自分流に演じるのではなく、出来る限り作品に忠実にシンプルに真直ぐに演じることに心掛けております。文学を立体化し芸術に迄昇華出来ることを目標にしております〉と書いている。文学の立体化が彼の方法であり目標である。
そして、授業での学生の反応を見て、一般の方に対してこの芝居を公演することを考えた。その頃ちょうど甲府の中心街に「こうふ亀屋座」ができた。あの舞台なら有馬さんの芝居がいっそう引き立つに違いない。この話もまた有馬さんの快諾を得て、公演の実現へと動いていった。このような経緯を経て、11月3日にこうふ亀屋座で〈甲府 文と芸の会〉の第1回公演〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉が開催されたのである。
有馬さんの経歴を紹介したい。劇団四季に所属して『異国の丘』『オンディーヌ』などを演じた後、蜷川幸雄の演出作品に20年間参加して、『王女メディア』『近松心中物語」『ニナガワ・マクベス』では世界ツアーに参加し、ロンドン、ニューヨーク、バンク―バー、香港、アントワープ、シンガポール、クワラルンプール、ヨルダン、エジプトなどで公演した。また、平幹二郎主宰の「幹の会」の公演『冬物語』『王女メディア』『鹿鳴館』などにも参加した。その後は劇団やプロジェクトから完全に独立して、2005年から「有馬銅鑼魔」と題する独り芝居、独り語りを始め、2020年からは両国シアターXカイに拠点を移し、精力的に活動を続けている。
有馬眞胤さんはこのように役者としての豊富な経験とキャリアを持っているが、実に謙虚な方である。太宰治「走れメロス」の全文を暗記して声と語りによってその世界を再現し上演できる役者はおそらく彼一人であろう。独自の演劇を探究する孤高の存在である。
私は「有馬銅鑼魔」の独自性を高く評価している。来年もまた甲府で、孤高の役者有馬眞胤の独り芝居を公演する予定である。
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