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2018年9月16日日曜日

複雑な図柄のファブリック-『陽炎』4[志村正彦LN197]

 今日の甲府盆地は夏の揺り戻しのような天気で気温が三十一度に上がった。この夏の『若者のすべて』熱の余波なのか、最近このblogのページビューも増えている。tweetして紹介していただくこともある。ありがたい。
 今回は、この強い日差しに促されるようにして『陽炎』論に久しぶりに戻ろう。

 『陽炎』3の回で、『FAB BOOK』(角川マガジンズ 2010/06)での志村正彦の発言「田舎の家の風景の中に少年期の僕がいて、その自分を見ている今の自分がいる、みたいな。そういう絵がなんかよく頭に浮かんだんですよね」を引用して、この作品には、「少年期の僕」、「その自分(少年期の僕)を見ている今の自分」、「少年期の僕」と「その自分(少年期の僕)を見ている今の自分」の両方を「絵」として見ている自分、という三つの自分がいると書いた。

 このことに関連するもう一つの証言がある。「oriconstyle」2004年7月14日付の記事(文:井桁学)で志村は次のように語っている。


今の自分が少年時代の自分に出くわすっていう絵が、頭の中あって。そこで回想をして、映画に出てきそうなシーンを書きたいなと思って作りました。


  『FAB BOOK』の「田舎の家の風景の中に少年期の僕がいて、その自分を見ている今の自分がいる、みたいな。そういう絵」からさらに一歩踏み込んで、「今の自分が少年時代の自分に出くわすっていう絵」が頭の中にあったと述べている。今の自分が少年期の自分をただ「見ている」のではなく、「出くわす」のである。現在の自分と少年期の自分、二人の自分が遭遇する。発売当時の資料によると『陽炎』には「ワープ」というテーマがあったようだ。時の隔たりを超えてワープするようにして、現在と過去の自分が遭遇する。「映画に出てきそうなシーン」でもある。そのようなシーンの幻が『陽炎』を創り上げた。

 作者の志村はどう考えて『陽炎』を創作したのか。それに関する作者自身の発言を二つほど紹介した。歌をどのように聴こうが、聴き手の自由である。作者自身の発言に縛られる必要もない。それでも複雑なファブリックのように組織されている志村正彦・フジファブリックの作品の場合、作者の様々な発言がその織り込まれ方を解析する鍵を与えてくれることがある。自由に聴くこと、多様に考えること、その二つは共存できる。

 ここで『陽炎』のミュージックビデオをあらためて視聴したい。歌詞も付記する。
 少年期の自分、現在の自分、その二人の自分を語りあげる自分。三つの自分が絡まり合う複雑な図柄のファブリックとして『陽炎』を聴く。そのように聴くとどのような風景が描かれるだろうか。




 
    『陽炎』(作詞作曲:志村正彦)

  あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
  英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ

  また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
  残像が 胸を締めつける

  隣のノッポに 借りたバットと
  駄菓子屋に ちょっとのお小遣い持って行こう
  さんざん悩んで 時間が経ったら
  雲行きが変わって ポツリと降ってくる
  肩落として帰った

  窓からそっと手を出して
  やんでた雨に気付いて
  慌てて家を飛び出して
  そのうち陽が照りつけて
  遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる

  きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
  きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう

  またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
  出来事が 胸を締めつける

  窓からそっと手を出して
  やんでた雨に気付いて
  慌てて家を飛び出して
  そのうち陽が照りつけて
  遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる

  陽炎が揺れてる


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