公演名称

〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉

公演概要

日時:2025年11月3日(月、文化の日)開場13:30 開演14:00 終演予定 15:30/会場:こうふ亀屋座 (甲府市丸の内1丁目11-5)/主催:甲府 文と芸の会/料金 無料/要 事前申込/先着90名 *下記の申込フォームからお申し込みください。

公演内容

公演内容:第Ⅰ部 講座・朗読 「新樹の言葉」と「走れメロス」講師 小林一之(文学研究 山梨英和大学特任教授)朗読 エイコ、第Ⅱ部 独り芝居 「走れメロス」俳優 有馬眞胤(劇団四季出身、蜷川幸雄演出作品に20年間参加、一篇の小説を全て覚えて声と身体で演じる)・下座(三味線)エイコ

申込案内

下記の申込フォームから一回につき一名のみお申し込みできます。記入欄に ①名前 ②メールアドレス  ③メッセージ欄に「11月3日公演」と記入して、送信ボタンをクリックしてください。(ご要望やご質問がある方はメッセージ欄にご記入ください) *申し込み後3日以内に受付完了(参加確定)のメールを送信しますので、メールアドレスはお間違いのないようにお願いします。3日経ってもこちらからの返信がない場合は、再度、申込フォームの「メッセージ欄」にその旨を書いて送ってください。 *先着90名ですので、ご希望の方はお早めにお申し込みください。 *申込者の皆様のメールアドレスは、本公演に関する事務連絡およびご案内目的のみに利用いたします。本目的以外の用途での利用は一切いたしません。

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2016年6月5日日曜日

ジェロニモス修道院の碑文[ペソア3]

 六日目、リスボンの街を歩く一日が始まる。
 朝、ツアーのバスでジェロニモス修道院へ。エンリケ航海王子やヴァスコ・ダ・ガマの偉業を讃えるために、16世紀初頭に着工。300年以上の期間をかけて19世紀に完成した。世界遺産の一つで観光客 が多い。



 修道院内部の部屋を見た後、回廊を回る。きめ細かやかな彫刻、天井の装飾が美しい。中庭から差し込む光がおだやかで、内部のベージュの色合いが目にやさしい。歩くとすぐに、フェルナンド・ペソアの棺の置かれた場所にたどりついた。現代的で簡素なデザインの碑が周囲の装飾的な様式と意外に溶けこんでいる。

 1935年、ペソアはプラセレス墓地に埋葬された(ここは彼の晩年の居住地、現在のペソア博物館からそう遠くないところにある)。その後、ポルトガルの国民的な詩人としての名声が高まり、没後半世紀を経て、1985年、ジェロニモス修道院の回廊内に移された。観光の地となっているが、ここは静謐な感じがある。


 生前はほとんど無「名」だった存在。「名」が無く、それゆえ、それにもかかわらず、多くの異名という「名」を持ったペソア。今日、彼が名のある有「名」な存在として、大航海時代のポルトガルの栄光を世に知らせる場に眠っているのというのも、不思議な運命である。

 碑にはペソアの異名、リカルド・レイス(Ricardo Reis)の詩が刻まれていた。


 帰国後、画像から「Arquivo Pessoa」で調べると、『Para ser grande, sê inteiro: nada 』という詩のようだ。

Para ser grande, sê inteiro: nada
Teu exagera ou exclui.
Sê todo em cada coisa. Põe quanto és
No mínimo que fazes.
Assim em cada lago a lua toda
Brilha, porque alta vive.
  14-2-1933  Odes de Ricardo Reis

 翻訳は、『ポルトガルの海 増補版』(池上岑夫編訳、彩流社、1997年)と『ペソア詩集 (海外詩文庫16)』(澤田直編訳、思潮社、2008年)にあった。
 二つの翻訳を紹介したい。

 偉大であるためには お前そのものでなければならぬ
 お前のなにであれ 誇張するな 排除するな
 なにごとでもお前自身であれ どれほど些細なことも
 お前のすべてを注いでなせ
 いずこの湖にも月は輝いてその姿をあますところなく映す
 高きに生きているからだ
      ( 池上岑夫 訳 )

 偉大であるためには 自分自身でなければならない
 いかなるものも 誇張も排除もしないこと
 ひとつひとつのことに すべてであれ
 どんな些細な行為のうちにも 自分のすべてを投入せよ
 そうすれば あらゆる湖に月が輝く
 月は天の高きところにあるのだから
      ( 澤田直 訳 )

 ポルトガル語は全く知らない。音の響きや抑揚も分からない。翻訳で読んで、詩の意味はおおよそ伝わるが、理解できているのかと自問すればためらう。詩の主体を指す人称が池上訳は「お前」、澤田訳は「自分」と違うので、印象がかなり異なる。詩的表現としてはどちらも成立するのだろうが。

  ポルトガルのポルトガル語とブラジルのポルトガル語には大きな違いのあることを最近知ったほど疎いのだが、ペソアの詩に近づくために、ポルトガル語の基本を学びたくなった。

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