2026年2月21日土曜日

シーク・アンド・ファインド(seek and find)の構造-『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』舞台と小説4

 今回は原作小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の成立とその構造について考えてみたい。

 1980、村上春樹は『文學界』に中編小説『街と、その不確かな壁』(中編『街』とも略記)を発表した。1985年、中編『街』を基にした「世界の終り」パートに「ハードボイルド・ワンダーランド」パートを新たに加えて『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(長編『世界』とも略記)を刊行した。さらに2023年、中編『街』をを原形とする第一章に第二章と第三章を書き加えて長編小説『街とその不確かな壁』(長編『街』とも略記)を出版した。

 村上は『街とその不確かな壁』のあとがきで『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』について次のように振り返っている。

「街と、その不確かな壁」を大幅に書き直そうと思った。しかしそのストーリーだけで長編小説に持って行くにはいささか無理があったので、もうひとつまったく色合いの違うストーリーを加えて、「二本立て」の物語にしようと思いついた。二つのストーリーを、並行して交互に進行させていく。そしてその二つが最後にひとつに合体する――というのが僕の計画というか、おおざっぱな心づもりだった。

 しかし、村上はその二つを合体する見当がつかないままに書き進めていったが、最後近くになって、二つの話がうまくひとつに結びついてくれたと述べている。しかし、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の刊行では終わらなかった。村上はこう語る。

 しかし歳月が経過し、作家としての経験を積み、齢を重ねるにつれ、それだけで「街と、その不確かな壁」という未完成な作品に――あるいは作品の未熟性に――しかるべき決着がつけられたとは思えなくなつてきた。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』はそのひとつの対応ではあつたが、それとは異なる形の対応があってもいいのではないか、と考えるようになつた。「上書きする」というのではなく、あくまで併立し、できることなら補完しあうものとして。でもその「もうひとつの対応」がどのような形を取り得るのか、なかなかそのヴイジョンを見定めることができなかつた。

 その後、2020年の初めに中編『街』をもう一度書き直せるかもしれないと感じ、コロナ禍のなかで三年間かけて完成させ、2023年に長編『街』を刊行した。このようにして、中編『街』から、そのひとつの対応としての長編『世界』、もうひとつの対応としての長編『街』という三つの小説が誕生した。この三作品の核にあるストーリーを《街とその不確かな壁》物語と名づけてみたい。

 1985年の長編『世界』、2023年の長編『街』(「世界」パート)の二つの小説は、1980年の中編『街』を原形とするものだが、時間軸に沿った連続的な発展ではなく、〈併立〉と〈補完〉の関係にある。中編『街』という《街とその不確かな壁》物語の原形の小説から、固有性を持ちながら互いに補完し合う二つの小説が生まれたと考えてよい。

 村上はこの「あとがき」の最後で、40年ほどかけて創作していった《街とその不確かな壁》物語について〈真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか〉と述べている。物語の内容についての発言だが、中編『街』、長編『世界』、長編『街』という三つの小説自体も、《街とその不確かな壁》物語の〈不断の移行=移動する相〉にあるのだろう。


 村上春樹は「シーク・アンド・ファインド(seek and find)」が自らの物語の基本構造であることを明かしている。他者(多くの場合は女性)を探し求め(seek)、見つけ出す(find)」というレイモンド・チャンドラーの探偵小説の影響を受けた枠組である。男性が主人公の場合、その他者はほとんどが女性である。男性は女性を探し出そうとするが女性はすでに失われている、あるいはかろうじて女性を探して見つけるがその女性はすぐに失われてしまう。探索・発見・喪失という構造である。

 《街とその不確かな壁》物語を総合すると、遭遇(発見)・喪失・探索・再遭遇(発見)・喪失あるいは共生というさらに複雑な複雑を持つ。中編『街』は遭遇(発見)・喪失・探索と再遭遇(発見)・喪失という「シーク・アンド・ファインド(seek and find)」を反復する構造であるが、長編『街』は遭遇(発見)・喪失・探索と再遭遇(発見)・共生を経て最終的に喪失という「シーク・アンド・ファインド(seek and find)」を二重に反復する構造である。この二つに対して、長編『世界』の「世界」パートは再遭遇(発見)から始まり、過去の記憶にある遭遇(発見)・喪失と探索に遡行した上で、共生に至るという時間的に錯綜させて多層化した構造を持つ。この複雑に多層化した構造の小説を脚本化、舞台化することはかなりの困難を伴っただろう。というのか、ほとんど不可能とも言えるような作業であっただろう。さその困難や不可能に直面しながら、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の制作チームがこの舞台を完成させたことは充分に評価できる。


 この連載記事の第一回目の末尾で、三つの作品の結末部がどうなるのか、という問いかけをした。主体の〈僕〉と他者の〈君〉はどうなるのか、〈僕〉は分身の〈影〉と一緒に現実世界へ戻るのか、それとも〈君〉と一緒に〈街〉の世界で暮らしていくのか、それとも〈影〉とはいったん離れてから単独で現実世界に回帰するのか。その選択によって《街とその不確かな壁》物語は変化していくのだが、この結末部について簡潔にまとめておきたい。

 中編『街』では、主体〈僕〉は他者である〈君〉現実世界の少女・〈街〉の司書の女性の喪失を選び、彼女と別れて自らの〈影〉と一緒に現実世界へと帰る。長編『世界』では、主体〈僕〉は他者の〈君〉との共生を決意し、〈街〉の司書の女性と共に生きて彼女の〈心〉を取り戻そうとする。長編『街』では、主体〈僕〉は他者〈君〉との共生を選んで〈街〉に残り〈影〉だけ現実へ帰るが、最終的には〈君〉と別れて現実世界に帰還する。結果として〈君〉との共生と喪失の二つを経験する。

 〈僕〉と〈影〉とは互いに分身の関係である。この関係に焦点を当ててもう一度整理すると、中編『街』では〈僕〉と〈影〉は一緒に現実へ帰還し、長編『世界』では〈僕〉は〈街〉に残り〈影〉だけが現実へ帰り、長編『街』では一度目は〈影〉だけが現実へ帰り〈僕〉は〈街〉に残るが二度目は〈僕〉が単独で現実へと帰還することになる。


 村上の言葉に依拠するなら、《街とその不確かな壁》物語の構造や枠組もまた〈不断の移行=移動する相〉のプロセスにあると言えるだろう。

        (この項続く)


2026年2月18日水曜日

〈ある地点〉高橋亜子氏の脚本-『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』舞台と小説3

 原作の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、単行本で618頁の分量の長編小説である。この舞台を見るにあったてまず関心があったのは、この長編小説をどのように脚本化していくのか、ということだった。「世界の終わり」パート(以下、「世界」パートと略記)と「ハードボイルド・ワンダーランド」パート(以下、「ワンダー」パートと略記)という二つが独立して交互に進行していく展開をどう構成するのか。この長編小説のたくさんの重要なシーンからどの箇所を選んでいくのか。舞台の演出以前の脚本の段階に興味があった。

 結論から言えば、高橋亜子氏の脚本はこのかなり長い小説を2時間50分ほどの舞台に的確に集約させた。(もちろん、いろいろな脚本の可能性はあるだろうが)。 高橋氏はパンフレットの中で次のように述べている。


 原作では「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」、それぞれの世界が交互に描かれます。脚本化にあたって核となるのは、このパラレルワールドをどう組み立てていくかです。膨大な原作の描写の中から私が抽出したのは"私と"僕”の心が、目の前で起きる出来事と呼応する場面です。”僕”は影と切り離され、次第に自分らしく感じることができなくなっていく。一方"私"は原作の猫写によると、ある地点から人生をねじまげるように生きており、心を閉ざした孤独な生活をしている。そんな二人の心が揺れる瞬間、それを辿っていけば、やがて物語の核心にたどり着けるはず。そう思いながらブロットを組み立てて行きました。


 この舞台では、〈僕〉と〈私〉の〈二人の心が揺れる瞬間〉を辿ることで物語の核心にたどり着くという方針が貫かれていた。

 舞台は「世界」パートから始まった。冒頭で金色に輝く〈一角獣〉が登場して、奇妙な動きを続けていたことがまず目を引いた。いくぶんか不気味であるが、照明の光と音楽の流れのもとで〈一角獣〉の動作やダンスの効果によって不思議な美しさと仄かなエロティシズムが醸し出されていた。さらに、〈門番〉が登場して、〈僕〉(駒木根葵汰/島村龍乃介、私が観劇した回は島村だった)からその〈影〉(宮尾俊太郎)を切り落とす。〈僕〉の〈心〉が文字通り揺さぶられて、本体と影に分裂する。

 そのシーンがYouTubeの〈舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 ゲネプロ〉の冒頭にある。



 その後、〈僕〉は図書館で少女(森田望智)に出会うことになる。小説の「世界」パートではこの時、〈僕〉は次のように感じる。

僕は長いあいだ言葉もなくじっと彼女の顔を見つめていた。彼女の顔は僕に何かを思いださせようとしているように感じられた。彼女の何かが僕の意識の底に沈んでしまったやわらかなおりのようなものを静かに揺さぶっているのだ。しかし僕にはそれがいったい何を意味するのかはわからなかったし、言葉は遠い闇の中に葬られていた。

 つまり、〈僕〉の意識の底に沈んでいるもの、無意識の世界にあるものが、〈彼女の何か〉によって静かに揺さぶられている。脚本はこのような揺れる瞬間を場面として切り取っていく。もちろん、舞台という性質上、詳細に示されることはないのだが。


 冒頭場面の後で「ワンダー」パートが始まる。〈私〉(藤原竜也)は、「シャフリング」を開発した博士の孫娘、ピンク色の服を着た女性(富田望生)によって地下にある博士の研究所に連れて行かれる。その後〈私〉は図書館で司書の女性(森田望智、一人二役)に出会うことになる。このように、小説の中の重要なシーンが的確に脚本化されて、舞台で演出されていた。


 先ほどの引用で高橋氏は、原作の「世界」パートの〈僕〉は〈影と切り離され、次第に自分らしく感じることができなくなっていく〉、「ワンダー」パートの〈私〉は〈ある地点〉から〈心を閉ざした孤独な生活をしている〉と延べている。この〈ある地点〉での出来事が重要なのだが、原作でも舞台でも、当初はそれが明示されることはない。「ワンダー」パートでは最後まで全く語られることがなく、「世界」パートでは次第におぼろげに示されるだけである。

 この点について、原作小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の言葉を使って説明したい。

 「世界」パートの最初の章「金色の獣」には〈僕が最初にこの街にやって来た頃〉という記述だけがある。〈僕〉は〈街〉でしばらく過ごした後で、門番の〈ここは世界の終わりなんだ〉という言葉を受けて、次のように考える。

 世界の終わり。
 しかしどうして僕が古い世界を捨ててこの世界の終りにやってこなくてはならなかったのか、僕にはその経緯や意味や目的をどうしても思いだすことはできなかった。何かが、何かの力が、僕をこの世界に送りこんでしまったのだ。何かしら理不尽で強い力だ。そのために僕は影と記憶を失い、そして今心を失おうとしているのだ。

 つまり、〈僕〉が何のためにどのようにして〈街〉にやってきたかという理由や経緯は不明である。〈僕〉にとっての〈君〉という存在の意味も明示されない。そのような設定があり、〈僕〉は〈僕〉と図書館の女性〈君〉がかつての記憶、そして〈心〉を取り戻そうとする過程が「世界」パートの中心的なモチーフとなる。小説「世界」パートの16章の「冬の到来」でやっと、図書館司書の〈君〉が四歳と一七歳の時の出来事の記憶ををかすかに思い出すことになる。

 これに対して中編小説『街と、その不確かな壁』(以下中編『街』と略記)では、この〈ある地点〉は、〈僕〉が〈十八歳の夏〉の時に〈川縁の草の上〉で〈君〉が〈本当の私が生きているのは、その壁に囲まれた街の中〉と言う地点に該当する。なお、長編小説『街とその不確かな壁』(以下長編『街』と略記)では〈十七歳〉であり、人称代名詞も〈ぼく〉と〈きみ〉という表記に変わっている。

 中編『街』の〈僕〉はおそらくまだ若者であるころに〈君に会いたかった〉せいで〈壁〉に囲まれた〈街〉に行く。長編『街』では一八歳の少年〈ぼく〉は書籍取次会社に務める中年男の〈私〉になり、四五歳になってまもなく〈穴〉に落ちて〈壁〉に囲まれた〈街〉に入る。〈私〉は〈きみ〉に再開する。失われた〈きみ〉に再開するために、〈私〉が〈壁〉に囲まれた〈街〉に入り込むというのが基本的な設定である。

 つまり、中編『街』と長編『街』では初めから、〈私・僕・ぼく〉は、〈君・きみ〉を失った出来事を覚えていて〈君〉と再開するために意識的無意識的に〈街〉を訪れようとするのだが、「世界」パートの〈僕〉はその記憶を失ったままなぜか〈街〉に入り込んでしまい、次第に記憶をたぐり寄せていく。記憶に対する関わり方が大きな違いとなっている。

    (この項続く)


2026年2月1日日曜日

〈夢読み〉―『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』舞台と小説2

 今日2月1日、舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の東京公演は終わってしまうが、この後、仙台市、名古屋市、西宮市、北九州市でも開催される。座席の種類によってはチケットがまだ取れる公演もあるようだ。

 YouTubeにこの舞台のプロモーション映像があるので紹介したい。


 舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』プロモーション映像 ロングver.



 今回もまた、1980年の『街と、その不確かな壁』、1985年の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、2023年の『街と、その不確かな壁』の三つの作品に共通する《街とその不確かな壁》の物語について述べたい。


 この物語を支える中心的なモチーフは〈夢読み〉だと言えるだろう。 〈壁〉に囲まれた〈街〉の〈図書館〉のなかで〈僕〉は〈古い夢〉を読む仕事に就く。 『街と、その不確かな壁』から引用しよう。

 僕は用意された布切れで古い夢につもったぶ厚い埃を拭ってからその表面に手を置き、目を閉じる。五分ばかりで古い夢は目覚め、僕の手は心地良い温もりを感じはじめる。そして彼らはその古い夢を語る。しかし彼らの話る声はあまりに低く、僕にはそれを殆んど聞きとるとともできない。
 彼らは明らかに語ることには慣れていないようだった。まるで長いあいだ見捨てられていた老人のように突然の日差しにとまどい、そして口ごもった。彼らの目覚めは不確かであり、その放つ光は弱く、そして僅かばかりの時が過ぎると再び深い限りの中に落ちこんでいくのだった。


 〈僕〉が〈夢読み〉であることは、三つの作品で共通しているが、その夢が包まれている器は異なる。

  『街と、その不確かな壁』では、〈図書館の書庫には埃をかぶった何千という古い夢〉の〈大きさはテニス・ボールほどのものからサッカー・ボールまで、色あいも多種多様〉で〈形は殆んとが卵型で、手にとってじっくり眺めてみると下半分が上半分に比べて僅かにふくらんで〉いて〈大理石のようにつるりとした手触り〉である。

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、〈古い夢〉は〈一角獣の頭骨〉の中に〈しみこんで閉じこめられている〉。〈頭骨を正面に向け、両手の指をこめかみのあたりにそっと置〉き、〈骨の額をじっと見る〉と〈頭骨が光と熱を発しはじめる〉ので、〈その光を指先で静かにさぐっていけば〉〈古い夢を読みとることができる〉とされる。

 『街とその不確かな壁』では、〈書庫の棚には数え切れないほど多くの古い夢が並んでいる〉とされ、その形態についての具体的な描写はない。書棚の棚に並んでいるということから、書物のような形をしているのかもしれない。

 つまり〈古い夢〉は、ボールほどの大きさで色あいも多種多様な卵型の形、一角獣の頭骨、書籍のような形、というように作品ごとに異なる。今回の舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、一角獣の頭骨が演出上で重要なオブジェとなっていた。明るく輝く一角獣の頭骨やそれを持ってダンスする演出が目を引いた。


 〈夢読み〉とはどういう行為なのか。2023年の『街とその不確かな壁』ではこう語られている。

 ひとつの夢を読み終えると、しばしの休息をとらなくてはならない。机に肘をついて両手で顔を覆い、その暗闇の中で眼を休めて疲労の回復を待つ。彼らの語る言葉は相変わらずよく聴き取れなかったが、それが何らかのメッセージであることはおおよそ推測できた。そう、彼らは何かを伝えようとしているのだ――、私に、あるいは誰かに。でもそこで語られるのは私には聴き取ることのできない話法であり、耳慣れない言語だった。それでもひとつひとつの夢は、それぞれの歓びや悲しみや怒りを内包しつつ、どこかに吸い込まれていくようだった――私の身体をそのまま通り抜けて。


 〈夢〉は〈何らかのメッセージ〉であるが、〈聴き取ることのできない話法〉によって〈耳慣れない言語〉で語っている。夢独自の話法と言語によるメッセージというロジックは、ジークムント・フロイトの『夢解釈』を想起させる。フロイトによれば、夢は無意識の夢思考のメッセージである。私たちの潜在的夢思考から私たちが実際に見る顕在的夢内容が作られる。

 われわれの目には、夢思考と夢内容とは、同じ一つの内容を違う二つの言語で言い表しているように見える。あるいは次のように言ったほうがよいかもしれない。すなわち、夢内容とは、夢思考を違う表現様式の中へと転移させたもののように思われる。われわれとしては、これらの原本と翻訳とを比べ合わせて、書き換えにあたっての記号法と統語法とを学ばなければならないのである。 (フロイト『夢解釈』第6章夢工作)


 夢独自の話法と言語によって夢思考を夢内容に変換するのが夢工作の過程である。夢解釈はその逆をたどる。夢内容を分析し、その話法と言語を明らかにして、夢思考を構築する。フロイトの実践を読むと、夢解釈は複雑で難しく、忍耐と根気のいる仕事であることがよく分かる。

 《街とその不確かな壁》物語の〈夢読み〉である〈僕〉もまたその困難と向き合い、ひとつひとつの夢の〈歓びや悲しみや怒り〉を受けとめようとして、夢を読みとっていく。

      (この項続く)