はじめに、[3b-4c]と[6b-7c]の部分をもう一度引用する。
3b 木の葉揺らす風 その音を聞いてる
眠りの森へと 迷い込むまで
4c 耳を澄ましてみれば 流れ出すセレナーデ
僕もそれに答えて 口笛を吹くよ
6b 鈴みたいに鳴いてる その歌を聞いてる
眠りの森へと 迷い込みそう
7c 耳を澄ましてみれば 流れ出すセレナーデ
僕もそれに答えて 口笛吹く
3b「迷い込むまで」から6b「迷い込みそう」へ、4c「口笛を吹くよ」から7c「口笛吹く」へと表現を変化させて、作者の志村正彦は、歌の主体「僕」が「眠りの森」へと迷い込むまでの時間や意識の変化を描いた。
つぎに、[3b-4c]と[6b-7c]以外の部分、1a・2a・5aを[1a-2a-5a]という括りにして引いてみよう。
1a 眠くなんかないのに 今日という日がまた
終わろうとしている さようなら
2a よそいきの服着て それもいつか捨てるよ
いたずらになんだか 過ぎてゆく
5a 明日は君にとって 幸せでありますように
そしてそれを僕に 分けてくれ
[1a-2a-5a]には、1a「今日という日」の終わり、2a「いたずらになんだか過ぎていく」時、5a「明日」への祈り、というように、今日から明日へと流れていく時の層に、歌の主体「僕」の日々の想いが重ねられていく。
二つに分けた[1a-2a-5a]と[3b-4c][6b-7c]とは、言葉もメロディも別の系列に属している。
[3b-4c][6b-7c]の部分は、「眠りの森」「セレナーデ」「口笛」のモチーフから成る。歌の主体「僕」は「流れ出すセレナーデ」に答えて「口笛吹く」。ここからは想像だが、セレナーデに誘われるようにして、「僕」は眠りについたのではないだろうか。「僕」は夢の中でそのまま「セレナーデ」を聞いている。木の葉の音、風の音は夢の中の音へと変わっていく。この曲は冒頭から、虫の音、小川のせせらぎ、自然の音がずっと鳴り続けている。自然の奏でる音と楽曲の音とが混然一体となっていく。それらの音のすべてが眠りに誘い込むように。
言葉では語られていない部分をさらに想像で補ってみる。
「僕」の夢の中で、「僕」は「君」に会いに行く。「僕」と「君」との逢瀬がどのようなものであったか。すべては夢の中の出来事。起きたことも起こりつつあることもこれから起きることも夢から覚めた後には消えてしまう。
夜明けが近づく。「僕」の夢が終わろうとしている。「セレナーデ」も終わろうとしている。夢からの覚醒の直前か、あるいは覚醒の瞬間か、「僕」は「君」に最後の言葉を告げようとする。
8c そろそろ 行かなきゃな お別れのセレナーデ
消えても 元通りになるだけなんだよ
「お別れのセレナーデ」が響く。「僕」はどこに行くのだろう。夢の中の出来事であれば「消えても 元通りになる」。「僕」は「君」にそう言い聞かせる。夢の中の世界は消えても、元の世界はそのまま在り続ける。そのようなあたりまえの事実が残るのか。
そのように解釈しても、理屈で捉えてみても、あたりまえすぎるこの最後のフレーズが作用する、あたりまえではない力を受け止めることはできない。「そろそろ 行かなきゃな お別れのセレナーデ/消えても 元通りになるだけなんだよ」は、このフレーズを聞き終わった後も、どこかでこだまし続ける。まるで現実と夢との狭間にこびりついて、意識と無意識との合間のような場所に固着して。
そうこうしているうちに、「お別れのセレナーデ」は虫の音の高低や小川のせせらぎの重なる自然の音の群れに溶け込んでいく。聴き手もまた「眠りの森」へと迷い込んでいく。『セレナーデ』が言葉のある世界から言葉のない世界へと連れていく、かのように。
(この項続く)
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