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2013年3月24日日曜日

《作者》《話者》《人物》としての「僕」 (「志村正彦LN 7」)

  「志村正彦ライナーノーツ」のLN4から6にかけて、志村正彦の歌についての予備的考察や方法論の説明を重ねてきた。理屈が先行しているようで心苦しいのだが、この試みの最後に歌の語りの問題に言及したい。LN2ですでに次のように書いた。

 「若者のすべて」の語りの枠組みは複雑であるが、「街」を「そっと歩き出して」歩行する「僕」の視点から語られている、とひとまずは言えるだろう。歩行しながら、いくつかのモチーフが語られる

 「語りの枠組み」と書いてあるが、この言葉はあまりなじみがないかもしれない。いわゆるストーリーの「5W1H」、「When(いつ) Where(どこで)Who(誰が) What(何を) Why(なぜ)したのか」という、物語の形式面に留意した捉え方と考えてもらえればよい。また、「街」を「そっと歩き出して」歩行する「僕」の視点、と述べているが、この「僕」は、「若者のすべて」で展開していく物語の「語り手」でもあり、語られる物語の世界の「作中人物」「主人公」「主体」でもあるという特性を持っている。「僕」という言葉には、物語を語る「僕」と物語で語られる「僕」の二重性がある。

 これから私が進めていく論では、語る「僕」のことを《話者》としての「僕」、語られる「僕」つまり作中人物としての「僕」のことを《人物》としの「僕」、時には《主体》としての「僕」と呼ぶことにしたい。さらに付け加えると、《話者》としての「僕」、《人物》としの「僕」の背後に、この歌を創造した《作者》としての「僕」つまり志村正彦という現実の作者、歌い手が存在している。

 《作者》志村正彦が物語性のある歌を創作する際には、《話者》としての「僕」やどのように物語を語っていくか、物語の枠組みをどう設定するかを考えるであろう。その行為を通じて、その《話者》によって語られる《人物》としての「僕」の輪郭が見えてくる。「僕」とはいったいどのような存在であるのか。《話者》「僕」による「僕」に対する問いかけが始まり、《人物》としての「僕」、歌の世界の《主体》としての「僕」が登場してくる。

 このような方法、《作者》、《話者》、《人物》としての「僕」という三つの区分を設けることで、志村正彦の歌の解明が少しでも進むのではないかと私は考えている。しかしこの区分は、作品ごとに具体的に設定されなければならないし、論者によって区分が異なることもあるので、あくまで方法的なものだということを断っておきたい。方法が重要なのではない。どのような方法であっても、結果として、言葉が志村正彦の歌の深い部分までたどりついているかどうかが本質的なことだということは言うまでもない。

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