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2024年8月31日土曜日

〈還らぬと知っているからこそ祈る〉[志村正彦LN352]

 今日は8月31日。台風のために雨が降り続いている。ときに激しい雨や雷雨になる。酷暑が続いたが、気温は低くなってきた。ようやく、真夏のピーグが去っていくのだろう。この夏を振り返りたくなった。近いところから遡っていきたい。

 昨夜、8月30日、たまたまテレビのチャンネルをつけると、志村正彦・フジファブリックの「若者のすべて」が流れていた。テレビ朝日「ミュージックステーション」の「国民的夏の終わりラブソングtop10」という特集でこの歌が第六位に選ばれていた。夏の終わりになるとテレビやラジオからこの歌が聞こえてくる。気がつかないだけで、いろいろな夏の場面で「若者のすべて」が使われているのだろう。


 8月18日、アラン・ドロンが亡くなった。僕の世代だと洋画の美男俳優はアラン・ドロン一択だった。彼の出演作ではルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』(1960年、イタリア)が最も印象深い。貧しい南部からミラノやってきた母と五人兄弟の一家の物語。アラン・ドロンが演じる三男のロッコは、都会の生活には合わず、故郷に帰りたいと思っている。家族を深く愛しているが、そのためにと言うべきだろうか、残酷な悲劇が起きる。アラン・ドロンの美しい眼差しがギリシャ悲劇のような純度をこの映画に与えている。三時間近い作品だが、必見の映画だ。

 イタリア語の原題は『ROCCO E I SUOI FRATELLI』。直訳では『ロッコと彼の兄弟』だが、『若者のすべて』という邦題が付けられた。原題とはかなりの隔たりがある邦題になった理由や経緯は不明だが、五人の兄弟、五人の若者たちの様々な人生の光と影を描いたという意味で、〈若者のすべて〉という題が付けられたのかもしれない。 

 『若者のすべて』の映像作品というと、1994年のフジテレビ制作のテレビドラマが有名だが、ヴィスコンティ監督『若者のすべて』の方が本家である。志村正彦が映画『若者のすべて』、ドラマ『若者のすべて』を実際に見ているのか分からない。今ではもう〈若者のすべて〉という言葉は作品名を超えて普通の名詞のようにも使われている。


 最後はやはり、8月4日のフジファブリック20周年記念ライブ「THE BEST MOMENT」。

  『モノノケハカランダ』『陽炎』『バウムクーヘン』『若者のすべて』は志村正彦の歌と映像、『茜色の夕日』は志村の歌とステージの生演奏を合わせた演出が記憶に強く刻まれている。

 そのスクリーンとステージのことを思いだしても、その時の感情を言葉ではなかなか表現できなかった。今日、この文章を書いているうちに、学生時代に読んだ小林秀雄の『本居宣長』の最終章の言葉が浮かんできた。小林はこう書いている。


 万葉歌人が歌ったように「神社(もり)に神酒(みわ)すゑ、禱祈(いのれ)ども」、死者は還らぬ。だが、還らぬと知っているからこそ祈るのだ、と歌人が言っているのも忘れまい。神に祈るのと、神の姿を創り出すのとは、彼には、全く同じ事(ワザ)なのであった。死者は去るのではない。還って来ないのだ。と言うのは、死者は、生者に烈しい悲しみを遺さなければ、この世を去る事が出来ない、という意味だ。それは、死という言葉と一緒に生れて来たと言ってもよいほど、この上なく尋常な死の意味である。


 生前の志村正彦をまったく知らない僕は、この〈烈しい悲しみ〉を抱く身ではない、と言える。そのような間柄があるわけではない。しかし、ここで書かれた〈死者は去るのではない。還って来ないのだ〉という言葉は、僕のような身にも強く響いてくる。

 あの日、志村の映像の姿を見て、志村の音源の声を聴いて、身に迫ってきたのはおそらく、彼は永遠に還って来ない、ということだと、今は振り返ることができる。


 春は〈桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい?〉(「桜の季節」)、夏になると〈真夏のピークが去った/天気予報士がテレビで言ってた〉(「若者のすべて」)、そして秋は〈もしも 過ぎ去りしあなたに/全て 伝えられるのならば〉(「赤黄色の金木犀」)と歌われる。

 春、夏、秋と、過ぎていく時間、去っていく季節、過ぎ去った人、というように、志村正彦は、過ぎ去る、過ぎ去ってしまった、何か、誰かへの想いを繰り返し歌ってきた。それはまた、そのすべてが還って来ない、ということでもある。そして、小林秀雄が言うように、〈還らぬと知っているからこそ祈る〉のであるだろう。


2024年8月11日日曜日

Xの呟きから 「THE BEST MOMENT」ライブ[志村正彦LN351]

  フジファブリック20周年記念ライブ「THE BEST MOMENT」から一週間が過ぎた。あの夜、なかなか眠れないなかでXの呟きを読んだ。4日と5日の呟きのなかで心を動かされたものについて触れてみたい。


 はじめは、メジャーファーストアルバムのプロデューサー片寄明人氏@akitokatayose。


Aug 5 ひっそり参加するつもりでしたが、金澤くんのMCでまさかの紹介をして頂いたので…1stアルバムのプロデュース以来、20年ぶりにお手伝いをさせて頂きました。2024年のフジファブリックのステージに志村正彦を呼んで共に祝おうと、志村家、メンバー、スタッフ、みんなで考えた選曲、演出、映像でした。

Aug 5 志村くんの歌とギターは、EMI期ディレクター今村くんに相談し、志村くんが当時OKを出したマスターを借り、エンジニアの上條雄次と2人でMIX用に施されたエフェクトや調整を外し、歌った瞬間、弾いた瞬間を封じ込めた生々しい処理に仕上げました。そこに今のフジの演奏が重なった時、それは魔法でした。


 志村は片寄氏を音楽的にも人物的にもとても慕っていた。その片寄氏が演出に加わったことが「THE BEST MOMENT」の成功につながった。彼の呟きから、志村正彦をステージに呼んで共に祝うという意図があったこと、志村家、メンバー、スタッフ、そして、片寄明人氏、今村圭介氏、上條雄次氏(山梨県出身のレコーディングエンジニア。志村日記にも登場する)が協力したことが分かる。

 具体的な作業としては、録音マスターテープからMIX用のたエフェクトや調整を外して音源を作成した。確かに、8月4日の志村正彦の声にはある種の生々しさがあった。まさにその場で生で歌っているような臨場感と言ってもよい。山内総一郎・金澤ダイスケ・加藤慎一と二人のサポーターメンバーの演奏との重ね合わせもかなりリハーサルが必要だっただろう。さらに、編集された映像とのタイミングの調整もある。丁寧に時間をかけて演出されたステージは確かに魔法をかけられたようだった。魔法ではあるのだが、極めてリアルな魔法、現実のような魔法であった。

 今村圭介氏 @KeisukeImamura の呟きも記しておきたい。

Aug 4 フジファブリックのデビュー20周年記念スペシャルライブへ。感情が溢れすぎて止まらなかった。終演後、同じくライブに来てたエンジニアの川面さんとKJと合流して色々語り合ったら少し元気になりました笑   またいつか! 

  KJとは上條雄次氏のことだと思われる。今村氏は志村在籍EMI時代の4枚のアルバムの制作を担当し、志村を支えた方なので、いろいろな感情が溢れてきたのだろう。


 音楽関係者が多いなかで、映画監督の塚本晋也氏のX@tsukamoto_shiny  が目にとまった。

Aug 4 ふとした機会を得、フジファブリック20年記念ライブに。『悪夢探偵』で蒼い鳥を作ってもらった。映像の志村正彦と生のバンドがうまくミックスされ、そこに志村がいるようだった。画面の下を見るとメンバーは激しく動いているが、マイクの前は無人。あの頃から若い人が亡くなることへの恐れが強くなった


 塚本晋也監督は志村正彦の音楽を深く理解していた。『悪夢探偵』のエンディングテーマ曲『蒼い鳥』の制作を依頼した。二人は『QRANK』という雑誌で対談しているが、音楽と映画、その関係について考える上で非常に貴重なものである。(後日、この対談について書いてみたい)

 塚本監督の代表作『鉄男』はリアルタイムで見ている。とにかく衝撃だった。それ以来ほとんどの作品を見てきた。映画監督として異能を発揮してきたが、俳優としても独自の存在感を持つ。


 ライブの翌日、新宿のシネマカリテでピエール・フォルデス監督のアニメ映画『めくらやなぎと眠る女』日本語版を見てから甲府に帰った。

 この作品は、村上春樹の六つの短編「かえるくん、東京を救う」「バースデイ・ガール」「かいつぶり」「ねじまき鳥と火曜日の女たち」「UFOが釧路に降りる」「めくらやなぎと、眠る女」を自由に組み合わせて作られた。今年度は前期のゼミナールで、「UFOが釧路に降りる」「かえるくん、東京を救う」を含む連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』を学生と一緒に読んできたこともあって、ぜひ見てみたい作品だった。

 中心人物は「UFOが釧路に降りる」の小村だが、それに続く重要人物が「かえるくん、東京を救う」の片桐だ。片桐はある信用金庫新宿支店の係長補佐を勤める中年男性。原作では〈私はとても平凡な人間です。いや、平凡以下です〉と述べているが、かえるくんが東京を地震から救うことに協力する重要な役割を持つ。私のゼミでも学生たちは、この片桐という存在をどう捉えるか、活発に議論していた。

 このアニメには字幕版と日本語版の二つのヴァージョンがあるが、日本語で吹き替えて制作された日本語版で、片桐の声優を担当したのが塚本晋也だった。その声と語りは片桐のイメージに重なるところが多かった。難しいキャラクターの微妙な心の陰影を塚本は的確に表現していた。声優としての才能も抜群であることが分かった。


 塚本監督のXを読み、特に〈あの頃から若い人が亡くなることへの恐れが強くなった〉という言葉に心を動かされた。その翌日、声優としての声を存分に聞くことができた。片桐がリアルな存在として迫ってくるような魔法の声だった。その偶然が心のなかに深く刻まれた。


2024年8月6日火曜日

〈フジファブリックという大切な場所〉20周年ライブ「THE BEST MOMENT」 [志村正彦LN350]

 一昨日8月4日、フジファブリック 20th anniversary SPECIAL LIVE at TOKYO GARDEN THEATER 2024「THE BEST MOMENT」を見てきた。熟考したいことがあるのだが、それは後日に譲ることにして、一昨日の余韻が残るうちに書いておきたいことを記す。

 東京での夜のライブの場合、いつもは日帰り。時間を気にしながらあわただしく甲府に帰るのだが、この日はゆっくりとライブを味わいたかった。会場隣のホテルを予約して午後3時にチェックイン、ひとやすみしてから開演間近に会場に向かった。壁面の大型画面に、山内総一郎・金澤ダイスケ・加藤慎一の画像が表示され、三人のやわらかい微笑みが来場者を迎え入れた。



 会場のキャパシティは八千人。チケットは売り切れたそうだ。年齢層が広い。親子連れもいる。二代にわたるファンなのだろう。僕と妻の年齢でもあまり疎外感はなかった。

 座席は、バルコニー3のHというステージに面してかなり右側に寄ったエリアにあった。かなり高い位置から斜め下のステージを見下ろす。傾斜がきつすぎるが、会場のほぼ全体がサイドの側から見渡せた。視野のなかに八千人の観客がいたのは壮観だった。ライブが始まると、記念のペンライトの光が輝いた。曲にあわせて色合が変化していく。


 2000年、志村正彦はフジファブリックを始めた。2004年のメジャーデビュー、2009年の志村逝去を経て、2024年の現在、八千人ほどの観客がこの場に集っている。7月3日発表の「大切なお知らせ」のなかで、志村を失った後、〈フジファブリックという大切な場所を音楽を作り続けながら守っていくという覚悟〉という言葉がある。山内・金澤・加藤の三人にとって、フジファブリックは大切な場であったと同様に、ファンにとっても大切な場であった。この日の東京ガーデンシアターという会場自体が大切な場として可視化されていた。

 山内・金澤・加藤の三人は、フジファブリックという大切な場を〈音楽を作り続けながら守っていく〉ことを選択した。ギター担当だった山内総一郎をメインボーカル、フロントマンに起用して音楽を作り続けた。バンドを解散し、新しいバンドを作り、周年や特別な機会にあわせて、ゲストボーカル方式で志村の作品を演奏していくという選択肢もあっただろう。しかし、彼らはフジファブリックとしての新作をリリースしていくかたちでフジファブリックを存続させようとした。


 僕自身は2019年の〈「15周年」への違和感〉という記事で、〈フジファブリックは2009年12月でその円環が閉じられた〉〈志村正彦のフジファブリックと2010年以降のプロジェクト・フジファブリックとの間には、作品そのものの根本的な差異がある〉と書いた。現在もこの考え方は基本的には変わらない。その時点では2010年以降のフジファブリックを「プロジェクト・フジファブリック」と名付け、その目的が〈志村正彦の作品を継承すること〉〈山内総一郎のフジファブリックを確立すること〉だと捉えていた。


 フジファブリックのバンドとしての継続が、『FAB BOX』のⅠ・Ⅱ・Ⅲなどの音源や映像のリリースや新しいファンの獲得につながり、結果として〈志村正彦の作品を継承すること〉に大きな役割を果たしたことは間違いない。このライブを通じて〈山内総一郎のフジファブリック〉のファンもかなりの数に上っていることが実感できた。〈山内総一郎のフジファブリックを確立すること〉というプロジェクトもある程度まで成功したのだろう。

 「プロジェクト・フジファブリック」のそのような展開のなかで、活動休止が告げられた。なぜこの時期なのか、という問いへの答えがこのライブで伝えられるかもしれないという期待はあった。この点に関しては、金澤ダイスケが、フジファブリックの活動に区切りをつけると言いきった。大型モニターには硬い表情をした金澤が映し出された。彼の脱退の意思が活動休止につながった。そのことに対する複雑な気持ちもあっただろう。しかし、彼は静かに毅然として区切るという意思を示したことが心に強く残った。金澤にとってこれからもフジファブリックは大切な場であり続けるのだろうが、〈音楽を作り続けながら守っていく〉場であることには区切りをつけたのだ。

 ここ十数年の間でも『若者のすべて』が示すように、志村正彦・フジファブリックの作品は広く浸透していった。『若者のすべて』は夏の定番ソングの一つとなり、数多くの歌い手からカバーされ、高校音楽の教科書に掲載されるようになった。最近では、映画『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』の劇中歌となり、映画の重要なモチーフを支えた。フジファブリックが独自で特異な世界を創造したことが、日本語ロックの歴史のなかで高く評価された。三人が〈音楽を作り続けながら守っていく〉必要は薄れていったと言える。このことが金澤の決断の理由の一つだと推測する。

 ライブ前の数日、三人体制後のアルバム、特に2016年から2024年までの『STAND!!』『F』『I Love You』『PORTRAIT』を繰り返し聴いた。〈山内総一郎のフジファブリック〉だけでなく、〈金澤ダイスケのフジファブリック〉〈加藤慎一のフジファブリック〉も存在し、各々が時を追うごとに進化していることに気づいた(この四枚のアルバムを断片的にしか聴いていなかったのは自分の不明だった)。〈山内総一郎のフジファブリック〉〈金澤ダイスケのフジファブリック〉〈加藤慎一のフジファブリック〉という言い方をしたのは、彼らの作品の根柢には志村正彦の歌詞と楽曲があるように感じられるからだ。ここでは具体的に指摘しないが、言葉やモチーフには意識的無意識的に志村の世界の痕跡があることは確かだろう。

 さらに踏み込めば、〈フジファブリック〉という枠組から離れても、三人の作品が作品として自立する可能性も出てきた。三人のソングライターとしての能力が上がってきた。逆説的だが、フジファブリックとしての〈音楽を作り続けながら守っていく〉ことはむしろ、彼ら自身の音楽を成長させた。活動休止後は、山内総一郎・金澤ダイスケ・加藤慎一は各々が自分の音楽を創造していけばよい。このことが活動休止の第二の理由となったのではないだろうか。


 金澤は、志村正彦に対する感謝とこのライブの企画に関わった志村家への感謝を語った。御家族は、志村正彦の尊厳と彼の作品を大切に大切に守ってきた。振り返ってみれば、2010年のフジフジ富士Qライブや周年ごとの記念ライブの会場で、このような感謝の言葉が観客に向けて率直に語られたことはなかった。この感謝の明確な表明は重要なことだったと考える。


 ライブの内容については後日書いてみたいが、『モノノケハカランダ』『陽炎』『バウムクーヘン』『若者のすべて』と、志村正彦の音源・映像とステージでの生演奏を複合させた演出。志村正彦の画像や映像をこのライブのテーマである「THE BEST MOMENT」の瞬間としてつなげていく演出は見事だった。画像ではあるが、彼の表情とその変化に魅了された。時には強い眼差しで、時には憂いを秘め、時には笑顔で見つめている。これまで公開されたことがない画像(記憶違いでなければ)もあった。


 『陽炎』の志村の声が聞こえてくると、涙腺がゆるんできた。この歌は、聴き手の感覚や記憶に直接作用する。そのまま、過去の時や場へと持って行かれる。〈きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう/きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう/またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ/出来事が 胸を締めつける〉のところで涙が落ちてきた。〈無くなったもの〉と〈変わらず過ごしている〉もの。この二つの対比はそのまま、志村正彦とこの場にいる者たちを表している。この日の『陽炎』は特にそのように迫ってきた。アウトロのラストが金澤ダイスケが実際に弾くピアノ音で終わったことにも心を動かされた。


 結成十周年の武道館ライブの際は、志村の歌う声に演奏を重ねるものであり、画像はなかった。この日のアンコールでの『茜色の夕日』も同様の演出だったが、冒頭で富士吉田市民会館での志村の〈この曲を歌うために僕はずっと頑張ってきたような気がします〉というMCが入った。『茜色の夕日』以外の四曲で志村の画像が大型モニターに映し出されたことはまったく予想していなかったので、この演出には驚いたが、それ以上に、この演出は最初でおそらく最後のものなのだろうとも思った。

 ほんとうにフジファブリックの活動は終わるのだ。しかし、音源や映像のなかの志村正彦・フジファブリックはこれからも生き続ける。言葉の真の意味において、志村正彦が創造した作品は永遠である。この会場にいる八千人の聴き手、この場には来られなかった数千、潜在的には数万に上る聴き手、そして未来の無数の聴き手にとって。


 演奏は2時間40分に及んだ。密度の濃いライブを集中して見て聴いたので、心も体も重いものを受けとめたように疲れきった。このところの酷暑や年齢のせいもあるだろう。終了後すぐに隣のホテルに戻れたのは幸いだった。だが、なかなか眠ることができないので、Xをリアルタイムで検索して様々な呟きを読んだ。

 フジファブリックとしての活動、音源のリリースやライブの開催という〈場〉は失われる。これからは、聴き手一人ひとりが自ら〈場〉となって、フジファブリックを聴き続ける。そんなことを思い浮かべながら、ようやく眠りにつくことができた。


2024年8月2日金曜日

虚構内の現実としての『若者のすべて』[志村正彦LN349]

 映画『余命一年の僕が、余命半年の君に出会った話。』で、志村正彦・フジファブリックの『若者のすべて』が流された後で、二人は8月20日の花火大会を病室で一緒に見る約束をする。しかし、秋人が映画館で倒れてしまう。その直後(というか時間的には同時の設定なのだろうが)春菜が『若者のすべて』を鼻歌で歌うショットに切り替わる。春菜は花火の日の晴天を願って作ったてるてる坊主を見つめながらこのメロディを鼻歌で歌うのだ。

 つまり、映画『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』という虚構内の現実で、『若者のすべて』という歌が存在していることになる。花火を秋人と一緒に見たい春菜にとって、この歌は特別な歌であったと想像される。そして、『若者のすべて』の作詞作曲者であり歌い手である志村正彦が、虚構の世界の中で存在していることになるだろう。


 結局、二人が一緒に花火を見る約束は果たされなかった。秋人は心臓に機械を埋める手術をするために緊急入院し、意識が戻ったのはちょうど8月20日だった。春菜は秋人に電話をかけ続けたのだが、やっと電話が通じた。花火が打ち上がる音。二入は別々の病室で、花火を、同じ空を見上げている。『若者のすべて』の〈ないかな ないよな〉のフレーズのメロディが流れる。

  春菜は〈もう少しだけこの電話を切らないで〉と言う。〈花火見るの これが最後かな〉と言う。このシーンを中心に編集した〈叶わなかった8月20日の花火の約束 | 余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。〉というタイトルの映像がある。



これに続く場面が重要である。二人の台詞を紹介する。


秋人君 あのね 私ね 本当のこと言うと…

(フィナーレの連発、花火の音)
何? なんか言った?

(春永が鼻をすする音)
ううん 花火 終わっちゃったね


 春菜は《ほんとうのこと》を言うことが、やはり、できない。〈始まる前から終わりがある恋〉が怖いという想いでいるのかもしれない。〈終わりがある恋〉が怖いという気持ちは誰にもあるだろうが、〈始まる前から終わりがある恋〉が怖いというのは、余命という現実を生きる者にしか分からない。春菜が《ほんとうのこと》を言えないまま、8月20日の花火は終わってしまう。あるいはこの日に、春菜は病室で秋人と一緒に過ごし、花火を見ながら《ほんとうのこと》を言うつもりでいたのかもしれない。この一連の場面の脚本と演出には、『若者のすべて』の〈会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ〉というフレーズが影響している可能性もある。


 さらにこの場面から、映画からは離れてしまうが、志村正彦・フジファブリックの『夜汽車』という歌を思いだした。

話し疲れたあなたは 眠りの森へ行く
夜汽車が峠を越える頃 そっと 静かにあなたに本当の事を言おう
   

 夜汽車の車中で、歌の主体は〈あなた〉に〈本当の事〉を言おうとする。しかし、〈あなた〉に〈本当の事〉が伝わることはないだろう。〈夜汽車〉が峠を越えても、おそらく〈あなた〉は〈眠りの森〉の中にいる。そもそも〈本当の事〉が声として語られることはないように思われる。〈本当の事〉を言うことができないというモチーフは志村正彦が繰り返し歌ってきたものだ。あるいは、このようなモチーフがどこかでこの映画に影響を与えているのかもしれない。

    (この項続く)