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2018年7月1日日曜日

ドラマ『R134/湘南の約束』-『NAGISAにて』2[志村正彦LN184]

 7月に入った。梅雨が明けてしまい、とにかく暑い。いつもよりはやい夏の到来にとまどうが、今日も夏の歌、フジファブリック『NAGISAにて』について書くことにする。前回とは異なる観点でこの歌を探究してみたい。

 この季節には様々な渚の物語が始まり渚の歌が生まれるのだろうが、『NAGISAにて』の物語は作者志村正彦の実体験ではなく、彼が見た映画かドラマのワンシーンが素材になっている気がする。根拠はなく推測にすぎないが。

 湘南あたりの渚で繰り広げられる恋物語。その映像を見ている作者が話者となって語り出す。画面のこちら側の人間が画面の向こう側の世界に対して呼びかける。「お嬢さん お願いですから泣かないで」と。呼びかけていくうちに、話者は歌の中の人物と化して歌の内部に入り込む。「ハンカチ」や「散歩」、あれこれと細部の空想が始まる。『NAGISAにて』の歌の主体の誕生。画面のこちら側と向こう側という壁で分断されているはずの二人、出会うことのない二人が、歌物語の内部で「二人」となる。でも彼は「言える訳もない 言える訳もないから」、「お嬢さん」に近づくことはできない。「お嬢さん」との距離を埋めることはできない。そして何事も起きずに遠ざかっていく。話者は画面の世界からこちら側に帰還する。物語の世界の外部から、その世界に取り残された残像としての歌の主体と「貴方」の「二人」の後ろ姿を描く。

 『花屋の娘』(詞・曲:志村正彦)の「夕暮れの路面電車 人気は無いのに/座らないで外見てた/暇つぶしに駅前の花屋さんの娘にちょっと恋をした」にも同様の構造がある。路面電車のこちら側から向こう側「外」の「花屋さんの娘」への「恋」を語り出す。電車の窓が画面の枠組となって想像の世界が広がる。決して出会うことのない二人がそのようにして出会う。そのようにして出会う二人の物語が自らの歌のモチーフだ。あるいはそのような遭遇にこそ今日の恋物語がある。志村はそう考えたのかもしれない。

 そんなことを書きとめていたところ、あるドラマに出会った。6月27日、NHKBSプレミアムで放送された神奈川発地域ドラマ『R134/湘南の約束』である。国道134号線沿いの湘南の渚や海辺が舞台となるロードムービー。脚本は桑村さや香、主演は宮沢氷魚(宮沢和史の息子と付記しておく)。

 物語は、10年前に起きたある事件を契機に故郷の葉山を飛び出した洸太(宮沢氷魚)がアメリカの老婦人マリア(ニーナ・ムラーノ)とあるバーで出会うことから始まる。ある男性が写る古い写真を見せてこの場所に行きたいと訴えるマリアに付き合わされ、洸太はずっと避けてきた故郷への「旅」に向かう。つまり、「Boy Meets Girl」の物語なのだが、「Boy」が屈折した青年、「Girl」が風変わりな老婦人ということが今日的な設定だと言える。

 洸太とマリアの「二人」はおのおの果たせていない「約束」を心に抱えている。美しい海と渚に佇む「二人」の後ろ姿が写るシーンがあるのだが、それを見た時に『NAGISAにて』の最後の一節を想いだした。


  波音が際立てた 揺れる二人の 後ろ姿を


 「約束」を果たそうとする「老婦人」と、その老婦人との出会いと旅によって「約束」に向き合わざるをえなくなる「青年」。おのおのの「約束」を果たそうとして「揺れる」「二人」。その「後ろ姿」が美しい渚の光景と共に画面に描かれていた。設定や状況は全く異なるが、ドラマと歌が出会ったような気がした。

 『NAGISAにて』も『R134/湘南の約束』も、「Boy Meets Girl」の定型的な物語、海辺の恋物語から外れている。人と人はどのような形や経緯であれ、出会いあるいは出会い損ねる。時には出会わないままでいる。それでも、人と人は「二人」となることがある。志村のイメージに倣うならば、その「二人」は揺れている。そして、後ろ姿だけが際立つ。

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