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2020年12月31日木曜日

『夜汽車』語りえないものの歌[志村正彦LN268]

 一昨日の深夜、テレビをつけながらPCで仕事をしていると、志村正彦の声が聞こえてきた。『若者のすべて』だった。

 テレビ画面を見ると、夜の空間にきらめく花火の映像。上空から見下ろすような視点の花火の光に魅入ってしまった。ドローンの撮影かもしれない。テレビのチャンネルを確認すると6チャンネル、地元局のUTYテレビ山梨の放送だ。あの「STAY HOME」の新しいヴァージョンかもしれない。すぐに「神明の花火 ~平和への祈り~」という表示が出てきた。9月、この局で『世界に届け「神明花火」平和への祈り』が放送され、『若者のすべて』をBGMにした花火の映像が流された。そうこうするうちにエンディングを迎えた。画面の左側に「やまなしドローン紀行」とあるので、この花火の映像はその一つかもしれない。そして、画面の右側に、「医療従事者の皆様に感謝」「50TH UバクUTY」の文字が現れた。間違いなく、志村正彦・フジファブリック『若者のすべて』を取り上げた「STAY HOME」の「神明の花火」ヴァージョンだった。すぐにネットで調べてみた。これを制作したUTYのTVプロデューサー岩崎亮氏のツイート(@iwasaki_tvp)に制作の経緯が述べられ、映像(権限の関係で音楽はないのが残念だが)もUPされておる。

【花火バージョン】  【通常バージョン】 

 二週間ほど前、この春に流された『若者のすべて』の「STAY HOME」CMが山梨広告賞の「電波広告の部テレビCM30秒以上部門」の最優秀賞を受賞したことは新聞で読んでいた。その記念に新しいヴァージョンを作成したようだ。富士吉田のクローン映像によるヴァージョンは、春と秋冬の映像が織り込まれている。最後の雪を薄く被って白く輝く富士山が美しい。志村ファンにとっては年末の思いがけないプレゼントである。


 毎年大晦日にこのブログを書いているのだが、振り返ると、これまで最も短い一年だった。コロナ禍の現実に対応するために仕事に追われる毎日だった。記憶も時間の感覚もおかしくなっている。このブログの更新も滞った。音楽をじっくりと聴く機会もほとんどなかったが、志村正彦・フジファブリックの楽曲の中でそれでも繰り返した曲が一つある。『夜汽車』である。youtubeに両国国技館のライブ映像がある。




  長いトンネルを抜ける 見知らぬ街を進む
  夜は更けていく 明かりは徐々に少なくなる

  話し疲れたあなたは 眠りの森へ行く

  夜汽車が峠を越える頃 そっと
  静かにあなたに本当の事を言おう

  窓辺にほおづえをついて寝息を立てる
  あなたの髪が風に揺れる 髪が風に揺れる

  夜汽車が峠を越える頃 そっと
  静かにあなたに本当の事を言おう


 月並みな言い方しかできないのがもどかしいが、この歌の「叙情性」は群を抜いてすばらしい。日本語ロックの中でこれほどの叙情に達した歌はないのではないか。志村の想いが心の深くに染み込んでくる。 

 『夜汽車』は「静かにあなたに本当の事を言おう」と歌い終わる。あなたに「本当の事」を語りはじめる、その前で歌は終わってしまう。「本当の事」を語ることはない。語ることができない。あるいは語りたくない。語ることから遠ざかることで、この歌が始まっている。そのことがこの歌の叙情性を支えている。

 何かを歌うことと何かを語ることとは、言葉の表現としてもちろん近い位置にある。しかし本当は、この二つの間には遠い遠い隔たりがある。語ることができないときに、失われているときに、むしろ、叙情の歌は成立する。人は語ることのできないものを、それでもどうしても伝えたくなったときに、歌い始めるのかもしれない。志村正彦の『夜汽車』がそのことを「そっと 静かに」教えてくれる。



2020年12月28日月曜日

レスリー・ウェスト

 12月23日、レスリー・ウェスト(Leslie West)の75歳の生涯が閉じられた。

 僕の「ロックの時代」の原点のバンド、マウンテンのギタリスト・ボーカリストだった。

 70年代前半、マウンテンは日本でも人気があった。1973年8月来日。以前も書いたことがあるが、当時14歳の僕は一人で甲府から東京まで出かけた。会場は日本武道館。初めてのロックコンサートだった。ネットにその日のライブ音源があった。記憶はほとんど薄れているのだが、かすかな印象が残っている。ものすごい重低音というものを初めて経験した日でもあった。フェリックス・パッパラルディ(Felix Pappalardi)の重厚なベース音とレスリー・ウェストのメロディアスな美しい音色のギターが響ひあうはずだったが、この日は彼の調子がよくなかった。完璧なギターやボーカルにはほど遠かった。この日本公演を契機に再結成するが、結局1974年末に完全に解散した。レスリーとフェリックスの求める方向性が異なったことが原因のようだ。

 レスリー・ウェストのギターといえばギブソン・レスポール・ジュニア。ギターの演奏は素晴らしいものだったが、それ以上に彼のボーカルに惹かれていた。独特の声に突き動かされるようにして、言葉が解き放たれていく。今でもハードロック系のボーカルでは(もちろんギターでも)レスリー・ウェストが最高だと思っている。もっとも、当時、マウンテンの音楽は「ハードロック」というよりも「ヘヴィロック」と呼ばれていた。字義通りの「heavy rock」が彼らのサウンドにはふさわしい。

 70年代前半という時代的な制約があり、youtubeを探しても良い映像がないのだが、その中ではドイツのテレビ番組「Beat-Club」の映像がレスリー・ウェストの当時の雰囲気をよく伝えている。ドラムスはコーキー・レイング(Corky Laing)、キーボードはスティーヴ・ナイト(Steve Knight)。マウンテンが最も輝いていた時代の演奏だろう。70年代前半のロックは、言葉のほんとうの意味での、激しくて重い、響きと揺れがあったのだ。


  Mountain - Don't Look Around (1971)


  

Don't look around
'Cause I'm never coming back
It's high time
You saw the last of me

You thought I was a whiner
I'd forgotten where to go
I had no place to lay my head to rest
I had to go

Don't look around
'Cause I'm never coming back
It's high time
You saw the last of me

Whoah
Had to change my mind
You're going to change my mind 

Now I'm working all day long
I'm singing for my food
Baby, you know that I've got everything I need

I've given all I can
The rest belongs to me
Fact was it didn't matter
Just who I had to be

Don't look around
'Cause I'm never coming back
It's high time
You saw the last of me

Whoah
Had to change my mind
You're going to change my mind

I'm gunnin' right on through the town
Don't need you anymore
Now I think I'll turn my back and walk away from you

We're livin' in the country
Doing everything we please
I don't want you comin' round swirling up a be

Don't look around
'Cause I'm never coming back
It's high time
You saw the last of me

Whoah
Had to change my mind
You're going to change my mind

Written by: FELIX PAPPALARDI, GAIL COLLINS, LESLIE A. WEINSTEIN, SANDRA L. PALMER

  
  フェリックス・パッパラルディは1983年に死去。享年43歳。それから37年の時が経ち、レスリー・ウェストが亡くなった。享年75歳。
 マウンテンの楽曲は旅や航海のモチーフが多かった。二人の人生はかなり異なるものとなったが、二人は音楽に愛でられて旅立っていったのだろう。
 僕の身体の底を貫いているロックの重奏音に、フェリックス・パッパラルディとレスリー・ウェストの音と声がある。これまでもこれからも鳴り続けるだろう。



2020年12月25日金曜日

『HAPPY XMAS (WAR IS OVER)』John & Yoko/志村正彦[志村正彦LN267]

 「Merry Christmas, Mr. 志村正彦」と、安部コウセイはこのところ毎年12月24日に呟いてきた(@kouseiabe)。今年は、「夜のるすばん電話【特別編】〜志村正彦について〜」という1人喋りラジオ番組で20分ほど、志村のことを語っていた。12月24日の一日限りの無料公開。とても興味深い内容だった。聞き逃した人も少なくないかもしれないので、後日、この話を取り上げてみたい。

 この番組の冒頭で安部コウセイは「Merry Christmas, Mr. 志村正彦」と呼びかけていた。今年は文字ではなく声だった。この言葉に誘われて、今日は、ジョン・レノン&オノ・ヨーコの『HAPPY XMAS (WAR IS OVER)』の映像をまず載せてみたい。


 HAPPY XMAS (WAR IS OVER). (Ultimate Mix, 2020) John & Yoko Plastic Ono Band + Harlem Community Choir



  

 HAPPY XMAS (WAR IS OVER)


Happy Xmas, Kyoko, Happy Xmas, Julian

So this is Xmas and what have you done

Another year over and a new one just begun

And so this is Xmas, I hope you have fun

The near and the dear one, the old and the young

A very Merry Xmas and a happy New Year

Let’s hope it’s a good one without any fear


And so this is Xmas (War is over)

For weak and for strong (If you want it)

For rich and the poor ones (War is over)

The world is so wrong (Now)

And so happy Xmas (War is over)

For black and for white (If you want it)

For yellow and red ones (War is over)

Let’s stop all the fight (Now)

A very Merry Xmas and a happy New Year

Let’s hope it’s a good one without any fear


And so this is Xmas (War is over)

And what have we done (If you want it)

Another year over (War is over)

A new one just begun (Now)

And so happy Xmas (War is over)

We hope you have fun (If you want it)

The near and the dear one (War is over)

The old and the young (Now)

A very Merry Xmas and a happy New Year

Let’s hope it’s a good one without any fear

War is over if you want it, war is over now


    written by John Lennon and Yoko Ono


 昨夜、NHKで『“イマジン” は生きている ジョンとヨーコからのメッセージ』という番組があった。2020年、ジョン・レノンの生誕80年、没後40年。このメモリアルイヤーにジョンとヨーコがこの世界に残したメッセージを見つめ直すものだった。

 歌詞の世界にも触れていた。「俳句は今まで僕が読んだ中で最も美しい詩だと思う。僕ももっと歌詞を俳句のようにシンプルにしたいね」というジョンの言葉。『LOVE』は俳句に影響されていたようだ。『IMAGINE』がジョンとヨーコの共作になった経緯も述べられていた。

 コロナ危機、エッセンシャルワーカーの存在、そしてBlack Lives Matterの運動。世界の人々が分断されていった2020年、『IMAGINE』『LOVE』や『HAPPY XMAS (WAR IS OVER)』がとりわけ心にしみてくる。

 志村正彦・フジファブリックは、2008年12月8日に日本武道館で開催された『Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ』に出演している。2001年から2009年まで9回開催されたこのライブは、オノ・ヨーコの「どんな些細なことでも夢を持つこと。それが世界を変えていく大きな力となるのです」という呼びかけによって、アジア・アフリカの教育に恵まれない子どもたちの学校建設を支援するチャリティ・コンサートである。2008年の出演者は、オノ・ヨーコ、奥田民生、斉藤和義、Char、トータス松本、フジファブリック、BONNIE PINKなどだだった。

 志村正彦は「志村日記」(『東京、音楽、ロックンロール』)でこう述べている。


  ジョン・レノンスーパーライブ 2008.12.08

 ジョン・レノンスーパーライブ@日本武道館

 フジファブリックはちょうど真ん中くらいの出番だったかな。出演されているアーティストさん達はソロ活動のシンガーさんが多く、ぱっぱっとバックメンバーさん達と曲を奏でては、ステージを降りていきましたが、機材転換時間が多くかかってしまうバンド、フジファブリックはやはり一曲しか出来ませんでした。ホントは二曲やる予定でして、ドラマーのシータカさんともリハーサルも済んでいたのに。ちょっと残念。でも名曲” Strawberry Fields Forever”をカバー出来て、幸せな日でした。オノ・ヨーコさんはステージ上で僕らはハグ(抱きしめて…)してくれました。

 出来なかった曲は、今後絶対ワンマンライブでやる。めっちゃ練習したからね。そして初の日本武道館。ステージから観る客席は良かったよ。360度お客さん。もっとやりたかったし、やれるであろう曲達も出来てきている…作らねばならないので、それを目指そう。ちょっとね、照準を定めたかもしれない。「しれない」という心構えじゃあ出来ない会場なので、定めた。やる。そう遠くないうちに…。


 この時の映像が、youtube にある。 2008年 Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ のいくつかの映像の一つである。

     


 この映像の最後のシーンで、志村正彦が登場している。ちょっと照れくさそうにしながら一生懸命に声を出している。彼が歌った『HAPPY XMAS (WAR IS OVER)』の歌詞は次の箇所である。


And so happy Xmas (War is over)

For black and for white (If you want it)

For yellow and red ones (War is over)


 残念ながらここでカットされてしまったが、この後おそらく次の部分が歌われたのだろう。


Let’s stop all the fight (Now)

A very Merry Xmas and a happy New Year

Let’s hope it’s a good one without any fear


 この歌の中でも「without any fear」というところに惹かれている。あらゆる意味での戦争のない世界、恐怖のない世界こそが、私たちが望む世界である。

 この映像にはオノ・ヨーコも登場する。志村正彦や他のメンバーもハグされたのだろう。そして、この時が志村にとって初の日本武道館のステージだった。「ステージから観る客席は良かったよ。360度お客さん。」「ちょっとね、照準を定めたかもしれない。「しれない」という心構えじゃあ出来ない会場なので、定めた。やる。そう遠くないうちに…。」と書いている。日本武道館でのライブが目標となったようだ。それは叶わなかったが、志村正彦がこの会場で『HAPPY XMAS (WAR IS OVER)』を歌った姿を心に刻んでおきたい。



2020年12月17日木曜日

ジョン・レノン/志村正彦 『Love』[志村正彦LN266]

 JOHN LENNON『Love』のミュージックビデオが「johnlennon」公式チャンネルにある。2003年リリースのDVD『レノン・レジェンド』収録作品の「Ultimate Mix」ヴァージョンである。公園と海辺のシーンは、1971年、ニューヨーク、マンハッタン島の「Battery Park」とスタテン島の「South Beach」で撮影された。この時、ジョンは31歳、ヨーコは38歳。ジョンとヨーコ、二人の「LOVE」の日常を伝えている。 

 


LOVE. (Ultimate Mix, 2020) - John Lennon/Plastic Ono Band (official music video HD)


   LOVE 

 Love is real, real is love

 Love is feeling, feeling love

 Love is wanting to be loved

 Love is touch, touch is love

 Love is reaching, reaching love

 Love is asking to be loved

 Love is you, you and me

 Love is knowing we can be

 Love is free, free is love

 Love is living, living love

 Love is needing to be loved


 written by John Lennon

 vocals and guitar: John Lennon

 piano: Phil Spector

 produced by John Lennon, Yoko Ono & Phil Spector

 from the album 'John Lennon/Plastic Ono Band'


 映像の最後の場面。海辺の波打ち際の光景。二人が各々書いた「JOHN LOVES」「YOKO LOVES」の文字に打ち寄せうる波。文字は消えていくかに見えるが、映像は溶明に転換される。だから、この文字がどうなるのかは分からない。この文字を「Imagine」することが求められているのかもしれない。


 ジョン・レノンが亡くなった1980年に志村正彦は生まれた。


 志村正彦・フジファブリックは、『Love』のカバーを2005年9月30日発売のジョン・レノンへのトリビュート・アルバム『HAPPY BIRTHDAY,JOHN』(東芝EMI)に収録している。また、2009年10月14日発売『LOVE LOVE LOVE』(EMIミュージック・ジャパン)では『I WANT YOU』をカバーしている。

 志村は生涯で二度、ジョン・レノンとザ・ビートルズのカバー曲をリリースしたことになる。どちらも志村ならではの「歌」の世界を作っている。何よりもジョンレノンへのリスペクトが感じられる。

 なかでも僕は、志村が『Love』で「Love is touch」と歌うところにもっとも惹かれる。この歌を何度聴いても、この「Love is touch」に慣れてしまうことがない。いつも何かが心の中で動く。心と体のやわらかいところに触れてくる歌い方だ。


「志村日記」(『東京、音楽、ロックンロール』)でこの音源の制作について述べている。


 JOHN LENNON  2005.09.09

 もう知ってる方も多いと思いますが、フジファブリックはJOHN LENNONトリビュートアルバムに参加しています。今月末の発売ですか。名曲をカバーしてます。いろんなミュージシャンと同じように、ビートルズを聴いて育った僕ですが、まさか自分がJOHNのトリビュートに参加できるなんて夢にも思ってなかったんで、夢心地です。しかもオノ・ヨーコ公認…。

 とはいいつつ、曲はドカンと思い切ったことやりました。JOHNの感じに似せてとか、JOHNの感じでとか、そんなことは恐れ多くてできませんでした。でもかなりいい感じです。

 今回のレコーディングはレコーディングスタッフ、メンバーともに、1980年生まれの人が多かったです。JOHN LENNONの亡くなった年の生まれの人達です。なんか不思議な感じです。あ、今回は久しぶりに片寄さんともやってます。

 とにかくスゴいものが出来ました。


 志村自身も「1980年」という年には特別な想いがあったのだろう。

この歌のライブは『Live at 渋谷公会堂』に収録されている。2006年12月25日、クリスマス一夜限りで渋谷公会堂で行われたライブだ。映像がyoutubeにあった。

 


 志村はアコースティックギターを奏でながら伸びやかに歌っている。しかも静謐で美しい。ここでの「Love is touch」の歌い方は、CD音源と異なり、強いアクセントが込められている。何かに触れようとするかのように。辿りつこうとするかのように。

 今振り返ると、志村正彦のすべての歌は、あまりあからさまに語られることのない「愛」の歌であったようにも思われる。

 


    


2020年12月8日火曜日

ジョン・レノンそしてオノ・ヨーコ

 今日はジョン・レノンそしてオノ・ヨーコのことを書いてみたい。想い出語りである。

 四十年前の今日、1980年12月8日、ジョンは銃弾に倒れた。深夜、時差があるのでその翌日だったかもしれないが、確か12時を過ぎた頃に友人から電話があった。「ジョン・レノンが死んだのを知っているか」京都生まれの彼が京都弁で捲し立てたことを覚えている。(その京都弁は再現できないが)。なぜ彼からの電話だったのか。よく思い出せない。僕がジョン・レノンの熱心なファンだったことを知っていたのだろうか。前後の記憶が欠落している。

 その3週間前くらいに、『ダブル・ファンタジー』がリリースされていた。僕の部屋のオーディオラックにそのアルバムが立てかけられていた。ジョン・レノンとオノ・ヨーコの久しぶりのアルバムだった。その夜からかなりの間、このアルバムを繰り返し聴いた。ジャケットの二人の写真も繰り返し見た。

 当時の僕は一人の聴き手として「ロックの時代」を生きていた。今振り返ると、ジョン・レノンが亡くなった1980年は時代の曲がり角だった。その後ゆるやかに、「ロックの時代」は終焉を迎えていく。

 それから遡る1970年代前半の時代、僕はロックミュージックに強く強く惹かれていた。当時の音源や情報源は、深夜放送と音楽雑誌。あの頃のラジオでほぼ毎日のように流れていたのがジョン・レノン。曲は『ラブ』や『マザー』。アルバムでいえば『ジョンの魂』。ロックの中心にジョン・レノンがいた。

 英語の歌を聴くという経験、もちろん聞き取ることも理解することも大してできなかった。だが、ジョンの声と言葉には意味を超えるものがあった。声が心に染み込む。そして身体に染み渡る。そんな経験は初めてだった。そして、やがて、言葉の一つ一つが何かを突き破るようにして聴き手に届けられていく。ロックは声だ、言葉だ、そういう確信も得た。

 オノ・ヨーコにも強い関心を持った。ジョンの妻であること。日本人であることが大きかったのだろう。1973年4月、ジョンとヨーコは、「ヌートピア」という架空の国家の誕生を宣言した。領土も国境もない想像の国家、『イマジン』の具現化だった。

 1974年8月、来日したオノ・ヨーコ&プラスティック・オノ・スーパー・バンドのライブを新宿厚生年金会館で見た。ヨーコの声とパフォーマンスに圧倒された。分からないままに分からないものを聴いていたのだが。公演終了後、通用口近くで投げキッスをして車に乗り込んで去って行くヨーコをたまたま目撃した。当時の僕には何もかもが鮮烈だったが、四十数年が経つと靄がかかってしまう。しかし、車に乗り込む瞬間のオノ・ヨーコだけは記憶に深く刻きこまれている。

 オノ・ヨーコのライブを見た1974年8月、僕は15歳、高校1年生だった。ジョン・レノンが亡くなった1980年12月、僕は21歳、大学4年生になっていた。十代後半からそれを少し超えるまでの7年ほどの年月、僕にとってのロックの季節は、ジョン・レノンとオノ・ヨーコが輝いていた「ロックの時代」にそのまま重なっている。


 


2020年11月15日日曜日

「ロックの時代」の「最後の男」-ブルース・スプリングスティーン

 先日、〈ロックの時代「俺が最後の生存者」 グラミー賞20回、71歳のスプリングスティーンが語る〉という記事が朝日新聞に掲載されていた。今回はその記事を紹介したい。ブルース・スプリングスティーンの新アルバム『レター・トゥ・ユー』発売を機に、世界の複数メディアの合同インタビューに応じたもので、日本からは朝日新聞が参加したそうだ。

 


 この記事で、ブルースは改めて自らのロック人生を振り返っている。『レター・トゥ・ユー』の歌詞とインタビュー内容を照らし合わせた優れたテキストであるので、長くなるがここに引用したい。署名者は定塚遼氏である。


 啓示的で隠喩に満ちた詩世界は、ときに宗教世界とも接近する。半世紀前と現代を行き来し、通り過ぎてきたもの、失ったものを探りながら、やがて来る自らの死と静かに向き合う。

 「大きな黒い汽車が 線路の上をやってくる」「今ここにいると思ったら 次の瞬間もういない」と歌うアコースティックナンバー「ワン・ミニット・ユア・ヒア」でアルバムは静かに幕を開ける。

 人生の夏と秋の時代の一シーン一シーンが走馬灯のように巡り、最後に「星々は消える 石のように黒い空に 今ここにいると思ったら 次の瞬間もういない」と結ぶ。人間の営みをロングショットで俯瞰(ふかん)した詩は、ある種の諦念と無常観をたたえている。「ささやくような曲でロックアルバムを始めるのは非常に奇妙だ。だが、それでアルバムは離陸した」と話す。

 ブルースは、自身の「夏の時代」についてこう語る。「初めてバンドを組んだ60年代半ばは、ロックンロール音楽を演奏するのはティーンエージャーだけ。至る所に、バンドが演奏して、技術を磨くことができる場所があった。一種の黄金時代だった」

 半世紀が経ち、「最初のバンドの最後の生存者になった」というブルース。ロック音楽が文化や社会を牽引(けんいん)した時代にバンドを始め、「ロックンロールの未来」と評されたブルースは「ラスト・マン・スタンディング」でこう歌う。「ロックの時代が俺を押し上げた」「俺は今、その時代の最後の男」


 ここでブルースは、自分自身が「ロックの時代」の「最後の男」だと述べている。「最後の男」というのも使い古されたフレーズだが、それを修飾するのは「ロックの時代」である。1960年代から2020年まで、この半世紀以上の年月が「ロックの時代」だろうが、少なくともアメリカという場においては、ブルース・スプリングスティーンはその始まりの頃から(実際はその始まりからやや遅れてだろうが)現在まで、彼の渾名どおりの「The Boss」ボスであったことは間違いない。そのロックの「ボス」が自らを「ロックの時代」の「最後の男」だ位置づけている。その発言がそのまま受けとめられることが、ブルース・スプリングスティーンのブルース・スプリングスティーンたるゆえんだろう。『レター・トゥ・ユー』、彼の新アルバムを聴いてみたくなった。

 この記事の終わり近くで、「50年間にわたり曲を書き続けてきたブルースだが、いまだに曲作りに恐れのようなものを抱くという」という説明と共に、ブルースの次の言葉が直接引用されている。


それはただ空中にある。感情の中にある。心の中にある。それは魂、精神、心、知性の中にある。そして、ただ何かを空中から引き出して作るだけなので、ある意味で非常に恐ろしいところがある


 何かを空中から引き出して作る行為。その行為の「恐ろしいところ」に触れていることが、非常に興味深い。創作という行為はおそらく、至福と共に、何か恐ろしいところにたどりついてしまう。光あふれるものと闇に閉ざされるところ。ポピュラー音楽であるロックは、そのポピュラリティの反面、そもそもの始まりから、光と闇が相争いながら共存する世界を歌っていたとも言える。ロックの魅力はそこにあった。そしてロックの時代はその証人としてもある。

 このブルース・スプリングスティーンの発言を読んで瞬間的に、ある自伝的小説の一節を想いだした。芥川龍之介『或阿呆の一生』の「八 火花」である。


 彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雨は可也烈しかつた。彼は水沫の満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。

 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。

 架空線は不相変鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。


 芥川龍之介は、十数年という短い作家生活の中で、この「空中の火花」をつかまえつづけようとしていた。特に『蜃気楼』のような晩年の作品では、光と闇のつづれ織りのような小世界を構築した。

 インタビュー記事に戻ろう。その最後でブルースは「私の後悔の一つは、長く日本に行けていないことだ。以前ツアーで日本を旅したとき、素敵な観客と出会った。子どもができるなど、色々な事情で行けなかったが、私は再び日本に戻って、観客とつながりたいと思っている。うん、そうするつもりだ」と述べていた。

 彼の単独の日本公演は、1985年4月の「Born in the U.S.A Tour」、と1997年1月の「The Ghost of Tom Joad Tour」の二回だけである。(他は、1988年9月、「A Concert Human Right Now」への参加)

 その二つとも、僕は会場に出かけていた。85年の「Born in the U.S.A Tour」は国立代々木競技場第一体育館。Eストリート・バンドとの3時間を超えるライヴだった。歌と演奏もそうだったが、それ以上に会場の異様なほどのものすごい熱気が今でも記憶に刻まれている。97年の「The Ghost of Tom Joad Tour」は東京国際フォーラムホール。ソロのアコースティック・ライブだった。こちらの方は逆に会場が静まりかえっていた。その静寂の中でのブルースの内省的でいてしかも力強い声が、印象に深く残っている。この時はコンサートの始まる前に、「今回の歌のイメージから、席を立たないで座って聴いてほしい」という意味のブルース自身による要請がアナウンスされていた。

 今思い返せば、この二つの日本公演ライブによって、ロックの時代の最後の男、ブルース・スプリングスティーンの「動」と「静」、「光」と「闇」の二つを体験したとも考えられる。


2020年10月31日土曜日

山梨という場、歌の原動力 [志村正彦LN265]

  十月が終わろうとしている。月の初めに金木犀が香りだした。僕の周辺では例年より遅かった。いつもは九月の下旬だ。香りも微弱だった。天候のせいかどうか分からないが、香り出す時期、香りそのものの強さにも変化があるということなのだろう。そんなこともあって、今年は金木犀の香りと共に時を過ごすこともなかった。季節を受けとめる心の余裕もなかったのかもしれない。

 「偶景web」の更新も滞った。ブログの文を書くにはある種の気分のモードになることが必要だが、そのモードがなかなか訪れない。切替ができない。原因は仕事の過重なのだろう。以前にも書いたがオンライン授業が多い。内容のすべてを画面の映像と音声に変換していかねばならない。通常の体面授業よりも緻密で時間がかかる作業となる。もう一つの要因もある。この春から就職支援の教員側のチーフもしている。この仕事が非常に重い。ほとんどオンラインの支援になったので、こちらも緻密さを要求される。コロナ禍で大学生の内定率が低下している現状を何とか打開しようとあれこれと対策を考えている。学生を社会に送り出すことの支援は教育と同様に重要である。

 山梨英和大学には「山梨学」という授業がある。山梨の歴史、文化、社会、経済などを学ぶ必修科目であり、2年次の全員180人程が受講する。県内のほとんどの大学で山梨学をテーマとする授業はあるが、必修科目としているのは本学だけである。この科目を昨年度から担当しているが、今年度はコロナ禍によって、実施時期を前期からを後期に移動させたが、受講生が多く、現状の教室規模では体面が不可能なので、結局、オンライン遠隔授業となった。半分以上の講義は外部講師を招くので、オンライン授業の準備や支援をする必要もある。僕は、山梨と文学や文化という観点での授業を担当する。具体的には、「芥川龍之介と甲斐の国-山梨への旅とその風景の叙述、飯田蛇笏との交流」、「映画『二人で歩いた幾春秋』(木下惠介監督)で描かれた戦後の山梨と教育」「ロックの詩人-宮沢和史・藤巻亮太・志村正彦の歌う風景と季節」というテーマにした。

 九月末から、「山梨学」が始まった。志村正彦・フジファブリック『赤黄色の金木犀』を導入に置いて、「ロックの詩人-宮沢和史・藤巻亮太・志村正彦の歌う風景と季節」全3回の講義を始めた。その後、宮沢和史・THE BOOM『釣りに行こう』、藤巻亮太・レミオロメン『粉雪』と続けた。『赤黄色の金木犀』にしたのは季節がちょうど合うからだ。昨年は四月だったので、『桜の季節』にした。彼らの歌と言葉を通じて、山梨の季節、春夏秋冬、風景を「発見」あるいは「再発見」することを意図した。単なる知識伝達の授業にはしたくない。聴くこと、読むことは主体的な行為としてある。そして、ロックの歌は現代の文学として存在している。

 以下は講義スライドに記した内容である。以前このブログに書いたことをもとにした。

 山梨が誇る「三大ロックバンド」(この言い方は古風であるが、そのまま使うことにしたい)、ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリック。ドラマーを除くザ・ブームのメンバー、レミオロメンのメンバー、フジファブリックのオリジナルメンバーは山梨で生まれ山梨で育った。三つのバンドは共に、「山梨」という括りとは関係なく、「日本語ロック」の中で重要な位置を占める。

 ザ・ブームの宮沢和史、レミオロメンの藤巻亮太、フジファブリックの志村正彦は「ロックの詩人」としての評価も高い。宮沢は『宮沢和史全歌詞集1989-2001』(2001/11/1、河出書房新社)を出版し、志村の没後、『志村正彦全詩集』(2011/2/22、パルコ)が刊行されている。

 宮沢和史は甲府市で生まれ育った。彼の歌の原風景は、『星のラブレター』の「朝日通り」などの街の通り、『釣りに行こう』の荒川の源流など自然豊かな場の二つがある。甲府盆地の街中、そこに流れてくる川。彼はその場所から、東京へ、そして沖縄やブラジル、世界へと旅に出て、音楽を創ってきた。特に『島唄』の舞台、沖縄は第二の故郷になった。山に囲まれた山梨、海に囲まれた沖縄、どちらも「島」であるという視点が宮沢にはある。山梨も沖縄も、そこで生まれ育ち、暮らす人々にとっての「世界でいちばん美しい島」だと宮沢は述べている。

 宮沢和史にとっての「朝日通り」に象徴される場、甲府駅の北西側に位置する商店街は、志村正彦にとっての下吉田やその近くにあった商店街に相当するのではないか。昭和40年代頃まではまだ「朝日通り」界隈には「路地裏」の風情があった。その後、郊外へと発展した都市化の影響で、中心街とその中の住宅街の空洞化や弱体化が進み、結果として「路地裏」が消えていった。その現象は甲府だけでなく吉田でも起きたが、甲府よりやや遅れていたのだろう。1980年に富士吉田で生まれた志村は昭和の名残のある「路地裏」を経験できた最後の世代だという気がする。

 志村正彦の歌詞の世界には、下吉田、新倉山浅間神社の「いつもの丘」、富士北麓の風景というように、宮沢と同様に、街中や路地裏のような場と自然に恵まれた場と季節感の豊かな風景の二つが存在している。甲府には武田家の歴史や江戸時代に街の文化が栄えた歴史がある。富士吉田には富士講や織物産業の街としての歴史がある。

 それに対して、藤巻亮太の出身地である御坂(現、笛吹市)は、御坂山系からつながる扇状地である。なだらかに広がる丘陵地もあり、周辺の山々そして空が見える。藤巻の歌には空、雲、宇宙がよく出てくるのはこのような眼差しのためであろう。しかし、御坂は峠でもある。峠には峠としての地理的な区切りもある。だからやはり、幾分か閉ざされた視線も垣間見える。今は果樹栽培の盛んな農業地帯でもあるが、古代からの「甲斐路」、「鎌倉街道」の一部も通る「交通」の場でもあった。現在も、甲府盆地と富士北麓をつなぐ中継点でもある。

 地理的、地形的な観点からいえば、宮沢の甲府から、藤巻の御坂を通って、志村の吉田へと至る「歌の街道」があるようなものだ。彼らが生まれ育った場とそこから眺める風景は彼らの歌に深い影響を与えている。山梨学という授業は山梨の歴史や社会も対象とするので、そのような視点での考察も加えた。

 周囲を山々に囲まれている山梨は閉ざされた地であり、場である。閉ざされている場ゆえに外へと向かう志向性がある。宮沢和史、藤巻亮太、志村正彦の三人には、内側に向かう一種の内閉性と、逆にそれゆえに外へと開かれていく志向性がある。その矛盾する動きが、彼らの歌の原動力になっている。

2020年9月19日土曜日

「神明花火 ~平和への祈り~」と『若者のすべて』[志村正彦LN264] 

  9月16日、山梨の地元局、テレビ山梨UTYで『世界に届け「神明花火」平和への祈り』が放送された。以前からこの番組の宣伝の際に、志村正彦・フジファブリック『若者のすべて』がBGMになっていたので、もしかするとどこかで使われるのかと思ってこの番組を見た。

 「神明の花火」(しんめいのはなび)は、毎年8月7日、山梨県の市川三郷町で開催される花火大会である。公式HPにその歴史が記されている。

甲州市川の花火は、武田氏時代の「のろし」に始まるといわれています。武田氏滅亡後、徳川家康は信玄のすぐれた技術を積極的に取り入れました。市川の花火師たちも徳川御三家に仕え、花火づくりに専念したといわれています。(中略)神明の花火は江戸時代の元禄・享保(1688~1736年)頃から、いっそう盛んになり日本三大花火の一つとされ、賑わいました。「七月おいで盆過ぎて 市川の花火の場所であい(愛・会い)やしょ」とうたわれ、恋人たちの出会いの場としても親しまれてきたそうです。市川で一緒に花火を見ると幸せになれると言い伝えられています。

 その後、「神明の花火」の歴史は途絶えてしまったが、平成元年8月7日、山梨最大の規模の花火大会として復活して現在に至っているが、今年はコロナ禍で中止となってしまった。

 このUTYの番組は地元の花火業者、齊木煙火本店・マルゴーの方をゲストに呼んで、2019年の映像を紹介していたが、最後に現地の市川三郷町の笛吹川河川敷からの生中継があった。どうやらサプライズで花火が打ち上げられるらしい。もしかするとその音楽に『若者のすべて』が使われるのかもしれないという期待がよぎった。

 現地では市川三郷町長がこの花火に寄せるメッセージを述べていた。カウントダウン後に、打ち上げ花火の映像が流れた瞬間に『若者のすべて』のイントロが流れた。しかし、すぐに音が消えてしまった。生中継には時にこういうトラブルがある(困ったアナウンサーが、本来なら音楽に合わせてだったがという断りを入れた)。そうこうしているうちに、志村正彦の声が聞こえてきた。やはり『若者のすべて』だ。嬉しかった。それ以上にホッとした。このハプニングもかえって現場の臨場感があったようにも思う。

 花火の終了後、フジファブリックの『若者のすべて』の曲に乗せて花火を打ち上げたというアナウンスが入った。曲はほぼフルコーラスに近かったが、「ないかな ないよな なんてね 思ってた/まいったな まいったな 話すことに迷うな」の箇所はカットされていた。

 後日、UTYのyoutubeチャンネルでこの映像が流されるという知らせがあった。今朝起きて探してみるとすでにyoutubeにUPされていた。「神明花火 ~平和への祈り~ 令和2年特別打ち上げ」という映像を早速再生。神明の花火の煌びやかな映像と共に『若者のすべて』の音源が綺麗に聞こえてきた。繰り返し、見て聴いた。神明花火の「七月おいで盆過ぎて 市川の花火の場所であい(愛・会い)やしょ」という言い伝えのように、夏の花火大会は恋人たちの出会いや再会の場でもあるのだろう。『若者のすべて』の歌詞の物語につながるようにも感じた。



 説明にはこう書かれていた。

  32回目を迎えるはずだった「神明の花火」大会が新型コロナウィルス感染拡大の影響で中止に。地元の花火業者を助けたいと多くの協賛社が支援をしてくれました。その支援に感謝するために市川三郷町と花火業者が9月16日にお礼の花火を打ち上げました。フジファブリックの「若者のすべて」に合わせて500発以上の花火が夜空を彩りました。

 昨年は、志村正彦の故郷近くの「河口湖湖上祭」の花火大会、山形県の「赤川花火大会」でこの曲が流された。NHKの番組でも取り上げらた。コロナ危機の今年は思わぬかたちで、甲府盆地の南の地、市川でサプライズ花火の音楽としてこの曲が使われた。

 昨年の河口湖「湖上祭」も、今年の市川「神明花火」もそうだったが、この山梨の地で打ち上げられる花火に『若者のすべて』の志村正彦の声が響き合うのは格別である。

 花火には悪疫退散の意味合いがあるという。コロナ禍の退散の祈りを込めて、この映像と音源を今年の最後の最後の花火として受けとめたい。


2020年9月6日日曜日

夏の終わり-『線香花火』3[志村正彦LN263]

 9月になった。残暑が厳しいが、暦の上では夏が終わった感がある。

 今日の午前中にも再放送があったが、9月3日、NHKサラメシ シーズン10の「まるごと富士山スペシャル」が放送された。これまでの富士山サラメシをまとめた番組ということなので、もしかしたらと思って録画しておいた。やはり、最後にフジファブリック『若者のすべて』が使われていた。(確か、2013年、サラメシの富士山取材の回で『茜色の夕日』が使われた。その記述が見つからないのでここで正確に書けないのだが)

 番組で1分40秒ほど流れた『若者のすべて』の歌詞は次の部分である。


  真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた
  それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている

  夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
  「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて


  最後の最後の花火が終わったら
  僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ


 付言すると、この番組のBGMが凄い選曲だった。歌ものは、Bruce Springsteen『Born to Run』、Bob Dylan『Like a Rolling Stone』と『若者のすべて』の三曲だった。オープニングが Springsteen、中ほどにDylan、エンディングが志村正彦だった。この三つの選曲に特別な意味はないのだろうが、「Springsteen、Dylan、志村」というロックの詩人の並び。ここに書くだけでも、「僕は読み返しては 感動している!」という気分だ。

 今年はコロナ禍のために富士山の登山道が閉鎖された。山開きはなく、吉田の火祭りもなかった。富士の夏はそのまま閉じられることになった。
サラメシの番組では『若者のすべて』とともに富士の映像が閉じられた。富士北麓の短い夏の季節も終わった。

 志村正彦・フジファブリック『線香花火』に戻ろう。


『アラカルト』ジャケット(『線香花火』収録)


 前回、『線香花火』には、《悲しさ》の表出があり、《悲しさ》が凝縮されているが、《悲しさ》の終わり、《悲しさ》からの分離があるようにも思われると書いた。青春特有の《悲しさ》の季節があるが、この《悲しさ》と対比されるのが、次の『茜色の夕日』の一節である。


  短い夏が終わったのに
  今 子供の頃のさびしさが無い    



 「短い夏が終わったのに/今 子供の頃のさびしさが無い」の一節が、僕にとって『茜色の夕日』の中でもっと染み込んでくる言葉である。子供の頃は夏の終わりに、なんだかとてもさびしくなった記憶がある。子供心に、夏が終わってしまう、もう夏の時が戻ることはない、そんな想いが浮かんできた。それでも少し経つと、そのさびしさは忘れてしまうのだが。

 青年になると、その「さびしさ」を感じることはなくなる。


  悲しくったってさ 悲しくったってさ
  夏は簡単には終わらないのさ


 むしろ、この『線香花火』の《悲しさ》のようなものを感じるようになる。青春時代の劇は必然的に《悲しさ》をもたらす。
 少年時代のさびしさと青年時代の悲しさ、この二つには、生の歩みにともなう普遍的な感情がある。『茜色の夕日』の主体「僕」は、少年時代のさびしさが失われたことに気づく。『線香花火』の主体は、青年時代の悲しさの只中にはいるがそこから少しずつ離れてゆく感覚を掴む。

 志村は、『茜色の夕日』の「短い夏が終わったのに」に対して、『線香花火』では「夏は簡単には終わらないのさ」と歌う。終わらない夏はむしろ夏の終わりという季節の感覚を描き出す。そもそも「夏は簡単には終わらないのさ」という表現は、夏の終わりの方にアクセントがある。終わらない夏もいつか終わるのだ。そうなると、「線香花火」そのものが、その変化と消滅の姿が、終わらない夏が終わることの象徴とも考えられる。

 『茜色の夕日』と『線香花火』をそのような観点から捉えると、『若者のすべて』の「真夏のピークが去った」という季節の時間が響き合ってくる。この三つの曲の夏は「終わった」「簡単には終わらない」「去った」と歌われる。終わる季節、去りゆく季節とともに、終わるもの、去りゆくものが現れてくる。

 志村にとって『茜色の夕日』と『線香花火』は、詩的世界の資質が開花した作品である。サウンド面でも、『茜色の夕日』はスローテンポのバラード、『線香花火』はアップテンポのロックのそれぞれ原型と位置付けられる作品である。夏の終わりの季節とともに、夏の感情と感覚の極まるところから離れてゆく。このモチーフを『若者のすべて』は引き継いでいる。この曲はミディアムテンポの傑作でもある。

 各々の作品の夏の終わり、その流れ方が、歌詞の時間、楽曲のテンポを形作っているのかもしれない。

2020年8月31日月曜日

終わらない夏-『線香花火』2[志村正彦LN262]

 今日は8月最後の日。真夏のピークがまだ続いている。
 前回に続いてフジファブリック『線香花火』について書きたい。まず歌詞のすべてを引用したい。


    線香花火 (詞・曲:志村正彦)

  疲れた顔でうつむいて 声にならない声で
  どうして自分ばかりだと 嘆いた君が目に浮かんだ
  今は全部放っといて 遠くにドライブでも行こうか
  海岸線の見える海へ 何も要らない所へ

  悲しくったってさ 悲しくったってさ
  夏は簡単には終わらないのさ

  線香花火のわびしさをあじわう暇があるのなら
  最終列車に走りなよ 遅くは 遅くはないのさ

  戸惑っちゃったってさ 迷っちゃったってさ
  夏は簡単には終わらないのさ
  悲しくったってさ 悲しくったってさ
  夏は簡単には終わらないのさ

  悲しくったってさ 悲しくったってさ
  悲しくったってさ 悲しくったってさ


 『線香花火』は、「疲れた顔でうつむいて 声にならない声で/どうして自分ばかりだと 嘆いた君が目に浮かんだ」と歌い出される。「嘆いた君」に焦点が当たるが、それはあくまでも「目に浮かんだ」光景である。歌詞の物語の中で、「君」と〈歌の主体〉とは同じ場にいるわけではない。〈歌の主体〉は「君」を目に浮かべ、おそらく、想像の世界で「君」に語りかけている。

 「今は全部放っといて 遠くにドライブでも行こうか/海岸線の見える海へ 何も要らない所へ」と続くが、「ドライブでも行こうか」という誘いは物語の中での実際の語りかけではない。「行こうか」というのは返答を期待していない呼びかけだ。歌の主体にとっての欲望、想像あるいは妄想のようなものだろう。
 「何も要らない所へ」という表現は当然その反対の「何かが要る所から」を思い起こさせる。「何かが要る所から」「何も要らない所へ」の「ドライブ」の行き先は、「海岸線の見える海」である。「海岸線」の向こう側にはおそらく「何も要らない所」が広がっているのだろう。

 第1ブロックを読むと、冒頭の「疲れた顔でうつむいて 声にならない声で/どうして自分ばかりだと 嘆いた君」とされた「君」は、具体的な他者というよりも歌の主体そのものを指しているとも考えられる。ラブソングを仮構しているが、実際は、独り言のような世界が表現されている。この「どうして自分ばかりだと 嘆いた君」とされる「自分」は、おそらく、作者志村正彦の分身である〈歌の主体〉であろう。「悲しくったってさ 悲しくったってさ/夏は簡単には終わらないのさ」という表現も、自分の自分に対する呼びかけである。一見、他者に語りかけているようで、そうではなく、自分に語りかけている言葉。結局、自分にたどりついてしまう言葉。志村正彦の言葉の世界が『線香花火』にも現れている。

 第2ブロックには「線香花火のわびしさをあじわう暇があるのなら/最終列車に走りなよ 遅くは 遅くはないのさ」とある。「遠くにドライブ」から「最終列車に走りなよ」への転換には物語上の連続性はない。要するに、「ドライブ」も「最終列車」に純然たる脱出のイメージとしてある。「海」と「線香花火」は夏の風景、風物詩である。その風物詩と共に「夏は簡単には終わらないのさ」という季節のモチーフが登場する。「終わらない」「夏」という季節の感覚が志村にとって重要だった。終わらない夏が終わるまでの時間。「陽炎」、「虹」、「最後の花火」、「通り雨」と、その間の風景や景物の変化をよく描いた。

 この歌は「悲しくったってさ 悲しくったってさ/悲しくったってさ 悲しくったってさ」のリフレインに収束していく。この《悲しさ》は、月並みな形容をするしかないのだが、青春特有の《悲しさ》を表しているのだろう。青春の只中に要るときはこの《悲しさ》の内実は分からない。過ぎ去ってみると、その輪郭がおぼろげに示されてくるのだが、それでもほんとうは分からないままである。ただひたすら《悲しさ》の痕跡が残り続ける。それでもその青春の《悲しさ》から、人はいつの日か離れていく。

 『線香花火』にはまだ複雑な語りの表現はない。それよりも、《悲しさ》の強固な表出がある。《悲しさ》が凝縮されている。しかし、《悲しさ》の終わり、というのか、《悲しさ》からの分離があるようにも思われる。「悲しくったってさ 悲しくったってさ/悲しくったってさ 悲しくったってさ」の反復は、《悲しさ》に向き合いながらもそれを乗り越えよう、少なくとも離れようとする意志も感じられる。「たってさ」という話法、激しいリズムによるグルーブの感覚がそれを促している。《悲しさ》ではなく、むしろ《悲しさ》の終わりを志村は歌おうとしたのかもしれない。「夏」そのものが《悲しさ》の象徴でもある。
 もちろん、「夏は簡単には終わらないのさ」とあるので、簡単に夏が終わることはない。歌の主体はあがいているようにも見える。嘆いているようでもある。終わらない夏、終わる夏。終わる、終わらない、その過程で、夏の《悲しさ》と離れていく動きが起きる。《悲しさ》からの分離が志村正彦を優れた表現者に変えていった。



2020年8月22日土曜日

花火のない夏-『線香花火』1[志村正彦LN261]

 八月に入っても、成績処理その他の仕事に追われていて、このブログの更新も滞っていた。四月からのオンライン授業、それに関連する業務もすべてコンピュータ上の作業。画面を見るだけで、身体の動きがほとんどないことが辛い。神経の疲労が濃いので、しばらく休む時間を作った。

 前回、七月の最後の日に「今年は花火のない夏。時が進むのが早い、短い夏となるのだろうか」と書いた。まだ梅雨明けの頃だった。その後は猛暑の連続。私の住む甲府はいつも全国トップクラスの暑さである。盆地ゆえに熱がこもる。富士吉田も例年より暑いようだ。「真夏のピーク」が続いたまま下旬に入っていく。猛暑が凝縮された夏は、時が進むのが早いのだろう。

 「花火のない夏」、正確に言うと「花火大会のない夏」になったが、ところどころで予告なく花火が打ち上げられているようだ。僕はまだ見たことがないが、そのまま夏は終わるのだろう。2020年の夏は「花火のない夏」として記憶される。花火を巡る物語もなくなる。

 今月の初めにたまたまBSを見ていたら、BS朝日で「山形・赤川花火大会2019」中継録画の番組が放送されていた。もしかすると思い録画しておいて再生すると、最後の方で『若者のすべて』の花火が流された。以前youtubeで見たことがあるが、こちらは「4K完全版」ということで映像が非常に鮮明である。画面には、「エンディング ephemeral bloom  伊那火工堀内煙火店  長野県上伊那郡」と示され、イントロが始まると「♪若者のすべて フジファブリック」と表示された。花火と楽曲がシンクロナイズされた見事な演出だった。最初の画面の方に小さく満月のようなものが見えた。美しい花火と『若者のすべて』そして月。会場ではどのような光景が見ることができたのか。そんなことも想った。

  エンディングの曲はもう一つあり、Superflyの『bloom』だった。作詞は、いしわたり淳治。つまり、2019年の赤川花火大会のエンディングは、フジファブリック『若者のすべて』とSuperfly『bloom』の2曲で構成されていた。そのテーマ名は「ephemeral bloom」となっていたが、「bloom」(花)はSuperflyの曲名から取られただろうから、その形容詞の「ephemeral 」(儚い、人生や存在が短い)が『若者のすべて』を指し示していたのかもしれない。併せて「ephemeral bloom」、儚い花。志村正彦『若者のすべて』にふさわしいテーマ名である。

 花火のない夏。花火のことを思い浮かべているうちに、フジファブリック『線香花火』を聞きたくなった。それも、2001年夏頃、自主制作のデモテープとして制作された『茜色の夕日・線香花火』のカセットテープの音源を久しぶりに聴いてみたくなった。このテープをいただいた経緯は、「2018年1月5日 贈り物[志村正彦LN172]」の記事に書いてある。再度、ジャケット写真を添付したい。




 あらためてこのジャケットを見ると、やはり、「赤色の球」は、『茜色の夕日』の太陽と『線香花火』の火球のダブル・イメージなのだろう。見る者は勝手にイメージの連想を作ってしまう。僕にとって、『茜色の夕日』と『線香花火』の像はやがて、『若者のすべて』の「最後の最後の花火」につながっていく。
 言うまでもなく、花火は、花の火と光、そして、火の光の花である。

 カセットテープのクレジットは次のように記されている。

  全作詞作曲/志村 正彦
  編曲/フジファブリック
  Vo&G/志村 正彦
  B/加藤 雄一
  G/萩原 彰人
  Key/田所 幸子
  Dr/渡辺 隆之

 いわゆる第2期のフジファブリックのメンバー。この五人による『線香花火』カセットテープ版音源は、演奏が若干走りすぎていて、ミキシングのせいで志村の声もクリアとは言いがたいのだが、キーボードとギター、ベースとドラムのグルーブ感はなかなかのものであり、一種の明るさ、爽快感がある。夏の季節感が伝わる。しかし、その音のドライブに志村正彦のやや暗い声が入ってくると、悲しみの疾走感のようなものに変容していく。特に、「悲しくったってさ 悲しくったってさ/夏は簡単には終わらないのさ」のところが印象的だ。そのシャウトは何かを吐き出すかのようで、幾分か投げやりのようでもある。「さ」の反復に突き動かされるようにして、終わらない夏というか、むしろ終わらせたくない夏とでもいうべきか、その想いを歌っている。

 花火大会という風物詩がない夏。外出を控える夏。夏の景物や風景を見て、季節を味わうことが少ない。
 花火のない夏は、始まらない夏、それゆえに終わることもない夏かもしれない。

2020年7月31日金曜日

夏の歌-オンライン授業[志村正彦LN260]

 今日で7月が終わる。梅雨が長く続いたせいかなんだか時が進むのが早い、といった感覚だ。

 一昨日7月29日 の朝日新聞朝刊2面に「コロナ禍、受験生減少を警戒 朝日新聞・河合塾共同調査」という記事が掲載されていた。その中で勤務先の山梨英和大学のコメントが紹介されている。(山梨および長野と静岡以外ではほとんど知られていない大学なので、「全国紙」に名が出るのはきわめて珍しい)


 経済状況の悪化が、学生に深刻な影響を及ぼすと予想する大学も多い。「経済的理由による退学・休学の増加」を夏休み以降に予想する大学は、国立13%、公立6%に対し私立は35%。「家庭の経済状況やアルバイト収入減少の影響により、学生が大学継続の意欲を失い大学から離れていく」(山梨英和大)など、懸念する大学は多い。


 この通りの状況であり、コロナ危機は多くの学生に経済的な危機をもたらした。本学では5月に「自修環境整備補助」として主にオンライン授業のための通信費整備のために、全学生に5万円を支給した。これは緊急クローズ宣言以降、来校が一切出来なくなったことから、施設設備整備の目的で徴収している教育充実費から一部を還元するという意味合いもあった。文部科学省より「学びの継続」のための『学生支援緊急給付金』があった。ただしいくつかの条件があり、すべての学生に給付できるものではなかった。この危機が長期化すれば、後期そして来年度に経済的困難から学業継続が困難となる学生が顕在化する可能性はある。

 同記事には、オンライン授業についての立命館大学のコメントがある。


 立命館大は「対面でなければならない授業の価値が、厳しく問い直される。オンラインの広がりと対面の有効性の問い直しは、大学のキャンパスが持つ意味の再考も促すことになる」と予測する。 


 山梨英和大は7年前から学生全員にモバイルPC(Macbook)を貸与している。学内wi-fi環境も整備されていて、学内のどの場所でもインターネット接続ができる。その充実した環境を利用して、僕は昨年から通常の対面授業の中で、Googleの「G suite for education」という学習支援プラットフォームの「Classroom」を使ってきた。そのきっかけは受講生が150人近くいる「山梨学」という科目だった。学生アシスタントがつかない科目なので、すべてを教員一人でやらねばならない。資料の配付や学生の振り返りペーパーの回収をすると、時間のロスが甚だしい。
 そこで、Classroomの質問機能を使って、講義の振り返りや感想を200字程度書いて提出させた。150人ほどの受講生の提出文章から20~30ほど選んで編集して、PDF文書にしてClassroomの資料配付機能を使って配信した。オンラインのネットワークを活用した学生へのフィードバックである。効率の良い方法で学生からも好評だった。通常の対面授業とオンラインの方法とのハイブリッド的形態の一つである。

 この経験があったので、幸いにして、4月からのオンライン遠隔授業にもスムーズに移行できたのだ。しかし、今年はすべてがオンライン遠隔授業となった。専門ゼミナール、文学講読、国語科教育法、それぞれ固有の目標や内容がある。それぞれに最適化した方法を見つけるのは難しい。4月からこれまで試行錯誤してきたと言ってよい。
 特に、今年度からスタートした「日本語スキル」という初年次教育科目は、学生の読解力、思考力、表現力を育成するという重要な目標がある。論理的な思考の構造を図示して理解を深めるために準備段階では紙媒体のワークシートを活用する計画であったが、オンライン授業では当然、紙媒体のワークシートを利用することは不可能である。また、教室の講義でワークシート内容を説明することもできない。

 オンライン授業化のために、根本的に授業展開と教材を変える必要があった。いくつかの方法を検討したが、結局、ワークシートの構成を分割して、Googleの「SLIDE」で資料を作り、「Meet」というビデオ会議ツールの「音声」機能を使って、説明をすることにした。教室でスライドをプロジェクタでスクリーンに投影して、教員が地声で説明する対面授業の方法のオンラインヴァージョンである。
 この方法での授業は密度が濃くなる。時間あたりの情報量が多い。オンライン授業は、授業内容の凝縮度という観点では効率的で有効な方法である(入念にデザインされることが条件だが)。コロナ危機はそのような発見をもたらした。もちろん、対面の授業の方が有効な場合もある。だからこそ、立命館大のコメントにあるように、対面そしてオンラインを含めて大学の授業と大学のキャンパスの意味が問われる。

 来週半ば前期の授業がようやく終わる。振り返れば、全く新規にスライドを作成するのにはかなりの時間がかかった。一回の授業で20~30枚の枚数が必要となる。週にそれが数本。この4ヶ月の間ほぼ毎日、スライド作成に追われていた。ずっとPC画面に向き合っての作業で特に眼が疲れる。心身共に疲労の色が濃いというのが正直なところである。

 担当の専門ゼミナールには、国語教育、文学、山梨に関心を持つ学生が集まっている。詩や歌詞を研究テーマにする学生も数人いる。前期の後半は学生のレポート発表をしたのだが、オンラインであるゆえに変化を持たせた方がよいので、20分ほどのミニ講義を取り入れた。あれこれと考えたのだが、やはり、志村正彦・フジファブリックの音源、歌詞をテーマにすることに決めた。
 学生も自宅に閉じ込められているので、「夏」の季節感を大切にしたい。すでにこのブログで少し触れたが、志村正彦・フジファブリックの夏の歌を集めることにした。『虹』『NAGISAにて』『Surfer King』『陽炎』『若者のすべて』の5曲を取り上げ、5本のスライドを作った。各スライドは6~10シートで構成した。その一部を「日本語スキル」の授業でも活用した。日本語表現の分析になるからである。

 スライドを2枚ほどjpeg画像にして添付する。あまり鮮明でないが、スライドによるオンライン授業の雰囲気が少しだけ伝わるだろうか。
 
志村正彦『虹』

志村正彦『陽炎』

 各回共に、事前にyoutubeなどで音源や映像を聴くことを指示した。授業では、Googleの「ドキュメント」ファイルに各自の感想を書きこむ。共有ファイルなので互いの感想を読むことができる。オンライン授業でも受講生同士のつながりを作るための工夫でもある。他者の考えに触れることは刺激になり、発見をもたらす。
 それから講義時間に移る。スライドで歌詞の枠組やモチーフを図示して説明した。これは歌詞の構造であり、そこに意味を吹き込み、解釈を行うのはあくまでも学生である。歌詞分析のスライド作成は大変だったが、愉しみでもあった。どこかに愉しみの要素がないとオンライン授業は辛いものになってしまう。もちろん、授業自体は学生の思考力や表現力を育てることを目的としている。

 ようやく梅雨明けとなるようだ。
 今年は花火のない夏。時が進むのが早い、短い夏となるのだろうか。


2020年7月10日金曜日

永遠の現在の中 『Surfer King』[志村正彦LN259]

 今日、7月10日は志村正彦の誕生日。

 1980年の生まれ。存命であれば四十歳を迎えた日である。twitterでは誕生日を祝う呟き。富士吉田では『若者のすべて』のチャイム。地元紙や地元局での報道もあった。四十歳というのは節目の年なのだろう。

 自分の四十歳を振り返る。男子の寿命はやはり八十歳くらいである。四十歳はその半ばまでたどりついてしまったことになる。人生の半分が去って、残された時間が半分。その中間の位置にいて過去と未来のことを考えている。そういう意味では中間の年齢、まさしく中年、ミドルエイジである。
 僕の場合、過ぎてしまった半生の時間と残された半生の時間との間に挟まれて、現在という時間がなんだか縮んでしまうような、手応えのないような、そんな日々を暮らしていたようにも記憶する。三十歳代まではかろうじて「若者」の感覚があったのだがそれが失われる。それでも成熟にはほど遠い。

 四十歳の志村正彦は全く想像できない。作品の中に存在する彼は年齢を重ねることがない。夭折の詩人は永遠の現在の中にいる。

 今日は彼のミュージックビデオをこのブログに添付して、誕生日を祝したい。
  youtubeの「フジファブリック Official Channel」でMVを探す。現在のフジファブリックの映像がすごく増えていて、分量的には、志村正彦の映像が少なくなっている(再生回数は圧倒的に多いのだが)。これは残念である。志村時代のライブ映像などもアーカイブとして加えるべきだろう。

 「永遠の現在の中にいる」というモチーフで、Official ChannelからあるMVを選んでみた。

  『Surfer King』である。

 サーファーソングを解体し、新たに構築したような歌詞。しかも高度な批評性を併せ持つ。「脱構築ロック」の傑作である。
 スミス監督によるMVは奇妙奇天烈、奇想天外。過去作品『銀河』からの「引用」がある。壊れかけた日本が描かれる。
 「フフフフフ…」の口笛のようなサビ。「メメメメメリケン!!」のシャウト。左足を少し伸ばしてリズムを取りながら弾くエレクトリックギター。大きく動かす唇。正面を見据える眼差し。でもいつものように遠くを見つめているようでもある。城戸紘志の波打ちドラムに乗って、「サーファー気取り アメリカの…」の「…」のエンディングまでクールに激しく歌い続ける。ロック的なあまりにロック的な志村の姿がある。この姿は永遠だ。撮影時2007年の志村の現在が凝縮されている。




 映像の中の志村正彦は、永遠の現在の中にいる。
 現在という時がここにあるかのように、ここにしかないように、歌い、叫んでいる。



2020年7月5日日曜日

この十年。「運命」なんて便利なもので。[志村正彦LN258]

 志村正彦・フジファブリックの音楽に出会ってちょうど十年になる。今日はそのことを書いてみたい。

 十年前の2010年。五月から七月まで、僕は術後の療養のために自宅で静養していた。安静にしていなければならないので自宅に籠もりきりだった。何もすることがなく、ただひたすら回復を待つ。少し読書をしたり、BSやCS放送の音楽番組を見たり聞いたりの日々。スカパーには邦楽ロックや洋楽ロックの音楽番組がいくつもあった。映像をBGM風にして部屋に流していた。

 六月頃だった。フジファブリックの特番が「スペースシャワーTV」「MUSIC ON! TV」「MTV」などで放送されていた。番組を録画して、代表曲のミュージックビデオを繰り返し見た。
 なかでも『陽炎』のMVが深く染み込んできた。
  その視線がどこに向けられているのか分からないような眼差しで、やや暗い表情をした青年が歌っている。

 その青年が、志村正彦だった。


  あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
  英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ


 冒頭の語り出しが秀逸だった。「あの街並」「路地裏の僕」の現れ方が独自だった。物語が動き始めて、心の中のスクリーンに様々な風景が登場する。
  真夏の季節。路地裏の街を女性が彷徨う。通り雨、雲の流れ、空、部屋のカーテン、向こう側の海辺の光景。時計の針の逆転、時計の落下。MVの風景が刻まれていった。


  そのうち陽が照りつけて
  遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる   


 一気に最後のイメージに収束していった。完璧な歌詞と楽曲、言葉がこちら側に伝わる「声」と巧みな演奏があった。それまで知っていた日本語ロックのいずれとも似ていない。これは日本語ロックの最高の達成ではないか。その時の直観だった。フジファブリックというバンドは山梨出身の青年が作ったということを地元紙の記事で読んでうっすらと知っている程度だった。もっと前に聴くべきだったという残念な後悔するような気持ちになった。

 志村正彦・フジファブリックとの出会いの後、CD・DVD・書籍を入手し、ネットの記事を探した。半年前、2009年12月に急逝したことを知った。故郷が富士吉田であること、7月に富士急ハイランドで「フジフジ富士Q」が開催されること、スカパーの特番は彼の追悼のためだったことも分かった。

 2011年、あることを契機に勤め先の高校で、志村正彦・フジファブリックの歌詞について語り合う授業を始めた。地元紙に掲載された縁で、その年の12月、彼の同級生が富士吉田で開催した志村正彦展に生徒の書いた志村論が展示された。その際に僕も「志村正彦の夏」というエッセイを書いた。その文章が原点になって、2012年末にこの「偶景web」を立ち上げた。その後の展開はこのブログに書いてある通りである。2013年夏の富士吉田でのイベント、地元放送局でのニュース番組。2014年の甲府での「ロックの詩人志村正彦展」。この十年間の前半は色々なイベントに関わった。自らも主催した。

 この十年間の後半は、「偶景web」を書くことに集中した。テーマを広げ、モチーフを掘りさげていった。志村と関わりの深かった音楽家たちも取り上げるようになった。2016年、志村正彦の作品を教材にした授業実践をある書籍に収録して発表した。2018年、大学に移り、前回の記事に記したように志村正彦の歌詞を講義のテーマにして、日本文学や日本文化を考察している。今年の担当ゼミではロックの歌詞を研究したいという学生も出てきた。

 今年度から「日本語スキル」という科目を新たに作り、読解力、思考力、表現力を育成する初年次教育に取り組んでいる。先日、基礎スキルの一つとして、「は」と「が」の違いについて講義した。事前の準備で教科書的ではない用例を探していたところ、『虹』の歌詞に「は」と「が」の区別についての良い事例があることに気づいた。例えば、


  週末 雨上がって 街生まれ変わってく

  週末 雨上がって 僕生まれ変わってく


 の二つにおいて、「街が」の「が」と「僕は」の「は」が使い分けられている。この差異を表現的観点から考察してみた。志村の表現は一つ一つの単語の水準で非常に優れている。助詞の使い方一つをとっても正確である。歌詞で描かれる世界は、彼の的確な表現力に支えられている。授業ではスライドを作って図示して説明したのだが、学生たちもかなり関心を持った。自分が好きな歌詞について、表現的な観点から読み直してみたい、分析したいという声もあった。志村正彦の歌詞から日本語の表現を考える。ミニレッスン的な講義だが、そのような手法も開発していきたいと思っている。

 この授業を構想したときに「偶景web」で『虹』について書いた記事が参考となった。結果として、このブログが「研究ノート」のようなものになった。「偶景web」を「研究ノート」として大学での講義に活用する。このブログを始めたときには想像もできなかった展開である。

 今朝から、フジファブリックのシングルA面集とB面集のCDを再生している。『若者のすべて』の次のフレーズが「なんだか胸に響いて」きた。


  夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
 
  「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて


 この十年の歩みを、 「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて、というように語りたい気持ちにもなった。
 2010年から2020年までの十年。志村正彦の音楽との出会いがなかったら、全く異なる十年になっただろう。それは確かなことである。
 でも、「運命」なんて言葉を使うことには、ためらいがある。自らが選択する言葉ではないように思われる。それでも、その便利なもので「ぼんやりさせて」であれば、使うことが許されるだろうか。

 この十年を、「運命」なんて便利なもので、振り返る。想いを巡らす。

 今日はやはり最後に、そう記しておきたい。

2020年6月21日日曜日

「ロックの詩人」志村正彦は季節をどう歌ったか-『若者のすべて』を読む-2020《人間文化学》[志村正彦LN257]

 山梨英和大学には《人間文化学》という1年次必修科目がある。シラバスの概要には「この科目の名称であるだけでなく、学部・学科の名称でもある「人間文化学」とは何なのだろうか。これを学ぶことで、われわれは、どういう地平を切り開くことができるのだろうか」と学生へ問いかけている。
 入学生がこれから4年間「人間文化学」を学んでいく出発点となるように、12人の教員が専門分野について講義するオムニバス形式の授業であり、私も日本語日本文学について担当することになった。具体的な事例に触れながら語るという要請なので、下記のテーマを設定した。

   日本語日本文学と人間文化学:季節の言語文化論

 「ロックの詩人」志村正彦は季節をどう歌ったか -『若者のすべて』を読む-

 『若者のすべて』は季節というモチーフだけに限定される作品ではないが、日本文学との接点のために「季節」という観点をイントロダクションに用いた。この作品には多層的な語りの構造やモチーフの展開があり、現在の学生、若者にとっての「文学作品」として享受できる。むしろこのような歌が現代の文学ではないかという問題意識の提起でもある。だから「ロックの詩人」という形容を志村正彦に冠した。また、学生が文学作品を読む方法についても学ぶことができるように配慮した。

 受講生は180人程度。当初は大教室で行う予定だったが、コロナ危機の影響によってオンライン遠隔授業で行った。本学は学生全員にモバイルノートPC(MacBook Air)を貸与している。またこの危機に対応するために、自宅でのネット接続環境の整備を目的として「自修環境整備補助」として1人あたり5万円を支給した。昨年度末、学内の無線LAN(Wi-Fi)のネットワーク機器も最新のものにリプレースされた。Googleの「Gsuite for education」をオンライン授業のプラットフォームにしたが、以前から通常の対面授業で資料の配信や課題の提出・回収に使っていた。地方の小規模大学にしては、コンピュータ・ネットワークの整備やICT教育に力を入れてきたので、比較的スムーズにオンライン遠隔授業に移行できた。

 先週、その授業を行った。STAY HOMEで、自宅のPCとネットワークを使って講義に臨んだ。Googleの授業支援ツール「Classroom」を基盤にして、ビデオ会議ツールMeet をリアルタイムの映像・音声の送信に活用した。
 Meetの画面にGoogleのスライド資料を映し出し、それに私の声による講義を重ね合わせる方法をとった。そのために、56ページのスライドを作成した。授業時間全体は95分、講義分は60分。スライドのすべてを伝えるはできないので、要点を絞って説明していった。関心のある学生には授業後に読んでもらうことを前提にした。

 スライド資料はこの偶景webの記事から再編集して作った。現時点で『若者のすべて』は52回書いてきた。この8年間の記事を読み直していったのだが、ほとんど忘れてしまったこと、上手く書けていないところ、もっと掘り下げた方がいいところなど、色々な発見があった。何となく、懐かしさのようなものも味わった。この歌は、テレビドラマや映像のBGMとして使われたり、少なくない歌い手からカバーされたりと、すでに色々な歴史が刻まれている。昨年はドキュメンタリー番組のテーマともなった。

 結局、最初の頃に集中して連載した『若者のすべて』1~12(2013年6月23日~10月26日)を基軸にまとめることにした。この全12回の論を書いてからかなりの年月が経つが、基本的な考え方は変わっていないことも確認できた。その基軸にいくつかの重要なモチーフをつなげると10章の構成になった。受講生にとって文学の読解や研究のための参考になる観点については《 》内に記した。各章のテーマは次の通りである。       


1)歌の世界をたどりきれない想い 《想いから問いかける》
2)二つの異なる曲、二つの歌の複合 《証言からの推論》
3)《歩行》と《僕》の系列 《語りの構造とモチーフの分析 1》
4)《花火》と《僕ら》の系列 《語りの構造とモチーフの分析 2》
5)「二人」と「僕ら」 《横断的に読む》
6)「自然詩人」 季節の風物詩「花火」《文芸批評・文学研究の観点》
7)消えてゆく言葉、解釈への問い《他の作品との関連、モチーフ批評》
8)僕らの世代《想いから問う》
9)「時代」を超える歌 《歌の運命》
10)なぜ志村正彦は歌を作り、歌うのか。《創造すること》


 事前課題として、『若者のすべて』歌詞とyoutube公式サイトの『若者のすべて』ミュージックビデオのURLを記載した資料を送信した。学生には繰り返し(できれば2,3回)聴いておくことを伝えた。
 授業の最初に、学生に『若者のすべて』を聴いて感じたこと、心に浮かんできたことを150字程度で書くことを指示。学生からの返信。60分の講義の展開。終了後、授業についての感想、振り返りを書くことを指示。学生からの返信。さらに、翌日までに『若者のすべて』論(600~800字程度)を書いて返信することを提出課題にした。

 学生が書いて提出した論の総数は167。優れた内容の論が多かった。歌詞と自分の想いを重ね合わせるようにして述べたもの。歌詞の語りや構造を踏まえた上で考察したもの。大学生とは言っても入学したばかりだが、それでも感想のレベルから考察や分析のレベルへと論を進めていく姿勢がうかがわれた。「世界の約束」という表現に注目したり、コロナ危機の状況下での視点を打ち出したりと、若者らしい思考が展開されていた。167の論について的確に書けているところを指摘したコメントを記して、学生一人ひとりに返信した。三日間かかったが、充実した時間だった。彼らの論から学ぶことは少なくない。
 学生が提出した『若者のすべて』論はその学生の「著作物」なのでここで紹介することは控えるが、授業の感想として寄せられたものを二つ引用させていただく。


今回の講義を受講して、今までは歌詞は付属のような感覚でしたが、曲同様、またそれ以上の意味があるものだと気づかされた。また、"語りの枠組み"ということを知り、その歌詞で何が語られ、何をモチーフにしているのかと分析していくにつれ、深層にある想いなどを読み取ることができるのではないかと思った。

歌詞の言葉の一つ一つから、言葉を選ぶ慎重さや言葉に対する拘りを感じました。「二人」と「僕ら」の使われ方の違いについて面白いと感じ、さらに詳しく知りたいと思いました。詩のような歌詞と言われているように、曖昧な部分からも様々な考えを読み取ることが出来て面白いと思いました。


 担当教員の拙い講義にもかかわらず、授業の目標はほぼ達成されたと考えている。これは『若者のすべて』という歌が、若者に作用する根源的な力を持つからである。学生はその力を若者らしく受けとめて、自らの感性と知性を行使して自由に表現した。




2020年6月12日金曜日

Peter Gabriel 『Biko』[S/R009]

 前回、ジョージ・フロイド氏の事件に講義する運動の広がりと弟のテレンス・フロイド氏の「Educate yourself」という訴えについて書いた。数日前、「フロイドさん殺害、ピーター・ガブリエルが人種差別に改めて抗議」という記事がYahoo Japanに載っていた(6/8(月) 13:30配信Rolling Stone Japan)。同記事から引用する。


アメリカ全土でジョージ・フロイド氏の殺害への抗議活動が続く中、ピーター・ガブリエルは米現地時間6月1日、Twitterにて人種差別的な殺人にショックを受けたと投稿した。彼は「こうした残虐行為には直接立ち向かい、それがいつ、どこで起きようと正しく裁かれるべきだ」と、#BlackLivesMatterのハッシュタグを用いて述べた。ピーター・ガブリエルは1992年、人権侵害を監視する非営利組織「WITNESS」を立ち上げた。彼は「WITNESSは警官の暴力行為を監視する団体を援助してきた。私は、今回の抗議活動が、その根本としているものが問題として扱われるように導くだけでなく、世界がどのように人種差別や宗教的迫害に立ち向かうかのように目を向ける勇気を与えるきっかけになることを祈っている」と付け加えた。


 ピーター・ガブリエルの公式web「petergabriel.com」には、次の画像とこの記事の基になった「Black Lives Matter 2nd June, 2020」というコメントが掲載されている。




Along with the civilised world I was horrified by the racist murder of George Floyd.

This type of brutality needs to be confronted directly, with justice clearly seen to be done whenever and wherever it occurs.

 ………

At the same time politicians are trying to win support by fuelling nationalism and racism for their own gain. If we don’t like the way things are going we have to speak out and act. The world can only be what we choose to make it.

 ピーター・ガブリエルは、ジョージフロイド氏に対するような残虐行為については直接立ち向かう必要があり、同時に、政治家がナショナリズムと人種差別を助長することによって支持を得ようとしていることも批判している。


 すでに、この偶景webでは、2016年12月18日に「『Biko』Peter Gabriel-ビコ生誕70周年」という記事でPeter Gabriel 『Biko』を取り上げている。その時はライブ映像を使ったが、[S/R009]としてこの曲のミュージックビデオを紹介したい。

 このMVには『遠い夜明け』(Cry Freedom)[1987年製作・公開、イギリス映画、監督リチャード・アッテンボロー]の映像が使われている。この映画は、アパルトヘイト政権下の南アフリカ共和国で殺害された黒人解放活動家スティーヴ・ビコと南アフリカ共和国の有力紙デイリー・ディスパッチ紙の白人記者ドナルド・ウッズとの交友に基づいている。『Biko』のリリースは1980年、その際にはMVは制作されなかったと記憶している。1987年の『遠い夜明け』公開と共に、このMVはロル・クレームによって作られた。

 「the eyes of the world are watching now/Watching now」という状況が、今、世界に広まっている。 




September ’77
Port Elizabeth weather fine
It was business as usual
In Police Room 619
Oh Biko, Biko, because Biko
Oh Biko, Biko, because Biko
Yihla Moja, Yihla Moja
– The man is dead
The man is dead

When I try to sleep at night
I can only dream in red
The outside world is black and white
With only one colour dead
Oh Biko, Biko, because Biko
Oh Biko, Biko, because Biko
Yihla Moja, Yihla Moja,
– The man is dead
The man is dead

You can blow out a candle
But you can’t blow out a fire
Once the flame begins to catch
The wind will blow it higher
Oh Biko, Biko, because Biko
Oh Biko, Biko, because Biko
Yihla Moja, Yihla Moja
– The man is dead
– The man is dead

And the eyes of the world are watching now
Watching now


 もう一つの映像も紹介したい。
 
 Peter Gabriel - Biko Live @Johannesburg 46664 against AIDS




 2007年12月1日、南アフリカのヨハネスブルクで、ネルソン・マンデラ財団がエイズ(HIV/AIDS)撲滅を訴えるチャリティーコンサート「46664」を開催した。その時のピーター・ガブリエル『Biko』ライブ映像である。コンサート名の「46664」は、18年間ロベン島(Robben Island)に投獄されていたマンデラ元大統領に付けられていた番号。ヨハネスブルクで歌われた『Biko』にはピーター・ガブリエルの特別な想いが込められていただろう。


2020年6月5日金曜日

「Educate yourself」

 Sly & The Family Stone『Family Affair』が作られた1970年代の前半は、日本でもアメリカでも60年代後半の雰囲気を濃厚に残す時代だった。荒々しいものがまだうごめく動きと共に次第にその動きが収束していく。その二つの動きが交錯する時代だった。

 60年代後半から70年代後半の時代から50年、半世紀が経った。
 今、アメリカのミネソタ州ミネアポリスで警官に拘束されて死亡したアフリカ系アメリカ人ジョージ・フロイド氏の事件に抗議するデモが世界中に広がっている。「正義なければ平和ない」と、フロイドさんに連帯を示すデモは欧州各地で連日繰り広げられている。

 アメリカでは暴動や略奪も起きてしまった。そのことに対して、弟のテレンス・フロイド氏が「Educate yourself」と訴えていた。「自分自身を教育して、誰に投票するか決めるんだ」「別のやり方でやろう」という文脈の表現だった。この映像がネットに上がっているのでぜひ見てほしい。

 この「educate yourself」について考えてみた。「educate」の語源については幾つかの説があるが、「人を外へ(ex-)引っ張り(duco)伸ばしていくこと」が基本的な意味らしい。このことから、人の力と能力を育成し、開発していくことと捉えることもできる。この言葉の定訳である「教育」には、誰かが誰かに教え込むという意味合いがある。もともとはそうではなく、自らが自らを育てていくという方に近い。「educate yourself」となると、自分自身が自分の力を育て伸ばしていくことになる。自分が主体であり自分が対象である。誰かから、学校や教師から教えられるのではない。自分が自分自身を育てていく。自らの能力や知性を伸ばしていく。
 以前、ジョセフ・ジャコトとジャック・ランシエールの『無知な教師 知性の解放について』について書いたことがある。人間は本質的に平等であり、人間は自分で知性を育成し、自身を解放することができる。「educate yourself」はその教えにも重なっていく。

 テレンス・フロイド氏の「自分自身を教育して、誰に投票するか決めるんだ」という言葉は、私たちの国も激しく揺さぶる。
 私たち一人ひとりが「educate yourself」を実践することによって、この日本も変化していくだろう。いや、変化させなければならない。
 私たちも問われているのだ。

2020年6月4日木曜日

Sly & The Family Stone『Family Affair』[S/R008]

 [S/R008]は、Sly & The Family Stoneスライ&ザ・ファミリー・ストーンの『Family Affair』ファミリー・アフェア。

 1971年発表。当時、この曲はラジオでかなり放送されていた。すでにロック音楽に馴染んでいた中学生の僕は、この曲でロックとは異なる音楽の世界があることを知った。この曲を聞くといつも、なぜか冬の夜の情景を思いだす。エレクトリックなファンクのビートに乗って、スライの低くて力強い声がクールに響き出すと、どこか別の世界に持って行かれるような不思議な気分になった。押さえられた高揚感とでも言うのだろうか。この曲は特別な存在となった。

 歌詞の世界はいまだによく分からない。「Family Affair」という表現に重層的に織り込まれているアフリカ系アメリカ人の生活や歴史が掴みきれないからだ。「Family Affair」の声、響き、叫びのようなものが、その意味を超えて何かを聴く者に伝えてくる。


 "Family Affair" by Sly & The Family Stone




It's a family affair, it's a family affair
It's a family affair, it's a family affair
One child grows up to be
Somebody that just loves to learn
And another child grows up to be
Somebody you'd just love to burn
Mom loves the both of them
You see it's in the blood
Both kids are good to Mom
"Blood's thicker than mud"
It's a family affair, it's a family affair

Newlywed a year ago
But you're still checking each other out
Nobody wants to blow
Nobody wants to be left out
You can't leave, 'cause your heart is there
But you can't stay, 'cause you been somewhere else!
You can't cry, 'cause you'll look broke down
But you're cryin' anyway 'cause you're all broke down!
It's a family affair
It's a family affair


 この曲を含むアルバムは、スライ&ザ・ファミリー・ストーン5枚目のアルバム『暴動』 (There's a Riot Goin' On)である。上の画像は『暴動』のオリジナル・ジャケットである。wikipediaによれば、星のかわりに太陽を配した赤・白・黒からなる星条旗を用いている。スライはこのジャケットは「すべての人種の人々」を意味し、黒は色の欠如、白はすべての色の混合、赤はあらゆる人に等しく流れる血の色を表していると説明しているそうだ。アルバムA面の最後にはタイトル・トラックがあるが、これは0分0秒と記されている。つまり、無音であり、聴き取ることはできない。このタイトルはある暴動のことを示しているとも言われてきたが、後年、スライは「自分はいかなる暴動も起こってほしくない」がゆえに表題曲 "There's a Riot Goin' On" には演奏時間がないのだと説明したようである。

 youtubeに当時の映像があった。スライの隣にいるのは妹のローズ・ストーン。あの印象深いコーラスを担当している。


 Family Affair - Sly & The Family Stone  1972



 Sly & The Family Stoneが2008年の「Tokyo Jazz Festival」に出演した時の貴重な映像もあった。5分30秒すぎに、スライが登場し、大喝采を浴びながら、『Family Affair』を歌い始める。

    Sly & The Family Stone - Live at Tokyo Jazz Festival 2008



 この日本で、東京で、スライ・ストーンが『Family Affair』を歌っているということ自体が不思議だ。奇蹟のようでもある。
 オランダ人ドキュメンタリストによるスライ・ストーンのドキュメンタリー映画があるが、まだ見ることができていない。

 




2020年5月31日日曜日

Step by step『茜色の夕日』 [志村正彦LN256]

 五日ほど前、正午の直前だった。

 UTYテレビ山梨をなんとなく見ていると、綺麗な夕焼け雲を背景に富士山とその裾野の街が映し出された。ドラムの音と共に「茜色の夕日眺めてたら」の歌声。志村正彦の声。フジファブリックの『茜色の夕日』だ。反射的に録画ボタンを押した。すぐに画面に「富士吉田市 ♪茜色の夕日♪フジファブリック」の表示。 UTYなので、あの「STAY HOME」のシリーズなのかと思ったが、「STAY HOME」の広告はすでに終わったはずだ。60秒ほどの映像だったが、次の言葉が流された。


 Step by step
 今できることを
 一歩一歩新しい日常へ…

 いつかみんなで眺めよう
 その日のために今できること


 画面の右上には「50TH Uバク UTY」のクレジット。あの「STAY HOME」に継ぐ「Step by step」というテーマのUTY開局50周年と連動した公共的な広告のようだ。「STAY HOME」の『若者のすべて』に続いて『茜色の夕日』が使われたのである。「STAY HOME」から「Step by step」へ。一歩一歩、「新しい日常」へ歩んでいくというメッセージである。
 この映像は山梨県内でしか視聴できないのが残念だが、こればかりは仕方がない。UTYのホームページでもこの動画を見ることはできない。
 『茜色の夕日』の中で使われた部分は下記の通りである。 


  茜色の夕日眺めてたら
  少し思い出すものがありました
  君が只 横で笑っていたことや
  どうしようもない悲しいこと

  君のその小さな目から
  大粒の涙が溢れてきたんだ
  忘れることはできないな
  そんなことを思っていたんだ


 映像は富士吉田市の上空からのドローン撮影だろう。富士山に向かって北東の方向からドローンは飛んでいく。下には富士吉田の市街が広がる。街や車の灯り、川や大きな通りも見える。
 富士山の南西の方向に、茜色に照らされた雲の群れが水平にたなびいている。富士山の頂上あたりのラインで、地平線に近いところに茜色のグラデーションの雲、その上方は青いグレー色の雲に分かれているが、その色彩の差異がコントラストをなしている。しばらくすると夕闇に包まれていくのだろう。その前の「茜色の夕日」の時間。見た瞬間に引き込まれていく富士山と吉田の街の空間、「茜色の夕日」の空間。時間と空間の美しい光景に『茜色の夕日』の歌が流れていく。

 フジファブリック『茜色の夕日』と富士山の「茜色の夕日」の風景。あからさまと言えばあまりにあからさまな組合せだが、これが意外なほどに合っていた。この風景と志村の言葉が見事に融合していたのだ。志村の記憶の中にこの自然の光景が刻まれていたとも言えるほどに。

 文芸批評家の吉本隆明は、『吉本隆明歳時記』(1978年、日本エディタースクール出版部)で、「自然詩人」について次のように述べている。

 わたしの好きだった、そしていまでもかなり好きな自然詩人に中原中也がいる。この詩人の生涯の詩百篇ほどをとれば約九十篇は自然の季節にかかわっている。しかもかなり深刻な度合でかかわっている。こういう詩人は詩をこしらえる姿勢にはいったとき、どうしても空気の網目とか日光の色とか屋根や街路のきめや肌触りが手がかりのように到来してしまうのである。景物が渇えた心を充たそうとする素因として働いてしまう。 (「春の章 中原中也」)


 「自然詩人」は、「空気の網目とか日光の色とか屋根や街路のきめや肌触り」を手がかりにして詩的世界を創る。この論を参考にして考えてみた。
 志村正彦も「茜色の夕日眺めてたら/少し思い出すものがありました」、「真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた」と歌い始める。「茜色の夕日」、「真夏のピーク」。風景と場所の感覚、季節と時間の感触。志村の数多くの歌は、自然から受け取った感覚を一つのイントロダクションのようにして、自分自身の世界を語り始める。

 そういう捉え方をすれば、志村正彦も中原中也と同じような「自然詩人」と言えるだろう。しかし、実際の語り方、言葉の展開の仕方は異なる。書かれる詩と歌われる歌詞という違いもある。それ以上に、生の根本的感覚がこの二人は異なっている。しかし、そのような差異を超えて、志村正彦と中原中也の間にはどこか響き合うところがある。


【追伸】
 このブログのページビューが30万を超えました。どうもありがとうございます。



2020年5月16日土曜日

Analogfish / 下岡晃 『 I say 』【S/R007】

【S/R007】はAnalogfish 『 I say 』。

 S/R(Songs to Remember)は、洋楽と邦楽を交互に取り上げている。邦楽は、フジファブリック、HINTO、メレンゲ、そしてAnalogfishと続いてきた。HINTO、メレンゲ、Analogfishは、志村正彦とのつながりの流れだと受けとめられるかもしれない。自然にそう思われることはその通りなのだろうが、そうではないという気持ちの方がはるかに強い。この三つのバンドは日本語ロックの最高水準にある。安部コウセイ、クボケンジ、下岡晃の歌詞、そして楽曲、バンド演奏も、洋楽・邦楽を超えてロック音楽の「Songs to Remember記憶すべき歌」に入る。

 Analogfish 『 I say 』は2013年リリースのアルバム『NEWCLEAR』収録曲。アルバムではバンドサウンドだが、映像『Analogfish - I say / TOKYO ACOUSTIC SESSION』では、下岡晃、佐々木健太郎、斉藤州一郎の3人によるコーラスとアコースティックギターがとても美しい音楽を響かせている。クレジットには「Sunday 25th of August 2013 経堂 しゅとカフェ」とある。8月の日曜日のカフェ。やわらかい光と樹の緑に囲まれている。
 これと対照的なのがもう一つの映像『 “I say”【下岡晃バージョン】』。クレジットは「@代官山ノエル 2018/12/22-23」、クリスマスの前夜に本多記念教会で収録されたものだ。

 『Suono Dolce「Music Go Round」』(GUEST : 下岡晃、聞き手 : 小野島大)で、下岡は次のように語っている。

 「I Say」は、街を歩いてる時にずらずらっと出てきましたね。

 「I Say」みたいな歌詞は、もう完璧にそぎ落として、何度聴いても耐えうるように磨きこんでいく。

 この歌街を歩いてる時に出てきてから完璧にそぎ落として磨きこんでいくまで、どれくらいの時間が流れたのだろうか。「夕日が道行く彼女の頬を染めれば/もう済んだ事をなんだか思い出して/テールランプの灯りが夜に滲めば/無い物ばかりがやけに気になって」のところが染み込んでくる。
 下岡は日常の光景、見える世界を掴みながら、それを見えない世界、不可視のものへとつなげていく。
 「I say / 愛せ」という音の戯れ。音の戯れを通じてあえて語ろうとする愛であろう。愛とは持っていないものを与えることである、というジャック・ラカンの言葉を想い出す。
 
 2013年、TOKYO ACOUSTIC SESSION」versionの夏の昼の光、自然の陽光。Analogfish3人のおだやかな「I say」が漂う。2018年、「代官山ノエル」versionの冬の夜の光、クリスマスのキャンドルの灯り。下岡晃の「祈り」のような「I say」が教会に広がる。



 『Analogfish - I say / TOKYO ACOUSTIC SESSION』
     Sunday 25th of August 2013 経堂 しゅとカフェ
 Editor:Yuko Morita  Camera:Tetsuya Yamakawa,
 Takaaki Komazaki  Director and Producer:Rie Niwa




 “I say”【下岡晃バージョン】@代官山ノエル 2018/12/22-23
 撮影:澤崎昌文  (VANESSA+embrasse)  制作補助:有吉達宏
 ディレクター:西川啓




    アナログフィッシュ 『 I say 』

              作詞:下岡晃
              作曲:アナログフィッシュ


              悲しいときは泣いたら見つけてくれた
              パパはいないよママもいないよ
              なんにも言わずにただ抱きしめてくれた
              人はいないよ君に会いたいよ

              愛されたいより愛せ
              I say ただI say
              ただ愛せ

              夕日が道行く彼女の頬を染めれば
              もう済んだ事をなんだか思い出して
              テールランプの灯りが夜に滲めば
              無い物ばかりがやけに気になって

              愛されたいより愛せ
              I say ただI say
              ただ愛せ

              悲しいときは泣いたら見つけてくれた
              パパはいないよもうママもいないよ
              なんにも言わずにただ抱きしめてくれた
              人はいないよ君に会いたいよ

              愛されたいより愛せ
              I say ただI say
              ただ愛せ

              世界じゃなくても
              時代でもなくても
              卵が先でも
              鶏が先でも

              I say ただI say
              ただ愛せ

2020年5月10日日曜日

Lou Reed 『Perfect Day』 [S/R006]

  Lou Reed ルー・リードの『Perfect Day』パーフェクト・デイをS/R(Songs to Remember)第6回にとりあげたい。
 1972年、ソロ2枚目のアルバム『Transformer』(トランスフォーマー)の一曲。彼の数多くの作品の中でも最も親しまれているものだろう。

 この歌は、ルー・リードが当時の婚約者(後の最初の妻)とニューヨークのセントラルパークで過ごした一日をモチーフにして書いたそうだ。「この男にとっての完璧な一日のビジョンは、女の子、公園のサングリア、そのように過ごして家に帰ることだった。完璧な一日、すごくシンプルなものだ。この言葉は私が言ったことだけを意味している」とインタビューで述べている。

 ルー・リードが言うように、シンプルな言葉でショートストーリーが綴られる。何でもない日であるがそれゆえに完璧な一日の物語。しかし、歌詞の後半に彼らしい屈折が現れてくる。
  「Just a perfect day/You make me forget myself/I thought I was/someone else, Someone good」のところが気に入っている。誰だって自分のことを忘れたい。何か別のものになりたい。そうしてくれる存在がほしい。

 そしてラストの「You’re going to reap/Just what you sow」は、『ガラテヤの信徒への手紙』(パウロ書簡)第6章 第7節にある「A man reaps what he sows.」(この英訳は新国際版聖書による)から着想を得たようだ。この「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」の次の第8節は「すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」とある。Lou ReedにしろPeter Gabiriel にしろ、欧米のロックの歌詞の中には聖書や文学作品の言葉が織り込まれている。キリスト教文化圏の人々にとっては自明のことでも僕たちには分からないことがある。
 あなたが蒔いたものは何だろうか。そしてあなたはそれを刈り取っていく。詩的な想像が膨らむ。

 2000年10月の"ECSTASY" TOUR で来日したときに、この『Perfect Day』が最後に歌われた。この曲らしい余韻を残す終わり方だった。この時はLou Reed、Mike Rathke(ギター)、Fernando Saunders(ベース)、Tony Smith (ドラム)の4人編成だった。ロックバンドらしいユニットによるグルーブ感とPAの音が素晴らしくクリアだったことが印象に残っている。

 紹介する映像は、『Lou Reed - Perfect Day (Live At Montreux 2000)』。"ECSTASY" TOUR と同じユニットである。youtubeにある『Perfect Day』映像の中でもベストテイクであろう。





  Lou Reed  『Perfect Day』

 Just a perfect day
 Drink sangria in the park
 And then later
 when it gets dark we go home

 Just a perfect day
 Feed animals in the zoo
 then later
 A movie, too, and then home

 Oh, it’s such a perfect day
 I’m glad I spent it with you
 Oh, such a perfect day
 You just keep me hanging on
 You just keep me hanging on

 Just a perfect day
 Problems all left alone
 Weekenders on our own
 It’s such fun

 Just a perfect day
 You make me forget myself
 I thought I was
 someone else, Someone good

 Oh, it’s such a perfect day
 I’m glad I spent it with you
 Oh, such a perfect day
 You just keep me hanging on
 You just keep me hanging on

 You’re going to reap
 Just what you sow
 You’re going to reap Just what you sow
 You’re going to reap Just what you sow
 You’re going to reap Just what you sow
 You’re going to reap Just what you sow




2020年5月6日水曜日

メレンゲ『火の鳥』 [S/R005]

 S/R(Songs to Remember)第5回は、メレンゲの『火の鳥』。
 このブログでもう何度も取り上げたのだが、前回の記事「空を飛ぶ鳥の視線[志村正彦LN255]」を書き終わったときに、次の[S/R]はこの曲しかないと思った。
 レクエイムとしてこの作品は記憶されるべき歌である。

 フジファブリック『若者のすべて』音源のUTY「STAY HOME」60秒version。「いつもの丘」の上空を飛ぶ4Kドローンの速度と高度から、空を飛ぶ鳥を想像した。空をゆるやかに旋回する鳥の視線から眺めている風景の映像に、フジファブリック『若者のすべて』が重なることによって、空を飛ぶ「鳥」になった志村正彦が「いつもの丘」を眺めながら歌っている、そのような想像が浮かんできた。その直後に、メレンゲ『火の鳥』を想起した。この曲は「まっすぐに空を鳥が飛ぶ」光景を歌っている。クボケンジが志村正彦を追悼した作品だと言われている。

 メレンゲ『火の鳥』にはミュージックビデオがある。以前、この歌について次のように書いた。

 海辺の光景。荒れた白い波。波打ち際に寄せられた無惨な花。赤い花、青い花、橙色の花。上空で旋回する一羽の鳥。黒い影。鳥が落ちてきて、花と化したのか。それとも、これから、花が鳥と化して、飛び立っていくのか。

 この映像の冒頭部分は、海、波、花、鳥、空で構成されている。空を飛ぶ鳥と波打ち際の花は、その対比が際立つがゆえにある象徴性をもつ。「STAY HOME」映像は、僕の想像の中で、鳥があたかも桜を愛でるようにして空を飛んでいく。「いつもの丘」を慈しむようにして旋回していく。
  メレンゲ『火の鳥』の映像、UTY「STAY HOME」映像。偶々の取り合わせであるが、この二つの映像が「偶景」のように現れてきた。志村正彦が愛した花の光景が互いを照らし合う。

 クボケンジは「世界には愛があふれてる 夜になれば灯りはともる」「世界中を見に行こう ツンドラのもっと向こう」と語っている。ツンドラは地下に永久凍土が広がる凍原。凍りつく世界の向こうへと鳥が飛び立っていく。そのような光景を思い浮かべることができる。そしてツンドラの凍原にも花が咲く季節はあるだろう。


   メレンゲ『火の鳥』MV 2011.10
(監督 / 編集: 江森丈晃、撮影監督 / 編集: 北山大介、カメラマン: 林洋輔、制作: 前田久美子)


   


 メレンゲ『火の鳥』 (作詞作曲:クボケンジ)

      まっすぐに空を鳥が飛ぶ
      急いでいるのでしょうか どちらまで?
   
    急いでいるように見えましたか?
      実は私にもわからないのです

      意味もなく 意味もなく ただ羽があるから飛んでたのです
   
      泣きそうな声 悲しい事言うなよな
      ならその空の旅を 僕と行かないかい?
      道はなく壁もなく ただ空は青く その青さがゆえに 青い海

      争ったり 仲直りしたり 勝った方が正義か 遊びじゃないんだぜ
 
      いろんな人と いろんな命と 微妙なバランスで青い地球

      他人事みたいに 世界中を見に行こう ツンドラのもっと向こう
      君にだって会える 言えなかった事言おう 言えなかった事を言うよ

      世界には愛があふれてる 夜になれば灯りはともる
      それでも僕ら欲張りで まだまだ足りない
 
      他人事みたいに 世界中を見に行こう ツンドラのもっと向こう
      優しくなれるかい 人は変われるって言うよ?
      同じように僕も 他人事じゃなくて 他人事じゃなくて
      ツンドラのもっと向こう
   


2020年5月2日土曜日

空を飛ぶ鳥の視線[志村正彦LN255]

 前回の記事はたくさんのアクセスをいただき、300を超えた日もあった。
 フジファブリック『若者のすべて』を音源にしたテレビ山梨の「STAY HOME」60秒versionが反響を呼んだのだろう。この映像は毎日UTYで流されている。この一週間で2回ほど、リアルタイムで放送版を見ることができた。もう何度も見たのだが、それでも感動してしまう。なぜだろうか。そのことを考えたい。

 今日は、あの記事に対する「yuko」さんのコメントを最初に引用させていただく。


ファンとしては、上空から眺めた「いつもの丘」が、まるで志村君の目線のようにも感じました。そして、STAY HOME のテロップとともに写し出された忠霊塔の画面は、志村君が「ここにいるよ」とでも言っているかのようでした。


 このコメントへの返信に書いたことだが、この《上空から眺めた「いつもの丘」が、まるで志村君の目線のようにも感じました》という捉え方に非常に考えさせられた。

 あの映像はUTYによると、高精細の4Kドローンのカメラを使って撮影したようだ。「いつもの丘」、新倉山浅間公園の界隈は僕も何度か訪れたことがある。桜の季節に、新倉富士浅間神社から忠霊塔へと続く400段ほどの階段を上っていくと、右側奥の斜面の方にも美しい桜の光景が広がっていた。その時、周辺を含めて「いつもの丘」の桜の全体の姿を見てみたい気持ちになった。でもそのためには、丘のかなり上の方に上らなければならないだろう。とりあえず無理なのでその気持ちはしまいこんだ。

 そういう経緯があるので、4Kドローンによる「いつもの丘」の映像を見て、上空からはこのように見えるのだという感動があった。桜と忠霊塔と富士山、丘、階段、下の駐車場、周辺の家並、中央道、富士吉田の街並、そして富士山が再度登場、最後に「いつもの丘」の斜面、全景。
 通常では得られることのない「視線」によって、志村正彦が生まれて育った地の風景をたどることができたのだ。志村さんは友だちと「いつもの丘」よりさらに高い場所へと歩いて登っていき、特に何をするわけでもなく、そこから見える風景を眺めて時を過ごしたという話を伺ったことがある。少年にとっては冒険の丘、秘密の場だったのかもしれない。もしかすると、あの映像に近い風景を見ていたのかもしれない。

 「STAY HOME」60秒versionは、どういう視点から撮影されたのだろうか。あのドローンは地上十数メートルから百メートルほどの上空を飛んでいたのだろう。また、ゆるやかな速度で進んでいる。ヘリコプターからの映像とくらべて、高度も速度も異なる。この高度と速度は、空を飛ぶ鳥の視線に近いのではないだろうか。
 鳥が空を旋回して「いつもの丘」を眺めている、そんな視線を思い描くことができる。そうすると、あの映像は、空を飛ぶ「鳥」になった志村正彦が「いつもの丘」を眺めている、そのように想像することもできる。《上空から眺めた「いつもの丘」が、まるで志村君の目線のようにも感じました》というコメントは、そのことを直観したのかもしれない。

 そしてこの映像は、『若者のすべて』歌詞の「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」とも結果的にもシンクロしてくる。その流れの中で、最後の最後に「STAY HOME」が出てくる。この映像の制作者は志村正彦と『若者のすべて』のことを深く理解している。
 「僕らは変わるかな」と志村は歌っている。この歌詞の文脈からかなり離れてしまうが、「僕らは変わるかな」は若者の、いやすべての人間の問いかけの言葉だ。

 「STAY HOME」といっても、私たちの「生」を維持するための仕事に就いている人々は、「HOME」ではなく各々の場所で働いている。「HOME」ではなく「AWAY」にいる。この危機の中で、私たちの命、生活、社会を守るために、忍耐強く過酷で困難な仕事を続けている。「STAY HOME」が可能となるのはこのような働きによって支えられていることを忘れてはならない。深い感謝を持つ。

 私たちは変わるだろうか。私たちの「生」が真に守られる社会に変わることを祈る。

2020年4月25日土曜日

STAY HOME(テレビ山梨)『若者のすべて』[志村正彦LN254]

 今日2回目の記事となる。

 前の記事「Virtualな四季」をUPした後、メールチェックの仕事に戻り、夜6時頃からUTYテレビ山梨(TBS系列)の「報道特集」を見ていた。当然だが「コロナ危機」の特集である。

 途中でいきなり、志村正彦の声が聞こえてきた。フジファブリック『若者のすべて』が流されていた。画面を見ると、新倉山浅間公園の桜の風景が広がっていた。忠霊塔(五重塔)、富士山、富士吉田の街並が見える。
 頭が混乱した。これが番組の一部でないことだけは確かだ。すぐに録画ボタンを押した。後で再生して確認した。

  『若者のすべて』の最後のブロックがBGMとして流される。右下には「♪若者のすべて♪ フジファブリック」のテロップ。ドローンで空撮したのだろう。風景の様子や周囲の状況からして最近の撮影だと思われる。富士山の美しい姿、そして「いつもの丘」の風景、最後に「STAY HOME」の文字が現れた。右下に「50TH UバクUTY」のクレジット。ここでやっと了解した。この映像はテレビ山梨が制作した「STAY HOME」の公共的な広告だということを。UTYは今年が開局50周年ということで、一連のキャンペーンを行っているが、その一つでもあるのだろう。

 番組終了後、UTYテレビ山梨のサイトを見ると、「STAY HOME 新型コロナに警戒しよう!」という特設ページ に、STAY HOME(30秒)とSTAY HOME(60秒)の二つのversionが置かれていた。ありがたい。STAY HOME(60秒)が『若者のすべて』versionである。ぜひご覧になってください。

 STAY HOME(30秒)の方は、サンボマスターの『できっこないをやらなくちゃ』をBGMにして、甲府盆地の釜無川あたりの風景が映されていた。つまり、UTYテレビ山梨の制作部は、「STAY HOME」30秒version サンボマスター、60秒version フジファブリックの音源を使ったことになる。甲府盆地と富士北麓の二つの地域別のversionとも言える。
 
 『若者のすべて』の歌詞は次の最後のブロックである。


  最後の花火に今年もなったな
  何年経っても思い出してしまうな

  ないかな ないよな なんてね 思ってた
  まいったな まいったな 話すことに迷うな

  最後の最後の花火が終わったら
  僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ


  STAY HOME(60秒)のセンスが素晴らしい。映像と音源が相乗効果を上げている。志村正彦の優しい声が美しい風景に溶け込んでいる。
 志村正彦・フジファブリックが誕生したのはこの山梨である。しかし、この曲がいわゆる「山梨枠」として使われたのではないだろう。若者のすべてを表現する類い稀な詩として選ばれたのだと僕は考える。

 「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」のところで、富士山と「いつもの丘」の桜が映し出される。 あの美しい桜を「今年は見られなかったけど…」「来年はきっと見られる」。
 
 そのための「STAY HOME」である。
 

Virtualな四季 [志村正彦LN253]

  「S/R(Songs to Remember)」を4回続けたが、今回は久しぶりに志村正彦ライナーノーツに戻りたい。

 コロナ危機の状況下、大学の新学期は延期され休校状態になっている。僕も在宅勤務が基本となった。「Stay Home」である。
 5月中旬から予定されている遠隔授業、Online授業の環境整備の担当として、教職員、学生、ネットワーク会社と、毎日二十を超えるメールのやりとりをしている。校務の仕事がものすごく増えて、正直、とても疲れている。オンとオフの切り替えができない。実務文書やメールばかり書いているので、ブログのテキストを書くことは一種の解放となる。

 我が家のCDプレーヤーのトレイには通常、フジファブリック『SINGLES 2004-2009』か『シングルB面集 2004-2009』が載せてある。フジファブリックは、PCやネットワークでなく、CD音源ともう20年も愛用している小型のブックシェルフスピーカーを通した音で聴きたいのだ。
 この前、『SINGLES 2004-2009』を久しぶりにかけた。このところ、音楽を聴く気持ちにも慣れないほど仕事に追われていた。そんな状態で、スピーカーが、1. 桜の季節、2. 陽炎、3. 赤黄色の金木犀、4. 銀河と、四季盤の曲を次々に鳴らしていった。目をつぶって志村正彦・フジファブリックの春夏秋冬の歌に耳を傾けた。

 三月末から家にいる時間が多くなり、外の世界と隔てられている。季節から遠ざかっているという感覚だ。そんな自分の身体に、「桜の季節」、「陽炎」の季節、「赤黄色の金木犀」の季節、「きらきらの空」の季節が順々に訪れてくる、そんな気分に浸ることができた。
 僕のまわりに志村正彦が描く季節が動き出していく。「Virtualな四季」を擬似的に経験した。


桜の季節過ぎたら 遠くの町に行くのかい? 桜のように舞い散って しまうのならばやるせない    『桜の季節』


窓からそっと手を出して やんでた雨に気付いて 慌てて家を飛び出して そのうち陽が照りつけて 遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる    『陽炎』


赤黄色の金木犀の香りがして たまらなくなって 何故か無駄に胸が 騒いでしまう帰り道      『赤黄色の金木犀』


きらきらの空がぐらぐら動き出している! 確かな鼓動が膨らむ 動き出している!    『銀河』


 四季の移り変わりと共に、「遠くの町」「家」「帰り道」「丘」と、場所も動いていく。春夏秋冬の映像が頭の中に浮かんでくる。四季の時間と場所、この二つが連動して、志村正彦の季節の感覚とシンクロナイズしていくような感覚になった。


 時を少し遡りたい。
 3月26日(木) 午後3時08分から、NHK総合テレビで『にっぽん ぐるり「若者のすべて~フジファブリック・志村正彦がのこしたもの~」』(NHK甲府制作)が再放送された。そのことに触れたLN251で、槇原敬之『若者のすべて』の歌とコメントの映像がどうなるのかが気になると書いた。
 結果は、柴崎コウの写真を背景に彼女が歌う『若者のすべて』が流された。当然ではあろうが、やはり変更されていた。柴崎コウの『若者のすべて』の純度の高い声は素晴らしい。

 一昨日、4月23日の夜、日本テレビ「今夜くらべてみました」は、『菅田将暉が熱弁!大切な事は全てJ-POPから学んだ男と女』というタイトルだった。このタイトルに惹かれて、番組を見てみた。菅田将暉は『茜色の夕日』を聴いて音楽を始めようとしたほど志村正彦の作品を敬愛している。もしかするとという予感があった。番組は、ゲストの菅田将暉(20代)、平川美香(30代)、平野ノラ(40代)の3世代が、大切な事を学んだ曲を選んでいくという内容だった。

 「落ち込んでいる時に聴く曲」でくらべてみましたというテーマで、菅田将暉はフジファブリック『夜明けのBEAT』を選んだ。菅田は、「モテキ」の曲です、歌詞も「バクバク鳴ってる」みたいなわりと上げ目の曲で、と紹介していた。『夜明けのBEAT』が志村の声で流されて、画面にはフジファブリックの写真と共に次のような表示が出た。

  フジファブリック「夜明けのBEAT」2010
  ドラマ&映画「モテキ」の主題歌
  心踊る気持ちを疾走感あふれるビートで表現

 もっとコメントがほしかったのだが、こういう構成の番組にそれを求めても仕方がない。菅田将暉のフジファブリック愛が充分に伝わってきた。この後で『若者のすべて』がBGM的に流されるシーンもあった。

 翌日の24日、NHKBS1で「ひとモノガタリ」の『若者のすべて ~“失われた世代”のあなたへ~』が再々放送された。放送局は制作が困難なために、このところ再放送が多くなっている。
 そういう状況下ではあるが、 志村正彦の番組がこれだけ繰り返しオンエアされるのは、彼の人と音楽に対する高い評価があるからだろう。

2020年4月18日土曜日

Peter Gabriel and Kate Bush『Don't Give Up 』[S/R004]

 S/R(Songs to Remember)第4回は、Peter Gabriel and Kate Bush(ピーター・ゲイブリエルとケイト・ブッシュ)の『Don't Give Up 』。

 Peter Gabrielは、洋楽の中で最も愛する音楽家だ。ロックの歴史上、才能という観点で彼は最も優れた存在であろう。

 出逢いは、Genesisの1973年の『GENESIS LIVE』だった。僕が初めて買った輸入盤だった。「ミュージックマガジン」の輸入レコード店(どの店かは覚えていない)の広告でアルバムの奇妙な写真に惹かれて通信販売で購入した。つまり「ジャケ買い」だった。
 Genesisの存在は雑誌を通じて少しだけ知っていたが、音楽は聴いたことがなかった。ラジオで流されることもなかったと思う。70年代前半の日本では、英国プログレッシブロックでの知名度は最も低かった。GENESISやPeter Gabrielが日本でもブレイクするのは70年代後半から80年代初頭にかけての頃である。

 『GENESIS LIVE』を聴いて、その不可思議な世界に魅了された。Peter Gabriel(ボーカル、フルート、パーカッション)、Tony Banks(キーボード)、Mike Rutherford(ベース)、Steve Hackett(ギター)、Phil Collins(ドラムス)の5人編成。Peter Gabrielの声と歌。変幻自在なメロディとリズムを奏でる演奏。シアトリカルな演出。聖書や神話、物語や小説から題材を取った奇想天外な歌詞はほとんど理解不能だったが、断片的に聞こえてくるフレーズが耳にこびりついてきた。Peter Gabrielはロックの詩人として高く評価されていた。

 1974年リリースの『The Lamb Lies Down on Broadway』(眩惑のブロードウェイ)は、GENESIS の最高傑作だった。インナースリーブに記された物語や歌詞を読み込んだ。英米の文学へ関心を持つようにもなった。しかし、1975年、Peter GabrielはGENESISを脱退。悲嘆に暮れたのだが、1977年に彼はソロアーティストとして復活した。その後の活躍はここで記すまでもないだろう。

 このPeter Gabriel &Kate Bushの 『Don't Give Up 』は、1986年の5枚目ソロアルム『So』に収録。Kate Bushも好きだったが、二人のデュエットと知って初めはとまどっていたが、レコードをかけるとその出来映えに驚いた。Godley & Creme(ゴドレイ&クレーム)制作のミュージックビデオも秀逸だった。背景の太陽が日食になり、コロナらしきものが見える。特に象徴性はないのだろうが、コロナ危機の状況下の偶然に目を引きつけられた。最後になると、日食が終わり太陽の光が戻ってくる。二人のシルエットが光の中に消えていく。

 この歌は、大恐慌時代の貧困に苦しむアメリカ人を撮影した写真から着想を得て、サッチャー時代のイギリスで失業に苦しむ人々を重ね合わせているようだ。
 「I am a man whose dreams have all deserted 僕はすべての夢をなくした男だ」と語る男に、「Don't give up 'cause you have friends あきらめないで あなたには友だちがいる / Don't give up You're not the only one あきらめないで あなたは一人じゃない」と語りかける女。
 女は「'cause I believe there's the a place/There's a place where we belong 信じている 私たちの居場所があることを」と歌っている。

 誰もが「居場所」に帰り、安らぎが得られることを祈りたい。
   Don't give up.



  The official Don't Give Up video.  Directed by Godley and Creme.




Don't Give Up    [ Peter Gabriel ] 

In this proud land we grew up strong
We were wanted all along
I was taught to fight, taught to win
I never thought I could fail

No fight left or so it seems
I am a man whose dreams have all deserted
I've changed my face, I've changed my name
But no-one wants you when you lose

Don't give up 'cause you have friends
Don't give up you're not beaten yet
Don't give up I know you can make it good

Though I saw it all around
Never thought that I could be affected
Thought that we'd be last to go
It is so strange the way things turn
Drove the night toward my home
The place that I was born,  on the lakeside
As daylight broke, I saw the earth
The trees had burned down to the ground

Don't give up you still have us
Don't give up we don't need much of anything
Don't give up  'cause somewhere there's a place where we belong

Rest your head
You worry too much
It's going to be alright
When times get rough
You can fall back on us
Don't give up
Please don't give up

Got to walk out of here
I can't take anymore
Going to stand on that bridge
Keep my eyes down below
Whatever may come
and whatever may go
That river's flowing
That river's flowing

Moved on to another town
Tried hard to settle down
For every job, so many men
So many men no-one needs

Don't give up 'cause you have friends
Don't give up you're not the only one
Don't give up no reason to be ashamed
Don't give up you still have us
Don't give up now we're proud of who you are
Don't give up you know it's never been easy
Don't give up 'cause I believe there's a place
There's a place
Where we belong

Don't give up
Don't give up
Don't give up


2020年4月15日水曜日

HINTO『エネミー』[S/R003]

 前回のS/R[Songs to Remember]は、ポール・サイモンの『The Boxer』だったが、昨日たまたまNHKBSプレミアムで映画『卒業』[The Graduate](マイク・ニコルズ監督,1967)」が放送されたので、録画して鑑賞した。この映画はかなり前に見たことがあるが、今回の印象はそれとはまったく異なっていた。映画、音楽、文学の名作は、もう一度あるいは何度でも繰り返し見たり読んだり聞いたりすると、新たな発見がある。そのことを再確認させられた。
 サイモン&ガーファンクルのいくつかの名曲が場面場面で流される。でも曲自体は映画の展開とは独立している。歌と物語が分離されているのだ。『The Boxer』はなかなか複雑な作品であるが、S&Gの声はとても美しく響きわたっていた。

 S/R[Songs to Remember]第3回は、HINTOの『エネミー』ライブ映像。『The Boxer』からの連想というわけではないが、「敵」をモチーフとするこの傑作を紹介したい。

 この映像の収録は2014年9月23日の渋谷CLUB QUATTRO。これもたまたまだが、このライブに行っていた。ただひたすら凄い演奏だった。得がたい音の体験だった。 安部コウセイのボーカル・ギター、伊東真一のギター、安部光広のベース、菱谷昌弘のドラムス。僕にとっては、1980年新宿ロフトでのFRICTIONライブを凌駕する衝撃だった。

 この映像はそのライブを撮影した「official bootleg LIVE MOVIE」である。クレジットを見ると、ディレクターが須藤中也(m社 映像部)であることに初めて気づいた。あのフジファブリック『FAB BOX III』の映像の制作者である。あの日のライブの迫真性を忠実に捉えて、映像に見事に再現している。僕は会場の一番奥の方に立っていた。一番引いた映像を撮っているカメラのすぐ後ろだった。演奏後の静かな熱狂の余韻を示す観客の拍手のシーン。あの日の記憶を共有できる。

 『エネミー』の歌詞にある「敵」はある抽象としても一つの具象としても捉えることができるのだろう。見えるものも見えないものもある。そもそも敵であることが明らかなものも明らかでないものもある。

 安部コウセイ・HINTOは「敵の声を掻き消せ/歌声」と歌っている。「歌声」が「敵の声」を掻き消す。この歌の究極のvisionだ。安部のそしてHINTOの「歌声」がこの時代に突き刺さってくる。僕らの「歌声」にこだましてくる。


  HINTO 『エネミー』【official bootleg LIVE MOVIE】
  2014.09.23@渋谷CLUB QUATTRO 
  dir.須藤中也(m社 映像部)
  撮影.鈴木謙太郎(m社 映像部)/大石規湖/ 宮本杜朗




  HINTO  『エネミー』(作詞:安部コウセイ  作曲:HINTO)

       こんなモグラみたいな眼で見つめても
              地図がぼやけて読めるわないだろ

              こんなO脚の足で歩いても
              そこに辿り着ける筈がないだろ

              目をつぶって祈らないで
              救いなんて待たないで
              やがてそうして受けとめて
              決めたから
              決めたから

              こんな汗にまみれた手で掴んでも
              すぐにすべり落ちてしまうだけだろ

              耳すまして怯えないで
              許しなんてこわないで
              だからどうした?はね返して
              今からだ
              今から行く

              『奴の次はおまえさ』
              闇にまぎれ囁く
              どこへゆこうと同じさ
              敵の声を掻き消せ
              歌声