ページ

2013年7月29日月曜日

「すりむいたまま 僕はそっと歩き出して」-『若者のすべて』5 (志村正彦 LN41)

 25日の夕方6時、富士吉田で『若者のすべて』のチャイムを聴いた。昨年12月のチャイムと同じものだが、季節や時が異なると聞こえ方が変わってくるのかに関心があった。
 LN3で書いたように、冬の『若者のすべて』のチャイムには、聴き手の側からすると、祈りにも似た想いにつながる、内省的な響きがあったのに対して、夏の『若者のすべて』のチャイムには、夏の空や雲、光、暖かい空気の感触にふさわしい、明るい開放的な響きがあったと、ここで伝えておきたい。今回は27日まで、富士登山競走、富士吉田市民夏まつりに合わせて、『若者のすべて』のチャイムに再び変更されたが、このまま、夏や冬のチャイムとして、季節の風物詩として、志村正彦の楽曲が使われることを願う。

 14日の新倉浅間神社でのイベントやNHK甲府の「がんばる甲州人 志村正彦」についてまだ述べたいこともあるのだが、ドラマ『SUMMER NUDE』の反響によって、歌詞サイトで1位に浮上するなど、今再び「ピーク」の季節を迎えつつある『若者のすべて』論に戻ることを優先したい。

 今回は、「僕」の「歩行」の系列の第2と第3のブロックを対象としたい。LN36で論じた第1ブロックを含めて、私が仮に名付けている「歩行」の系列の歌詞を、最初から最後まで引用する。

1.A)真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた
    それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている


  B)夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
    「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて


2 A)世界の約束を知って それなりになって また戻って

  B)街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ
    途切れた夢の続きを取り戻したくなって


  C)すりむいたまま 僕はそっと歩き出して

 このようにまとめてると、「歩行」の系列のすべての輪郭が浮かび上がってくる。
 AメロBメロの第1ブロック、「真夏のピーク」、「街」、「5時のチャイム」とイメージを喚起させるモチーフの連なりに続いて、歌の主体は、「運命」という鍵となる言葉を紡ぎ出す。それを契機に、「最後の花火」の系列、サビの部分に転換するのだが、それが終わると再び、AメロBメロの第2ブロックに転換する。さらに、再度、「最後の花火」の系列、サビの部分に転換し、その後、Cメロの第3ブロックに転換する。「歩行」と「最後の花火」、この二つの系列の間の転換、言葉の往還が、やはり、この歌を独自なものにしている。

 世界の約束を知って それなりになって また戻って

 「最後の花火」の系列から、「歩行」の系列へと戻ってくるのだが、唐突に「世界の約束」という言葉が登場する。「世界の約束」とは、この世界の約束事、決まり事、抽象的に言い換えるなら、法、掟、規範のことであろう。若者がなすべき「すべて」の中の重要な一つとして、「大人」になることがあげられる。それは「世界の約束」を知ることであり、「それ」なりになることである。「それ」というのは「それ」としか言いようがないもので、大人は「それ」が何であるかを「それ」となく知っている。「それ」は、「それ」なりになることによって初めて、ほんとうに分かるような「それ」である。

 志村正彦は「それ」を抽象的な語彙ではなく、指示語の「それ」を使い、聴き手に伝えようとした。「それ」の指し示す内容はいっさい語らないことによって、聴き手が「それ」の指示内容をそれぞれ埋めるようにして、解釈が進んでいく。
 また、「それなりになって」「また戻って」という相反する動きをさりげなく語っている。「それ」なりになったかのようでも「それ」になりきれなく、時には「それ」から「それ」以前の段階へと戻ってしまう。「若者」はそのようにして、行きつ戻りつ「往還」して、歩んでいく。

 街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ
 途切れた夢の続きを取り戻したくなって


 「街灯の明かりがまた 一つ点いて」という「街」の光景が描かれる。「夕方5時のチャイム」が鳴った時点から、どのくらいの時間が経ったのか、歌詞からは確かめようもないが、「街灯の明かりがまた 一つ点いて」とあるので、少しずつ街灯が点灯し、「帰りを急ぐよ」とあるように「帰宅」「家路」を意識するような時間の推移の感覚は、以前、LN2「冬の季節の『若者のすべて』」で書いたように、冬に最もふさわしいような気がする。その際の言葉を引用する。

日の短い、すぐに暮れてしまう冬の季節に、私たちはそれぞれの場所に帰りを急ぐ。この歌にはもともと多層的な響きがある。『若者のすべて』の「すべて」には、夏も冬も含すべての季節感が込められているのかもしれない。

 「途切れた夢の続き」は、定型的な表現とも言えるのだが、「取り戻したくなって」という述語と重なると、定型から離れていく。「途切れた夢の続き」を「見る」「見たくなって」であれば、平凡な表現になるが、「取り戻したくなって」は独特である。「取り戻したい」というのは、一度獲得したが失ってしまったものを再獲得したいという、歌の主体「僕」の強い欲望を表す。

 この一節の後に、「最後の花火」の系列、サビの部分が入ってくるので、歌詞の流れからすると、「最後の花火」の系列で歌われる「出会い」あるいは「再会」が、「途切れた夢の続き」の実質であると解釈されるのだろうが、それとは異なる解釈もあるような気がする。それが何かということは分からないままなのだが。
 また、この夢というのは、そのことを実現したいという現実の欲望の対象としての夢と睡眠中にみる無意識の欲望を示す夢という、二つの夢が複合されている、と私は考える。

 すりむいたまま 僕はそっと歩き出して

 Cメロの部分、この一節で、「歩行」の枠組みは閉じられるが、ここで初めて、語りの枠組みを支えている話者であり歌の主体である「僕」が登場することに注意したい。
 「すりむいたまま」というのは定型的な比喩表現であり、すりむいたまま、小さな傷を抱えたまま、癒える時を待つ間もなく、というのは若者の生によくある光景であるとも言えよう。しかし、「そっと歩き出して」という表現の「そっと」という副詞、「歩き出して」という接続助詞「て」で締めくくられる動詞の表現は、非常に繊細で巧みに、歌の主体「僕」の「歩行」への意志を語っている。
 志村正彦は、『音楽と人』2007年12月号所収の樋口靖幸氏による取材で、『若者のすべて』について次のように述べている。

一番言いたいことは最後の〈すりむいたまま僕はそっと歩き出して〉っていうところ。今、俺は、いろんなことを知ってしまって気持ちをすりむいてしまっているけど、前へ向かって歩き出すしかないんですよ、ホントに。

 

 この注目すべき発言から、ABCメロの歌詞、「歩行」の系列が、志村正彦にとって非常に切実なモチーフだったことが伺える。『若者のすべて』の歌詞全体の中で、「すりむいたまま 僕はそっと歩き出して」が一番言いたかったことだとすると、これまで「最後の花火」を巡るモチーフを中心に読まれてきたこの歌の解釈そのものが問われることにもつながる。実は、『音楽と人』2007年12月号に、『若者のすべて』の記事があることを知り、古書を入手し、こ の文を読んだのは二日前のことだった。「歩行」の系列を重視するという私の読みが志村正彦自身の言葉で裏付けられた気がした。

 私が「志村正彦ライナーノーツ」を書く際には、作品の言葉そのものに向き合い自分自身で考える、という姿勢を基本として貫きたいと考えている。ある程度まで書き進めるまでは、作者のコメントやライターの記事などはあえて読まないようにしている。そうすることによって、解釈が限定されてしまう恐れがあるからだ。しかし、文を公開するために原稿を完成させる段階では、参照すべき資料は参照し、自分自身の論との対話を試みる。今回もそのように作業を進めたのだが、思いがけなく、重要な資料と出会うことができた。樋口靖幸氏によるこの記事は非常に興味深い証言となっているので、最後の方で再び触れることにしたい。

 志村正彦は、『若者のすべて』の作者として、「いろんなことを知ってしまって気持ちをすりむいてしまっているけど、前へ向かって歩き出すしかないんですよ」と、正直にそして自分に言い聞かせるようにして、自分の心情と決意を述べている。「いろんなことを知って」が具体的に何を指しているのかは分からない。また、「前へ向かって」がどのような方向を示しているのかも抽象的にしか理解できない。しかし、『若者のすべて』の主体「僕」にとっては、「すりむいたまま」「途切れた夢の続き」を取り戻すための歩みであり、そのようにして前へ向かって歩き出そうとしている、と解釈することができる。作者の想いは、歌に表現されることで、より限定した意味を帯びてくるからだ。

 私たちが夜経験する「途切れた夢」は、とても儚く、時に恐ろしく、時に甘美だ。途切れてしまったからこそ、心の余白にいつまでもこびりつく。現実的な願望の対象としての「途切れた夢」は、時に執拗にその成就を私たちに求める。それは欲望の源になるが、同時に辛さの源にもなる。「途切れた夢の続き」という言葉は、『若者のすべて』の一節を超えて、志村正彦の音楽活動の歩みのすべてを凝縮しているように私には感じられる。

0 件のコメント:

コメントを投稿