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2013年7月7日日曜日

「ないかな ないよな きっとね いないよな」-『若者のすべて』4 (志村正彦LN 37)

今回は、第2ブロック、サビの部分を考察したい。

 最後の花火に今年もなったな
 何年経っても思い出してしまうな


 第1ブロック、A・Bメロの部分を受けて、「最後の花火に今年もなったな」と歌い出される。歌詞の文脈からいえば、《僕》が繰り返し想いだすある出来事、「夕方5時のチャイム」に直接あるいは間接的に関わり、「運命」を感じさせるような出来事は、「最後の花火」に関わる出来事だったことになる。

 LN34で述べたように、第1ブロック、A・Bメロの部分、歌の主体《僕》の歩行をモチーフとする部分と、第2ブロック、サビの部分、「最後の花火」のモチーフの部分とは、本来、異なる曲だったようだ。その二つの曲、特に歌詞がどの程度できあがっていたのかを知る術はない。これはあくまで私の推測だが、この二つのモチーフがつながったのは、曲作りの過程でのことだったのではないだろうか。完成された『若者のすべて』において、《僕》の歩行のモチーフと「最後の花火」のモチーフとは、上手く接合されているようで、充分に接合されきってはいないからだ。私にはそう感じられる。

 そしてそのことが、『若者のすべて』の解釈の難しさ、あるいは、LN6で触れたように、志村正彦が両国国技館ライブで『若者のすべて』を歌う前のMCで述べた「解釈が違うんですよ 同じ歌詞なのに」という言葉につながっているのだと思われる。この論ではひとまず、接合されていると仮定して分析していくが、最後の方で、接合されていないと考えた場合の解釈を付加したい。

 ここで一端、歌の構成の問題から離れて、歌詞についてかなり具体的な指摘をしたい。この「最後の花火」は、富士五湖の一つ河口湖で毎年開かれる「湖上祭」の「花火」をモチーフとしていると言われている。本人が明言したことはないようだが、富士吉田で生まれ育った志村にとって、夏の「最後の花火」というモチーフに直接的間接的に河口湖の花火が関わっていると受けとめてもよいだろう。そういう前提のもとに、山梨の在住者として少し説明したいことがある。

 富士五湖の花火大会は、毎年8月1日の山中湖から始まり、2日西湖、3日本栖湖、4日精進湖と続き、5日の河口湖で終わりとなる。富士五湖の夏の風物詩で、実施日と湖はいつも1日から5日まで固定されている。だから毎年、河口湖の花火は、富士五湖の花火の中の「最後の花火」であるという事実だ。通常、「最後の花火に今年もなったな」というのは、2時間ほど続く花火大会の最後を飾るフィナーレの花火を指しているのだろうが、「最後の花火」が河口湖の花火大会そのものを暗に示している解釈の余地もあることになる。通常の解釈を取ったとしても、「最後」という言葉には、残像のようなものとして、河口湖の花火の記憶が刻印されていると考えてもよいだろう。

 河口湖は、志村正彦の生まれ育った場所からは自転車に乗って二十分ほどで着く距離にある。湖上の花火は、湖の水面に光が反射し、特有の美しさを持つ。志村正彦も小さい頃から何度も出かけたことがあるのだろう。家族や「路地裏」や学校の友達と共に。思春期に入れば「それなりに」異性の友達と一緒に行ったことがあるのかもしれない。そしてその経験の中で「何年経っても思い出してしまう」ような出来事があったのかもしれない。特に河口湖の「湖上祭」花火大会の最後、つまり「最後の最後の花火」は、毎年、「ナイアガラ」という数百メートルの幅を持つ「光の滝」が湖面に降り注ぎ、白い光の帯が輝く。華やかな光が尽きると、花火大会も終わりとなる。

 第2ブロック、サビの部分は、歌われる物語の流れから言えば、ここで回想が始まり、現在という時から過去の時へと、時の主軸が移る。また、都市から故郷へ、街路から自然の豊かな場へと、場も転換する。そのように解釈する場合、第1ブロックと第2ブロックとは、ある種の「転換」によって接合されていると考えられる。
 続いて、『若者のすべて』中でも最も印象深い一節が歌われる。

 ないかな ないよな きっとね いないよな
 会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ


 「ないかな」「ないよな」と「ない」が二つ重ねられる。しかし、いったい何が「ない」のか。それがわからないまま「きっとね」を挿んで、「いないよな」に続く。「いない」のならその主語は人、誰かということになる。続く行で、「会ったら言えるかな」とあるので、その「いない」と思う誰かは、歌の主体《僕》にとって出会ったら何かを言えるか困惑するような相手、普通考えるなら、恋人のような大切であった存在のことであろう。そして、その場面全体を「まぶた閉じて浮かべている」と歌っている。

 そうであるのなら、この一節をもとに戻ると、「ない」の主語は、誰か大切な人との再会するという出来事になるかもしれない。「再会する」ことが「ないかな」となり、「再会する」という意味の言葉が省かれていることになる。あるいは、「いること」が「ないかな」つまり「いないかな」の「い」が省かれた形とも考えられる。

 例えば、この歌詞を「また会えないかな」「彼女いないよな」などと綴ったとしたら、その凡庸さによって、耐え難いつまらない歌になってしまっただろう。再会することが「ない」あるいは誰かが「いない」、出来事の否定、人の不在、そのどちらにしても、「ない」という否定形の反復とその対象の省略という話法によって、この歌は独創的なものとなっている。その否定に、「…かな」「…よな」「…ね」「…よな」という、否定しきれない、《僕》の戸惑いや未練を示す助詞をつけることで、曖昧さとある種の迂回が付加される。

 歌われている物語は、「まぶた閉じて浮かべているよ」とあるように、閉じられたまぶたの裏側にあるスクリーンに投影されている出来事のようだ。そしてすべてが、歌の主体《僕》の夢想であるようにも感じられる。

 純粋な響きの問題にも触れたい。「ないかな ないよな きっとね いないよな」の一節には、「な…」「な…」「…な…」の不在を強調する「な」の頭韻と、「…かな」「…よな」「…よな」の「な」の脚韻がある。「な」の頭韻には強く高い響き、「な」の脚韻には柔らかく低い響きがある。「な」の音の強さと柔らかさが、縦糸と横糸になって織り込まれているような、見事な音の織物になっている。
 この第2ブロックには、その話法にしろ、音の響きにしろ、志村正彦にしか為しえないような、極めて高度で複雑な表現が使われている。


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