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2021年12月12日日曜日

解釈の分岐点-「若者のすべて」23[志村正彦LN299]

 「若者のすべて」の歌詞自体の分析を再開したい。前回の《22》から2か月ぶりになる。

 「僕」と、「僕」が〈会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ〉と想い続けている人とが再会したのかどうかを前回で論じた。「若者のすべて」を物語として読むときに、二人の再会の有無が大きなテーマとなる。

 もう八年も前のことだが、2013年の夏、フジテレビの月9ドラマ『SUMMER NUDE』(脚本:金子茂樹)で、「若者のすべて」をモチーフとする場面が登場したことが話題になった。この第2話の回想シーンで、三厨朝日(山下智久)と一倉香澄(長澤まさみ)が海辺のカフェーにいる。「若者のすべて」がBGMで流れ、香澄はこの歌を口ずさみ、二人の話が始まる。鍵となる部分を色分けして引用しよう。


朝日:この歌好きなの?
香澄:うん、大好き、歌詞がちょー良くない?
朝日:うん、これってさあ、別れた男女の切ない歌だよね。
香澄:えっ、違うよ。
朝日:そうだって、別れた彼女と偶然の再会を期待して、思い出の花火大会に来たけど会えないっていう歌だよ。
香澄:その彼女と花火大会の日に偶然再会する歌だって。
朝日:いや違う、絶対間違ってるって。
香澄:ちゃんと聴いてないでしょ。
朝日:聴いてるよ、俺もこの歌ちょー好きだし。
香澄:最後までよく聴きなよ。まったく会えることを期待しなかった彼女に最後の最後に会って、一緒に花火を見てるから。
朝日:いや、再会なんかしてないでしょ
香澄:してるの、彼女は戻ってくるの


 「若者のすべて」の物語を〈別れた彼女と偶然の再会を期待して、思い出の花火大会に来たけど会えない〉とする三厨朝日と、〈その彼女と花火大会の日に偶然再会する〉〈まったく会えることを期待しなかった彼女に最後の最後に会って、一緒に花火を見てる〉とする一倉香澄との間で、解釈が対立している。二人は各々、「若者のすべて」の歌詞から自分の想像する物語を読みとる。当然だが、どちらも成り立つ。むしろ、二人の各々の解釈が二人のその後にどう影響するのかということの方が『SUMMER NUDE』の重要な鍵となる。

  二人の解釈の分岐点は、《僕らの花火》系列の3と4のあいだの空白に何を読みとるのかということに帰着する。


  3
 最後の花火に今年もなったな 
 何年経っても思い出してしまうな
 ないかな ないよな なんてね 思ってた
 まいったな まいったな 話すことに迷うな


  4
 最後の最後の花火が終わったら
 僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ


 香澄の解釈は、彼女と〈花火大会の日に偶然再会する〉ことから〈一緒に花火を見てる〉ことへと接続していく。二段階でこの物語を捉えている。そして、〈彼女は戻ってくる〉ということを強調している。それに対して、朝日の方は二人が〈一緒に花火を見てる〉に相当する場面への言及がない。〈思い出の花火大会に来たけど会えない〉ということだけを語っている。香澄の解釈に比べると、一段階の物語となる。この段階の違いが解釈の分かれ道になっている。香澄と朝日各々の恋愛についての考え方にも起因しているだろう。

 この解釈の差異は結局、〈僕〉と〈僕ら〉、〈僕の歩行〉と〈僕らの花火〉の系列の間の空白部をどうつなげるかに帰着する。

   (この項続く)


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