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2021年12月19日日曜日

「僕」は「僕ら」でもある-「若者のすべて」24[志村正彦LN300]

 前回述べたように、ドラマ『SUMMER NUDE』の世界では、「若者のすべて」をめぐって、〈別れた彼女と偶然の再会を期待して、思い出の花火大会に来たけど会えない〉とする三厨朝日と、〈その彼女と花火大会の日に偶然再会する〉〈まったく会えることを期待しなかった彼女に最後の最後に会って、一緒に花火を見てる〉とする一倉香澄との間に、物語の解釈の違いがある。

 再会をめぐる解釈の差異は、「若者のすべて」の語りの構造に起因している。これまで繰り返し述べてきたが、「若者のすべて」の歌詞は、《僕の歩行》の系列と《僕らの花火》の系列の二つが複合されて作られた。この系列の構造を図示してみよう。



 三厨朝日は、「僕」の観点を重視し、《僕の歩行》系列の最後の〈すりむいたまま 僕はそっと歩き出して〉に、再会しないまま一人で歩き出すという物語を読みとる。それに対して、一倉香澄は、「僕ら」の観点を重視し、《僕らの花火》系列の〈同じ空を見上げているよ〉に再会の実現という物語を読みとる。

 この再会の有無についてさらに踏み込んでいきたい。

 「僕」と「僕」が思い続けていた人(『SUMMER NUDE』でいう「彼女」)が実際に再会して同じ場にいるのなら、当然、「僕ら」はこの二人を指すことになるだろう。この二人が〈最後の最後の花火〉の場面で〈同じ空を見上げている〉ことになる。

 しかし、この二人が再会していないとしたら、〈最後の最後の花火が終わったら/僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ〉をどう捉えたらよいのか。この「僕ら」という一人称複数の代名詞は、やはり、「僕」と「僕」が思い続けていた人の二人を指すだろう。再会していない二人が「僕ら」となるのはどのような状況を想像したらよいだろうか。一つ可能性を示したい。

 「僕ら」は同じ場所にいるのではなく、別々の場所で空を見上げている。つまり、「僕」はあくまでも一人で、空の花火を見上げている。「僕」が思い続けていた人、もうひとりの人物も別の場所にいる。「僕」とその人は別々の場にいるが、「最後の最後の花火」の時間に花火大会の会場という場を共有している。だから、僕とその人は「僕ら」と呼ばれ〈同じ空〉を見上げていると、「僕」は考える。〈同じ空〉という表現には、別々の場所にいるにもかかわらず同じものを見ているという含意も感じられる。

 また、〈同じ空を見上げている〉ということを〈よ〉という助詞を使って呼びかけていることにも注意したい。助詞〈よ〉は、話し手の判断・主張・感情などを強めて聞き手に呼びかけたり、訴えたりするときに付加する言葉だが、〈よ〉は話し手と聞き手の情報の不一致を前提として、話し手が聞き手の知らない情報や不充分である認識を伝えるという意味合いが込められることもある。「僕」の相手となる人は、「僕」と同じ場所にいるわけではないので、〈同じ空を見上げている〉という認識がないかもしれない。だからこそ、「僕」は〈よ〉を付けてその相手に呼びかける。この場合、この言葉は実際の発話ではなく、心の中の発話であるだろう。


 一つのストーリー、《僕らの花火》系列の2,3,4の間の空白をつなげる場面を想像してみたい。


最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな
ないかな ないよな きっとね いないよな
会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ


最後の花火に今年もなったな 
何年経っても思い出してしまうな
ないかな ないよな なんてね 思ってた
まいったな まいったな 話すことに迷うな


最後の最後の花火が終わったら
僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ


 「僕」は、〈会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ〉と想い続けていた人を、偶然、見かける。その偶景によって、〈ないかな ないよな きっとね いないよな〉というフレーズが、〈ないかな ないよな なんてね 思ってた〉に転換される。しかし、「僕」は〈まいったな まいったな 話すことに迷うな〉と躊躇い、そのままその場を通り過ぎようとする。その一瞬に、「僕」の視線はその想い続けていた人に向けられる。「僕」とその人との間で、眼差しが交わされる。眼差しによる再会。

 「僕」はその場を通り過ぎた後、一人で「最後の最後の花火」を見ている。その人も別のところで〈同じ空〉の花火を見ている。「僕」とその人は離れてはいるが、花火大会の時と場を共有する「僕ら」となる。「僕ら」は何らかの想いを共有していると、「僕」は考える。そして、〈僕らは変わるかな〉と問いかける。

 「僕」にとって、〈僕ら〉も〈同じ空〉も二人が何かを共有していることを伝える表現である。共有というよりも《分有》という言葉を使う方が適切かもしれない。「僕ら」、「僕」という一人称単数ともう一人の一人称単数の存在は、別々の場にいるのだが、それでも、何か一つのものを分かち合っている。かけがえのないものを分有している。


 「僕」は一人であるかもしれないが、同時に、「僕ら」でもある。その意味において、「僕」は孤独ではない。「僕」は「僕ら」でもあるのだから。


 しかし、異なるストーリーも可能だろう。「僕」と僕が思い続けていた人が再会し、文字通りの「僕ら」となり、同じ空を見上げている。そのような展開も想像できる。その他の解釈もあるだろう。

 おそらく、志村正彦にとっても、「僕」と「僕ら」をめぐる物語は固定的なものとして捉えられていなかった。彼は試行錯誤して二つの曲を融合させてこの作品を作ったと述べている。2007年12月の両国国技館ライブのMCでは次のように発言している。

歌詞ってもんは不思議なもんで。作った当初とは、作っている詩を書いている時と、曲を作って発売して、今またこう曲を聴くんですけども、自分の曲を。解釈が違うんですよ。同じ歌詞なのに。解釈は違うんだけど、共感できたりするという。


 志村は同じ歌詞であるのに解釈が異なってくることを強調している。彼が言うように、「若者のすべて」は、一人ひとりの解釈を生成していく。ここで論じたように、「僕」と「僕ら」のどちらの観点をより重視していくかによっても解釈が分かれていく。そして、「僕」と「僕ら」の二つの観点をどう融合してかによって、「若者のすべて」の解釈がさらに多様になっていく。

 この歌を聴くすべての人にそれぞれの「若者のすべて」がある。その一つ一つが「若者のすべて」の〈すべて〉を形成している。


【付記】今回、「志村正彦ライナーノーツ(LN)」は300回を迎えた。2013年3月に第1回を書いた。当初は漠然とだが、300回を一つの目安にした。9年近くを要してその回数に到ったことになる。このエッセイの言葉で言えば、この偶景webが、「僕」のブログであり、同時に、「僕ら」のブログであることを目指して、今後も書き続けていきたい。

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