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2013年7月16日火曜日

時代が追いついてきた。 (志村正彦LN 38)

  志村正彦の誕生日7月10日から1週間も経たない内に、彼に関する様々な催しや出来事があった。今回からしばらく、『若者のすべて』論から離れて、幾つかの事柄に関して書いていきたい。まず、出来事を列挙してみよう。

 10日から14日にかけて、富士吉田市の若手職員プロジェクトによって、富士吉田市の夕方6時のチャイムが、志村正彦作詞作曲の『茜色の夕日』に変更され、あの美しく切ないメロディが故郷の空に響き渡ったこと。

 13日下吉田倶楽部、14日新倉浅間神社「いつもの丘」で開催された「志村正彦を歌う会」で、沢山のアマチュア・ミュージシャンが志村正彦の作品を歌い奏でたこと。
 この会の最後に、志村正彦のご家族からのメッセージが代読され、続いて、ほとんど知られていない『茜色の夕日』のアコースティック音源と歌についてのコメント(FM東京で録音、放送されたもの)が再生されたこと。

 15日、『山梨日日新聞』の『白球の夢半世紀 山日YBS杯県少年野球』という連載の最後となる第10回で、沢登雄太記者が(彼は志村正彦・フジファブリックについて書き続けている「志」の高い記者だ)ご両親への取材に基づいて、『宝物の思い出を歌に』と題して、志村正彦と少年野球を巡るエピソードや『記念写真』などの野球をモチーフとする楽曲について書いた記事が掲載されたこと。

 15日の夜、フジテレビ月9のドラマ『SUMMER NUDE  サマーヌード』で、フジファブリックの『若者のすべて』(志村正彦作詞・作曲)が放送されたこと。それも単なるBGMではなく、プロデューサーの村瀬健氏がtwitterで、「『若者のすべて』この曲がすべてを変えてしまいます…最後まで見逃さないでください! 」と述べているように、このドラマの展開の鍵となる曲であるらしいこと。(志村は映画好きだったから、どんなに喜んだことだろう。そして、自分の歌についての「自信」を持ったことだろう)

 私自身も、縁あって、2011年12年と志村正彦展を主催している、彼の同級生や先輩後輩たちが集う地元のグループ「路地裏の僕たち」の支援係として、今回富士吉田で行われたイベントの準備や裏方を務めた。昨日は、そのことを通じて感じ考えたことの下書きをしている内に、山日の記事が届けられ、月9ドラマに『若者のすべて』が使われたという話題が飛び込んできた。さて、どのことから書けばいいのか、まさしく「嬉しい悲鳴」をあげてしまったが、一つ一つ、少しずつ、追っていきたいと考えた。

 富士吉田で行われたイベントに来た人の多くは、すでに志村正彦に出会った人々であったが、中には地元の人を中心に、今回のイベントを機に、彼に興味を持ち、彼の歌を知るために訪れてくれた人々もいた。また、山日の記事、少年野球という切り口から、志村正彦の存在を知った人々もいるだろう。ドラマ『SUMMER NUDE』から、『若者のすべて』を通じて、新たに彼の歌と出会う人々も増えてくるだろう。

 志村正彦は、14日の新倉浅間神社で再生された音源でも、『茜色の夕日』について、言葉は同じなのに、歌の解釈は時の経過と共に異なってくるという意味のことを述べていた。『若者のすべて』のライブMCでも同様のことを語っている。歌詞の意味が限定されていなくて、聴き手と共に、時の経過や聴き手の経験の深まりと共に、その解釈が変化していく、多様性と豊かさのある歌、聴き手中心の歌を、志村正彦は創造してきた。おそらく今、時代はこのような歌を求めている。

 彼が亡くなって3年半が経つが、むしろこれから、志村正彦の作品は、より多くの人々に聴かれるようになるのではないか。そのような想いの中にいる。(端から見ると、「願望」のように「妄想」のように思われるかもしれないが)
 時代が志村正彦の作品に追いついてきた。今日は、そんな言葉をここに書き記したい。

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