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2013年7月24日水曜日

続、時代が追いついてきた。 (志村正彦LN 40)

 LN38に引き続き、それ以降の志村正彦関連の話題を追っていきたい。

 16日、『山梨日日新聞』第1面のコラム「風林火山」。LN38で紹介した「白球の夢 半世紀」という連載に触れて、「少年野球時代の光景を楽曲にした人気ロックバンドのボーカルも、県大会には出場できずに悔し涙を流した。29歳で他界。都内のマンションには、小学生時代に使っていた父から贈られたグラブやバット、新聞記事が大切の保管されていた」と書き、「楽しいこともつらいことも、全力を尽くせばすべてが宝物になる。野球に限らず、好きなことを見つけて真剣に取り組むことの大切さを、先輩たちの言葉や姿が教えてくれる」と結んでいた。

 16日の夜、渋谷で、GREAT3とフジファブリックの対バンライブが行われたが、ROロックのライブレポート「2013.07.16 GREAT3×フジファブリック @渋谷クラブクアトロ」( http://ro69.jp/live/detail/85367 )で、片寄明人が「そんな志村正彦くんに捧げる曲を作りました』と述べてから『彼岸』が演奏された、ということを知った。
 5月23日の新宿ロフトのライブでは、「志村正彦」という名は出さなかったが、今回はフジファブリック・ファンも多かった故、「志村正彦」という名をはっきりと打ち出したのだろう。セットリストも記され、「彼岸」の次に「綱渡り」が歌われたそうだ。「彼岸」「綱渡り」は、5月23日にもこの順で演奏されていたので、一つの組曲のように扱われているようだ。

 22日、フジテレビ月9のドラマ『SUMMER NUDE』第3回の冒頭で、前回のシーンをまとめた映像に合わせて、フジファブリック『若者のすべて』(志村正彦作詞・作曲)が再び放送された。今回はタイトルバックということもあって、Aメロ、Bメロ、途中省略して最後のサビ「最後の最後の花火が終わったら  僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」と、1分30秒ほどの短いヴァージョンに編集されていた。最後のサビの部分がこの物語の展開の鍵となるようなので、このような短縮版も頷ける。
 また、プロデューサーの村瀬健氏がtwitterで、「路地裏の僕たち」の一人「kazz3776」さんからのメッセージに、「月9『SUMMER NUDE』でフジファブリック「若者のすべて」を主人公の思い出の曲として使わせて頂いております。志村さんの歌声が世界中に響き渡れば…と思います。」と応えてくれたことも、とても嬉しい。

 23日の夕方、NHK甲府放送局の「まるごと山梨」というニュース(午後6:10~7:00)の「がんばる甲州人」というシリーズで、「ロックミュージシャン志村正彦さん」「多くの人に生き続ける」という題と内容の番組が放送された。本編は8分程、司会者による前後のコメントを併せると10分程の長さであったが、担当ディレクターによる丁寧な取材に基づいて、内容、構成もよく考えられたものであった。
 NHKローカル局を含めて地元の放送局で志村正彦がまとまって紹介されたのは、初めてのことである。彼については、地元紙『山梨日日新聞』がシリーズものとして連載したり、系列のYBSテレビが志村展をニュースで報道したりするなど、継続的に扱ってくれて、とても有り難かったのだが、それ以外のメディアや地元放送局が彼を取り上げることはほとんどなかった。(富士吉田のCATV局はニュースにしてくれているが)彼自身が地元メディアに対してあまり宣伝をしないストイックな姿勢を貫いていたこともあるが、それ以上に、山梨という風土が文化や芸術についてあまり感度が高くないことが要因としてあげられる。

 だからこそ今回、NHKの甲府放送局が、今でも「多くの人に生き続ける」という視点で、志村正彦の軌跡と現在の地元でのムーブメントを取材してくれたことは、新しい動きとして特筆すべきである。実は、ディレクターからの依頼で私自身も少し出演しているので、ある意味で当事者の一人であり、第三者的に言及するのはフェアでない気がするが、これまであるようでなかった、というか、あるべきなのになかった、地元局による志村正彦の番組が制作され放送されたということ自体は、大いに評価されるべきだと考えている。(この番組の内容については、稿を改めて、書くことにしたい)

 地元山梨もようやく、 志村正彦に追いついてきたようだ。

2 件のコメント:

  1. こんにちは。
    最初の方の記事から興味深く読ませていただきました。特に、この「若者のすべて」という名曲が、別々の2つの曲をベースに出来上がったこと、志村正彦自身が自由な歌詞解釈を受け入れていることなど、目から鱗の事実も知ることができてよかったです。
    僕が検索エンジンからこのサイトにたどり着いたのは、ドラマ「SUMMER NUDE」の中で語られたこの曲の歌詞解釈に違和感を覚えたことがきっかけでした。というのも、僕個人の解釈では、この歌は、中学生か、高校生くらいの主人公が、好きな女の子に花火大会で告白できるかなとドキドキしている気持ちを歌った胸キュンソングだと思っていたからです。「別れた彼女との再会」という解釈は寝耳に水で、ここまでの記事を読んだ今も、まだ腑に落ちていません。
    志村正彦自身がそう言っていた様に、いろいろな解釈ができてよいのだと思いますが、実際のところ、本人は「別れた彼女との再会」というようなイメージを持ってこの曲を作ったのでしょうか?

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    1. こんにちは。
      25日から今日まで、夕方6時の『若者のすべて』のチャイムを聴くことと他の大切な用事もあり、富士吉田方面に泊まりで行ってきましたので、公開と返信が遅れてしまいました。申し訳ありません。最初の方から、拙文を読んでいただいたということで、ありがとうございます。

      結論から言いますと、あなたの「中学生か、高校生くらいの主人公」の「好きな女の子」に対する「胸キュンソング」という解釈も、「SUMMER NUDE」の中で語られた二つの解釈も、どちらも成立する可能性があるのだと思います。

      歌、広くいえば言葉で表現される作品すべてに関して、その作品の解釈を決めるのは誰か、「作者」にあるのか「読者」にあるのか、そのどちらでもないのかという、難しい問題があります。(文学の研究では、このような問題をここ三十年ほどの間、いろいろと議論しています)
      私自身は、解釈を決めるのは、「読者」だという考えを持っています。「読む」という行為があってはじめて、解釈が生まれるからです。(「作者」にしても、瞬時に、自分の言葉を読みながら、解釈しながら、言葉を紡いでいきます)しかし、「読者」の読むという行為に対して、作品そのものは、あらゆる解釈も受け入れながら、一つの解釈に限定されずに、様々な解釈を越えて、作品として存在し続けます。

      志村正彦本人が(果たせたか果たせなかったか分からないにせよ)「別れた彼女との再会」といイメージを持ってこの曲を作ったのかという問いに対しては、当然ですが、答えようがありません。彼がそのようなイメージにつながる解釈をしていた可能性は充分にあると私自身は推測しますが、あなたのような解釈をしていた可能性も充分にあるでしょう。

      本質的には、彼の作品は、あなたや私の解釈、そして志村正彦本人の解釈をも越えて、存在しているのではないでしょうか。
      『若者のすべて』については、まだ何回か連載する予定ですので、あなたの貴重な問いかけも参考にしながら、書いていくつもりです。

      コメント、ほんとうにありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

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