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2013年7月21日日曜日

涙 (志村正彦LN 39)

 14日、「いつもの丘」にある新倉浅間神社の神楽殿で開催された、志村正彦に関するイベントから1週間が経つ。その日のことを書き記しておきたい。
 当日は、例年より蒸し暑い富士吉田となっていたが、その数日前までの山梨全体の猛暑に比べれば幾分か過ごしやすかった。心配していた雨も途中で少し降っただけで、何とか終了まで持ちこたえることができた。

 夕方5時過ぎ、「志村正彦を歌う会」に引き続き、「路地裏の僕たち」の企画によって、当日の参加者、ファンに宛てた志村正彦の御家族からの手紙が代読された。遠くから訪れていただいた方々への御家族からの丁寧な感謝の言葉と、志村正彦の御友人からの手紙の文面が紹介された。御友人の手紙では、2006年7月頃に、「地元にいつか帰りたいけど、しっかり音楽で恩返しできるまで帰れない。いつかは地元でスタジオを開いて、若いミュージシャンを迎えてあげたい」という夢を語っていたという事実が告げられた。

 昔から、東京に近いこともあって、富士吉田に近い河口湖や山中湖にはスタジオが多い。彼が元気でいれば、手紙で書かれていた通り、いつか「志村スタジオ」を作り、そこで音楽作りに専念できたかもしれない。
 欧米では、年齢が三十代半ばを過ぎる頃になると、バンド活動に終止符を打ったり休止したりして、ソロとなり、いつもと異なるミュージシャンを集め、アルバム作成に時間をかけて、作品中心に発表するロックアーティストがいる。また、自分自身のスタジオをつくったりレーベルをつくったりすることも多い。敬愛するピーター・ガブリエルがその良い例である。

 志村正彦も、そのような形で、熟成した音楽を作り、志のある若手を支援する夢を持っていたのだろう。成就しなかった夢を後になって知るのは、たとえようなく哀しい。そんな想いに沈んでいる内に、2005年、FM東京で放送された志村正彦のトークとスタジオで演奏された『茜色の夕日』アコースティックヴァージョンが披露された。

 誰もいない神楽殿の舞台。そこには愛用のギターやアンプがあったのだが、舞台上のスピーカーから、彼の言葉が流れてきた。シングル発表直後ということもあって、明るい感じの声だったが、逆に、そのことが彼の不在を際だたせていた。アコースティックの『茜色の夕日』は、繊細で揺れるような声で「おだやかな哀しみ」とでもいうべき想いを歌い上げていた。

 私も、ある想いに捉えられていた。いつもなら、そのような想いを捉え直し、言葉にすることで、想いと距離を置こうとする自分がいた。しかし、あの時は、そのようなことはできず、涙が少しずつあふれてきた。
 今、「いつもの丘」で、『茜色の夕日』の声が響いている。声はあるのに、彼はいない。突然の身体の異変が彼の命を奪ってしまった。どうしてなんだ。どうしてなんだ。こんな現実があっていいはずはない。あってはならない。
 しかし、彼の不在、絶対に変えることのできない現実がそこにはあった。そのような現実への涙だった。

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