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2022年8月28日日曜日

2022年夏、黒板当番『若者のすべて』 [志村正彦LN314]

 夏が終わろうとしている。毎年この時期に志村正彦・フジファブリックの『若者のすべて』について書いてきたので、今年も続けたい。『茜色の夕日』論は一休止とする。

 今夏も、地元局テレビ山梨の花火の映像のBGMでこの曲を聴いた。特に八月の最後になると、テレビやラジオで『若者のすべて』が再生されることが多い。ネットでもその報告が増えている。

 今年に関して言えば、『若者のすべて』についての報道は特段なかったようだ。この春から高校音楽の教科書に採用されて以降、この曲に関するニュースは特に見当たらない(見落としている可能性もあるが)。

 そのような状況だが、黒板当番さんがこの夏に描いた『若者のすべて』の画が印象深かった。今日はこの黒板画を取り上げてみたい。すでに見た方も未見の方も、この素晴らしい作品をぜひご覧ください。

 僕は実際の画をまだ見ていない。ネットの画像、そしてこの画について作者が書いた文章(@kokuban_toban Aug 7)から考えたことを記したい。


 黒板当番さんは、『若者のすべて』の二人について次のように述べている。

この絵の中心となる男女二人の顔は、一番思い悩んだ表現でした。単純に考えるとこの歌は再開を願っていた彼女についに出会い、一緒に花火を見上げているハッピーエンドに聴こえます。しかし「話すことに迷うな」というだけでは、二人が互いに目を合わせて言葉を交わしたかどうかは怪しい、と思いました。もしかしたら彼女の存在を確認しただけで、声を掛けられないまま別れたかも知れないし、彼女は志村さんに気付いてすらいないかも知れない。さらに志村さんの妄想癖を考えると、彼女が本当にそこにいたかどうかも分からない。記憶の中の彼女をリアルに想像して、まいったな、と言っているだけかも知れない。志村さんの歌詞は、このような複数の世界線を同時に成り立たせるような「空白」を巧みに言葉に込めているように思えます。


 黒板当番さんは、〈ないかな ないよな なんてね 思ってた/まいったな まいったな 話すことに迷うな〉という所謂《再会》のシーンについて、〈この二人が互いに目を合わせて言葉を交わしたかどうかは怪しい〉〈彼女の存在を確認しただけで、声を掛けられないまま別れたかも知れない〉と考えている。

 このシーンについては以前、「志村正彦LN300」で、「「僕」は〈まいったな まいったな 話すことに迷うな〉と躊躇い、そのままその場を通り過ぎようとする。その一瞬に、「僕」の視線はその想い続けていた人に向けられる。「僕」とその人との間で、眼差しが交わされる。眼差しによる再会」という解釈を示したことがある。

 黒板当番さんはさらに〈彼女は志村さんに気付いてすらいないかも知れない〉〈さらに志村さんの妄想癖を考えると、彼女が本当にそこにいたかどうかも分からない〉と考察を深める。〈気付いてすらいない〉可能性はあると僕も考えていたが、〈妄想〉によって〈彼女が本当にそこにいたかどうかも分からない〉〈記憶の中の彼女をリアルに想像して、まいったな、と言っているだけかも知れない〉という捉え方は、思ってもみなかった。斬新で独創的な解釈である。確かに、志村正彦の作品には、彼特有の妄想や想像の力によって描かれた世界がいくつもある。


 夏の夜の花火大会だとすると、花火を美しく見せるために会場の照明は少なく、ほの暗い。大勢の人々で賑わっているが、人々の顔の表情はよく見えない。時折光る花火の光。その一瞬一瞬、光が輝く以外の時には、近くの人が誰であるのかも分からない。

 会いたい誰かがいるとしよう。たまたま、面影が少し似ている人を見かける。はっきりとは分からない。だからこそ、思う気持ちが強ければ強いほど、その見かけた人をその人自身と思いこむことがあるかもしれない。現実よりも、思う気持ちの方が勝る。そうなると妄想にも似てくる。

 あるいは、「真夏の夜の夢」のような夢想。花火の鮮やかな光や大きな音の中で、夢見心地の世界が現れる。現実と夢の狭間のような世界。〈ないかな ないよな きっとね いないよな〉〈ないかな ないよな なんてね 思ってた〉という〈ない〉のリフレインは、現実でも〈ない〉、夢でも〈ない〉、その狭間の世界を歌っているのかもしれない。

 『若者のすべて』の物語は、主体の「僕」が〈まぶた閉じて浮かべているよ〉と歌うように、閉じられたまぶたの裏側にあるスクリーンに投影されている夢物語のようでもある。

  シェイクスピア『真夏の夜の夢』(A Midsummer Night's Dream、『夏の夜の夢』という訳もある)は、真夏の熱に浮かされた恋の祝祭の物語である。最後に妖精パックは、〈夜の住人、私どもの、とんだり、はねたり、もしも皆様、お気に召さぬとあらば、こう思召せ、ちょいと夏の夜のうたたねに垣間みた夢まぼろしにすぎないと〉と語る。『若者のすべて』にも、花火によって高揚する感触、静かな祝祭の感覚がある。シングル『若者のすべて』のカップリング曲・B面の『セレナーデ』にもそのような感覚の陰影がある。


 黒板当番さんは、志村正彦の歌詞を〈複数の世界線を同時に成り立たせるような「空白」を巧みに言葉に込めている〉と考えて、次のように「若者のすべて」黒板画を構想したそうである。

このような空白を尊重したいと思ったので、この絵に二人の姿を具体的に描く上で、明らかに隣に並んでいると分かる構図の絵は描けない、と考えました。そこで出た答えが、絵の中で二人が別々のカメラで撮られたように描くことでした。すぐ隣にいるかも知れないし、離れたところにいるかも知れない。同じ花火を見上げているかも知れないし、記憶や想像の中の彼女かも知れない。本当にそこにいたとしても、彼女は懐かしい志村さんに出会っていないかも知れないし、出会うことを想定すらしていないかも知れない。そこで、彼女の髪型や服装は、特に再会への期待を感じさせない、いつもの飾らない普段着風にしました。彼女の表情も再会の有無に関係なく、花火の美しさだけに集中しているように見えるよう描きました。志村さんの方は、再会に喜んではにかんでいるようにも、また再会を妄想してニヤけているだけのようにも見えるよう気を付けました。また、二人の顔の影が少し違うのは、花火を見ている場所が違うかも知れないことを示唆しています。


  作品の画像を見ると、確かに、〈絵の中で二人が別々のカメラで撮られたように〉描かれていることが分かる。カメラの比喩で言うと、カメラの被写体とカメラの撮影者がいる。〈別々のカメラ〉とあるので、ハリウッド映画の撮影のように、同一シーンを複数カメラで撮影している感じかもしれない。映画ではカットのモンタージュで編集するが、絵画では同一画面でつなぎ合わせることになる。

 この二人の描き方による画には、《パララックス・ヴュー》、パララックス(視差)による二つの像の間に生じる見え方の差異、ギャップのようなものがある。それは、志村正彦的な何かにつながるような気がした。

 この黒板画には、富士吉田の「いつもの丘」の山と高円寺の駅前、高円寺の陸橋、八月末の天気図、『若者のすべて』CDジャケットの観覧車など、いくつもの風景や景物が同時に織り込まれている。画を描く人の視線もまたそこに織り込まれる。

 僕の目には、チョークのドットが花火の光の粒子に見える。この画全体が花火の一瞬の輝きのようでもある。上部の風景の中に、かすかに、富士山の姿を感じたのだが、これは幻かもしれない。


 文章の場合、結局、対象の構造を分析したり概念を提示したりすれば、とりあえず句点を打つことができる。だから、ある種の逃げになることもある。このblogの文章もそれを免れない。

 しかし、絵画の場合、具体的であっても抽象的であっても、像を描かなければならない。線と色を選択しなければならない。これは当然の前提だろう。しかし、あらためて、黒板当番『若者のすべて』を見て、絵を描く人の決断と勇気といったものを考えさせられた。


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