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2021年9月26日日曜日

NHK「山梨・花火専門店 静かな夏物語」/「僕」は一人で「最後の最後の花火」を見ている[志村正彦LN290]

 一昨日9月24日、NHK「ドキュメント72時間」の「山梨・花火専門店 静かな夏物語」が放送された。番組webにはこう紹介されている。

手持ち花火・打ち上げタイプ・線香花火など、400種類もそろう山梨の小さな花火専門店が舞台。地域の伝統的な打ち上げ花火大会のないこの夏、身近な人と花火をしようと多くの人が訪れる。カレーの香りがするユニークな花火を選ぶ家族や、孫のためにまとめ買いをする老夫婦。高齢者施設の入居者に楽しんでもらおうという地元の介護士など。それぞれ大切な人と、静かな夏を過ごそうとする人たち。どんな思いで花火を見つめるのか。

 この「伝統的な打ち上げ花火大会」は、山梨県市川三郷町で開催される「神明の花火」。甲府盆地の南にあるこの地は江戸時代から花火の産地であり、ここの花火大会は日本三大花火の一つとされてきた。昨年はコロナ禍のために中止されたが、九月、市川三郷町と花火業者が『世界に届け「神明花火」平和への祈り』と題して、フジファブリック「若者のすべて」に合わせて500発以上の花火を打ち上げたことを〈「神明花火 ~平和への祈り~」と『若者のすべて』[志村正彦LN264]〉でも書いた。

  この花火専門店は、市川花火の里「はなびかん」という店である。この店に集う人々、特に家族の物語が味わい深かった。花火に寄せて語られる言葉も心に沁みてきた。NHKBS1は10月1日(金)午後5:00、NHK総合1(東京)は10月2日(土)午前11:24、甲府局では「ヤマナシクエスト」枠で10月1日(金)午後7:30から再放送される。NHKオンラインの見逃し配信でも視聴できる。


 子供の頃に家族とともに花火をした思い出がある人が多いだろう。花火の物語は家族の記憶と結びついている。そのことをこの番組であらためて感じた。また花火大会も家族や友人や恋人とともに見に行っただろう。そのような前提で、志村正彦・フジファブリック「若者のすべて」の歌詞も受けとめていた。

 最後の最後の花火が終わったら

   僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ


 このフレーズについてはもう八年ほど前になるが、〈「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」-『若者のすべて』7 (志村正彦LN 48)〉で次のように書いた。


 「同じ空を見上げているよ」というのも、「僕ら」の関係のあり方を考察する上で興味深い。花火の場面では通常、人は隣り合わせで横に座り、前方上方の花火を見るという位置取りが考えられる。美しい花火の彩りに時に感嘆をあげ、光が消えて煙や空が広がり、次の花火が打ち上がるまでの 間合いには、とりとめのない、たわいない会話をする。その場に一緒にいるという雰囲気を楽しむ。花火の空を見上げるという行為自体が、夏の「余白」のような時の過ごし方である。

 そして、「僕ら」が「同じ空を見上げている」のであれば、「僕ら」の眼差しは向き合っていないことになる。同じ位置で同じ空の方向に視線を向けている。時には互いに視線を交わすことがあるとしても。


 つまり、「僕ら」は花火大会で再会を果たして隣り合わせで「同じ空」の花火を見上げている、同じ位置で同じ空の方向に視線を向けている、という解釈である。しかし、ほんとうにその解釈でよいのか、という問いが生まれてきた。別の解釈の可能性、この「僕ら」は同じ場所ではなく別々の場所で空を見上げている、という捉え方もありえる。つまり、歌の主体「僕」は、あくまでも一人で、空の花火を見上げている。誰かとともに見ているのではない。もちろん歌の解釈なので一つの可能性の選択にすぎない。「僕」は一人で「最後の最後の花火」を見ているのかもしれない。どちらかというとそのような解釈の方が「若者のすべて」全体の方向に合致しているではないとかと考え始めた。

 そのためにはこの前のフレーズ「ないかな ないよな なんてね 思ってた/まいったな まいったな 話すことに迷うな」から再検討しなければならない。

 (この項続く)

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