レナード・コーエンが11月7日に、レオン・ラッセルが11月13日に亡くなった。享年82歳と74歳。若くして世を去るロックの音楽家も少なくない中、この二人は音楽家としての人生を過ごすことができたのだろう。僕にとっては70年代前半から半ばにかけての時代に出会い、その時代にリアルタイムで聴いてきた歌い手だけに、かなりの感慨がある。
72年か73年の頃、カーペンターズによるレオン・ラッセル『ア・ソング・フォー・ユー』(A Song for You)のカバー曲がヒットし、そのうち本家のレオン・ラッセルの歌もラジオでよくかかるようになったと記憶している。あの独特の声による語りの調子に魅了された。当時は「スワンプ・ロック」の中心人物として『ニューミュージック・マガジン』でよく紹介されていた。アメリカの歌の奥行きの深さのようなものを感じていた。カーニバル的な色彩感のある『タイト・ロープ』もヒットした。今では想像できないだろうが、当時のラジオ番組ではレオン・ラッセルのような渋い洋楽もかなり放送されていたのだ。
レナード・コーエンとの出会いは、1975年リリースの『ベスト・オブ・レナード・コーエン』というベスト盤レコードだった。67年のデビュー作から74年の5枚目までのアルバムからの自選集で、本人による歌の背景の簡潔な説明も載せられていた。(これは本人公認のものだが、あの頃は日本のレコード会社の独自企画によるベスト盤もたくさんあった。小遣いの少ない若者にとってはありがたい存在だった。1997年邦盤のCDが発売されたが、現在は入手できないようだ)
ミラノのホテルで撮影されたというジャケット写真も印象深いものだった。
A面の『スザンヌ』『シスターズ・オブ・マーシー』『さよならマリアンヌ』『電線の鳥』と続く初めの四曲、B面終わりの方の『チェルシー・ホテル#2』『誰が火によって』を繰り返し聴いた。なかでも『電線の鳥』には強く惹かれた。
Like a bird on the wire,
Like a drunk in a midnight choir
I have tried in my way to be free.
電線の上の一羽の鳥のように
真夜中の聖歌隊の酔いどれのように
僕は僕のやり方で自由であろうと試みた
英語そのものの壁、英米文学の伝統、ユダヤ・キリスト教的な思想の伝統という大きな壁があった。歌詞が理解できたわけではなかったが、レナード・コーエンの「声」が強く響いてきた。意味もおぼろげではあるが次第に作用してきた。「I have tried in my way to be free.」という声と言葉が刻み込まれた。それ以来このフレーズは、「自由」であることが試されるような時の折々に、頭に浮かんできた。
題名でもある「a bird on the wire」という情景がどのようなものかは長い間分からなかった。イラ・ブルース・ナデル著『レナード・コーエン伝』(訳・大橋悦子 夏目書房2005/02)を読んで、この歌の成り立ちについて知ることができた。
1960年、レナード・コーエンは故郷のカナダ・モントリオールを離れギリシャのイドラ島で暮らし始めた。当初そこには電線も電話もなかった。まもなく電柱が立ち電線が引かれた。彼はその状況についてこう述べている。
窓越しにそんな電話線を見つめては、文明が私を追いかけきてつかまえた、もう逃れられない、と思ったものだ。自分のために見つけたはずのこの十一世紀の生活を、もう続けることができなくなった。それが始まりだった。
そう考えた時に、鳥たちが電線にとまりに来ることに彼は気づいたという。そこからこの冒頭の歌詞が生まれたようだ。
この証言によれば「the wire」は「電話線」を指すことになる。電話線は他者や外部とのコミュニケーションの象徴だ。レナード・コーエンがそこから逃避してきた欧米の世界、二十世紀の生活と自分をつなげてしまう。ギリシャでのゆったりとした時間とは異なる時間に連れ戻してしまう。「もう逃れられない」というのは悲痛な叫びだ。電話線の上にとまっている「一羽の鳥」は、そのような状況の到来にもかかわらず、「自由」であろうとする試みの像なのだろう。
デヴィッド・ボウイは今年1月に、ルー・リードは2013年10月に亡くなっている。ロックの第一第二世代、60年代後半から70年前半にかけての激しい時代を生きのびたロックの詩人たち。彼らの生が閉じられていく時代を迎えている。
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