歌を聴くことが、自分自身を聴き、読むことであるとしたら、聴き手は結果として、ある種の自己対話を試みることになる。もちろんそれは、歌い手という他者の存在が前提になる。
志村正彦も『若者のすべて』について、『音楽と人』2007年12月号の樋口靖幸氏による記事で「曲って基本的に人に向けて作るもんですけど、俺、この曲聴くたびに自分に向けて作った曲だなって思って。聴くたびに発見もあるし、後悔もあるし……」と述べている。彼自身が『若者のすべて』との対話を繰り返してきたのだろう。
一つの問いがある。そもそも、なぜ志村正彦は歌を作り、歌うのだろうか。『若者のすべて』を作った動機はどのようなものだったのか。
樋口靖幸氏による記事は、この論でもすでに何度か言及した。なかでも、これから引用する部分はとても貴重な証言になっている。この発言を初めて読んだ時、それまで分からなかった志村正彦のある真実に触れたような気がした。彼は、「今は伝えること重視。メッセンジャーという本来あるべき方向に向かい始めたんですよ」と語り始める。そして、その理由を述べる。
それはなぜかっていうと俺はもう伝えないと……自分という人間のバランスが崩れてしまう状態になってしまった。日々の生活ができないくらい。とにかく自分の曲……曲っていうか血。血を吐き出して、それをお客さんに肯定されようが否定されようがそれにアクションがないと日々の生活に支障をきたしてしまう。
「自分という人間のバランスが崩れてしまう」「日々の生活ができないくらい」という切実な言葉、そして、「血を吐き出して」という途轍もなくリアルな言葉。樋口氏も書いているように、インタビューというより「独白」のように続く志村正彦の内省的な言葉の一つひとつが読む者に痛切に響く。対話の相手との信頼関係が生んだこの発言は、『若者のすべて』についての希有な記録となっている。
彼は「血」を吐き出して、『若者のすべて』を作った。そのようにして出来上がったこの作品に、彼の「血」の痕跡はあるだろうか。そのような問いが浮かぶ。歌を聴き直し、言葉をたどり直してみる。「すりむいたまま 僕はそっと歩き出して」という一節に、わずかな痕跡があるのかもしれない。「僕」は膝のどこかに少しばかり血をにじませている。あるいは、「運命」「世界の約束」「夢の続き」という抽象的な言葉の裏側にも、主体が流す、比喩としての「血」のかすかな跡が見つけられるのかもしれない。
しかし全体としてみれば、完成した作品から「血」の痕跡を見いだすのは難しいだろう。彼は優しく穏やかに若者の物語を伝えている。二つの系列から成る言葉の織物は美しく紡ぎ出されている。『若者のすべて』は「血」とは異質な世界を歌い上げている。それでは、彼が「血を吐き出して」作品を作ったということを、私たちはどのように受け止めたらよいのだろうか。
志村正彦は「血」という言葉で何を表現しようとしたのか。「血」という言葉で何かを伝えようとしているのではない。何かを喩えようとするものでもなく、イメージを表しているのでもない。
「血」は「血」である。象徴的なものでも想像的なものでもなく、現実的なもの、実なるものである。実なるものは主体を突き動かす。彼の身体にたぎる「血」は、彼を、歌を作るという行為に強く押し出す。志村正彦は実なるものを吐き出して、歌を作ってきた。そうしないと「日々の生活に支障をきたしてしまう」と説かれるほどに、強烈で持続的な力のもとに。
「血」は、実なるものは、作品を作り上げる原動力となる。主体を突き動かす力でもあるが、この力は時に破壊的で、主体を滅ぼしてしまうような恐ろしい力となることもある。
聴き手は、そのような過程を知らずに聴いている。そのこと自体には全く問題はない。過程など知る必要はない。作り手側も知らせる必要はない。志村正彦もそのことを伝えようとして語り出したのではないだろう。この「血」に関する発言は信頼できる取材者との間で、独白のようにそっと漏らされた言葉であろう。
聴き手は作品という贈り物を受け取るだけである。単に作品として受け取ってほしいと彼は望んでいるだろう。作品は作者の「血」からも離れ、自立していくのだから。
それでも、「血」という彼の言葉を知ってしまった者は、自らの内部で何かがざわめくのを感じとるだろう。そのざわめきと対話を始めるだろう。「血」と「歌」との間にある隔たり、作り手と聴き手との間にある断層、そのような不可避の裂け目に無自覚ではありえなくなる。
この『若者のすべて』論を閉じるにあたり、最後に、この歌のミュージックビデオに触れたい。掛川康典監督によるこのMVは、志村正彦のやわらかい声の響きとグレー色の霞がかかったような色調の背景が溶けあい、ひときわ優れた映像作品となっている。LN2で書いたように、「夏」というよりも「冬」のような静けさと透明感を感じる。
フジファブリックのメンバーの演奏。金澤ダイスケのピアノの律動はこの曲の基調音のように響きわたる。山内総一郎のギターの抑制された音色、ベースの加藤慎一とサポートドラムの城戸紘志による正確で清澄なリズム。この楽曲の演奏は志村正彦のボーカル、あの限りなく優しい声を穏やかに包み込んでいる。2000年代、「ゼロ年代」のロックバンドの最高のアンサンブルがここにある。
その優れた演奏に支えられて、志村正彦の声も次第に静かに力を帯びてくる。彼のシャツには「coexistence」というロゴがある。〈共生〉〈共に生きること〉を視覚として伝えようとしたのだろうか。アコースティックギターを抱えて歌う彼の顔にはもう、初期のMVにあった十代の少年のような面影が宿ってはいない。若者としてのすべてを知りつつあるかのような、二十代後半の顔。「世界の約束を知って それなりになって また戻って」という一節のように、ある種の成熟した表情がそこにはある。こちら側を見つめる深い深い眼差しは、「同じ空を見上げているよ」と歌うエンディングで、次第に閉じられていく。「まぶた閉じて浮かべているよ」という言葉が想起される。そして歌い終わると、眼差しはやや下方に向けられる。物語を歌い終わった、しばしの安堵のような、再び、言葉をかみしめ、振り返るような、微妙な陰影のある表情と共に、このMVの円環は閉じられる。
『若者のすべて』は、時に、運命のように、世界の法則のように、夢の続きのように、聴き手の胸に強く響く。私たち聴き手も、歩行を重ねながら、歌と対話する。
この歌の声と律動、豊かさと深さ、明確には語られなかったゆえに余白にそっと佇む「愛」の感触のようなものは、永遠に、人々の心に響き続けるだろう。
付記
12回続いたこの『若者のすべて』論がようやく完結しました。断続的な掲載となったにも関わらず、お読みいただいた方々には深く感謝を申し上げます。しかし、とりあえずの完了であり、すでにいくつかの小さなモチーフが動きつつあり、いつか再び歩み始めようと考えています。
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