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2013年10月6日日曜日

二つの系列-『若者のすべて』10 (志村正彦LN 51)

 この『若者のすべて』論も10回目となる。6月下旬から書き始め、断続的な掲載となったので、すでに3ヶ月以上の月日が過ぎた。これまで、1と2では、全体の構造とメロディの配置について俯瞰し、3から7までは、歌詞の細部について一行ごとに分析を試みた。8と9では、『若者のすべて』以外の作品まで視野に入れて、「僕ら」と言葉というテーマを取り上げた。歌の言葉を論じるには、全体と部分という二つの視点から試みる必要がある。全体から始めて部分へ、そして他の作品や個別のテーマにまで論を広げたが、最後は再び全体へと戻りたい。

 志村正彦は、2007年12月の両国国技館ライブの際、『若者のすべて』を歌う前のMCで次のように語っている。

 そのなんかこう、今回のツアーで言いたいなと思ったのは、何かあるたびにこう、たとえば、えーと、例えばなんだろな、その、センチメンタルになった日だったりとか、人を結果的に裏切ることになってしまった日だったりとか、逆に嘘をついた日、あー、嘘ついた日、逆に素直になった日とか、いろんな日があると思うんですけど、そんな日のたびに、立ち止まっていろいろ考えていたんですよ、僕は。んーだったら、それはちょっともったいないなあという気がしてきまして。

 だったら、こうなんかこう、なんかあの、BGMとか鳴らしながら、歩きながら、感傷にひたるってのがトクじゃないかな、って思って。だから言ってしまえば、止まってるより、歩きながら悩んで、一生たぶん死ぬまで楽しく過ごした方がいいんじゃないかな、っていうことに、いやー、26、7になってようやく気づきまして、そういう曲を作ったわけであります。

 彼は、「センチメンタルになった日」とか色々な日々のたびに「立ち止まっていろいろ考えていた」と述べる。確かに、特に初期の曲には、歌の主体が、花を始めとする季節の風物や、人間関係で生起する出来事に遭遇し、その場で立ち止まるという場面が多い。主体は佇立し、想いにとらわれるが、その想いが言葉で直接的に語られることはない。例えば、「陽炎」が揺れる時、「金木犀」が香る時、主体はその場に佇み、その場から動こうとはしない。想いが深すぎるのだろうか、主体はその場に閉じこもる。

 彼は、その立ち止まって考えるあり方を「ちょっともったいない」として、動き出そうとする。「BGMとか鳴らしながら、歩きながら、感傷にひたる」方法を見つけ、「歩きながら悩んで、一生たぶん死ぬまで楽しく過ごした方がいい」と考えるようになる。
 「歩きながら」は文字通り、主体の歩行を表している。「BGMとか鳴らしながら」「感傷にひたる」とあるが、「感傷」とは主体の想いや考えであり、BGM・「background music」とはそのような主体の背景に流れる音楽のことである。そう考えると、BGMの上に展開される主体の物語、映画のような物語を自分自身で創造することになる。

 『FAB BOOK』には、「この曲には”物語”が必要だと思った」と記されている。『「ちゃんと筋道を立てないと感動しないなって気づいたんですよね。いきなりサビにいってしまうことにセンチメンタルはないんです。僕はセンチメンタルになりたくて、この曲を作ったんですから」と説いている。ライブMCの言葉につなげると、BGM上の物語の筋道を立てることが「センチメンタル」の成立に不可欠だと考えたのだろう。

 歩きながら感じ、想い、考えること。筋道を立てて物語を創ること。志村正彦のその選択、方法は、『若者のすべて』にどのような形で現れているのだろうか。すでにLN34「ファブリックとしての『若者のすべて』-『若者のすべて』1 」で次のように書いた。

 『若者のすべて』の中には、歌詞の面でも楽曲の面でも、二つの異なる世界が複合している。「フジファブリック」という名の「ファブリック」、「織物」という言葉を喩えとして表現してみるならば、『若者のすべて』の物語には、《歩行》の枠組みという「縦糸」に、「最後の花火」を中心とする幾つかのモチーフが「横糸」として織り込まれている、と言えよう。

 ここで指摘した、「縦糸」である「歩行」の枠組みは、志村正彦が両国ライブで伝えた「歩きながら」に対応する。また、「横糸」である「最後の花火」のモチーフは、「感傷にひたる」に対応する、と考えてよいだろう。つまり、彼の新たな試みは、『若者のすべて』の構造、二つの系列の複合として結実している。
 この二つの系列の細部についてはすでに述べてきたが、二つの系列とその差異を視覚的に示すために、二つのフォント色を使って、縦糸の部分「歩行」の系列を青色で、横糸の部分「最後の花火」の系列を赤色で表示して、全歌詞を引用してみたい。

  真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた
  それでもいまだに街は 落ち着かないような 気がしている


  夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
  「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて


  最後の花火に今年もなったな
  何年経っても思い出してしまうな


  ないかな ないよな きっとね いないよな
  会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ


  世界の約束を知って それなりになって また戻って

  街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ
  途切れた夢の続きを取り戻したくなって


  最後の花火に今年もなったな
  何年経っても思い出してしまうな


  ないかな ないよな きっとね いないよな
  会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ


  すりむいたまま 僕はそっと歩き出して

  最後の花火に今年もなったな
  何年経っても思い出してしまうな


  ないかな ないよな なんてね 思ってた
  まいったな まいったな 話すことに迷うな


  最後の最後の花火が終わったら
  僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ



 『若者のすべて』、この青色と赤色で区分けされた、二つの系列の言葉の綴れ折りをどのような印象を聴き手にもたらすのか。これまで論じてきたモチーフとできるだけ重ならないように、主体「僕」の行動や動作を中心に分析したい。

 最初に、青色で示した縦糸の部分、「歩行」の系列をたどる。
 「歩行」系列の主体「僕」は、一人称の話者であり、一人で行動する主体である。「僕」はまぎれもない単独者であり、おそらく都市生活者であろう。「僕」は、「真夏のピークが去った」季節に「落ち着かないような」「街」を歩いている。「夕方5時のチャイム」が「胸に響いて」、「運命なんて便利なもの」を想起してしまう。「世界の約束」を意識し、「街灯の明かり」が点くと「途切れた夢の続き」を取り戻すために「帰りを急ぐ」。その歩みは、永遠の循環のように「それなりになって また戻って」と行きつ戻りつし、そして「すりむいたまま」「そっと歩き出して」いくような彷徨である。

 さらに青色の部分を見つめると、「歩行」の系列の第1ブロックから第3ブロックまで、行数が、4、3、1行と次第に少なくなることに気づく。最後の行で主体「僕」が登場し、「すりむいたまま」「そっと歩き出して」という言葉に収斂していく。「僕」の歩みそのものがその一行に凝縮されるように。志村正彦は、『音楽と人』2007年12月号の記事で、「一番言いたいことは最後の〈すりむいたまま僕はそっと歩き出して〉っていうところ。今、俺は、いろんなことを知ってしまって気持ちをすりむいてしまっているけど、前へ向かって歩き出すしかないんですよ、ホントに」と述べているが、そのモチーフは「歩行」系列の展開の中で充分に表現されている。

  しかし、「歩行」の系列中、「僕」の動作や情景以外で使われているのは、「運命」「世界の約束」「途切れた夢の続き」というように、かなり抽象的な言葉であり、具体的な内容や文脈が欠落してしまう。「歩行」の系列の中で、物語を描くのは困難だろう。志村正彦は「この曲には”物語”が必要だと思った」と述べている。『若者のすべて』の中に物語を導入するためには、もう一つの系列が必要となるだろう。彼は「歩きながら」、「感傷にひたる」という道筋を見つけ、「歩行」の系列に、「最後の花火」の系列を組み込む方法を編み出した。

 赤色で示す横糸の部分「花火の系列」の方も、主体「僕」の動作、行動を中心に見ていく。「最後の花火」という具体的状況に関連して、「思い出す」「思う」、「言う」「話す」、「まいる」「迷う」という主観的な動作の語彙が続く中で、「まぶた閉じて浮かべているよ」にある、まぶたを「閉じる」という身体的な動作が注目される。LN44で次のように書いた。

「まぶた」を閉じた「僕」は、「まぶた」の裏の幻の対象に対して、「会ったら言えるかな」と囁く。「まぶた」を開けた「僕」は、その眼差しの向こうの現実の対象に対して、「話すことに迷うな」と呟く。不在と現前、夢想と現実の響きが、『若者のすべて』の中で、美しい織物のように編み込まれている。

 LN44では、「まぶた」を開けた「僕」の眼差しの向こう側には現実の対象がいると述べたが、全く正反対の解釈もあり得る。この時に、もしかすると、「まぶた」はより深く閉じられ、眠りが訪れ、本当の夢へと入り込んでいったという可能性だ。「僕」の夢の中で、「僕ら」は再会する。「最後の最後の花火」は夢の中で輝く。「途切れた夢の続き」が「夢」であるということは、ありえないことではない。そして、「最後の最後の花火が終わったら」というのは、その夢そのものの終わりを意味しているのかもしれない。「僕」は夢から現実へと覚醒する。

 記憶の再生であれ、想像であれ、夢であれ、まぶたを閉じて想い浮かべているのは、心の中のスクリーンに投影される像であり、その物語であろう。「最後の花火」系列では、他にも「同じ空を見上げている」とあるように、見上げる動作が強調されている。映画のスクリーンのように、「最後の花火」「最後の最後の花火」の物語は上映される。「僕」と「僕ら」はその映画を見上げているかのようだ。

 「歩行」系列の「僕」も、「最後の花火」系列の「僕ら」も、それぞれの系列の最後の行で言葉に表されている。二つの系列の主体は最後に登場する。「歩行」の系列と、「最後の花火」の系列の関係は、歌われるテーマやモチーフの観点から分けてきたが、歌う主体という観点からは、「僕」の系列と「僕ら」の系列の差異とも捉えられる。二つの観点をまとめてみるなら、「僕-歩行」系列と「僕ら-最後の花火」系列と呼ぶ方が適切だろう。「僕-歩行」系列と「僕ら-最後の花火」系列とは、「歩きながら」「感傷にひたる」という方向で複合されている。

 この夏、フジテレビのドラマ『SUMMER NUDE』のモチーフやBGM、NHK高校野球決勝中継の『夏 輝いた君たち』と題するダイジェスト映像のBGM、フジテレビ『若者のすべて~1924+3~』というトークドキュメンタリーのオープニングBGMとして、『若者すべて』が流されていた。どの番組でも単なるBGMとして使われているのでなく、歌詞の言葉が充分に聴き取れるようにミキシングされていた。曲だけでなく歌詞も、ドラマやスポーツやドキュメンタリー番組の背景として見事に映像と調和していた。勝手な造語を使わせてもらうならば、BGW・「background words」のように機能していた。そして、『若者のすべて』の言葉は聴き手に様々な映像を喚起するような働きがあることに、あらためて気づかされた。

 志村正彦は、歩きながら、「感傷」や「悩み」との対話を試みる。そして、映画を上映するように、「僕」と「僕ら」の物語を歌う。この歌の聴き手は、自分自身の物語を、心のスクリーンに重ねていく。
 だからこそ、今、『若者のすべて』は、若者の季節と物語をモチーフとする数多くの歌の中で、それらを代表する作品になりつつあるのではないだろうか。

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