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2018年7月31日火曜日

LINEモバイルWEB限定CM 30秒ver.-『若者のすべて』[志村正彦LN190]

  前回の記事から二日、珍しく読み込みが多く、筆者として嬉しい。今日で七月が終わる。猛暑が続くが、これから「真夏のピーク」がやってくるのだろうか。季節の感覚が揺らぐ夏だ。

 今夜、『若者のすべて』関連のtweetを検索すると、再度、LINE取締役CSMOの舛田淳氏の次の呟きを見つけた。


   舛田淳 Jun Masuda @masujun
皆様からの反響を見ているうちに製作陣の想いが溢れ出してしまい、新たに30秒Verも作ってしまいました。 どうぞご覧ください。


 「30秒Ver」!
 皆の反響が制作者の想いを溢れ出させたとはなんということだろうか。
 早速、youtubeを見ると、《【WEB限定】LINEモバイル: TVCM 〜 虹篇 〜 30秒ver. 2018/7/26(木)より放送のTVCM『虹篇』 フジファブリックの楽曲「若者のすべて」と、のんさんの演技が反響をいただいているため、WEB限定で少しだけ長い特別篇を公開いたしました!》という詞書きがあり、次の映像が公開されていた。




 「30秒ver」では次の部分の歌詞までが流されている。


  最後の花火に今年もなったな
  何年経っても思い出してしまうな

  ないかな ないよな きっとね いないよな
  会ったら言えるかな まぶた閉じて(浮かべているよ)


 「15秒ver」では断片的だった歌詞が、「30秒ver」になってようやく『若者のすべて』としてのまとまりを得た。この歌詞を支えているのは次の四つの文節である。この箇所がないと、この歌の実質が失われてしまう。


   ないかな
   ないよな
   きっとね
  いないよな


 「な」の音が六回繰り返されている。「な」の響きが「(い)ない」という意味を押し出すようにして、何かの不在を描き出している。
 CM映像は「のん」ちゃんが、音としては聞こえない台詞を話している。不在の台詞の背後で、「ないかな ないよな きっとね いないよな」という不在を伝達する志村正彦の声が響いている。「のん」という女優名があたかも「non」、否定、不在の刻印を帯びているようでもある。

 そのような分析はやはり、ない、のだろうが。

2018年7月29日日曜日

2018年の夏-『若者のすべて』[志村正彦LN189]

 LINEモバイルのCM「虹篇」のCMソングとして、フジファブリック『若者のすべて』が使われたことはネットの世界でかなりの反響を呼んでいる。特にテレビで思いがけなく志村正彦の声が聞こえてきた人にとっては、驚き、喜び、そして不意打ちのようにしてもたらされた哀しみなど様々な感情が去来したようだ。このような形で使われることに対する反発もあった。曲とCMの内容に齟齬があるのではないかという指摘もあった。それでも、『若者のすべて』が傑出した作品であることについては皆が同意しているようだ。

 筆者としては、作品としての素晴らしさとは別次元のこととして、なぜこの曲が選択されたのかを考えた。CMソングによくあるタイアップではなく、しかも、フジファブリックは今も活動しているが、九年前に亡くなった志村の声によるオリジナル音源を採用した経緯はどのようなものであったのか。このような問いは問いのまま終わることが多いのだが、このCMのスポンサーであるLINE株式会社取締役CSMOの舛田淳氏自身のtwitter(@masujun 7月26日)が、その問いに対する答えをある程度まで明らかにしてくれた。


今回のcmは企画から完成まで大難産。最後の最後まで今までで一番悩んだかもしれない。楽曲も悩みに悩んでの「若者のすべて」。だからこそ、tweetでの皆さんのたくさんのポジティブな評価が嬉しい。300円、300円... 。


 CSMOという役職は、企画・企業戦略・マーケティングに関する全てを統括する責任者のようだ。その職に就いている最高責任者自身が『若者のすべて』採用の経緯を率直に吐露しているのは珍しい。twitterというフラットなコミュニケーションの文化がそういう状況を切り開いたのだろうが。

 発言を読む限り、かなりの悩み、困難や試行錯誤の過程を経た上での志村の歌の採用だったようだ。ネットの情報によると、舛田淳氏は1977年生まれ、高校中退後に大検を経て早稲田に進み、LINEをここまで成長させた経営者らしい。経歴もベンチャー起業家としての実績もとてもユニークだ。「愛と革新」というLINEモバイルのキーワードも秀逸だ。なるほど。このような人物だからこそ、『若者のすべて』はこの2018年の夏の季節に日本全国に流されることになったのであろう。

 そんなことを考えていた昨日の午後、小袋成彬(おぶくろなりあき)という未知の音楽家が「フジロックフェスティバル '18」のRED MARQUEEステージで『若者のすべて』を歌ったことを知った。幸いなことに、この日のライブはyoutubeの「FUJI ROCK FESTIVAL '18 LIVE Sunday Channel 2」で中継されていた。LIVE映像を過去に巻き戻して、小袋成彬のステージを見ることができた。本人とギター、ベースの三人編成で『若者のすべて』の一番が演奏された。小袋の声はファルセットボイス。透き通るように広がっていく。この歌が新しい世代の音楽家たちにも愛されているのがとても嬉しい。
 ただし、「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて、のところを、「運命」なんて便利な言葉でぼんやりさせて、と歌ったのには疑問符が付く。おそらく間違いだったのだろうが、意図的だったとするなら、ここは「言葉」ではなく「もの」でなければならないと書いておきたい。それこそ、歌詞をぼんやりさせてしまう。

 振り返ると、このblogで『若者のすべて』について書き始めたのは2013年3月、それから五年半近くの年月が経っている。この歌に強く惹かれて、通番を付さないものも含めると今回で計34回も書いたことになる。あの当時もこの作品は志村正彦・フジファブリックの代表曲、2000年代の日本語ロックの傑作という評価はあった。その後、優れた歌い手によって何度もカバーされ、幾つものテレビ番組やドラマ・アニメの挿入歌にもなってきた。
 そして2018年の夏、CMソングとして大量にオンエアされている。この五年半の間、より多くの人々に届けられるようになった。

 『若者のすべて』は、繊細な季節感と新しい叙情の表現、この時代の若者の複雑な陰影の描写、「僕」と「僕ら」による語りの重層性によって、希有な作品となっている。「日本語ロック」という枠組みを超えて、「日本の歌」「夏の叙情詩」というより大きな世界で揺るぎない評価を受け、愛されるようになった。今、そのような「運命」を生きている。

2018年7月26日木曜日

LINEモバイルのCMソング-『若者のすべて』[志村正彦LN188]

   今日からフジファブリック『若者のすべて』(詞・曲:志村正彦)がLINEモバイルのCM「虹篇」のCMソングとして放送されることをネットで知った。
 テレビの民放局を選んでそれとなく見ていたところ、午後11時少し前に確かにオンエアされているのに遭遇した。志村正彦の声が聞こえてきた瞬間、なんだか感情が動くというよりも固まってしまった。少ししてから、この歌が愛されていることを実感した。

  youtubeにある公式映像をここに添付しておきたい。




 「最後の花火に」志村の声が綺麗に響きはじめる。
 雨の中、のん(能年玲奈)ちゃんが雨具を着て、「300円 今ならスマホ代月300円から 300円 LINEモバイル」という声とナレーションが入る。背景に虹が浮かび上がる。「愛と革新。LINE MOBILE」という画面で終わる。(「愛と革新」か、なかなか攻めてるな)
 15秒間で流れたのは「最後の花火に今年もなったな/何年経っても思い出してし(まうな)」という箇所だった。

 三月まで在職していた高校は、今勤務している大学と高大連携の講座をここ七年ほど続けている。今年は自然ななりゆきで僕も担当することになり、一週間ほど前、高大連携の小論文の授業を行った。前半は論理的な思考のレッスン、後半は『若者のすべて』を聴いて三つの観点を自由に設定して考察するという課題を出した。思考は何かに遭遇して心が動かされることからも始まる。単なる論理の操作ではないことを学んでほしかった。

 プロジェクターで映像が流れた瞬間、120人ほどの受講生はすっと静かになり、言葉と音に耳を傾けていた。この曲にはある種の鎮静作用があるようで、その場を静かに穏やかに包み込む。各々、配布したワークシートに言葉を記していた。この歌には聴く者の感覚と思考を触発させる力がある。そのことを今回も再確認した。

 真夏のピークの只中の季節、『若者のすべて』が人々のすべての夏に届いていきますように。そんなことを思い浮かべている。


2018年7月16日月曜日

世界が笑う-『虹』と『虹色デイズ』2[志村正彦LN187]

 『虹色デイズ』では、冒頭シーンの『虹』に加えてもう一曲、フジファブリック『バウムクーヘン』(詞・曲:志村正彦)が球技大会の場面で使われている。
 飯塚健監督がフジファブリックの二曲を使用した経緯や理由を語ったインタビューが「ナタリー」に掲載されている。(取材・文 / 中野明子) 

 「虹」を使用した理由については「撮っている中でフジファブリックの「虹」は合いそうだというのが直感的にあって、現場でずっと聴いてたんです」と述べている。監督には最初から強い「直感」があったようだ。現場でずっと聴き続けていたせいか、結果として、この『虹』のリズムが映画全編を通して響き続けているようにも思える。
 また、『バウムクーヘン』の採用経緯についてはこう語っている。

ちょうど合うシーンとして球技大会の場面があって。セリフが一番大事なシーンではないので、ここだったらかけられるかもってなったんです。オープニングのプールに飛び込むシーンとつながる部分でもあるので、もう1回「虹」をかける案もあったんです。でも、逆にハマりすぎて「これはダメだ。主題歌になる」っていう理由でやめて。

 さらに、「同じ曲が2回映画の中で使用されると、曲の存在感がかなり強くなりますよね」という取材者の発言に対して「そうなんです。ただ、オープニングとのつながりがあるシーンなので、フジファブリックの曲からチョイスさせていただこうと」と述べている。

 フジファブリックの曲は「主題歌」という扱いではないという制約あったのだろう。『虹』を二回使うと「ハマりすぎて」主題歌になってしまう。それを避けるために『バウムクーヘン』が使われたというのは興味深い。
 球技大会自体の性格どおり、この場面自体は物語の展開の余白のような部分だ。だから、志村正彦の歌詞を物語の説明として機能させているわけではない。ただしそれでも、「何をいったいどうしてなんだろう/すべてなんだか噛み合わない/誰か僕の心の中を見て 見て 見て 見て 見て」というあたりは、作中の高校生たちの「心の中」を描写しているようにも見える。この場面を境に、物語は前半から後半へと転換していくところでもある。

 『虹色デイズ』全体の音楽は海田庄吾、エンディング・テーマ『ワンダーラスト』は降谷建志、挿入曲はフジファブリックの他に阿部真央・Leola・SUPER BEAVERが担当している。それぞれ素晴らしい作品だった。オープニング曲は映画への導入としてきわめて重要なものだ。ビジネスという面では現在活躍中のアーティストを使用したり、タイアップ曲として連携したりするのが通常にもかかわらず、飯塚監督は志村の作品を選択した。志村の言葉と楽曲にそれだけの力があったということだろう。力のある作品は決して滅びない。

 このblogで繰り返し書いてきたことだが、志村の作品は映画やドラマとの親和性が高い。『蜃気楼』『蒼い鳥』のような映画のエンディングテーマ曲の他にも、『茜色の夕日』『若者のすべて』などドラマの挿入歌として使われた例もある。志村の作品は本質的に声と音で構成されたショートフィルムでもあると筆者は考えている。

 ラストシーン。登場人物たちの向こう側の空に虹が映し出される。まさにここで『虹』が流れてほしい、「虹が空で曲がってる」という詞が歌われてほしいという瞬間なのだが、当然そうはならない。そうなるとエンディング・テーマと被ってしまうのだろう。そのような事情をうけとめながら、筆者は心の中のスクリーンで『虹』を響かせていた。


  言わなくてもいいことを言いたい
  まわる!世界が笑う!


 特に末尾の「世界が笑う!」がこのラストシーンの高校生たちを祝福する言葉のように聞こえてきた。虹が笑う。高校生が笑う。虹も高校生も笑うようにして、この瞬間のこの世界を肯定している。

 飯塚健監督は「誰もが経験したことがあるような記憶を観ている人が照らし合わせる」映画となるように『虹色デイズ』を制作したと述べている。例えば志村正彦の歌う「世界が笑う」ような経験を、僕たちはおそらく中学生や高校生の時代に体験しているのだろう。その記憶はどこかにしまわれている。でも映画や音楽に触れることで回帰してくることもある。そんな想いがかけめぐった。

2018年7月10日火曜日

世界が揺れる-『虹』と『虹色デイズ』1[志村正彦LN186]

 週末雨上がった日曜日。映画『虹色デイズ』(監督・飯塚健)を見た。上映館は「イオンモール甲府昭和」にあるシネコン「TOHOシネマズ 甲府」。甲府市内と郊外に二つしかない山梨の常設映画館の一つだ。日曜日の昼間という時間帯なので観客は中学生か高校生くらいの女子が多かった。上映前に楽しそうにおしゃべりをしているのが微笑ましかった。

 冒頭でフジファブリック『虹』(詞・曲:志村正彦)が流れる。二分半ほどの間、志村の声が場内に響いた。
 四人の男子高校生がプールに飛び込む場面に続いて、主人公的役割の「なっちゃん」(佐野玲於)が「杏奈」(吉川愛)と駅で偶然を装って出会うために自転車のペダルを全力で漕ぐ。ドローン撮影のカメラが彼を追いかける。このカメラワークと『虹』の曲調が不思議なほど合っている。『虹』の歌詞が持つ疾走感、滑空感とでもいうべきものが映画のリズムを加速させている。「杏奈」は電車通学。駅で二人が視線を交わす場面で曲は終わり、一休止して物語が始まる。

 有り難いことに、この冒頭シーンが「映画『虹色デイズ』 フジファブリック「虹」が男子たちの青春を彩る!本編オープニング映像」と題して公式の「松竹チャンネル」でまるごと公開されているので紹介したい。参照するために映像挿入分の歌詞を引用しておく。





  週末 雨上がって 虹が空で曲がってる
  グライダー乗って
  飛んでみたいと考えている
  調子に乗ってなんか
  口笛を吹いたりしている
  週末 雨上がって 街が生まれ変わってく
  紫外線 波になって
  街に降り注いでいる
  不安になった僕は君の事を考えている

  遠く彼方へ 鳴らしてみたい
  響け!世界が揺れる!
  言わなくてもいいことを言いたい
  まわる!世界が笑う!

  【省略部分】

  週末 雨上がって 街が生まれ変わってく
  グライダーなんてよして
  夢はサンダーバードで
  ニュージャージーを越えて
  オゾンの穴を通り抜けたい

  遠く彼方へ 鳴らしてみたい
  響け!世界が揺れる!
  言わなくてもいいことを言いたい
  まわる!世界が笑う!

  【省略部分】

 飯塚監督は映像と音楽のタイミングの調整に万全を図ったのだろう。まるでこの映像のために志村が作曲したかのような出来映えだ。例えば「不安になった僕は君の事を考えている」のところ。ほんの一瞬だが二度ほど車中の「杏奈」の映像が挟み込まれる。「僕」と「君」、そして「不安」。歌詞の展開を考えて映像を編集したのだと思われる。

 省略されたのは、「週末 雨上がって 虹が空で曲がってる/こんな日にはちょっと遠くまで行きたくなる/缶コーヒー潰して/足をとうとう踏み出す」と「もう空が持ち上がる」の二カ所、そして繰り返し部分だ。モチーフ的に合わない部分が省かれたのかもしれない。全体的な印象としては『虹』の歌詞全体が使われている感じだ。

 ネタバレになるのでストーリーの内容については言及しない。原作は水野美波の漫画。『別冊マーガレット』連載の少女コミックなので、主要人物の女子三人の描き方がなかなか秀逸だった。男子四人の言動は愉快だが、女子三人(一人加えて女子四人とした方がいいかもしれないが)の物語も興味深い。女子の内面に焦点が当てられた「女子映画」としても優れている。

 『虹』は梅雨が明けきらない季節、初夏の季節を舞台としているのだろうが、この歌詞にも『NAGISAにて』『陽炎』と同様に「揺れる」が登場する。


  遠く彼方へ 鳴らしてみたい
  響け!世界が揺れる!


 『虹』の「響け!世界が揺れる!」という志村の声に揺さぶられるようにして、『虹色デイズ』の高校生の恋物語は揺れていく。その揺れる感じがなんだか懐かしくて愛おしい。

 今日7月10日は志村正彦の誕生日。夏に生まれた彼は「揺れる」夏の歌をいくつも作った。「陽炎」が揺れ、「二人」が揺れ、「世界」が揺れる。

  (この項続く)

2018年7月7日土曜日

夏の歌が揺れてる-『NAGISAにて』3[志村正彦LN185]

 七夕の日。この夏もまた今夕から富士吉田でフジファブリックの『若者のすべて』が流れる。「真夏のピークが去った」頃の歌だが、富士北麓の夏は短い。この歌の季節感と共に夏が開けていくのも富士吉田らしいのかもしれない。

 『NAGISAにて』は、春夏秋冬シリーズの2ndシングル「夏盤」、『陽炎』のカップリング曲としてリリースされた。『NAGISAにて』と『陽炎』の二曲は物語の世界や曲調がかなり異なるが、「夏盤」としての共通項がある。

 志村正彦は発売時の「oriconstyle」のインタビュー記事で、『陽炎』について「今の自分が少年時代の自分に出くわすっていう絵が、頭の中あって。そこで回想をして、映画に出てきそうなシーンを書きたいなと思って作りました。」と述べている。また、『NAGISAにて』に関して「この曲も、『陽炎』の延長線上にあります。歌詞のテーマは、ドラマの一場面にありそうな、男女関係のコテコテを出したかったんです。」と言及している。

 季節は共に夏。舞台は『陽炎』が故郷の街、『NAGISAにて』が渚。『陽炎』では「今の自分」が「少年時代の自分」に、『NAGISAにて』では「男」が「女」に出会う。二つの物語は「映画に出てきそうなシーン」「ドラマの一場面」というように幾分か虚構化されている。

 『FAB BOOK―フジファブリック』(角川マガジンズ 2010/06)で、志村は『陽炎』に言及し「東京に来てからは、夏の思い出はないんですよ。だから、この曲でも夏とはいっても明るいサマーな感じはないんですよね」と述べている。確かに、『陽炎』にも『NAGISAにて』にも「明るいサマーな感じ」は全くない。作者は「夏」と自分との距離をむしろ描きたがっている。他の春、秋、冬の歌にもそのような趣がある。

 二つの歌の風景の中心をなす言葉にも共通項がある。


  そのうち陽が照りつけて
  遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる             『陽炎』


  渚にて泣いていた 貴方の肩は震えていたよ
  波音が際立てた 揺れる二人の 後ろ姿を          『NAGISAにて』


 「陽炎が揺れてる」と「揺れる二人」。「陽炎」「二人」と対象は異なるが、「揺れる」という動詞が共に登場する。
 『陽炎』は「今の自分」が「少年時代の自分」を回想している。現在と過去との間に、時の揺らぎのようなものが起きることでこの歌は生まれた。少年時代の「路地裏」に「陽が照りつけて」、その遠くで「陽炎が揺れてる」。こちら側と向こう側、少年の視線を隔てている場で何かが揺れている。
  『NAGISAにて』では、こちら側にいる「男」が向こう側にいる「女」を眺めている。物語内の現実ではなく想像、妄想の世界だと筆者は解釈したが、どちらにしろ「二人」の関係は揺れている。

 「映画」や「ドラマ」が引き合いに出されたように、この二曲はきわめて映像的な設定であり演出でもある。現在の自分と過去の自分、青年と少年。眺める主体と眺められる客体、男と女。時や場を隔てて、各々の二者は揺れている。志村が「明るいサマーな感じ」という定型を脱構築することによって、物語が揺れはじめる。
 遠くで夏の日が揺れてる。夏の歌が揺れてる。
                                           

2018年7月1日日曜日

ドラマ『R134/湘南の約束』-『NAGISAにて』2[志村正彦LN184]

 7月に入った。梅雨が明けてしまい、とにかく暑い。いつもよりはやい夏の到来にとまどうが、今日も夏の歌、フジファブリック『NAGISAにて』について書くことにする。前回とは異なる観点でこの歌を探究してみたい。

 この季節には様々な渚の物語が始まり渚の歌が生まれるのだろうが、『NAGISAにて』の物語は作者志村正彦の実体験ではなく、彼が見た映画かドラマのワンシーンが素材になっている気がする。根拠はなく推測にすぎないが。

 湘南あたりの渚で繰り広げられる恋物語。その映像を見ている作者が話者となって語り出す。画面のこちら側の人間が画面の向こう側の世界に対して呼びかける。「お嬢さん お願いですから泣かないで」と。呼びかけていくうちに、話者は歌の中の人物と化して歌の内部に入り込む。「ハンカチ」や「散歩」、あれこれと細部の空想が始まる。『NAGISAにて』の歌の主体の誕生。画面のこちら側と向こう側という壁で分断されているはずの二人、出会うことのない二人が、歌物語の内部で「二人」となる。でも彼は「言える訳もない 言える訳もないから」、「お嬢さん」に近づくことはできない。「お嬢さん」との距離を埋めることはできない。そして何事も起きずに遠ざかっていく。話者は画面の世界からこちら側に帰還する。物語の世界の外部から、その世界に取り残された残像としての歌の主体と「貴方」の「二人」の後ろ姿を描く。

 『花屋の娘』(詞・曲:志村正彦)の「夕暮れの路面電車 人気は無いのに/座らないで外見てた/暇つぶしに駅前の花屋さんの娘にちょっと恋をした」にも同様の構造がある。路面電車のこちら側から向こう側「外」の「花屋さんの娘」への「恋」を語り出す。電車の窓が画面の枠組となって想像の世界が広がる。決して出会うことのない二人がそのようにして出会う。そのようにして出会う二人の物語が自らの歌のモチーフだ。あるいはそのような遭遇にこそ今日の恋物語がある。志村はそう考えたのかもしれない。

 そんなことを書きとめていたところ、あるドラマに出会った。6月27日、NHKBSプレミアムで放送された神奈川発地域ドラマ『R134/湘南の約束』である。国道134号線沿いの湘南の渚や海辺が舞台となるロードムービー。脚本は桑村さや香、主演は宮沢氷魚(宮沢和史の息子と付記しておく)。

 物語は、10年前に起きたある事件を契機に故郷の葉山を飛び出した洸太(宮沢氷魚)がアメリカの老婦人マリア(ニーナ・ムラーノ)とあるバーで出会うことから始まる。ある男性が写る古い写真を見せてこの場所に行きたいと訴えるマリアに付き合わされ、洸太はずっと避けてきた故郷への「旅」に向かう。つまり、「Boy Meets Girl」の物語なのだが、「Boy」が屈折した青年、「Girl」が風変わりな老婦人ということが今日的な設定だと言える。

 洸太とマリアの「二人」はおのおの果たせていない「約束」を心に抱えている。美しい海と渚に佇む「二人」の後ろ姿が写るシーンがあるのだが、それを見た時に『NAGISAにて』の最後の一節を想いだした。


  波音が際立てた 揺れる二人の 後ろ姿を


 「約束」を果たそうとする「老婦人」と、その老婦人との出会いと旅によって「約束」に向き合わざるをえなくなる「青年」。おのおのの「約束」を果たそうとして「揺れる」「二人」。その「後ろ姿」が美しい渚の光景と共に画面に描かれていた。設定や状況は全く異なるが、ドラマと歌が出会ったような気がした。

 『NAGISAにて』も『R134/湘南の約束』も、「Boy Meets Girl」の定型的な物語、海辺の恋物語から外れている。人と人はどのような形や経緯であれ、出会いあるいは出会い損ねる。時には出会わないままでいる。それでも、人と人は「二人」となることがある。志村のイメージに倣うならば、その「二人」は揺れている。そして、後ろ姿だけが際立つ。