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2019年9月30日月曜日

《ロックの歌詞》出張講義 [志村正彦LN235]

 勤め先の山梨英和大学では高校生対象の出張講義を実施している。専任教員が27名ほどの小さな大学だが、一人ひとりがテーマを設けて出張講義の冊子を作り、県内や近県の高校に送付している。
 僕の設定したテーマは「ロックの歌詞から日本語の詩的表現を考える」。志村正彦・フジファブリックの『若者のすべて』を教材にして、詩的表現を鑑賞して分析する授業である。

 今回、長野県の駒ヶ根市にある高校からこのテーマでの出張講義を依頼された。高校1年生と2年生のグループに対して60分の授業を二回行う。昨年この授業を甲府市内の高校で実施した時は80分だったので、その時使用した資料やワークシートを60分用に再編集したが、新たに書き加えた部分も多かった。最近の『若者のすべて』カバーの盛況を伝えるためのDVDも作成した。長野の高校生に授業ができる大切な機会なのでいろいろと準備した。

 9月27日の金曜日、資料・DVD・PC等の機材を車に乗せて大学を出発した。その時に偶然、『赤黄色の金木犀』がFM-FUJIから流れてきた。DJはこの季節の曲だという紹介をしていた。なんだかこの出張講義への声援のようにも聞こえてきた。この曲のミュージックビデオは長野県上田市で撮影されたことも思い出した。

 甲府から駒ヶ根までは車で2時間近くかかる。往復で4時間。それなりの長旅だ。地図上の感覚では南アルプスを超えた向こう側に位置しているが、車のルートでは中央自動車道で大きく迂回していく。この日は天気が良く、フロントガラス越しに山々の稜線が美しく見えた。山梨の反対側から南アルプスを眺めることになった。

 高校に無事到着。教室に案内される。生徒は第1回目が14人、2回目が7人。僕の授業は、生徒や学生が読んだり聴いたり書いたり話し合ったりという所謂「アクティブラーニング」のスタイルなのでちょうどよい規模の数だった。本題に入る前に好きな音楽、歌手やバンドを質問してみた。RADWIMPS、back number、米津玄師の名が上がる。残念ながらフジファブリックはない。『若者のすべて』という曲を知っているかという問いに対しては一人だけ返事をした。8月のミュージックステーションでの演奏を見たそうである。山梨の高校生ならもっと知っているだろうが、隣県とはいえここは長野だ。知名度としては低いのだろう。

 今回の展開は、
1.『若者のすべて』のミュージックビデオを聴いて、心に浮かんだことを自由に言葉で表現していく。
2.三つの観点から『若者のすべて』の詩的表現を分析していく。
3.最初の感想と分析を通して得たものを総合させて考察文を書く。
 というものだった。授業であるからには展開を組織して、生徒の考察を深めていかなくてはならない。これは容易なことではなく、いつもその難しさと闘いながら実践を続けている。

 生徒は『若者のすべて』の物語内容について関心を持った。自分で読み解いたストーリーをグループで話し合う。解釈の違いが浮かび上がるのが楽しいようだった。表現面については、いつもは生徒自身が興味を持った表現を選んで自由に考察させるのだが、この日は全体で60分という時間の制約があったので僕の方から指示して生徒に考察を促した。選択したのは、「ないかな ないよな きっとね いないよな/会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ」の一節。この表現について言葉の意味と音という観点から考えてワークシートに記入するように指示した。生徒が書き始める。言葉が進んでいく者。時々立ち止まりながら考える者。少し書きあぐねている者。志村正彦・フジファブリックの歌詞に触発されてどのような思考と表現を試みているのか。しばらく経ってから生徒の記述を確認した。中には「ない」という言葉の繰り返しや言葉の響きに注目した生徒もいた。だが全般的には十分な時間が取れなかったこともあり、課題の表現と深く対話することは難しいようだった。このような課題に取り組むためにはゆったりとした雰囲気とゆっくりした時間が必要だ。この経験は次回に活かしたい。

 講義の最後で、あくまで歌詞に対する一つの分析であることを断った上で、以前このブログにも書いたことに基づいて『若者のすべて』の優れた表現の特徴を生徒に説明してみた。その要点を以下に記す。


「ないかな ないよな きっとね いないよな」の一節には、再会することが「ない」あるいは誰かが「いない」、出来事の《否定》あるいは人の《不在》が強調されている。「ない」という否定形の反復、「・かな」「・よな」「・ね」「・よな」という助詞の付加が、ある種の曖昧さや余白を与え、聴き手の想像を引き出す。
純粋な音の響きとしては、「な・」「な・」「・な・」の不在を強調する「な」の頭韻と、「・かな」「・よな」「・よな」の「な」の脚韻がある。「な」の頭韻には強く高い響き、「な」の脚韻には柔らかく低い響きがある。「な」の音の強さと柔らかさが、縦糸と横糸になって織り込まれているような、見事な音の織物になっている。志村正彦の歌には《否定》や《不在》の表現が多いが、言葉の反復や音の響きを通じてそのような表現の世界を構築している。

 
 これはワークシートの解答例として記述したもので、授業では口頭でもっと解きほぐして伝えた。
 自分の好きな歌の歌詞に対して、「言葉」や「表現」という観点であらためて向き合ってみると、新しい発見や解釈が生まれることがある。そのような行為が思考や表現の力を築いていくことにつながる。そのことを生徒に伝えて出張講義を終えた。


[付記]
 長野に出かけた27日、まだ金木犀の香りはしなかった。翌日の28日になると、ほのかに金木犀が香り始めた。僕の住む界隈では毎年、25日か26日頃に香りだす。夏がまだ過ぎ去っていない気候のせいか、今年は少し遅かった。
 どこから漂ってくるのかは分からない。それがまた金木犀の香りの特徴だろう。どこからかは定かでないが、毎年どこからかは訪れてくる香り。同じように『赤黄色の金木犀』の歌も九月下旬という季節にどこからか流れてくる。そのような感触がこの歌にはある。

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