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2022年12月18日日曜日

第三次の語りと声 『茜色の夕日』と『若者のすべて』-『茜色の夕日』9[志村正彦LN323]

 『茜色の夕日』と『若者のすべて』の語りの構造にはある共通点がある。その構造を視覚的に表した図をまず示したい。




 二つの歌ともに、語りの枠組は、一人称の話者であり歌の主体である〈僕〉の観点によって構築されている。〈僕〉は都市の街路を歩いていく。これを第一次の語りとしよう。図の青い部分である。

 『茜色の夕日』では、〈僕〉は街を歩きながら、〈茜色の夕日〉を眺め、おそらく故郷での〈誰もいない道 歩いたこと〉を思い出し、東京で〈空の星〉が〈見えないこともない〉ことに気づく。『若者のすべて』では、〈僕〉は〈真夏のピークが去った〉季節に、それでもいまだに〈落ち着かないような〉街を歩いている。『茜色の夕日』と『若者のすべて』はどちらも、都市に生きる孤独な若者、単独者である〈僕〉が歩行して、風景を見つめる。 

 話者であり歌の主体である〈僕〉が街の風景を眺めながら歩いていくときに、何かを思い出す。あるいは、何かを想い描く。回想であり想像でもある。これを第二次の語りとしよう。図の赤い部分である。

 『茜色の夕日』では、二人称の〈君〉に焦点をあてて、〈横で笑っていたことや/どうしようもない悲しいこと〉を想起する。『若者のすべて』では、一人称複数の〈僕ら〉という視点を加えて、〈最後の花火に今年もなったな/何年経っても思い出してしまうな〉と回想する。

 第一次の語りと第二次の語りによって、『茜色の夕日』には一人称と二人称の対話性、『若者のすべて』には一人称単数と一人称複数による対話性が潜在的にもたらされる。二重の語りが複合して、複雑な織物・ファブリックを作り上げる。志村正彦はその織物・ファブリックにもう一つの語りを加える。これが第三次の語りである。図の黄色い部分である。話者であり歌の主体である〈声〉であるが、それと共に、いやそれ以上に、作者志村正彦自身の〈声〉であろう。


  僕じゃきっとできないな できないな
  本音を言うこともできないな できないな
  無責任でいいな ラララ そんなことを思ってしまった 
                      『茜色の夕日』


  ないかな ないよな きっとね いないよな
  会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

  ないかな ないよな なんてね 思ってた
  まいったな まいったな 話すことに迷うな   
                       『若者のすべて』 
             


 『茜色の夕日』は〈本音を言うこともできないな〉、『若者のすべて』は、〈会ったら言えるかな〉〈話すことに迷うな〉と呟く。失われてしまった、あるいは、失われてしまいそうな誰かに〈言うこと〉〈話すこと〉が不可能になったり困難になったりする。歌の主体は〈僕〉は言葉で伝えることの壁に遭遇する。

 また、『茜色の夕日』の〈できないな〉の四回もの反復、「な」音の繰り返しと、『若者のすべて』の〈ないかな〉〈ないよな〉の反復、〈いないよな〉〈なんてね〉を含む〈な〉音の繰り返しというように、この二つの作品には〈な〉の音が通奏低音のように響く。そして、〈ない〉という否定と不在の表現が二つの歌の世界を貫く。

 比喩的に言うと、志村正彦は、縦糸と横糸から成る織物・ファブリックの二次元的世界に、垂直の次元を加えて、三次元的世界の厚みを創り出した。


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