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2022年11月20日日曜日

〈醒めた客観視〉-『茜色の夕日』7 [志村正彦LN321]

 『茜色の夕日』はユニットⅢまで進むと、ある変化が現れる。この箇所を引用してみよう。


3a  茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
3b  短い夏が終わったのに今、子供の頃の寂しさがない
3c  君に伝えた情熱は呆れるほど情けないもので
3d  笑うのをこらえているよ 後で少し虚しくなった


 ユニットⅡの〈忘れることは出来ない〉とされた出来事は、おそらく高校時代のことであろう。ユニットⅢでは、〈子供の頃〉の時間へ遡ろうとする。子供には夏休みがある。長いようで短い夏が終わってしまうと、子供なりにどことなく寂しくなる。やるせないような寂しさ。そんな記憶が誰にもあるのではないか。歌の主体〈僕〉もそのことを思い出している。しかし、この歌の現在時の〈今、〉、短い夏が終わったのにその寂しさがない。〈今、〉というように〈今〉のあとに〈、〉の読点が置かれているのは、時間の区切りを強調するためだろう。この一行のフレーズの背後には、子供から青年期への時の流れとその断絶が刻まれている。

 〈君に伝えた情熱〉は、この歌の背景にある〈僕〉の上京や将来に対する情熱と受けとることもできるが、この論では〈僕〉の〈君〉に対する恋愛の情熱と捉えてみたい。その〈情熱〉を、〈呆れるほど情けない〉というように客観化して、〈笑うのをこらえている〉と醒めた目で対象化する。さらに、〈後で少し虚しくなった〉というように、その出来事の〈後〉の〈僕〉の気持ちの語る。〈少し〉とはあるが、〈僕〉は虚しさに包まれる。

 この箇所について参考になるのが、『音楽とことば ~あの人はどうやって歌詞を書いているのか~』での発言である。インタビュアー青木優氏の〈その「茜色の夕日」にしても、ストレートに「好きだ」と告白している歌ではないですよね。そこまでその娘に対する想いがリアルなのであれば、そうなってもいいはずなのに、志村くんには、まったくそういう曲がない〉というという問いかけに対して、志村は次のように答えている。 


 僕に「愛してる」とか「好きだ」みたいな歌詞がない理由というのは、自分でもわかってます。それは僕の中にある醒めた客観視、「んなこと言われても!」って考えのせいなんですね。だって、僕がそういう曲を聴いた際の感想というのは、「へえ―、そうですか、愛してるんですか」っていう程度のものでしかないんですけど、場合によっては、「え、好きだからなんなんですか?」「愛してるからなんなんですか?」「ちなみにその愛の内容は、どういうことを経験しての愛なんですか?」みたいな詮索がスタートしてしまう。で、結局最後は「だったら愛してればいいじゃん!満たされてんだったらなんで曲なんか作んの?」みたいなことになっちゃうんですよ。 
 でも、それと同時に、僕が自分に対してまだ一流だと思えない理由というのも、そこにあったりするんです。愛してるってことが歌えないからこそ、一流になれないというか。だって、それを歌えるアーティスト、たとえばミスチルみ たいなアーティストというのは、やっぱりそのぐらい自分に自信があるんでしょうし、いろんな愛を歌うことで、世間 をハートマークだらけにしていく自信があるってことじゃないですか。でも、残念ながら、僕にはそれがない。そういう自信がないからこそ、「愛してる」が書けていないとも言えますね。寂しいことですけど。 


 志村は、〈愛してる〉と歌う〈自信〉がないと述べているが、そのことを〈寂しいこと〉とも受けとめている。〈僕の中にある醒めた客観視〉という発言にも注目したい。志村にはリアルな気持ちとしての主観的な〈情熱〉と共に、それに対する〈醒めた客観視〉があった。ユニットⅡは前者、ユニットⅢは後者を表現しているといえるだろう。歌詞の展開の中で、この二つの感情を対比的に捉えている。〈短い夏〉〈今、〉〈子供の頃〉〈後で〉というやや錯綜した時の区切り方が、心のゆれの振幅を奏でている。


 このユニットⅢを経て、ユニットⅠの後半部が登場する。


4c  東京の空の星は見えないと聞かされていたけど

4d  見えないこともないんだな そんなことを思っていたんだ


 過去と現在、故郷と〈東京〉、〈空の星〉が〈見えない〉と〈見えないこともない〉。これらの対比が、時間と空間の隔たりの中で〈そんなこと〉を〈思っていたんだ〉と歌われる。〈んだ〉を付加することによって、作者志村正彦は歌の主体〈僕〉の思いをある程度まで対象化している。

 〈見えない〉ものが〈見えないこともない〉という発見から、志村正彦の眼差しが変わってきたことがうかがわれる。『茜色の夕日』は眼差しの変化の歌でもある。

      (この項続く)


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