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2017年2月19日日曜日

小川洋子『バックストローク』を読む

 前々回の最後で「教師が一方的に教えるのではなく、生徒が考え表現することを尊重するのがこの授業の根本にある。生徒の言葉が彼ら自身の思考と表現の言葉となることを目指している」と書いた。大修館書店の本に書いたり、山梨英和大学で報告したりした一連の授業はこの考え方に基づいている。

 生徒・学習者を中心とする授業のデザインは十数年前から試みている。小説の授業の実践では、教育出版のHPの「高校メルマガ配信記事」の「教材研究・実践報告」に、「現代文B小川洋子『バックストローク』を読む1・2」という拙稿が掲載されている。(これは2008年秋に行った高校3年生対象の授業を考察したもので、「1」が2009年6月、「2」が2010年6月の「教育出版高校メルマガ」で配信された。)その冒頭に書いた文を引用したい。

 小説を「読む」とはどのような行為なのか。そして、「小説」を学ぶ、教えるという行為はどの方向に向かうべきなのか。この問いを抱えながら、授業の準備を行い、教室に向かう。小説教材の最初の授業のとき、小説を読む充分な時間を生徒に与えるように心がけている。小説を読むのには固有の時間があり、読書の主体としての生徒には一人ひとり別の時間が流れている。教科書に印刷されている小説作品は文字の記号としてそこにあるが、読書主体としての生徒の読む行為を通じて、その存在を獲得し始める。

 教室ではまず始めに、時間は充分にあるので各自のペースで読んでいくことを指示する。その際「教材」ではなく、「作品」という意識で読むことを重視している。生徒がページをめくり始める。すぐに小説世界に入っていく者。煩わしそうに読む者。各々の読む時間が進行する。時に愉悦を感じ、時に困惑を感じる時間。静かな時間が流れ、時々、ページをめくる音が聞こえてくる。

 この後、生徒は小説を読んで感じたこと考えたことを自由に書く。私が作品についてあらかじめ説明することはない。教師が余計なことをいうとそれに引きずられてしまうからだ。それは生徒の自由な思考と表現を奪う。何も言わずに生徒が書くのを「待つ」姿勢を貫く。生徒が文を提出することで最初の授業が終わる。その後、生徒がどのように読んでいるのかを分析し、それに基づいて授業を構想していく。あくまで「読書主体としての生徒」の読みを中心に授業をデザインする。(付言すれば、2011年から始めた志村正彦・フジファブリックの歌を聞き歌詞を読む授業もこの方法で行っている。)

 通常の高校国語の授業は、教師用指導書等にある授業展開を参考に展開していく。その方法の根本には、教える者(教師、教科書著作者・編集者)が小説の読みを決定し、授業も構想するという考え方がある。教師中心の教材解釈であり、指導方法となる。(その背景には、作者が小説の主題や意味を支配しているという考えがある)この考え方は、すでに半世紀近く前、1960年代以降に欧米の文学理論、読書行為論や記号論で批判されているが(この系譜の理論を代表するのがロラン・バルトだ)、日本の国語教育ではこの指導方法や教育観が支配的だった。この教師中心の指導に対して批判的な実践をするのが、現場の教師としての私の一貫したモチーフであった。教育出版HPの2008年の授業研究はそれを最初にまとめたものであり、去年の大修館書店の授業報告はその発展形である。

 実際に生徒がどのように小川洋子の『バックストローク』を読んだのかは、拙稿を参照していただきたい。十八歳の思考や感性には素晴らしいものがある。生徒の読みから学ぶことは多い。

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