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2019年8月4日日曜日

〈音楽家の自分vs.自分〉-『同じ月』5 [志村正彦LN227]

 今日、『FAB BOX III』の「Official Bootleg Live & Documentary Movies of "CHRONICLE TOUR"」のDVD2枚、計3時間40分に及ぶ映像を初めて通しで見た。

 DISC1(約1時間17分)は、ディレクターズカット版 “CHRONICLE” スウェーデンレコーディング。『CHRONICLE』付属DVDなどに収録されなかった映像が収められている。新たに公開された志村正彦のインタビューが貴重である。また、『同じ月』の日本のスタジオでの録音の様子も記録されていた。プロデューサーの亀田誠治と志村が話し合う場面や最終テイクの完了場面もあった。『Sugar!!』と同様に、『同じ月』もほぼ日本で完成されたと考えてよいだろう。

 DISC2(約2時間23分)の「ライブ映像」中の7曲目が『同じ月』だった。7月6日の『FAB BOX III 上映會』で見た映像と同一のものだろうが、印象は異なっていた。繰り返し見たせいだろうか、志村正彦の痩せた姿や伏し目がちに歌う表情が気になる。言葉のニュアンスを伝える力が弱く、サビで声を振り上げるところが痛々しい。MCや舞台裏で笑うシーンを見るとなんだかホッとするのだが。
 このツアーをなんとか成功させようとする意志は充分にうかがえる。逆に言うとその意志だけでステージに立っていたのだろうか。

 『同じ月』の歌詞に戻ろう。今回は最後の第3ブロックを読んでいきたい。


  君の言葉が今も僕の胸をしめつけるのです
  振り返っても仕方がないと 分かってはいるけれど

  にっちもさっちも どうにもこうにも変われずにいるよ Uh〜


  君の涙が今も僕の胸をしめつけるのです
  壊れそうに滲んで見える月を眺めているのです

  にっちもさっちも どうにもこうにも変われずにいるよ Uh〜


  僕は結局ちっとも何にも変われずにいるよ Uh〜


 「にっちもさっちも」という表現がユーモラスで、音の響きも面白い。この言葉は算盤用語に由来し、漢字では「二進も三進も」と書くそうだ。「二進」「三進」ともに2と3で割り切れることを意味し、反対に2や3でも割り切れないことを「二進も三進も行かない」と言うようになった。「にっちもさっちも」は、割り切れないこと、うまくいかないこと、どうにもできないことを表す。
 歌詞の文脈では、「君の言葉」「君の涙」を振り返っても仕方がない、分かってはいるけれど、割り切れない想いが残る、ということになるだろうか。行き詰ってどうにもできない。結局、「僕」は「何にも変われずにいる」。
 "CHRONICLE TOUR"のDVDを見て気づいたのだが、最後の「Uh〜」の節回しは独特で「志村節」と名付けていいかもしれない。反復される「Uh〜」に志村の想いが込められている。

 この歌を通して聴くと、冒頭の「この星空の下で僕は 君と同じ月を眺めているのだろうか」に対する応答は、「僕」は「壊れそうに滲んで見える月を眺めている」である。「僕」は「君と同じ月」ではなく、おそらく一人で「壊れそうに滲んで見える月」を眺めているのだ。あるいはかつて二人で見た「同じ月」は今「壊れそうに滲んで見える月」に変わってしまったということかもしれない。いつものようにと言うべきだろうか、「僕」の「月」に対する眼差しは孤独である。

 志村は『同じ月』を「自分用に作りました。人にあげる曲も最高だったけれども、今回は僕が歌うためだけに生まれてくれた曲」だと述べた。詩は自己に対する慰藉でもある。「僕は結局ちっとも何にも変われずにいるよ Uh〜」と歌うのは、自分を慰め、自分をいたわる行為でもある。それでも『同じ月』からは、どこか作者の志村が「変われずにいる」「僕」に対してある種の距離を取って歌っているようにも聞こえてくる。それは、作者、音楽家、表現者としての志村と、現実に生きる志村との距離の設定であり、分離でもある。

 志村正彦はあるインタビュー(『bounce』 310号2009/5/25、文・宮本英夫)で『CHRONICLE』について、「今回は〈音楽家の自分vs.自分〉という感じです。自分はちゃんと立派なミュージシャンになれたのか?ということとの闘いです。その答えはまだ出ていないですね。これから出たらいいなと思います」と語っていた。ここで「闘い」という言葉が使われたことに留意したい。『同じ月』も、月火水木金そして週末の「闘い」の軌跡でもあり、それゆえの慰藉を求める日々でもある。

 また彼は「今回はまったく意識せずに思ったことを完全ノンフィクションで歌ったというそれだけです」とも言っているが、それを額面通りに受け取ってはならないだろう。確かに内容は「完全ノンフィクション」なのかもしれない。しかし、音楽家としての志村正彦は、「完全ノンフィクション」を音楽として完成させている類い希な表現者でもあることを忘れてはならない。

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