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2018年5月31日木曜日

2008年5月31日。[志村正彦LN180]

  2008年5月31日、十年前の今日。フジファブリックは富士吉田市民会館でコンサートを開いた。僕はこのライブに行ってない。そもそも、その頃はまだフジファブリックという存在を知らなかった。おぼろげではあるが、山梨日日新聞の紙面で二三度「フジファブリック」という固有名を見た記憶があるにはある。おそらく「フジ」という名に反応したのだろう。しかしそのまま通り過ぎてしまった。実際に音源を聴くことはなかった。

 2000年代、同時代のロックに対する興味をほぼ失っていた。日本語ロックは終わってしまった。歴史の中に生き続けるしかない。そんな白けた気分があった。そういう個人的な背景があったから、フジファブリックに出会い損ねてしまったのかもしれない。今からすると何か偶然でもあったらとつぶやいてみたりする。結局、自分の不明を恥じる。こんなことを書き連ねても堂々巡りだが。

 今日は時間があったので、フジファブリック『live at 富士五湖文化センター』を通しで見た。2時間の間、様々なことを想った。ライブの映像ゆえに情報量が多い。以前は気がつかなかったことが見えてくる。実際には行ってないライブについて書くというのも「記念日」便乗のようで抵抗がなくはないが、この日付が終わらないうちに書いておきたいことがある。

 1曲目は『ペダル』。「TEENAGER FANCLUB TOUR」なのでアルバム『TEENAGER』の冒頭曲になったのだろうが、『ペダル』がオープニング曲ということは素晴らしい。「ペダル」を漕ぎ出すようにして声と音が動き出す。観客の声援が湧き上がる。


  だいだい色 そしてピンク 咲いている花が
  まぶしいと感じるなんて しょうがないのかい?

  平凡な日々にもちょっと好感を持って
  毎回の景色にだって 愛着が湧いた

  あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ


 志村正彦が終生愛した「花」の描写から故郷の凱旋公演が始まる。あの時志村の視線の向こう側には、富士吉田の「だいだい色 そしてピンク 咲いている花」がまぶしく輝いていたのかもしれない。「花」のモチーフが『ペダル』の基底にある。「平凡な日々」の「毎回の景色」、「好感」や「愛着」の対象も「花」。「あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ」と呼びかけられるものも「花」。「花」の風景の中を「ペダル」が漕いでいく。そんなことを強く感じた。
                               
 2曲目の『記念写真』。「消えてしまう前に 心に詰め込んだ」という一節が迫ってきた。『ペダル』の「消えないでよ」と『記念写真』の「消えてしまう前に」。この二つの曲に「消える」というモチーフが貫かれている。そのことに気づいた。志村には「消える」というモチーフの歌が非常に多い。ライブで連続して歌われるとこの二つの曲のモチーフが響き合う。曲順やその展開によって言葉や音像が交錯し、思いがけない連想がもたらされることがある。消える、消えない。消えないで、消えてしまう前に。「TEENAGER」の声が聞こえ、消えていく。

 志村のMC。メンバーの紹介。観客の表情。会場の雰囲気。記録として残されたことが貴重であり、DVDとしてリリースされたのは喜ぶべきことだ。
 アンコールの二曲、『茜色の夕日』と『陽炎』。この二つの歌を聴くと心が静かに動かされる。揺さぶられ、そして整われていく。

 勤務先では週に三日の「チャペルアワー」で教職員、学生、牧師の講話がある。今年の年間聖句は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」『新約聖書』「ローマの信徒への手紙」12章15節、パウロによる言葉である。クリスチャンではない僕にとって理解するのは難しいが、伝わってくるものはある。講話によって自然にこの言葉と対話することになった。「喜ぶ人」「泣く人」、何よりも「人」に焦点が当てられている。

 あの日志村正彦は故郷に帰還した。「喜ぶ人」となり「泣く人」ともなった。とりたててキリスト教の文脈で語る意図はないが、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」という言葉が今日は自然に浮かんできた。「人と共に」いう言葉に立ち止まってしまった。この文の書き手である僕は彼を知らなかった、いや未だに知らない。僕のような存在は、志村正彦という「人」と「共に」ということはできないだろう。安易に「人と共に」と考えてしまうとかえって「人」から遠ざかってしまう。「人と共に」ではない位置があるのか。あるのだとしたらどういう位置なのだろうか。そんなことを自分に問いかけた。

 自問自答が続いた。単純ではあるが、「作品」を聴く、見るという基本の位置に思い至った。「人と共に」は不可能であっても、「作品と共に」は可能であるだろう。

 作品と共に喜び、作品と共に泣く。『茜色の夕日』と共に喜び、『茜色の夕日』と共に泣く。『陽炎』と共に喜び、『陽炎』と共に泣く。そのように喜び、泣く。その経験を書くことはできるだろう。

2018年5月28日月曜日

絶望と希望と-『蜃気楼』9[志村正彦LN179]

  『蜃気楼』について最後に書いたのは昨年の12月だ。半年ぶりの再開となる。この間にも資料を探したのだが、『QRANK』(クランク)という雑誌(もう廃刊となったようだ)の記事を見つけることができた。(『QRANK』vol.11 2005 AUTUMN 、2005年9月10日発行 K.B.PLANNING  INTERNATIONAL)

 フジファブリック『スクラップ・ヘブン』という題名でリード文に「自分のリズムが狂ったら、僕の場合はやっぱり音楽。曲を作るのが一番いい。(志村)」とある。文章1頁、写真1頁(別に2頁の写真も)の構成で、「取材+文・山下薫」とある。この取材には志村正彦と加藤慎一の二人が参加している。珍しい組み合わせで、加藤氏の発言がそれらしくて愉快だ。志村が『蜃気楼』に直接言及している部分を引用してみよう。


―本作のエンディング曲「蜃気楼」を作る上で、監督と何を話しました?
志村「具体的な話ではなく、映画の中で描かれている希望やどうしようもできないもどかしさとか、映画の世界観を確認した感じです」

―シンゴとテツは、まさに新しい自分になりたくて進み始めてはみたものの、道の途中から迷いはじめた自分たちのリズムは取り戻せず”どうしようもないもどかしさ”に陥ってしまったのだと思います。お二人は気持ちのリズムやバランスが乱れたとき、自分なりの整え方はありますか。
志村「僕の場合は曲を作るというのがやっぱり一番いいんですよ。曲を作るって自分の中にあるモノをたくさん出して、いろいろ考えるわけです。出来た曲に浸ったりもできるし」

―でも上手く曲ができないと、余計にハマってしまいそうですが…。
志村「その繰り返しなんですよ。音楽作るって、たぶん。曲を作り始めたのは15,6歳のときで、その頃、心の中に何かわだかまりがあって、何か動き出したい…と思っていた。とにかく飛び出したい、新しい自分に出会いたい、でも一体自分とは何なのかとか考えている時に、その表現方法がやっと見つかったんですよ」

―それが、音楽だったわけですね。
志村「そうです。そこからいろいろな曲を作ってきて、今は自分が唯一できることだと思っています」


 志村は「映画の中で描かれている希望やどうしようもできないもどかしさ」と述べているが、以前紹介した『プラスアクト』2005年vol.06所収の「希望もあるんだけど、でも迷って、思いもよらない方向に物事が転がっていく、そのもがいて進んでいく感じ」とほぼ同じである。二つの雑誌取材に対して同一の見解を示していることで、この捉え方が志村の中では確固たるものになっていたことがわかる。この映画を見た者は誰しも、志村の指摘した「どうしようもできないもどかしさ」「もがいて進んでいく感じ」を受けとめるだろう。混乱や混迷、一種の無秩序のようなものがこの映画を支配している。

 一方、「希望」の方はなかなか見いだすことはできないのではないか。希望の反対が「絶望」だとしたら、確かに、ラストシーンの意外な終わり方は少なくとも「絶望」的ではない。だが「絶望」を反転する「希望」にたどりついているかといえば、かなり微妙であり、むしろ懐疑的にならざるをえない。おそらく李相日監督自身が、希望とも絶望とも捉えることのできない、あるいはそのどちらにも捉えることもできる、エンディングを選択したのだと考えられる。観客の想像力にゆだねたともいえる。実際、この映画の宣伝のキーワードに「想像力の足りない」世界というものがあった。この映画自体が観客の自由な「想像力」をかなりの程度で求めている。

 志村は「DIALOGUE 李相日×志村正彦(フジファブリック)」という対談(『スクラップ・ヘブン』パンフレット、オフィス・シロウズ、2005/10/8)では、「絶望だけで終わりたくない、かといって希望が満ちあふれた感じでもないなと思って」、その「揺れている感じ」を「蜃気楼」というモチーフに象徴させたと語っている。
 実像と虚像、近景と遠景が入れ替わるような「蜃気楼」の現象に、希望と絶望とが分離したり合流したりして交錯ていく「流れ」を見いだした。それが志村の「想像力」だった。その絶望と希望の流れを楽曲と言葉に変換して、作品『蜃気楼』を作り出していった。そのような過程を想像することができるだろう。

 取材者の「気持ちのリズムやバランスが乱れたとき、自分なりの整え方」という質問に対する返答が興味深い。志村は、「曲を作るって自分の中にあるモノをたくさん出して、いろいろ考えるわけです」「曲を作り始めたのは15,6歳のときで、その頃、心の中に何かわだかまりがあって、何か動き出したい…と思っていた。とにかく飛び出したい、新しい自分に出会いたい」と振り返っている。

 『スクラップ・ヘブン』取材中の発言なので、作中の「シンゴとテツ」を重ね合わせているとも捉えられる。「シンゴとテツ」の脱出は行き詰まりに終わったとひとまずはいえる。志村の場合、曲作りによって「新しい自分」に出会った。音楽表現という「希望」を想い描いた。

  (この項続く)
   

2018年5月13日日曜日

聴き手そして読み手[志村正彦LN178]

 昨日、ページビューが20万に達した。このblogが実質的に始まった2013年3月から5年以上が経ち、記事数は300を超えた。
 拙文を読んでいただいている方々には深く感謝を申し上げます。

 志村正彦はかつて、自分が聴きたいと思う曲を他ならぬ自分が作り出すことが作詞作曲の原点だったと述べていた。『茜色の夕日』についての貴重な証言でもある。「志村正彦LN21」(2013/4/27)で一度引用したことがあるが、再度ここで紹介したい。


色々なアーティストの感動する曲があって
そういう曲ってすばらしいなあと思いつつも
あの、ちょっと自分じゃないような感じがするんすよね。

100パーセント自分が聴きたい曲ってないかなと
ずっと探っていたんですよ。てっ時にもうなくて。
自分が作るしかないってことに、行きついたんですね。
   
『茜色の夕日』って曲を作ってかけてみたんですよ、ステレオに。
そうしたらすごい、あっこれこれ、この感じって感動して、自分で。
で、そういうのを毎回求めて作ってしまうんです、曲を。
     (2004年 タワーレコード渋谷店でのインタビュー )


 何かの想いや衝動にかられて自分で曲を作ることと、自分が聴いてみたい曲を誰か他者ではなく自分で作り出すこととは決定的に異なる。人が表現者になる際には、やむにやまれぬ表現への欲求が原動力となることが多い。しかし志村正彦の場合、そのような意味での表現への欲望や衝動はあまり強くはなかったのではないだろうか。それよりも作品そのものに対する欲望や感受性が深まっていった。聴き手、作品の享受者としての審美眼や選択眼が磨かれていった。作品についての関係の在り方が能動的というよりも受動的であったとも言えよう。これはあくまで断片的に残されている資料からの推測であるが。

 特に私的な経験を素材とする作品の場合、単純な自己表出に終わってしまえば、作り手側の自己が現れてきてもそこで止まってしまう。聴き手側に届いてこない。音源を聴いても作り手は向こう側にてこちら側に近づいてこない。聴き手は置き去りにされている。そのような経験はないだろうか。
 現在、日本語のロックやフォークが衰退しているのは、この種のあまりに閉じられた歌が多いことにある。その反面で「きずな」や「つながり」を聴き手側に届けようとする作品も、それらのキーワードが具体性や状況を欠いていて、あまりに紋切り型で現実感がない。前者と同様に後者も閉じられている。

 志村が述べる「聴き手」とは自分自身であり、一般的な聴き手、現実の聴衆ということではない。聴き手としての自分が作り手としての自分を作り出す。そこに対話が生まれる。逆に、作り手としての自分が聴き手としての自分に問いかける。その繰り返しによって作品が練り上げられていく。楽曲の質が高まり、言葉が深まる。

 自分の内部に優れた聴き手がいなければ優れた作品は成立しない。しかし、この過程は悦びであると同時に苦しみでもあるだろう。彼が曲作りに苦心したのは、聴き手として満足できる水準について妥協することがなかったからだろう。当然それは高度な次元のものだった。作品への欲望について譲歩することはなかった。彼にはそれに応える自恃や自負があった。2000年代の音楽状況で次第に熱心な聴き手は増えていった。しかし、一部の優れた音楽批評家やジャーナリストを除いて、彼の作品の独創性が正当に評価されたとは言えない。それでも彼はそのような状況に対して孤独に闘っていた。

 紹介した発言を再び引用したのは、この言葉がこのblogを続けてきた僕にずっと作用し続けていたからだ。彼の発言に倣って今回は率直に記したい。志村の作品と比べようもないが、僕の拙い文も、志村正彦やフジファブリックについて自分が一人の読者として読んでみたいモチーフや問いが原動力となった。読み手としての自分が書き手としての自分を促してきた。これからも自分が読んでみたいことを探しながら書いていきたい。

2018年5月7日月曜日

菅田将暉『5年後の茜色の夕日』(志村正彦LN177)

 門司には一度だけ行ったことがある。
 博多駅から小倉駅へ、それから鹿児島本線に乗り換える。しばらくすると、車窓から関門海峡の海、その向こう側に下関側が見えてくる。十五分ほどで門司港駅に到着。駅舎は「レトロ」な雰囲気で有名だ。門司港の方へ降りていくと、関門橋が近づいてくる。本州と九州の境界の橋。この眺望は感慨をもたらした。

 俳優の菅田将暉はデビュー・アルバム『PLAY』(3月21日リリース)で、志村正彦作詞作曲のフジファブリック『茜色の夕日』をカバーした。その初回生産限定盤には、『5年後の茜色の夕日~北九州小旅行ドキュメント映像~』(監督・島田大介)という特典DVDが付いている。
 2012年撮影、2013年公開の映画『共喰い』(監督・青山真治)のロケ地、北九州市門司を5年振りに訪れるというドキュメント映像だ。この撮影時に、フジファブリックの『茜色の夕日』(作詞作曲・志村正彦)を繰り返し聴いたことが歌い手となる契機になったそうだ。音楽活動の原点を再訪する映像を制作するのは珍しい。

 映画の原作である田中慎弥の小説『共喰い』は、芥川賞受賞時に読んだ。中上健次を思い起こさせる作風だった。ただ中上と異なり、神話や歴史にこだまする大きな物語はどこにもなく、山口県下関市の川辺の街の小さな物語、極小の家族の物語が浮かび上がってきた。これは時代の必然のような気もした。

 映画『共喰い』の方はWOWOW放映時に見た。撮影場所は関門海峡の反対側、門司で行われたことを知った。ロケ地の景観の問題だったようだが、監督の青山真治が北九州市出身だということも関係しているかもしれない。ちなみに青山のデビュー作『Helpless』も北九州市で撮影されている。主人公の高校生「健次」(浅野忠信)は中上健次の名から取られているように、中上作品へのオマージュの色が濃い映画だ。
 脚本は荒井晴彦。荒井には『赫い髪の女』(監督・神代辰巳)という優れた作品があるが、中上健次の『赫髪』が元になっている。小説から映画まで、原作者、監督、脚本家と、中上健次という固有名を想起させた。

 映画では菅田将暉が17歳の高校生「遠馬」を演じる。昭和63年。昭和という時代の最後の夏の季節がこの物語の背景となっている。菅田はリアルな演技を披露している。演技というよりも切実な何か、透明な鬱屈のようなものを感じさせる。小説原作の映画には駄作が多いが、『共喰い』は原作に対して優れた水準を維持している。

 『5年後の茜色の夕日』に移ろう。
 菅田はある通り(映画では「通学路」という設定の通り)を歩きながら『茜色の夕日』に触れている。(須田の語りの中でこの歌に言及しているのはこの箇所だけである)


こうやって俺らが都会から来るとすごい心地いいけど、ここにいる人間からしたら、もうちょっと毎日見てるからうんざりだみたいな、(抜け出したくなる…*スタッフの声)そうそうその感じも茜色の夕日なんすよね、それはもうなんか上京組としてすごくわかるっていうか、通学路が急にさめて見える瞬間っていう


 映像だけでは、この界隈の風景が『茜色の夕日』の感じだということが今ひとつ伝わらないことが残念である。この映像よりも映画『共喰い』で撮影された風景の方がそれらしい感触を持っているだろう。言葉にすると紋切り型の表現になってしまうが、昭和の路地裏の風景だと書いておきたい。

 最後に水路沿いに腰掛けて、菅田がアコースティックギターを奏でながら『茜色の夕日』を歌う。菅田の歌い方は誰かに伝えるためというよりも、自分自身に伝えるためのものだという印象を持った。五年後の菅田将暉が五年前の菅田将暉に歌いかける。そのように完結させていることはむしろ、この歌に対する誠実さの表れなのだろう。この映像はだから極めて私的な映像である。私的なものの徹底が原動力となって、須田の歌を支えている。『茜色の夕日』に対する尊重の在り方の一つかもしれない。そのことは評価できる。

 映像の本編が終わり、タイトルバックに移った。監督やスタッフの名が示された後で、菅田による追伸の手紙のような言葉が流されていった。記録のために文字に起こしておく。


10代最後の夏
この街で面白い出会いがありました
それは自分にとって 菅田将暉にとって大切な出会いになりました
俳優部という部署の在り方 人と人が触れ合った時にしかない温かさ
そして、音楽
大袈裟なことを言うと この一曲で人生が変わったのかもしれません
それまで僕の携帯に音楽は一曲も入ってませんでした
一曲も
というか
人生で何がしたいのか 一つもわかりませんでした
あれからしばらく経ち なんと今人前で歌ったりしています
何が起こるかわからないものですね
なので
ふと訪れてみよう
ということになり 足を運んだ次第でございます
相も変わらす声が響く街でした
新しいものと残されたものが共存していて
とてもお気に入りの場所です
幸せな出会いに、感謝
                                                  菅田将暉


 「この一曲で人生が変わったのかもしれません」という素直な吐露には共感できる。映画撮影時に須田は19歳だったという。志村正彦がこの歌を作ったのも同じ頃の年だった。よく知られているように、志村の人生もこの曲で変わった。
 『茜色の夕日』には十代最後という時間そのものが込められている。これまでの時とこれからの時、これまでの場とこれからの場。これまでの僕とこれからの君。これまでの君とこれからの僕。そこで佇むこととそこから歩み始めること。その狭間に起きる事柄と想いを志村正彦は描いた。

 DVDはこの菅田将暉の言葉で終了するのだが、ある違和感が残った。『5年後の茜色の夕日』の映像中に、『茜色の夕日』の作詞作曲者である志村正彦の名、そしてフジファブリックの名もまったく記されていないのだ。何故なのか。疑問が湧き上がってきた。

 本編映像の中でインポーズする必要はない。この歌の説明をする必要もない。しかし、タイトルバックの記載事項として、作詞作曲者の志村正彦という固有名(フジファブリックという名も)を明示することは、絶対的に必要な事柄である。付言すれば、「著作権」や「著作者人格権」の観点からも問題がある。そもそも『5年後の茜色の夕日』という題名にも疑問がある。茜色の夕日は作品名であるから、『』あるいは「」という引用符は不可欠である。

 このことを制作者側はどのように判断したのだろうか。
 僕はかつてこのblogで『若者のすべて』のカバー曲の広がりについて、「作者の名を知らない、ある意味では和歌の『詠み人知らず』のよう に、歌そのものの魅力によって人々に愛されていく。これもまた、曲の運命としては光栄なことに違いない」と書いたことがある。この見解は今も変わらない。ただしこの「詠み人知らず」という視点はあくまで聴き手側のものである。制作者側がカバー曲の音源や関連映像を公的に発表する場合は、オリジナル作品の作詞作曲者(必要に応じて演奏者も)の固有名を記すことは、絶対にそして永遠に守らなければならない。