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2014年8月1日金曜日

永田和宏「一〇〇年後に遺す歌」 [志村正彦LN86]

 八月に入った。猛暑が続く。季節は「真夏のピーク」を迎えている。ここ甲府盆地は時に全国一の最高気温ともなる地。風景がゆらゆらすると、人もゆらめく。

 三日前の午後3時過ぎに、車のエンジンを付けた瞬間、ピアノの一音一音がゆっくりと車内に立ち上がった。聴き慣れた旋律、すでにある種の懐かしさすら漂わせる前奏。『若者のすべて』だ。車を走らせずに、耳と体を澄ませる。八月上旬の富士五湖での花火大会を告げるDJのナレーションと共に終了した。

 車中でオンエアされているフジファブリックを聴くのは初めてだった。局は甲府にあるFM富士。リクエストは富士吉田の方。偶然のように必然のように、『若者のすべて』は放送されたのだろう。
 カーラジオからミディアムバラードのように流れるこの歌は、真夏の中心を堂々と歩んでいるかのようだった。

 前回の「百年後の志村正彦」は沢山の方に読まれたようだ。〈百年後の聴き手に比べれば、私たちはまだ志村正彦の「同時代」に生きている〉という箇所が「志村正彦の言葉bot」に取り上げていただき、有り難い。このライナーノーツの文は何度も推敲することが多いが、あの一文はめずらしく自然に湧き出てきた。百年後の未来を思い描くと、そのままそこから遡って、「同時代」という視点が出てきた。

 私は志村正彦よりかなり上の世代に属する。それでも、現在の十代から私たちのような世代までを含めて、「同時代」を生き、フジファブリックを聴いている。『若者のすべて』の歌詞を引くなら、「僕ら」は「同じ空」を「見上げている」のだ。

 今日はもう一つの偶然について書きたい。前回の文を公開した翌日、日本経済新聞7月27日付の文化欄に、歌人永田和宏氏の「一〇〇年後に遺す歌」という文が掲載されていた。永田氏は「歌を遺す」ことの「責任」について語る。

 歌人の馬場あき子が、「いい歌を作るのも歌人の責任だが、いい歌を遺すのも歌人の責任だ」と言ったことがある。いい言葉だ。まさにそのとおりと、私はあちこちで吹聴している。
 先の世代から遺してもらった歌を、次に送り遺すこととともに、現代という時代が生み出した新たな作物を次世代に遺す仕事も、同じように歌人にとっての責任である。

 歌を作ることとと歌を遺すこととの等価性。先の世代、現代の世代、次世代と歌を遺してい継承性。あまり顧みられない視点かもしれない。作り手は当然作ることに集中する。遺すためには、集中して読むことが必要。それは別の仕事。そういう日常意識があるのだろう。

 本来、短詩型文学の世界は、「作る」「読む」の二つの行為は不可分に結びついている。二つの行為は一つの場を形成し、秀歌を「編む」「遺す」という三つ目の行為へとつながっていく。現代という時代は、その場が失われつつある。そのような危機意識、批評意識をこめて、永田氏は今『近代秀歌』の続編『現代秀歌』を編纂していると考えられる。しかし、「編む」ことはなかなか難しい。そのための方法について氏は次のように提言している。
 
 「いい歌を遺す」と言っても、いい歌とするには、同時代の歌はまだ時間の濾過作用を経ていない。選歌は、勢い、アンソロジーを編む人間の趣味や嗜好に左右されやすくなる。当然のことだ。要は、現代に作歌活動をしている多くの歌人たちが、それぞれ自分だけの一〇〇首を選ぶことであろうと思うのである。ひとりの択びが絶対ではないが、一〇〇人が選べば、そのアンサンブルとして、遺すべき一〇〇首はおのずから定まってくる。いい歌は自然に残っていくなどというのはあまりに楽天的な怠慢あるいは傲慢である。
 
 「同時代」には、確かに「時間の濾過作用」が働かない。「濾過」が効いていないからこそ、受け手は主体的に作品を選択する。それは「趣味や嗜好」かもしれないが、創造的な行為でもある。「ひとり」ではない「多く」の作り手が選択する。その選択を蓄積する。蓄積の中の重なり合いが濾過に近い効果をなし、同時代に「編む」「遺す」ことを可能とする。

 ロック音楽の世界でも、実作者の選択、批評家の選択、そして私たち聴き手の選択、多様な選択があってよい。選択は、選別や否定ではなく、肯定的なものだ。いい歌を選ぶのは、その歌を愛し続けることだ。だからこそ選択は絶対的な肯定だ。
 
 そして、永田氏は「いい歌は自然に残っていくなどというのはあまりに楽天的な怠慢あるいは傲慢である」と戒める。私たち、志村正彦、フジファブリックの聴き手は、この現代歌壇の重鎮の戒めに耳を傾けねばならない。
 
  それでも永田氏の言葉に反して、志村正彦のいい歌は自然に残ると信じている自分がいるのだが、そのことが「怠慢」や「傲慢」につながってはならないとは強く思う。
 自分自身に対して、「百年後の志村正彦」を無批判的に唱える「傲慢」を避け、逆に、何も書かない何も活動しないという無為の「怠慢」に陥ることも戒めたい。

 

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