ページ

2023年4月30日日曜日

「PRAY.」の〈きみ〉と〈キミ〉

  マカロニえんぴつ「PRAY.」は複雑な作品であり、前回は主にモチーフの構造をたどった。歌詞全体が、〈ステップイン〉〈ステップオン〉〈スキップ〉、〈哀しく唄う〉〈優しく回る〉〈正しく消える〉というように三つの要素による変化によって構造化され、そのことによって、メッセージが直接的ではなく、間接的にそして断続的に浮かび上がり、歌詞の余白がめぐりはじめる。 

 「PRAY.」は、歌の送り手と受け手、歌い手と聴き手の関係も複雑である。具体的には、歌詞の中の主体とその相手、人称の関係に特徴がある。今回はそのことを書いてみたい。まず、人称代名詞が記された五つの箇所を引用する。


 ボクら引きずってるのはきっと青春の後味だ

 きみなら まだ間に合うよ

 トンボは夜を越えて 飛べないボクのためと哀しく唄う

 ボクらが担っているのはきっと青春のあとがきサ

 トンボは夜を越えて 飛べないキミのためと
 哀しく唄う
 優しく回る
 正しく消える

  

 ひとつの歌の中に、人称代名詞が一人称複数〈ボクら〉、二人称単数〈きみ〉、一人称単数〈ボク〉、二人称単数〈キミ〉の四種類がある。特に、二人称単数が平仮名の〈きみ〉と片仮名の〈キミ〉の二つに書き分けられていることに注意したい。片仮名系と平仮名系の二つの系列がある。〈ボクら〉は片仮名の〈ボク〉と平仮名の〈ら〉が連結されているので、片仮名と平仮名の複合でもある。ただし、この〈ら〉は複数形を示す通常の表現として捉えてよいだろう。

 片仮名の系列をふまえれば、片仮名の〈キミ〉と結びつくのは、同じ片仮名表記の〈ボク〉である。歌の意味の流れからは、〈キミ〉は二人称の相手を指すというよりも、歌の主体が自分自身を二人称として対象化して、〈キミ〉に変換して呼びかけていると考えられる。そうなると、歌の文脈の中では〈ボクら〉は〈ボク〉と〈キミ〉から構成されているのだろう。その〈ボクら〉は〈青春〉の〈後味〉を引きずり、〈あとがき〉を担い、〈飛べないボク〉〈飛べないキミ〉とあるとおり、〈ボクら〉は飛ぶことができない。その代わりに、〈ボクら〉のために〈トンボ〉が飛んでいく。

 

 それでは、あえて平仮名で記された〈きみ〉はどのような存在なのだろうか。〈ボクら〉〈ボク〉〈キミ〉の片仮名表記の人称代名詞群とは異なる意味を帯びていることは間違いない。歌い方からしても、この〈きみ〉は歌の受け手や聴き手に直接呼びかけている感じがする。歌詞の展開上も、(プレイボール)という試合開始の合図に続くフレーズだ。

 〈きみ〉は歌詞の内部ではなく、歌詞の外部に開かれている。「PRAY.」のモチーフである高校球児や若者たち、もっと広くいえば聴き手一般を指していると考えるのはどうだろうか。歌詞の中の〈キミ〉は〈ボク〉の内部にある僕自身だが、〈きみ〉は僕の外部にある他者である。平仮名と片仮名に書き分けられた二人称にはそのような差異を作り出している。

 「PRAY.」は選抜高校野球大会のテーマソングであり、〈きみ〉への応援ソングである。しかし作者はっとりは、ナタリーの「憧れる側から憧れられる側へ、生き様を刻んだ新作EP」というインタビュー(取材・文:柴那典)で、〈いろいろ経験を重ねてたくさんのものを身に付けたようでいて、実はいろんなものを途中で落としていってるような気もする〉〈自分に向けて歌ってるような気もします〉と語っている。

 はっとり・マカロニえんぴつは、他にもアニメやドラマの優れたテーマソングを作っている。依頼曲が自然に自分自身の曲にもなるところが、はっとりの資質であり才能であるのだろう。「PRAY.」であれば、〈きみ〉のための歌が〈キミ〉のための歌になり、〈ボク〉の歌になる。そしてさらに〈ボクら〉の歌にもなるのだ。


0 件のコメント:

コメントを投稿