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2022年6月12日日曜日

「志村正彦の世界」山梨学2022[志村正彦LN307]

 山梨英和大学は四月から、多人数が受講する一部の科目を除いて、対面授業を実施している。キャンパスに学生が戻ってきて、活気があるのは好ましいことだが、当分の間、感染対策と学生の学びとの両立を図らねばならない。

 三年前から「山梨学」という科目を担当してきた。山梨の文化、社会、歴史、地域、観光などを総合的に学び、「山梨」の可能性を探究する科目である。年次の必修科目であり、受講生が200名近くいるので、この科目はオンライン遠隔授業となった。全14回の半分は外部講師、残り半分は僕が〈芥川龍之介と甲斐の国〉〈映画作品に描かれた戦後山梨の風景と社会〉〈山梨のロックの詩人-宮沢和史(ザ・ブーム)、藤巻亮太(レミオロメン)・志村正彦(フジファブリック)〉などのテーマで講義している。

 今年度は、志村正彦・フジファブリックの音楽について、「志村正彦の世界」と題して、独立した1回分の講義を行った。『若者のすべて』が高校音楽の教科書の教材になるなど、志村正彦の評価が確立されてきたからである。山梨学の枠組の中で、山梨出身の優れた音楽家、表現者という観点で取り上げるのにふさわしいという了解が得られると判断した。

 2年次学生に対しては、1年次の際に「人間文化学」というオムニバス科目で、〈日本語ロックの歌詞を文学作品として読む-志村正彦『若者のすべて』〉という授業をすでに実施している。題名からも分かるように、『若者のすべて』の歌詞を文学作品として読解し、分析する方法を中心に置いている。今回の山梨学では、志村正彦の全体像に可能な限り接近できるように、次の三つのテーマで構成した。取り上げたい作品はたくさんあるのだが、講義時間は70分程度なので絞らざるをえなかった。


1.『若者のすべて』と系譜的な原点としての『茜色の夕日』

2.四季盤、『桜の季節』『陽炎』『赤黄色の金木犀』『銀河』

3.2009年の歌、『バウムクーヘン』『ないものねだり』『ルーティーン』


 『茜色の夕日』と『若者のすべて』という二つの歌は、言うまでもなく、志村正彦の生の軌跡を表した曲だ。『茜色の夕日』の「できないな できないな」の「ない」は、『若者のすべて』の「ないかな ないよな」の「ない」にもつながっていく。「できない」「ない」。「ない」という不可能なことや不在であることを、志村は繰り返し歌ってきた。この二つの歌は、〈歩いていく〉という共通のモチーフがあるが、志村の歌の軌跡は、「ない」ことを巡る〈歩み〉としても捉えられる。

 山梨学という科目の性格から、富士吉田という地域とその季節感と関わりが深い四季盤の作品は重要である。〈坂の下→路地裏→帰り道→丘〉という富士吉田という場の光景と〈桜→陽炎→金木犀→銀河〉という春夏秋冬の変化が歌詞の中でどのように活かされているのかを話題とした。桜の四季の変化を見通す「桜の季節」の視点、少年期と青年期の二人の自分とそれを見つめる主体という「陽炎」の三つの視点、往路と帰路を見渡す「赤黄色の金木犀」の視点、丘や空から「二人」を俯瞰する「銀河」の視点。四季盤の作品については、視点論を中心に据えた。

 2009年制作のアルバム『CHRONICLE』から『バウムクーヘン』と『ないものねだり』。そして、ストックホルムで最後に録音された『ルーティーン』。〈2009年の歌〉としてこの三曲を取り上げた。『CHRONICLE』についての志村のコメント「"僕"という今の人間は、28年間のなかで、いろんな人と出会ったからこそ形成された"僕"であるし、だからこそ生まれた、自分の分身のような楽曲たちなんですよね」も紹介した。


 この〈志村正彦ライナーノーツLN〉の文章を基にしてSLIDEを作成した。実質的に、この〈ライナーノーツ〉が研究ノートになったわけだが、これは当初まったく想定していなかった。300回を超える記事は各回3000字ほどはあるので、すでに10万字程度、一冊の書物に相当する分量がある。自分で自分のブログのメニュー右側にある「このブログを検索」に検索語を入れて、該当の文章を探していった。すでに記憶が薄れて、この時はこんなことを書いていたのだな、などと発見することもあった。いうならば、過去の自分が今の自分に言葉を送り出している。そんな不思議な感じだった。この作業によってSLIDEを作ったのだが、結局、76頁と多めの量になった。僕の講義スタイルからすると、要点を絞っていけば1分1頁程度可能なので、何とかなるだろうとは思った。

 SLIDEでは、曲ごとに、歌詞をレイアウトし(音声ボタンを作り、クリックすると音源再生)、歌詞の構造を分析して図示した上で、歌詞の技法、表現の特徴を中心とする説明を記述した。志村の作詞と作曲についての姿勢については次のSLIDEなどで示した。




 講義終了後、学生に「振り返り文」を書いて提出してもらった。取り上げた作品の中では、やはり、『茜色の夕日』について言及する者が多かった。『ルーティーン』についてはほとんど知られていなかったが、この曲に惹かれた者も少なくなかった。また、志村の「色々なアーティストの感動する曲」について「すばらしいなあと思いつつも」「ちょっと自分じゃないような感じがする」、「100パーセント自分が聴きたい曲」を探したが「自分が作るしかない」ということに行きついた、という発言に対する反響が大きかった。数多くの学生が〈聴き手中心の歌は、私たちに寄り添ってくれるものであり、自分が表現しきれない気持ちを代弁してくれるようなものだと思う〉、〈志村さんが作る曲の数々がどこか懐かしさを覚え、誰が聞いてもその描かれている情景が目に浮かぶようなものになっていることは、彼自身が一番の聴き手として曲を理解して曲を作られているからなのだなと思いました〉などの的確なコメントを寄せてくれた。

 また、〈人が作った歌は「ちょっと自分じゃないような感じがする」と言う言葉に、自分が創作活動をするときも同じようなことを思うので共感を覚えた。また、「ルーティーン」の歌詞中の「君」は音楽を聞いている私たちなのではないかと感じた〉という捉え方にも感心した。『ルーティーン』の「折れちゃいそうな心だけど 君からもらった心がある」の「君」を「音楽を聞いている私たち」つまり聴き手だとする解釈は、〈聴き手中心の歌〉の本質とも重なる。

 さらに、〈フジファブリックの曲に多くの人が賛同し共感できるのは、この方の歌を通して自己を見つめ自分について考えることができるからではないかと考えました〉という学生の言葉が、志村正彦の世界の核心を捉えていた。


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