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2017年12月17日日曜日

不安にゆれる心象-『蜃気楼』8[志村正彦LN170]

 久しぶりに志村正彦・フジファブリックの『蜃気楼』に戻りたい。

 連載第7回で紹介した芥川龍之介『蜃気楼―或は「続海のほとり」―』という小説の中で、蜃気楼はどのように描写されているのだろうか。
 作品前半の登場人物「僕等」三人、「僕」芥川と「O君」親友小穴隆一と「大学生のK君」は、ある秋の昼、蜃気楼を見るために鵠沼海岸に出かける。


 蜃気楼の見える場所は彼等から一町ほど隔っていた。僕等はいずれも腹這いになり、陽炎の立った砂浜を川越しに透かして眺めたりした。砂浜の上には青いものが一すじ、リボンほどの幅にゆらめいていた。それはどうしても海の色が陽炎に映っているらしかった。が、その外には砂浜にある船の影も何も見えなかった。
「あれを蜃気楼と云うんですかね?」
 K君は顋を砂だらけにしたなり、失望したようにこう言っていた。そこへどこからか鴉が一羽、二三町隔った砂浜の上を、藍色にゆらめいたものの上をかすめ、更に又向うへ舞い下った。と同時に鴉の影はその陽炎の帯の上へちらりと逆まに映って行った。
「これでもきょうは上等の部だな。」
 僕等はO君の言葉と一しょに砂の上から立ち上った。


 腹這いになった「僕等」が見たのは、「陽炎の立った砂浜」の上に「青いものが一すじ、リボンほどの幅にゆらめいていた」光景だった。それは「海の色が陽炎に映っているらしかった」と推測されている。また、どこからか一羽現れた「鴉の影はその陽炎の帯の上へちらりと逆まに映って行った」光景も目撃される。「K君」は失望し、「O君」はこれでも上等だと言う。この日「僕等」が見たのは「蜃気楼」というよりも、「陽炎」の中に映る像や影のようだと「僕」は解析している。あくまで自然現象として考察する「僕」のありかたを記憶すべきだろう。

 作品後半では、夜の七時頃に「僕」と「O君」と「妻」の三人(「K君」は帰京した)が鵠沼海岸に再び出かける。第7回で引用した「鈴の音」の場面に続いて、「僕」はある夢を語る。


 僕はO君にゆうべの夢を話した。それは或文化住宅の前にトラック自動車の運転手と話をしている夢だった。僕はその夢の中にも確かにこの運転手には会ったことがあると思っていた。が、どこで会ったものかは目の醒めた後もわからなかった。
「それがふと思い出して見ると、三四年前にたった一度談話筆記に来た婦人記者なんだがね。」
「じゃ女の運転手だったの?」
「いや、勿論男なんだよ。顔だけは唯その人になっているんだ。やっぱり一度見たものは頭のどこかに残っているのかな。」
「そうだろうなあ。顔でも印象の強いやつは、………」
「けれども僕はその人の顔に興味も何もなかったんだがね。それだけに反って気味が悪いんだ。何だか意識の閾の外にもいろんなものがあるような気がして、………」
「つまりマッチへ火をつけて見ると、いろんなものが見えるようなものだな。」


 芥川はある小品で、かなり唐突な形ではあるが、「フロイト」という固有名詞へ言及したことがある。「フロイト」は精神分析の創始者、ジグムント・フロイトのことであろう。芥川がフロイトの英訳本を読んでいた可能性はあると思われるが、少なくとも、大正時代から紹介され始めたフロイト理論を知っていたことは間違いない。(日本近代文学館と山梨県立文学館の芥川蔵書コレクションにはフロイトの著作はない。ただし、二館のコレクションは蔵書のすべてではないので、実証的には判断できない。)
 この場面で「僕」が述べている「意識の閾の外」にある「いろんなもの」とは、精神分析的な枠組から捉えると、「夢」の中の「無意識」の表象であろう。実際に、晩年の芥川作品には夢や無意識のモチーフが頻繁に登場する。

 『蜃気楼―或は「続海のほとり」―』では、「鈴の音」の錯覚や「意識の閾の外」にある夢の世界という捉え方の範囲でとどまっている。ある種のバランスがあり、作者芥川もそのことに自信を持っていた。「話」らしい話のない小説の具現とも考えていた。構想したのはおそらく大正15年末だろう。しかし翌年の昭和2年になると、芥川の人生に転機が訪れたこともあり、作風にも大きな変化が生じた。「錯覚」にとどまらない「幻覚」や「幻聴」をモチーフとする『歯車』や、夢と無意識の世界に深く下降していく『夢』(題名そのものが夢である未定稿小説)などを遺している。

 『歯車』の主人公「僕」は、見えてくる形や聞こえてくる音を、そこにはありえないもの、不気味なものや恐ろしいもの、「死」を連想させるものに変換してしまう。『夢』の主人公「わたし」は、作中の現実と「夢の中の出来事」が混然一体となるような不可思議な経験をする。もちろん小説表現の中の出来事であり、作者芥川自身の経験とは分けねばならない。小説とその作者は基本として分離すべきである。しかし、『歯車』や『夢』のリアリティがどこからもたらされたのかは、きわめて重要な問いでありつづける。

 志村正彦作詞の『蜃気楼』と芥川龍之介『蜃気楼―或は「続海のほとり」―』の間に、直接的で具体的な関係はおそらくないであろう。(志村が「蜃気楼」という言葉を芥川経由で頭に刻んだ可能性はあるかもしれないが)それでも、「蜃気楼」という言葉が、主体の不安にゆれる心象の現れであることの類似性は興味深い。 

  (この項続く)

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