フジファブリック「消えるな太陽」(詞・曲:志村正彦)は、2003年6月21日発売の2ndミニアルバム『アラモード』に収録されている。僕はまだ聴いたことがないが、富士ファブリック時代のカセットテープにも収録されたヴァージョンもあるそうなので、最も初期の曲であることは間違いない。この曲はメジャーデビュー後に再録音されていないが、2006年5月3日の日比谷野外音楽堂でのライブが収録されたDVD『Live at 日比谷野音』でライブヴァージョンを視聴できる。この映像では志村正彦のブルージーなギターソロが味わえる。
ここではYouTubeの「フジファブリック Official Channel」にある音源と歌詞を紹介したい。
映画の主人公になって
みたいなんで誰もが思うさ
無理なことも承知の上で映画館に足を運ぶ俺
ステレオのヴォリュームを上げて
詩の無いラブソングをかけて
ありったけアドレナリン出して目が覚めるだけ
ああ 欲しいメッセージ 要らないメッセージ
どんなメッセージ 解らない
暗い街にせめてもの光を
レコードの針を持ち上げて ラジオに切り替えたらすぐ
頭にくる女の声で目が覚めるだけ
ああ 欲しいメッセージ 要らないメッセージ
どんなメッセージ 解らない
暗い街にせめてもの光を
消えるな太陽 沈むな太陽
消えるな太陽 沈むな太陽
ああ 欲しいメッセージ 要らないメッセージ
どんなメッセージ 解らない
暗い街にせめてもの光を
燃え上がれ 燃え上がれ太陽 照らせよ太陽
燃え上がれ太陽 照らせよ太陽 ああ
〈映画の主人公〉になるという〈無理なこと〉を承知の上で映画館に行く〈俺〉の物語。映画館の暗闇に浮き上がる光の光景を見てから、〈俺〉は家に帰ってくる。閉ざされた部屋のなか〈ステレオのヴォリューム〉を上げ〈詩の無いラブソング〉をかける。そのうちに興奮して目が覚める。〈レコードの針〉を持ち上げて〈ラジオ〉に切り替えると〈頭にくる女の声〉が聞こえてくる。〈俺〉の日常がもたらす苛立ちや焦燥が伝わってくる。〈俺〉の孤独は映画や音楽によっても満たされない。
〈詩の無いラブソング〉という言葉が気になる。この場合の〈詩〉を〈詞〉〈言葉〉だと捉えてみる。そうすると、言葉のないラブソングということになる。言葉のない、言葉が語られることのない、言葉が聞こえてこない、言葉が伝わってこない、あるいは、言葉が消えてしまっている、そのようなラブソング。
そのラブソングに不在の言葉とは、続く箇所の〈欲しいメッセージ〉、〈要らないメッセージ〉、〈解らない〉〈メッセージ〉に連鎖していくだろう。〈俺〉は〈詩の無いラブソング〉に不在の〈メッセージ〉、本来はあるべき〈メッセージ〉を追い求めている。その〈メッセージ〉は〈暗い街にせめてもの光〉をもたらすものである。その光とは端的に〈消えるな太陽〉という比喩で指し示されるものだ。
〈俺〉は〈暗い街〉で音楽の道を歩みはじめている。〈消えるな太陽〉〈沈むな太陽〉〈燃え上がれ太陽〉〈照らせよ太陽〉と連呼される〈太陽〉とは、志村正彦が追い求めている歌そのものの比喩ではないだろうか。〈ああ〉という反復される声がその意志を表している。
〈消えるな太陽〉というメッセージは次第に〈燃え上がれ太陽〉というメッセージに進んでいく。志村の声もギターも力強くなっていく。自分自身の歩む道を〈照らせよ〉と、太陽に呼びかけている。
この曲が初期の作品だという前提から少し考えてみたことがある。
志村は『東京、音楽、ロックンロール 完全版』(2011年)の「生い立ちを語る」で、「茜色の夕日」に関連して、次のように発言している。(402頁上段)
〈サメの歌とかトカゲの歌とか、何が言いたいのかよく分かんないような曲ばっかりだったのが、明確に“キミ”に対しての、明確なメッセージソングっていうのをはじめて作れたので、とても自信につながりました。
この証言からすると、「消えるな太陽」の歌詞の〈詩の無いラブソング〉、不在の〈メッセージ〉とは、志村が独自の歌を生み出す過程での試行錯誤を表しているとも考えられる。
志村正彦は、何が言いたいのかよく分からない曲から、ある特定の二人称〈キミ〉を対象にした曲へと転換することによって、〈明確なメッセージソング〉を創り出した。その歌はまた、自らが〈主人公〉になることも意味していた。その意味では志村は自分の作品の主人公になった。
「茜色の夕日」は、一人称の〈俺〉から二人称の〈キミ〉への〈メッセージ〉を明確に伝える〈詩のあるラブソング〉だった。「消えるな太陽」は、「茜色の夕日」への歩みの軌跡の一つであるのかもしれないが、この歌に込められた〈メッセージ〉を追い求める力によって作品自体が輝いている。