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2013年4月24日水曜日

言葉を届けられないという想い (志村正彦LN 20)

 前回やや抽象的に書いた「他者に対して言葉を届けられないという想い」という点での「幸世」と「僕」の共通項について、漫画『モテキ』から具体的に引用して考えてみたい。
 
 漫画『モテキ』4巻収録の最終話「男子畢生危機一髪」で、「幸世」は「人生で一番好きだった」「小宮山夏樹」と再会するが、「夏樹」は再び去っていく。その別れの場面で、「幸世」はありきたりな言葉しか言えない。その上、「夏樹」がずっと言おうと思って告げた言葉も、車の騒音にかき消されて聞き取ることができない。家に帰る途中で、「幸世」は次のように考える。 

  いつも俺は大事な言葉を伝えられないし
  欲しい言葉は聞き逃す

 志村正彦の場合はどうだろうか。
 例えば、この歌を作るために歌い手となったとまで述べている『茜色の夕日』には、次のような一節がある。

  僕じゃきっとできないな できないな
  本音を言うこともできないな できないな
  無責任でいいな ラララ
  そんなことを思ってしまった


 『茜色の夕日』に関して、彼は何度も創作の経緯や背景にある恋愛について語っている。この歌の「僕」は志村正彦の分身だと考えていいだろう。「本音を言うこともできない」ということを、それでも、あるいはそれゆえに、歌の言葉として語り出したところに、彼の原点がある。この歌についてはいつか論じる機会を待つことにして、ここでは『モテキ』との対比を試みたい。

 この両者、『茜色の夕日』の「僕」の経験と、『モテキ』の「俺」の経験との間には、かなり異なる状況がある。一人の男性と複数の女性との間でめまぐるしく展開する、喜劇のような悲喜劇のような『モテキ』の濃い色合いは、一人の男性と一人の女性との間で繰り広げられた純粋な劇とでもいえるような『茜色の夕日』の透明な感触とはずいぶん異なる。無理があることを承知の上で、あえて両者を同じステージの上にのせると、どのような光景が見えてくるのか。

 それは、一人称である「僕」と「俺」に共通する、二人称の相手に、「大事な言葉を伝えられない」や「本音を言うこともできない」という、自己と他者との関係をめぐる、言葉による表現や伝達に対する、「できない」不可能だという、苦い自己認識が広がる光景だ。そして、そのような自己認識は、「僕」や「俺」だけでなく、度合いの差はあるにしろ、私たちの誰もが共通して抱いているものであろう。   (4月24日改稿)

 

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