2025年12月31日水曜日

2025年


  大晦日の今日、2025年を振り返りたい。


 志村正彦・フジファブリックについてまず述べたい。

 2月にフジファブリックが活動を休止した。「フジファブリック LIVE at NHKホール」という休止前最後のライブがあったが、2010年以降の楽曲だけが演奏された。山内総一郎・金澤ダイスケ・加藤慎一の所謂「三人体制フジファブリック」の集大成となっていた。2024年8月の「フジファブリック 20th anniversary SPECIAL LIVE at TOKYO GARDEN THEATER 2024「THE BEST MOMENT」」は志村曲を映像と共に演奏するという特別な演出によって、志村への感謝とリスペクトを表現した。このライブは「志村正彦・フジファブリック」の集大成という意味合いが濃かった。2024年8月と2025年2月の二つのライブによって、フジファブリックの活動の円環は(ひとまず、をやはり入れるべきなのだろうか)閉じられた。

 今年もまた「若者のすべて」は夏の名曲としてよく聴かれていた。7月、マクドナルド・ハンバーガーのCM『大人への通り道』篇では志村の歌による「若者のすべて」が使われていた。夏のベストソング的な歌番組でも取り上げられ、いつも上位の位置にいた。

 志村正彦の命日12月24日の夜、片寄明人氏がX(@akitokatayose)の呟きで〈21年前、一緒にレコーディングした時の紙〉、『陽炎』の草稿ノートの画像を添付したことが、筆者にとって志村に関わる今年最大の出来事であった。この草稿については前回まで連続四回で書いてきた。草稿の〈出来事が 僕をしめつける〉から完成版の〈残像が 胸を締めつける〉への修正。〈僕〉と〈胸〉という漢字一文字の変化だが、その変化が意味するものを考察した。


 筆者個人の仕事についても触れたい。今年は原稿を書いたり、そのための調査や準備をしたりする日々が続いた。各々の仕事をなんとか仕上げることができて安堵している。

 筆者が探究しているテーマは大別すると次の三つである。

1.芥川龍之介(特に、晩年の夢をモチーフとする小説のテクスト分析。関連して、志賀直哉・谷崎潤一郎・内田百閒の夢小説)

2.志村正彦・日本語ロックの歌詞(歌詞のテクスト分析、歌詞の系譜や文化・社会的背景)

3.山梨出身やゆかりの作家とその作品(飯田蛇笏・太宰治、その他の作家たち)

1.については今年も「山梨英和大学紀要」に〈芥川龍之介「海のほとり」の分析〉を発表した。4年間連続で芥川や志賀の夢小説のテクスト分析を試みている。来年3月に新しい論文が掲載予定である。なお、これらの論文はすべて山梨英和大学のHPや電子ジャーナルプラットフォームのJ-STAGEで公開されている。

2.は〈この偶景web〉の批評的エッセイとして書いているが、今年はその回数が少なかった。この点は課題として受けとめている。

3.に関しては「山廬文化振興会会報」の第35・36・37号に、「蛇笏と龍之介」というシリーズで、各々、昭和二年の交流とその後の軌跡、「生存の実」と「第三の写生」、飯田蛇笏と小説というテーマで執筆した。昨年の第34号掲載の「甲斐の山」と併せて、全四回で完結することができた。この連載の概要を10月3日の「飯田蛇笏・飯田龍太文学碑碑前祭」で講演した。

 太宰治については、甲府での生活に基づいた甲府物語「新樹の言葉」と代表作「走れメロス」との関係についての批評を書いた(来年3月に発表予定)。これに関連して、11月3日、こうふ亀屋座で〈甲府 文と芸の会〉の第1回公演〈太宰治「新樹の言葉」「走れメロス」の講座・朗読・芝居の会〉を開催した。有馬眞胤さんの独り芝居とエイコさんの津軽三味線による「走れメロス」は、小説の全文を暗記して声と語りによってその世界を再現するという独自なものであり、観客を魅了した。来年もこのスタイルの公演を開催する計画である。


 この〈偶景web〉に関しては8月にリニューアルした。上記の筆者の研究や活動に対応するために、当初はこのブログを分割することを検討したが、結論としては、この〈偶景web〉にすべてをまとめることを選択した。現状では、分離するよりも統合する方が円滑に進むと考えたからである。ただし、〈偶景web〉の主要コンテンツが〈志村正彦ライナーノーツ〉であるのはこれまで通りである。このリニューアルによって、志村正彦とその作品をより広い文脈のなかで位置づけたいと思っている。


 この一年間、どうもありがとうございました。


2025年12月30日火曜日

すべてが揺れていく-『陽炎』草稿4[志村正彦LN377]


 『陽炎』の草稿と完成版を比較すると、〈残像〉部分と〈出来事〉部分との関係性が異なることに気づく。この二つの部分を完成版の歌詞で引用する。


  〈残像〉部分
あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ
また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
残像が 胸を締めつける

  〈出来事〉部分
きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう
またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
出来事が 胸を締めつける


 『陽炎』完成版の〈残像が 胸を締めつける〉〈出来事が 胸を締めつける〉という二つのフレーズは、〈胸を締めつける〉という表現が同一である。〈残像〉の延長上に〈出来事〉があるというニュアンスになるだろう。〈残像〉と〈出来事〉は、〈胸〉という身体の一部が象徴する〈心情〉や〈感情〉に作用していく。

 〈残像〉部分では、もうすでに失われた少年時代、〈路地裏〉という場と少年期の〈僕〉に対する愛着や愛惜が感じられる。その延長上にある〈出来事〉部分で焦点化される〈無くなったもの〉と〈あの人〉も、喪失感を伴う愛惜の情を読みとることができる。

 〈残像〉部分と〈出来事〉部分では共に、〈残像〉と〈出来事〉がもたらす愛惜の情が〈僕〉に迫ってくる。この二つの部分はある種の叙情性を帯びているともいえる。


 これに対して『陽炎』草稿では、〈残像が 胸をしめつける〉と〈出来事が 僕をしめつける〉という二つのフレーズは、〈胸をしめつける〉と〈僕を締めつける〉というように、〈胸〉と〈僕〉という明確な対比を成している。その結果、〈残像〉部分と〈出来事〉部分には対比の関係性が強くなる。〈残像〉の延長上に〈出来事〉があるのではなく、〈残像〉と〈出来事〉との間に微妙ではあるがある種の断絶を感じとることもできる。〈僕をしめつける〉にはそのような強い意味作用がある。

 〈残像〉部分にある、少年時代のノスタルジアや故郷への愛惜の想いは遠ざかり、その反対に〈出来事〉部分では、〈無くなったもの〉や〈あの人〉に関わる過去の重層的な〈出来事〉が〈僕〉という存在をしめつけるように迫ってくる。〈出来事〉が〈僕〉を圧迫し、拘束する。〈出来事〉は追憶や愛惜の対象というよりも、〈僕〉に対して苦しみをもたらすもの、抗うことのできないものと受けとめることもできる。〈出来事〉は心の傷に触れるような何かかもしれない。


 〈出来事〉部分の〈無くなったもの〉〈あの人〉が、どういうものか、どういう人かは歌詞の言葉からは不明である。作者志村にとっては特定のもの特定の人であるのだろうが、志村はそれをあえて語らなかった。むしろ、志村はそれを語ることを避けたのかもしれない。その結果、〈無くなったもの〉〈あの人〉という抽象度の高い表現となった。同じような心的機制が〈僕をしめつける〉という表現に働きかけ、〈胸を締めつける〉への修正となった可能性がある。意識的な判断かもしれないが、むしろ無意識的な選択であろう。精神分析的な観点からは、〈僕をしめつける〉という表現の強さや生々しさを抑圧したとも考えられる。『陽炎』草稿の〈僕〉という字に対する二重の×による抹消は、その抑圧を示している。


 しかし、志村が最終的に〈出来事が 僕をしめつける〉ではなく、〈残像が 胸を締めつける〉を完成版の歌詞にした判断は妥当だったと思われる。

 志村はおそらく〈僕をしめつける〉が歌詞としては重すぎる意味合いを持つことを意識的そして無意識的に避けたのだろう。ある言葉が突出すると、歌われる世界が破綻してしまうこともある。歌というものは、その歌詞にも楽曲にも調和が求められる。調和とはバランスでありハーモニーである。そして、歌い手と聞き手との間にも調和が形成されるときに、その歌の普遍性は高まる。歌が人々に共有されてゆく。



 『陽炎』は日本語ロックとしてきわめて完成度の高い作品である。四回に分けて、『陽炎』草稿には完成版には現れなかった表現を通じて『陽炎』の潜在的なモチーフが刻み込まれていることを論じてきた。


 最後に完成した『陽炎』のミュージックビデオを見てみよう。




 この映像のなかの特に冒頭の志村の表情には独特の陰影がある。何かに囚われた緊張感がある。『陽炎』草稿の〈僕をしめつける〉という表現は歌詞からは消えてしまったが、この映像で〈出来事が 胸を締めつける〉を歌う志村正彦の声や表情にはそのモチーフの痕跡がある。曲が進行して、最後の最後の〈陽炎が揺れてる〉でそのモチーフが転調し、微かなものかもしれないが、〈僕〉が何かから解放されてゆく。

 筆者はそのように感じる。過去への愛情や愛惜と過去からの分離や解放。『陽炎』という歌は、相反する方向へと振り子のように動いて揺れていく。根拠はないのだが、そのように考える。 

 

 〈残像〉も〈出来事〉も、過去も現在も、喪失も追憶も、愛着も愛惜も、〈陽炎〉も〈僕〉も、すべてが揺れていく。


2025年12月29日月曜日

『陽炎』の四つのブロック-『陽炎』草稿3[志村正彦LN376]


 『陽炎』の草稿によって、この歌をどう捉え直したらよいのか。今回はその点について考察したい。

 以前も紹介したが、志村正彦は『FAB BOOK』(角川マガジンズ 2010/06)で、『陽炎』の物語の枠組やモチーフについて貴重な発言をしている。再度この発言を取り上げたい。


僕の中で夢なのか現実なのかわかんないですけど、田舎の家の風景の中に少年期の僕がいて、その自分を見ている今の自分がいる、みたいな。そういう絵がなんかよく頭に浮かんだんですよね。それを参考にして書いたというか、そういう曲を書きたいなと思ってて、書いたのがこの曲なんです。


 つまり、〈少年期の僕〉という第一の自分、〈「その自分(少年期の僕)を見ている今の自分〉という第二の自分、〈少年期の僕〉と〈その自分(少年期の僕)を見ている今の自分〉の両方を〈頭〉に浮かべている第三の自分、という三人の自分がいる。この三項による構造が『陽炎』の歌詞を構築している。


 『陽炎』で歌われる物語の世界は四つのブロックに分けられる。

 順番に、〈少年期の僕〉の〈残像〉を〈今の自分〉が想起する〈残像〉部分、〈少年期の僕〉の物語を語る部分、過去から現在へといたる〈出来事〉を〈今の自分〉が想起する部分、(この後で再び〈少年期の僕〉の物語の後半を語る部分が挿入される)、最後の「陽炎が揺れてる」の部分の四つである。それぞれを色分けして、『陽炎』完成版の歌詞を引用する。


  陽炎 (作詞・作曲:志村正彦)

あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ

また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
残像が 胸を締めつける


隣のノッポに 借りたバットと
駄菓子屋に ちょっとのお小遣い持って行こう
さんざん悩んで 時間が経ったら
雲行きが変わって ポツリと降ってくる
肩落として帰った

窓からそっと手を出して
やんでた雨に気付いて
慌てて家を飛び出して
そのうち陽が照りつけて
遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる

きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう

またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
出来事が 胸を締めつける


窓からそっと手を出して
やんでた雨に気付いて
慌てて家を飛び出して
そのうち陽が照りつけて
遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる

陽炎が揺れてる


 『陽炎』は〈残像〉部分から始まる。

 〈あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ〉と過去を想起し、〈路地裏の僕がぼんやり見えたよ〉と〈路地裏の僕〉に焦点化したところから、〈次から次へと〉〈残像〉が浮かんでくる。そしてその〈残像〉が〈胸を締めつける〉。


 この〈残像〉部分の後で、〈少年期の僕〉の物語が語られる。

〈僕〉は〈隣のノッポに借りたバット〉と〈ちょっとのお小遣い〉を持って野球をするために小学校のグラウンドに行くが、途中で〈駄菓子屋〉で何を買うか悩んでいるうちに〈雨〉が降りはじめ、肩を落として家に帰ってくる。そのうち窓から手を出すと雨がやんでいることに気づいて、慌てて家を飛び出す。外では〈陽〉が照りつけて、遠くで〈陽炎〉が揺れている。

 「手を出して」「雨に気付いて」「家を飛び出して」「陽が照りつけて」というように、動詞の連用形に「て」という助詞が付加される形で繰り返されることで歯切れのいいリズムとなって、路地裏の物語、〈僕〉の残像がまさしく次から次へと想起されていく。

 しかし、その〈残像〉は〈胸を締めつける〉ものでもある。この感情の核には、もうすでに失われた少年時代、〈路地裏〉という場と少年期の〈僕〉に対する愛惜の情があると考えてよいだろう。この愛惜が強く〈僕〉に迫ってくる。

 この〈残像〉部分の最後で〈僕〉が見ている〈陽炎〉はおそらく少年時代に実際に見たものだろう。その実景を回想として想起しているうちに、過去と現在との間の境界線がぼんやりしてきて、過去も現在も揺らめいて見える。過去と現在が混ざり合い、時間が揺れてくる。その時間の揺れのようなものを、現在の〈僕〉は〈陽炎が揺れてる〉と捉えたのではないだろうか。つまり、〈陽炎が揺れてる〉のを見つめている主体は、少年期の〈僕〉であり、現在の〈僕〉でもある。


 少年期の物語が終わった後で〈出来事〉部分が始まる。

 「出来事」部分では、〈今では〉と〈それでも〉、〈無くなったものも〉と〈あの人は〉、〈たくさんあるだろう〉と〈変わらず過ごしているだろう〉という対比が強調されている。この対比は過去と現在の時間の対比に基づいている。歌の主体の眼差しは〈無くなったもの〉と〈あの人〉に焦点化していくが、〈無くなったもの〉がどういうものか、〈あの人〉がどういう人であるかは分からない。作者志村にとっては特定のものであり特定の人であるのだろうが、聴き手にとっては不明のままである。

 この〈無くなったもの〉や〈あの人〉が具体的に語られなかったことが、〈出来事〉が〈僕を しめつける〉から〈胸を 締めつける〉へと書き直されたことの原因の一つになっているように考えられる。

          (この項続く)


2025年12月28日日曜日

草稿と完成版の差異-『陽炎』草稿2[志村正彦LN375]


 今回は、片寄明人氏のXの画像に掲載された『陽炎』草稿と『陽炎』完成版の差異について詳細に検討してみたい。

 まず、この草稿では歌詞のブロックごとにAからHまでの記号が振られていることが目につく。歌詞とメロディのブロック単位の区切りを示すのだろう。


 歌詞については表記レベルの違いがいくつかある。草稿の該当箇所に下線を引き、()内に完成版を赤字で記す。

あの街並 思い出した時(とき)に 何故だか浮かんだ

残像が 胸をし()めつける

きっと今では 無くなったものも沢山(たくさん)あるだろう


 語句の微細なレベルでは次の違いがある。

駄菓子屋に ちょっとのお小遣い持ってく(行こう


 最大の違いは,前回述べた次の書き直しである。

出来事が 僕()をし()めつける  


 この草稿の〈出来事が 僕をしめつける〉が、完成版では〈出来事が 胸を締めつける〉となっている。〈僕〉という字が消され、その下に〈胸〉という字が記されている。また、〈しめつける〉も〈締めつける〉と表記されている。

 以上指摘した差異はあるが、全体としてみればこの草稿は完成版の歌詞にかなり近いといえる。この草稿がプロデューサーの片寄明人に保管されていたということからも、この草稿は最終段階のものだったと推定できる。いったん書かれた〈僕〉が二重の×で消され、その下に〈胸〉と記されて、表現が修正されていることからも、最後の段階でこのように書き直されたのではないだろうか。あるいは歌入れの最終段階で修正された可能性もある。


 完成版の〈出来事が 胸を締めつける〉と草稿の〈出来事が 僕をしめつける〉が、歌詞の意味の次元でどのように異なるかを考察したい。

 〈出来事が 胸を締めつける〉の場合は、〈出来事〉が締め付ける対象は〈胸〉になる。〈胸〉は身体の一部を指すが、通常は〈心〉や〈感情〉を指し示す。〈出来事〉の作用は歌の主体〈僕〉の心情や感情に働きかける。このフレーズ自体は基本として感情や情緒の表現として捉えられるだろう。ある種の叙情性を帯びているともいえる。

 それに対して、〈出来事が 僕をしめつける〉の場合は、〈出来事〉が締め付ける対象は〈僕〉になる。〈僕〉の一部としての〈胸〉ではなく、〈僕〉の全体としての〈僕〉が対象となる。〈出来事〉の作用は歌の主体〈僕〉の心情や感情だけでなく、〈僕〉の存在の全体に及んでくる。〈出来事〉の比重がより大きく、重くなっていると考えてもよい。

 〈出来事〉が歌の主体〈僕〉を締め付ける。〈出来事〉が〈僕〉に重くのしかかる。威圧する。〈出来事〉が〈僕〉を追い詰める。圧迫する。あるいは〈出来事〉が〈僕〉を拘束する。束縛する。〈出来事〉によって〈僕〉の閉塞感が強まり、〈僕〉の自由が奪われる。このような意味も生じてくるかもしれない。

 歌の主体〈僕〉にとっての〈出来事〉は、抗えないような何か、不穏とも感じられる何かに近いのかもしれない。この表現からは、〈僕〉の重い苦しみが伝わってくる。

 もちろん、〈胸を締めつける〉方も、〈胸〉というのが身体的な感覚でもあることから、単なる感情や感覚を超えて身体の領域にまで迫ってくるという解釈は可能だろう。どういうものかは分からないが、ある種の痛みや苦しみが身体を貫いていることは確かだろう。〈僕をしめつける〉になると、その痛みや苦しみが増して、強い不安感や切迫感にまで達すると捉えてもよい。〈出来事〉は、〈胸〉という身体の一部ではなく〈僕〉の存在の全体に強く作用する。


 志村正彦はアルバム『フジファブリック』の作品について「ROCKIN'ON JAPAN」2004年12月号のインタビュー記事でこう発言している。


考えすぎる性格なのか、常に今の自分と頭の中にある過去のものだったりを比べたり、いろいろな葛藤がありますね。基本的にそんなにポジティヴじゃないというか、子どもの頃からみんなと一緒にいて楽しんでいるようでうしろのほうでいろいろ考えている自分がいる感じがするんですよね。


 志村は『陽炎』の最終段階まで、〈出来事〉が締め付ける対象が〈僕〉なのか〈胸〉なのかについて模索していたのではないだろうか。彼には〈考えすぎる性格〉という自覚があり、〈常に今の自分と頭の中にある過去のものだったりを比べ〉ていろいろな葛藤をかかえた自分と向き合わざるをえなかった。

 『陽炎』の歌詞のなかでは、この〈出来事〉がどういうものでるかは語られていない。志村はそのことを隠した。しかし、その〈出来事〉が〈僕〉を締め付けるのか、〈胸〉を締め付けるのかという表現については考え抜いた。そのような過程がこの『陽炎』草稿から浮かんでくる。

     (この項続く)


2025年12月27日土曜日

〈出来事が 僕をしめつける〉-『陽炎』草稿1 [志村正彦LN374]


 志村正彦の命日12月24日の夜、片寄明人氏がX(@akitokatayose)でこう呟いていた。


メリークリスマス🎄 ハンバーガーを食べて、コーラを飲みながら、君のことを思い出す。21年前、一緒にレコーディングした時の紙を見つけたよ。
僕はいま連日のリハーサルのため、ホテルに泊まってGREAT3の新曲に歌詞を書いてる。こんな素晴らしい言葉が書けるかわからないけれど。 pic.x.com/yup0INW9Fc


 〈君〉は志村正彦。〈21年前、一緒にレコーディングした時の紙〉というのは、21年前の2004年、フジファブリックのメジャーデビューアルバム『フジファブリック』や「四季盤」のシングル4枚の録音時の資料のことだろう。そう思って添付されていた画像を見てとても驚いた。ノートの罫線の枠外上部に『陽炎(かげろう)』とルビが振られていた。その下に志村が『陽炎』の歌詞をノート用紙に手書きで記していた。そこにはある言葉が削除され、新たな言葉が書き込まれていた。その漢字一字の言葉に釘付けになった。画像から文字に起こしてみたい。


  出来事が をしめつける  
       胸

       *〈〉という形で抹消線を記したが、実際には二重の×で〈僕〉が消されている。


 この箇所は完成された歌詞では〈出来事が 胸を締めつける〉となっている。その元の形(の一つ)が〈出来事が 僕をしめつける〉だったことがこの画像で分かる。〈僕〉という字が消され、その下に〈胸〉という字が記されている。また、〈締めつける〉の表記も〈しめつける〉だった。志村正彦の歌詞やその生成について考察する上で、この資料は非常に貴重なものとなる。

 志村はアルバム『フジファブリック』についてのBARKSのインタビュー (取材・文:水越真弓)で、『陽炎』の成立についてこう語っている。


「陽炎」は、けっこうすんなりできましたね。この曲を作った翌日に、新曲用の“デモテープ発表会”を控えていて(笑)、「ヤバイ…、新曲がない」って言いいながら夜中に家で一人でピアノを弾いてたんですよ。そしたら、30分くらいでこの曲のメロディが降りてきて、歌詞も同時にスラスラできました。


 『陽炎』のメロディと歌詞が同時に30分位で出来上がったというのはきわめて珍しいことだったろう。楽曲や歌詞作りにはかなりの時間をかけたことが、彼の書いた文章や記録された発言から読み取れるからだ。また、「夜中に家で一人でピアノを弾いてた」という状況も興味深い。ピアノを演奏するなかで楽曲も歌詞も同時に浮かび上がってきたのだろう。それでも志村が作品の完成度を高めるための作業を惜しまなかったことも確かなので、実際に録音して完成するまでの過程で、〈出来事〉が〈僕をしめつける〉のか〈胸を締めつける〉のかという歌の中心軸にもなるモチーフについてあれこれと考えたのではないだろうか。


 『陽炎』についての個人的経験を振り返りたい。

 2010年の夏、「陽炎」を聴いたことが志村正彦・フジファブリックの歌との出会いだった。そして2012年の12月、富士吉田で開催された「路地裏の僕たち」主催の志村正彦展のために、この〈出来事が 胸を締めつける〉の箇所を中心に書いた「志村正彦の夏」という題のエッセイを書いたことが、結果として、〈志村正彦ライナーノーツ〉の原点となった。すでにこのブログで紹介しているが、今回の論の展開のために必要なので、この文章をあらためて記しておきたい。


 夏の記憶の織物は、フジファブリックの作品となって、ここ十年の間、私たちに贈られてきた。なかでも『陽炎』は志村にしか表現しえない世界を確立した歌である。

  あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
  英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ  (『陽炎』)

 夏は、想いの季節である。夏そのものが私たちに何かを想起させる。「街並」「路地裏」という場。「英雄」、幼少時代の光景。楽しかったり、寂しかったりした記憶が「次から次へ」と浮かんでくる。
 夏は、ざわめきの季節でもある。人も、物も、風景も、時もざわめく。「陽」が「照りつけ」ると共に、何かが動き出す。そのとき、「陽炎」が揺れる。

  窓からそっと手を出して
  やんでた雨に気付いて
  慌てて家を飛び出して
  そのうち陽が照りつけて
  遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる   (同)

 『陽炎』はここで転調し、詩人の現在に焦点があてられる。

   きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
   きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう

   またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
   出来事が胸を締めつける          (同)  

 今では「無くなったもの」とは何か。特定の他者なのか。風景なのか。十代や青春という時間なのか。あるいは、過去の詩人そのものなのか。そのすべてであり、すべてでないような、つねにすでに失われている何かが「無くなったもの」ではないのか、などと囁いてみたくなる。

 喪失という主題は青春の詩によく現れるが、大半は、失ったものへの想いというより、失ったものを悲しむ自分への想いに重心が置かれる。凡庸な詩人の場合、喪失感は自己愛的な憐憫に収束するが、志村の場合は異なる。
 彼の詩には、そのような自己憐憫とは切り離された、失ったものそのものへの深い愛情と、失ったものへ、時に遠ざかり、時に近づいていく、抑制された衝動がある。そして、喪失を喪失のままに、むしろ喪失を生きなおすように、喪失を詩に刻んでいった。それは彼の強固な意志と自恃に支えられていたが、「胸を締めつける」ような過酷な歩みでもあった。



 この〈失ったものそのものへの深い愛情と、失ったものへ、時に遠ざかり、時に近づいていく、抑制された衝動〉という〈愛情〉と〈衝動〉、〈喪失を喪失のままに、むしろ喪失を生きなおすように〉して刻んだ〈喪失〉の表現というところが、僕の志村正彦論の原点となるテーマでありモチーフである。


 この『陽炎』草稿ノートに記された〈僕〉から〈胸〉への修正はこの歌詞に大きな変化をもたらしたと考えられる。歌詞の解釈を変える可能性すらあるだろう。特に〈失ったものへ、時に遠ざかり、時に近づいていく、抑制された衝動〉というかつての捉え方についてはさらに考えを深めなければならない。

 2014年7月に開催された「ロックの詩人 志村正彦展」では、志村家が所蔵している「若者のすべて」の歌詞の草稿ノートを展示させていただいた。その草稿から完成版までの歌詞の変遷過程についての試論を展示室内の解説パネルに書いた。

 今回、片寄明人氏がXの呟きで添付した『陽炎』草稿の画像は誰もがインターネット上で閲覧できるので、このブログで四回に分けてこの重要な資料について書いていきたい。

   (この項続く)


2025年12月25日木曜日

「茜色の夕日」のチャイム、NHK甲府のニュース[志村正彦LN373]

 昨日12月24日は志村正彦の命日だった。〈フジファブリック志村正彦さんの命日「茜色の夕日」のチャイム〉というNHK甲府のニュース映像が、NHK ONEにアップされた。

  https://news.web.nhk/newsweb/na/nb-1040028670


 この映像は、昨日12月24日夕方の甲府局「Newsかいドキ」で放送されたようだ。これは見逃してしまったが、今朝の甲府局のニュースで見ることができた。毎年のようにNHK甲府はこのチャイムについて放送してくれるが、今年は例年以上に丁寧に時間をかけて映像が作られていた。残念ながら映像は一定期間が過ぎると消えてしまうので、Webの記事をそのまま引用して記録に残しておきたい。


富士吉田市出身のミュージシャンで、ロックバンド「フジファブリック」で活躍した志村正彦さんが亡くなって16年となった24日、地元で夕方に流れるチャイムが代表曲の「茜色の夕日」に変わり、多くのファンが訪れました。

志村正彦さんは、富士吉田市出身のミュージシャンで、ロックバンド「フジファブリック」のリーダーとして「若者のすべて」など世代を超えて愛される曲を発表しました。

その音楽センスを高く評価されていた志村さんは、16年前の12月24日に29歳の若さで亡くなりました。

地元の富士吉田市は、志村さんの音楽の魅力を語り継ごうと、毎年、命日の前後に代表曲のひとつ「茜色の夕日」を防災行政無線の夕方のチャイムで流しています。

24日は、志村さんが育った下吉田地区の富士急行線の駅に地元の人や全国から訪れたファンなどおよそ50人が集まりました。

雨が降り、霧がかかる中、午後5時を迎えて曲が流れると、集まった人たちは駅の様子を動画に収めるなどしながらじっくりと聴き入っていました。

この日のためにフランスから訪れたという50代の女性は「こみ上げてくるものがありました。ここに来てよかったです」と話していました。

また、志村さんの黒板アートを制作したという市内の50代の男性は「この街としてずっと覚えているという思いで描きました。志村さんには励まされたり、勇気づけられたりしています」と話していました。

「茜色の夕日」のチャイムは今月27日まで毎日夕方5時に流されます。


 昨日はこの山梨でも寒い雨が降り続いていた。そういう天候のなかで五十人ものファンが下吉田駅で集まったことはとてもうれしい。この場所以外でもチャイムを聴いていた人はたくさんいただろう。この映像でも分かるように、雨が霧のようにけぶる光景はどことなく幻想的で志村正彦の歌にふさわしい。

 記事で言及されていた〈フランスから訪れたという50代の女性〉と〈志村さんの黒板アートを制作したという市内の50代の男性〉の二人のコメントのすべてを映像のテロップから書き写したい。


〈フランスから訪れたという50代の女性〉
この日のためにフランスから訪れる

こみ上げてくるものがあって
来てよかったなと思って

詞の素晴らしさに まず胸を打たれまして
ご自身のお人柄とかいろいろ後から知って

“推し活”とか 初めてなんですけどね


〈志村さんの黒板アートを制作したという市内の50代の男性〉
市内から 志村さんの黒板アートを制作

この街として 志村さんのことを
ずっと覚えているよっていうことを

絵の形で いろいろな人にお伝えできたらなと

弱さを歌っているようで
非常に強い人だと思うので

その生き方に すごく励まされたり
勇気づけられたりしています


 フランスからわざわざ訪れた女性は“推し活”と述べていたが、海外で暮らしている方だからこそ志村正彦・フジファブリックの音楽は心に身に迫るものがあると思われる。このブログも海外の方からの読み込みがけっこう多い。

 志村さんの黒板アートを制作している男性は、志村ファンならよくご存じの「黒板当番」さんである。(ご本人がXでこの映像のことを紹介されていたので、こう書かせていただきます) 〈弱さを歌っているようで 非常に強い人だと思うので〉という見方は、志村の本質の一つを語っている。強固な意志がなければあれだけの作品は生み出せなかったことは間違いない。志村正彦は繊細な心と強い意志をあわせ持っていた。


 没後十六年が経つが、彼の心と志は、彼の歌は、時に胸に響き、時に励まし、人々に自分自身の歩みを進めていく力を与え続けている。


2025年12月21日日曜日

見えない銀河を渡ることにしよう[ここはどこ?-物語を読む 12]

  平野や西側が海という場所に住んでいる人には意外だろうが、山梨では真っ赤な夕陽は沈まない。 太陽は赤くなる前に西の山に沈んで、それから山の端からせり上がるように夕焼けが広がる。だいぶ昔のことだが、関東平野にある県に住むことになって、初めて丸くて赤い太陽が地平線に沈むのを見たとき、ああこれが夕陽というものかと思った。そもそもそれまで地平線を見たこともなかった。

 山がすっかり闇に飲み込まれてしまうと、空は月と星の時間になる。冬の空気はピリリと冷たいが、星を見るのは冬がいい。年のせいかだいぶ目が効かなくなっていて、カシオペアやオリオンなど見つけやすい星座しか見つからないが、それでも見つけられると嬉しくなる。


 さて、銀河である。 残念ながら、街の明かりのせいか、こちらの視力の問題か、肉眼で夜空に銀河を見つけることはできない。 子どもの頃は見えていたかと考えてみたが、あれが銀河だと確信した記憶はない。銀河のイメージはプラネタリウムやテレビの番組の望遠鏡の映像などによって作られた二次的なものでしかない。中国や日本の古典には天の川がよく出てくるから、昔の人は実際肉眼で見ていたんだろうが。

 何でも年のせいにするのはどうかと思うが、「銀河」を歌いこなすことができない。

 問題は「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」である。一回目はクリアしても四回も繰り返しているうちにほぼつまずく。口も舌も回らないのだ。

 ところで、この「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」はなんだろう。真夜中二時過ぎに街を逃げ出す二人の足音と考えるのが普通なんだろうか。では次の「パッパッパッ パラッパラッパッパッ」(心なしかこちらの方が歌いやすい)は何か?  走り続けた二人の吐く荒い息が立ち止まった丘の上で闇の中に白く浮かぶ様だろうか。

 歌詞の中にはこの二人についてほとんど説明がないから、例によってはっきりしたことは言えない。 わかっているのは二人が真夜中に街を逃げ出したことだけ。二人で手に手を取って逃避行。駆け落ちなのか?  いや、二人が恋愛関係にあるとは限らない。青春時代、閉塞的な社会から逃げ出したい友人同士かもしれないし、因習的な家制度から逃げてきた親子かもしれない。無実の罪を着せられそうな男とその日に出会ってなぜだか巻き込まれてしまった他人というミステリー仕立てもできないことはない。これは聴き手が自由に想像すればいいのであって、面白い設定を想像できたら、隣で志村正彦がニヤニヤしてくれそうな気もする。


 しかし、問題はここからだ。二人の行く先は「UFOの軌道に乗って」「夜空の果て」までなのである。いきなりジャンルがSFになってきたではないか。こうなると二人の設定も修正が必要になるかもしれない。なぜ逃避行しなければならないかも地球規模になる。人類滅亡を防ぐためとか。宇宙のどこかに閉じ込められている誰かだけが二人を救う方法を知っているとか。空を飛んで旅をするとなれば宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」や松本零士の「銀河鉄道999」のイメージも浮かぶ。

  夜空の果てに何があるのか。UFOは敵か味方か。 二人の行く末は吉か凶か。何もかもわからないまま、しかし、二人は宇宙へ旅立ったのだろう。


  きらきらの空がぐらぐら動き出している!

  確かな鼓動が膨らむ動き出している!


 これはつまり二人がUFOに乗り込んだということなのではないか?だから空がぐらぐら動き出しているのだ。

 そうなると「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」も「パッパッパッ パラッパラッパッパッ」もUFOに乗り込むための呪文のようなもの(言葉ではなく動作みたいなものかもしれない。ダンスとか)に思えてくる。それができた人だけUFOに乗ることを許される。二人はきっと淀むことなく難関をクリアして、UFOで夜空を渡っていくのだ。 


 歌いこなすことができない私はたぶんUFOに乗せてもらえないだろう。せめて想像の翼で夜空の果てまで向かう二人を追いかけ、見えない銀河を渡ることにしよう。


2025年11月30日日曜日

10月の甲府Be館 『六つの顔』『入国審査』

10月は、芥川龍之介の小説についての論文を書いたり、〈甲府文と芸の会〉の公演の準備をしたりと忙しい日々を送っていて、甲府シアターセントラルBe館には二度しか行けなかった。


『六つの顔』


 人間国宝の狂言師野村万作を撮ったドキュメンタリー作品。息子の野村萬斎、孫の野村裕基も出演している。犬童一心監督。題名の「六つの顔」は、万作が自身について思い浮かべる六つの自己像を表している。前半は野村万蔵家の歴史や野村万作の稽古の姿、後半は2024年6月の文化勲章受章記念公演の狂言「川上」の映像を紹介していた。

 狂言「川上」の能舞台は宝生能楽堂だった。万作が上演の直前に鏡の間で自身の姿を映し出す場面、その瞬間の眼差しに惹かれた。自分の姿を見つめることで役柄に変身していくようだった。(私の妻は趣味として能を稽古していた時があり、宝生能楽堂で二度ほど能を舞ったことがある。妻はこの鏡の間での緊張感が忘れられないと話していた)他にも、楽屋で弟子たちが万作に挨拶をする場面の映像が印象的だった。


『入国審査』



 ディエゴとエレナのカップルがスペインのバルセロナからアメリカへ移住するためにニューヨークの空港に降り立つが入国審査で尋問される。監督はアレハンドロ・ロハスとフアン・セバスティアン・バスケス。取調室で容赦なく尋問されるなかでディエゴの過去の婚約歴が明らかとなり、エレナはディエゴに疑念を抱くようになる。二人の追い込まれ方が尋常でなく、アメリカの入国管理の厳しさに直面する。

 海外旅行の際には誰もが入国審査で緊張するだろう。通常はパスポートの確認後にすぐに通過できるが、ある時に同行者がかなり時間がかかったことがある。どうしたのだろうかと心配したが、そのうちに何事もなく通過できたので安堵した。この映画も監督の実体験に着想を得て制作されたそうである。その実体験がリアリティを与えているのだろう。


 宝生能楽堂の楽屋や舞台裏。空港入国審査の取調室。

 全く異なる場ではあるが、表側では見ることのできない裏側での出来事、人間の姿が印象深い二つの映画であった。


2025年11月19日水曜日

有馬銅鑼魔

 有馬眞胤さんとの出会いを振り返りたい。二年前、2023年の6月、山梨市日下部公民館で彼の独り芝居を初めて見た。当時の館長内藤理さんがいろいろな素晴らしい企画の公演を打っていたが、そのうちの一つだった。太宰の「走れメロス」が演目だったので、私がその前座として「太宰治と山梨」について話をすることになった(それ以前にこの公民館の映画祭で何度か講座を担当していた)。

 この日の観客は四十名ほどだったが、皆、「走れメロス」の言葉そのものを声と身体で再現した芝居にとても魅了された。下座のエイコさんの津軽三味線も彩りを添えていた。前回、亀屋座での有馬さんの芝居に対する〈本物に出会った〉というコメントを紹介したが、私もまさしくそのような思いを抱いた。

 翌年2024年の9月、日下部公民館で浅田次郎『天切り松闇がたり』シリーズの「白縫華魁」の独り芝居があった。有馬さんの語りによって吉原遊郭を舞台とする物語の情景が浮かび上がった。12月、東京両国のシアターXカイで谷崎潤一郎「母を恋ふる記」の芝居があった。有馬さんが語り手兼主人公の〈わたし〉を、エイコさんが〈母〉を演じた。二人の芝居によって谷崎の文学がその場で可視化されていった。この舞台では照明が工夫されて、より演劇的な空間となっていた。

 有馬さんは自身のHPで〈有馬眞胤の語り芸は朗読ではない。本は持たず一篇の小説を全て覚えて演じるのです。落語でもなく、講談でもなく、新しい語りのジャンルを探るべく格闘しています。下座にはエイコ(津軽三味線)が務めております〉と述べている。確かに、文学作品の朗読でなく、文学作品を原作とする演劇でもない。一つの文学作品の言葉を彼の記憶のなかに吸収させて、彼の声と身体によって作品を再現し上演する行為である。有馬さん自身はこの行為を〈作品を立体化する〉と説明している。


 今年2025年、山梨英和大学で「太宰治と甲府」というテーマの講義をするために資料を読んでいたときに、太宰治が石原美智子と結婚して甲府に住んでいた時に執筆した「新樹の言葉」と「走れメロス」の人物関係やテーマが非常に似ていることに気づいた(この具体的な内容は後日詳しく書きたい)。その際に、有馬さんを招いて、学生に「走れメロス」の独り芝居を見せることを思いついた。幸いなことにすぐに有馬さんの快諾を得て、6月にその授業が実施できた。私が「太宰治と甲府―「新樹の言葉」から「走れメロス」へ」という講義をした後で、有馬さんが「走れメロス」を上演した。その芝居についての学生の感想を紹介したい。


  • 一人芝居で観た「走れメロス」は、文章で読んだ時とは全く違う臨場感と重みを感じた。声や表情、動きの変化によって、登場人物たちの感情の揺れがはっきりと伝わり、「走れメロス」という物語のテーマが理屈ではなく感覚として自然と胸に迫ってきた。一人芝居だからこそ生まれる緊張感の中で、太宰治の声と語りの力を改めて実感することができた。
  • 「走れメロス」の独り芝居を見た時、その声や立ち振る舞いでストリーに引き込まれ、思わずメロスに感情移入してしまいとても感動した。特にメロスやセリヌンティウスのセリフは声の抑揚により本当に目の前で会話が行われているのではないかとすら感じた。
  • 先生の話を聞き、そして有馬さんの芝居を見て、様々な作品にはそれぞれ作者がいて、作者は作品に対して様々な思いを持って制作をしているという背景があり、二次創作者がどのように解釈してどのように表現するのかという部分にとても興味を持ちました。有馬さんが演技をしている時、有馬さん自身が、メロスをはじめ他の登場人物ならどういう態度や声量や動きをするだろう、それがどうすればお客さんに伝わるだろうと考えた末にたどり着いた努力の演技だと一目見ただけで感じることができ、感動しました。


 学生はこの芝居に魅了され、「走れメロス」の世界に感情移入していった。魅了というよりも感動というべきだろう。学生は本物の役者に出会い、教室が本物の舞台空間に変わっていったのである。

 この公演後、有馬さんは私宛のメールで〈「走れメロス」という作品は文体にリズムがあり、テーマも解りやすくシンプルです。作品を自分流に演じるのではなく、出来る限り作品に忠実にシンプルに真直ぐに演じることに心掛けております。文学を立体化し芸術に迄昇華出来ることを目標にしております〉と書いている。文学の立体化が彼の方法であり目標である。

 そして、授業での学生の反応を見て、一般の方に対してこの芝居を公演することを考えた。その頃ちょうど甲府の中心街に「こうふ亀屋座」ができた。あの舞台なら有馬さんの芝居がいっそう引き立つに違いない。この話もまた有馬さんの快諾を得て、公演の実現へと動いていった。このような経緯を経て、11月3日にこうふ亀屋座で〈甲府 文と芸の会〉の第1回公演〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉が開催されたのである。


 有馬さんの経歴を紹介したい。劇団四季に所属して『異国の丘』『オンディーヌ』などを演じた後、蜷川幸雄の演出作品に20年間参加して、『王女メディア』『近松心中物語」『ニナガワ・マクベス』では世界ツアーに参加し、ロンドン、ニューヨーク、バンク―バー、香港、アントワープ、シンガポール、クワラルンプール、ヨルダン、エジプトなどで公演した。また、平幹二郎主宰の「幹の会」の公演『冬物語』『王女メディア』『鹿鳴館』などにも参加した。その後は劇団やプロジェクトから完全に独立して、2005年から「有馬銅鑼魔」と題する独り芝居、独り語りを始め、2020年からは両国シアターXカイに拠点を移し、精力的に活動を続けている。


 有馬眞胤さんはこのように役者としての豊富な経験とキャリアを持っているが、実に謙虚な方である。太宰治「走れメロス」の全文を暗記して声と語りによってその世界を再現し上演できる役者はおそらく彼一人であろう。独自の演劇を探究する孤高の存在である。

 私は「有馬銅鑼魔」の独自性を高く評価している。来年もまた甲府で、孤高の役者有馬眞胤の独り芝居を公演する予定である。


2025年11月5日水曜日

11月3日の公演 〈本物に出会った〉という言葉

 一昨日、11月3日、こうふ亀屋座で〈甲府 文と芸の会〉の第1回公演〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉が予定通り開催された。

 昼になると青空が広がり、日差しも暖かくなってきた。すがすがしい、おだやかな気分で公演を迎えることができた。三連休の最後、文化の日ということもあって、亀屋座のある「小江戸甲府花小路」の人通りが多く、活気もあった。賑やかな華やぎが甲府の中心街に戻ってきたような気がした。


 参加希望者は105名に達した。先着順90名の予定だったが、それを超える申し込みがあったために、2階の客席エリアを広げて対応した。開場は1時半からだったが、1時過ぎには入り口の前にかなりの人々が並んでいた。(亀屋座の担当者が五月のオープン以来初めて見る光景だと言われた)亀屋座前を通る人が何のイベントがあるのだろうと振り返る姿がときどき見られた。

 開演の10分ほど前には満員の状態になり、予定通り午後2時に開演した。私がまず〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」〉と題して15分ほ話をした後で。エイコさんが「新樹の言葉」の冒頭などの部分を10分ほど朗読した。休憩の後、有馬眞胤さんの独り芝居とエイコさんの下座(三味線)による「走れメロス」の上演があった。有馬さんは作品の全文を覚えて、声による語りと身体の動きによって「走れメロス」を演じきり、エイコさんの三味線が場面の展開に確かな彩りを添えていった。

 書物の二次元の世界を声と身体によって三次元の世界に変換していく有馬独り芝居のスタイルは非常に独創的である。観客はこの有馬独り芝居の世界に入り込み、魅了されていく。観客の眼差しが舞台を見つめ、語りの声を聴くことによって、亀屋座そのものが「走れメロス」の空間と化していった。

 50分ほどの時間だったが、芝居が終了すると、観客からまさしく「万雷の拍手」が起きた。亀屋座の小さいが濃密な空間が拍手の音で揺れるようだった。カーテンコールの後で主催者代表として私が御礼と感謝の言葉を述べた。来年度も有馬さんとエイコさんを招いて公演を行うことを告げてこの公演を閉じた。


 会場で書いていただいたアンケートの言葉を五つほど紹介したい。

  • 本物に出会った。そんな思いがしました。 
  • 有馬さんの迫力ある演技を見て、学生時代に読んだ走れメロスのストーリーが蘇りました。 
  • 素晴らしい朗読と芝居でした。三味線の音色に津軽の景色が広がりました。
  • 有馬さんの声の抑揚、身振り、手振り などとても引き込まれました。発声も素晴らしく、後方で見ていましたが、初めから終わりまで余すことなく楽しめました。 
  • 久しぶりにお芝居を見てとても満たされました。昔、蜷川幸雄さんが生きていた当時、何度が見に行きました。それ以来というわけではありませんが、久しぶりにお芝居の楽しさを感じました。


 〈本物に出会った〉という言葉が今回の公演の本質を語っている。アンケートには次回も必ず見たいという声も多かった。とてもとても有り難い言葉である。後日、この公演についてはさらに書くことにしたい。

 

2025年11月1日土曜日

昭和20年7月の別れ-太宰治と甲府 6

 昭和14(1939)年9月、太宰治は甲府から東京の三鷹へ転居したが、その後も何度も甲府を訪れている。妻美智子の実家、湯村温泉の旅館明治、甲府中心街の東洋館などに滞在して小説を執筆した。昭和20(1945)年4月、東京の空襲に遭い、甲府に疎開してきた。

 甲府の詩人一瀬稔は「太宰治点描―太宰治(1)」「追憶の酒―太宰治(2)」(『忘れ得ぬ人びと』甲陽書房 1986)で、その頃の太宰と井伏鱒二との思い出を語っている。まず、「追憶の酒」から引用したい。 

ぼくが太宰さんに初めてお会いしたのは昭和十七年ごろで、その当時太宰さんは、東京の三鷹から水門町の奥さんの実家と湯村温泉に滞在して創作に専念、夜はたいがい市内のどこかで酒を飲んでおられた。そんな時いつも甲運村(現在甲府市に編入)へ疎開されていた井伏鱒二氏がご一緒だったようである。ぼくが特に親しくおつき合いねがったのは、終戦の前の年から、甲府が戦災を受けて太宰さんが津軽の生家へ引き揚げるまでの一年余りの期間である。

 一瀬は太宰や井伏と甲府近郊の川魚料理屋へ行った思い出を語っている。

ぼくらは座敷に通されて、きっそく酒になった。飲むほとに酔うほどに太宰さんはすっかり上機嫌になり、酔った時のいつもの調子でにぎやかにはしゃぎ、「ぼくは今夜こそこの甲州に骨を埋める覚悟を決めましたよ」とくり返し言うのだった。

 一瀬はこの太宰の発言について〈太宰さん特有の大仰なゼスチュアではあるが、それほどその晩の酔い心地は格別だったように思われた〉と述べている。太宰の甲府時代を振り返って、次のように評した。実際に太宰と交流した人の証言でもある。

太宰さんのいわゆる甲府時代というのは約五、六年間であるが、この期間は太宰さんの生涯の中で、生活的にも、精神的にもいちばん安定しており、ばりばりと仕事のできた文字通り脂ののった時期ではなかっただろうか。時代こそ暗かったが、気持ちにかげりがなく、飲めば闊達にはしゃぎ、太宰さんの周りにはいつも明るい雰囲気が漂っていた。

 甲府時代の太宰は精神的にも安定して仕事に打ち込んでいた。作家仲間や地元の青年たちとの交流もあった。川魚料理屋での〈甲州に骨を埋める覚悟〉というのはリップサービスにも聞こえるが、案外、太宰の本音を伝えているのかもしれない。


 「太宰治点描」では、『オリンポスの果実』の田中英光が東京から太宰を訪ねてきた日のことを書いている。その当時、甲府駅の北口側にあった「峠の茶屋」という飲み屋に太宰と甲府の画かきや文学の仲間がよく集っていた。

僕たち四、五人の常連も加わって、その峠の茶屋へ飲みにおしかけた。体の大きい田中さんは、その時学生服を着ていて、酔いが回るにつれてますます元気になり、果てはハチ巻などして、持ち前の蛮声で何やら大気焔をあげていた。太宰さんもこの遠来の愛弟子を加えての酒席がたいへん愉しかったと見え、殊更上気嫌で、「今夜は徹夜でのみ明かそうや」と言って、やんちゃな子供みたいにさかんにはしゃいでいた。その夜はとうとう夜明け近くまで飲みあかし、それぞれ酔いつぶれたような格好で畳の上にごろ寝してしまった。昼近くなって目を覚ましたが、また太宰さんの提唱で、すぐ近くの山へのぼって飲み直すことになった。各自一本ずつブドウ酒の壜をさげて(その頃は高級料理屋以外には清酒がなかったので、僕たちは主にブドウ酒を常飲していた)、同勢はそこから二丁ほど先の愛宕山へくり出した

 太宰治と愛弟子の田中英光、甲府の仲間たちがはしゃぐ姿が目に浮かぶ。ブドウ酒の壜とあるが、山梨では一升瓶のブドウ酒がよく飲まれる。愛宕山は甲府駅のすぐ北側にある。この山に少し登ると周囲を展望できる場所があり、甲府盆地の全景と富士山、御坂山系、南アルプスなどの山々がよく見える。夜景も美しい。昔も今も変わらない風景がある。


 昭和20(1945)年7月6日深夜から7日未明までのあいだ、甲府は空襲された。焼け野原になってしまった日からまもなく、一瀬稔は街中を自転車で走る太宰を目撃する。

 甲府の街が空襲で焼けて間もなくだった。ある日街を歩いていたら、少し離れた車道を、太宰さんが自転車で颯爽と走っていった。その時の太宰さんの服装はいまはっきりと記憶にないが、白い開襟シャツにカーキ色のズボン、それにゲートルを巻いて編上靴を穿いていたようだった。そして背中に空のリュックを背負っていた。その時人道を歩いていた僕は、とっさに声をかけようとしたが、太宰さんは何か急ぎの用事でもあるらしく、傍目もせず真っしぐらに走っていったので言葉をかける間もなかった。僕はその時、何かいつもの太宰さんとはまるで違った人でも見るような気がして立ちどまったまま、颯爽とペダルを踏んでいくそのうしろ姿をしばらく呆然と見送っていた。その時が最後で、太宰さんとはもう二度とお目にかかれなかった。    

 この後まもなく、太宰は家族を連れて故郷の津軽へ帰っていった。一瀬のもとに太宰から「来年になったら、またお会いして、ブドウ酒を飲み、ウナギを食べて文学の談を交わす事が出来るかと思い、たのしみにして居ります」という手紙が来た。

 しかし、結局、太宰治が再び甲府を訪れることはなかった。昭和20年7月が甲府との別れの時となった。


 甲府空襲の後、太宰は故郷津軽の実家へ疎開し、終戦を迎えた。津軽に一年半近く滞在し、昭和21(1946)年)11月、東京に戻った。もしも、という仮定をあえてするが、甲府空襲がなければ戦後もそのまま甲府でしばらくは暮らしていたかもしれない。太宰の人生や文学も異なる軌跡を描いたことだろう。


2025年10月30日木曜日

甲府への疎開と空襲―太宰治と甲府5

 太宰治の一家は、昭和20(1945)年4月、東京から甲府に疎開してきた。その後、7月に甲府で空襲に遭う。この疎開と空襲という体験は「薄明」に綴られている。空襲の後、太宰一家は津軽に疎開した。この作品は津軽で9月頃に執筆され、昭和21年12月新紀元社から刊行された。体験に基づく小説ではあるが、太宰夫人の津島美智子によると事実とは異なる部分もあるようだ。

 冒頭はこう語り出されている。


 東京の三鷹の住居を爆弾でこわされたので、妻の里の甲府へ、一家は移住した。甲府の妻の実家には、妻の妹がひとりで住んでいたのである。
 昭和二十年の四月上旬であった。聯合機は甲府の空をたびたび通過するが、しかし、投弾はほとんど一度も無かった。まちの雰囲気も東京ほど戦場化してはいなかった。私たちも久し振りで防空服装を解いて寝る事が出来た。私は三十七になっていた。妻は三十四、長女は五つ、長男はその前年の八月に生れたばかりの二歳である。


 誰にとってもそうであろうが、太宰の疎開生活もやはり苦労が多かったようである。

 私たちは既に「自分の家」を喪失している家族である。何かと勝手の違う事が多かった。自分もいままで人並に、生活の苦労はして来たつもりであるが、小さい子供ふたりを連れて、いかに妻の里という身近かな親戚とは言え、ひとの家に寄宿するという事になればまた、これまで経験した事の無かったような、いろいろの特殊な苦労も味った。甲府の妻の里では、父も母も亡くなり、姉たちは嫁ぎ、一ばん下の子は男で、それが戸主になっているのだが、その二、三年前に大学を出てすぐ海軍へ行き、いま甲府の家に残っている者は、その男の子のすぐ上の姉で、私の妻のすぐの妹という具合いになっている二十六だか七だかの娘がひとり住んでいるきりであった。

 義妹も、かえって私たちには遠慮をして、ずいぶん子供たちの世話もしてくれて、いちども、いやな正面衝突など無かったが、しかし、私たちには「家を喪った」者のヒガミもあるのか、やっぱり何か、薄氷を踏んで歩いているような気遣いがあった。結局、里のほうにしても、また私たちにしても、どうもこの疎開という事は、双方で痩せるくらいに気骨の折れるものだという事に帰着するようである。

 疎開する側も疎開を受け入れる側も〈双方で痩せるくらいに気骨の折れるものだ〉というのが太宰の結論だった。太宰はすでに中年に達し自分の家族も持っていた。若い頃とは異なり、それなりの〈気遣い〉人間的な配慮を心がけていたようだ。


 太宰は昭和20年の4月から7月までの甲府での疎開生活を次のように振り返る。

 甲府へ来たのは、四月の、まだ薄ら寒い頃で、桜も東京よりかなりおくれ、やっとちらほら咲きはじめたばかりであったが、それから、五月、六月、そろそろ盆地特有のあの炎熱がやって来て、石榴の濃緑の葉が油光りして、そうしてその真紅の花が烈日を受けてかっと咲き、葡萄棚の青い小粒の実も、日ましにふくらみ、少しずつ重たげな長い総を形成しかけていた時に、にわかに甲府市中が騒然となった。攻撃が、中小都市に向けられ、甲府も、もうすぐ焼き払われる事にきまった、という噂が全市に満ちた。


 甲府の春から初夏へかけての季節感が巧みに描写されている。そして、甲府空襲の噂が広まってきたことを伝えている。その頃、長女は目を患い、病院に通っていた。このまま失明するのでないか太宰は不安になっていた。そのような日々を過ごすなかで、7月6日の夜、空襲が始まる。太宰はその時の様子をこう述べている。


 その夜、空襲警報と同時に、れいの爆音が大きく聞えて、たちまち四辺が明るくなった。焼夷弾攻撃がはじまったのだ。ガチャンガチャンと妹が縁先の小さい池に食器類を投入する音が聞えた。
 まさに、最悪の時期に襲来したのである。私は失明の子供を背負った。妻は下の男の子を背負い、共に敷蒲団一枚ずつかかえて走った。途中二、三度、路傍のどぶに退避し、十丁ほど行ってやっと田圃に出た。麦を刈り取ったばかりの畑に蒲団をしいて、腰をおろし、一息ついていたら、ざっと頭の真上から火の雨が降って来た。


 太宰たちは蒲団をかぶって畑に伏した。蒲団で火焔を押さえつけて消していった。夜が明けると、町外れの焼け残った国民学校の教室で休ませてもらった。太宰は妻と子を教室に置いて、妻の実家を見に出かけたが、屋敷は全焼していた。その日は義妹の学友の家で休ませてもらい、翌日は家の穴に埋めておいた品々を掘り出して大八車に積んで、妹の別の知人のところへ行った。

 甲府は、昭和20年7月6日の夜から7日の未明にかけて、アメリカ軍のB-29爆撃機131機に爆撃された。甲府市内は火の海となり、市街地の74%が焼き尽くされた。死者1127名、被害戸数18094戸という多大な犠牲があった。太宰が文化の綺麗に染み通るハイカラな街と書いた甲府の建物や街並のほとんどが、その一晩で失われてしまったのである。


 太宰夫妻は焼失した県立病院が郊外の建築物に移転したことを聞いて、長女を連れて行く。眼科医はこのままですぐに目は良くなると言った。それでも妻は注射を頼んだ。

 その後の様子を太宰はこう語っている。


 注射がきいたのか、どうか、或いは自然に治る時機になっていたのか、その病院にかよって二日目の午後に眼があいた。
 私はただやたらに、よかった、よかったを連発し、そうして早速、家の焼跡を見せにつれて行った。
「ね、お家が焼けちゃったろう?」
「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している。
「兎さんも、お靴も、小田桐さんのところも、茅野さんのところも、みんな焼けちゃったんだよ。」
「ああ、みんな焼けちゃったね。」と言って、やはり微笑している。


 題名の「薄明」は、この長女の視力が回復したことを表しているのだろうが、甲府空襲の夜から朝にかけての薄明の時の出来事を描こうともしたのだろう。また、戦後の昭和21年に発表された作品であることから、戦後が少しずつ薄明を迎えているという意味合いもあったかもしれない。


 「薄明」の〈「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している〉〈「ああ、みんな焼けちゃったね。」と言って、やはり微笑している〉という場面は、「新樹の言葉」の最後で内藤幸吉兄妹がかつての自分たちの家が燃えているのを微笑して見ている場面と似ている。話者の〈私〉青木大蔵はその微笑を〈たしかに、単純に、「微笑」であった〉と語っている。

 「新樹の言葉」を書いたのは昭和14年、「薄明」を書いたのは昭和21年。その間に戦争による空襲と火災があった。内藤兄妹は虚構の人物であり、太宰の長女は実在の人物である。内藤兄妹はすでに辛酸を舐めるいるが、長女はまだ五歳でまだ何も経験していない。微笑の意味合いは異なるが、それでも、太宰がこの二つの場面で微笑という表現を使っているのはとても興味深い。


 確かでな単純な「微笑」。戦前、戦中、戦後という激変の時代でこのような微笑を太宰治は希求していたのかもしれない。


2025年10月26日日曜日

甲府の名所や街の喫茶店-太宰治と甲府 4

 新田精治は「甲府のころ」(八雲書店版『太宰治全集』附録2 昭和23年9月)で、昭和13(1938)年から14(1939)年までの太宰との思い出について書いている。「富岳百景」に登場する富士吉田の青年〈新田〉は新田精治がモデルになっていると思われる。「富岳百景」を引用する。

新田といふ二十五歳の温厚な青年が、峠を降りきつた岳麓の吉田といふ細長い町の、郵便局につとめてゐて、そのひとが、郵便物に依つて、私がここに来てゐることを知つた、と言つて、峠の茶屋をたづねて来た。

〈新田〉が郵便局勤めで郵便物によって太宰治が天下茶屋にいることを知つたことは、おそらく「新樹の言葉」の郵便屋〈萩野〉の設定と行動に活かされているのだろう。


 新田は甲府で暮らし始めた太宰の家を何度か訪れた。その出来事を次のように回想している。

御崎町のお家は、空襲の時焼けてしまつたさうだけれど、御崎紳社の前あたりの小路を這入つて、一番奥まつた静かなお家だつた。『東京八景』に家賃六円五十銭と書かれてゐる、あのお家だつた。前にさゝやかな庭があり、花壇があつて、大きなバラがアーチみたいに植わつてゐた。陽当りのいゝ手頃なお住ひだつた。横手は桑畑で、街の騒音から遠く、一日ひつそりとしてゐた。御坂以来の静養で、御体の調子も好いらしく、指先なぞもう震へなかつた。(御坂に居られた頃は煙草を吸ふ時なぞ、幽かに指先が震へてゐた。)それに訪間客もなかつたので、僕等はお伺ひすると、湯村やら、武田神社やら遊び歩き、いつも終列車まで御邪魔した。『愛と美について』はこの頃書きためてをられた。

 現在、太宰の家の跡に「太宰治僑居跡」の石碑がある。そのすぐ近くに御崎紳社がある。西の方に歩くと二十分ほどで湯村温泉、北の方に歩くと二十五分ほどで武田信玄を祭神とする武田神社がある。太宰は昭和17年2月と翌年3月に湯村温泉の「旅館明治」に滞在して小説を書いた。この旅館は今年8月にリニューアルされて太宰治資料室も設けられた。

 太宰は青年たちを連れて甲府の名所や中心街を遊び歩いたようだ。『愛と美について』に収録された「新樹の言葉」にもその体験が反映されているだろう。


桜が咲く頃、お訪ねすると、「君等が来ると言ふんで、甲府で一番綺麗なこのゐるうちを探しといたんだよ」と言つて、岡島の横のトレビアンといふ小さな喫茶店に案内して呉れた。十七、八と二十二、三位の女の子が、二人ゐて、どちらも美人だつた。「しつかりやれよ。男はね、一生のうち一人だけ女を騙してもいゝんだよ」と先生は囁いた。併し僕も田邊君も仲々もてなかつた。暫らく飲むと先生はばかに陽気になつて、「ナタアリヤ握手しませう。ナタアリヤ、キスしませう」と女の子の手を握つたり肩を抱かうとしたり、ネチネチからかひ出した。他の客は不安さうに僕等を見るし、女の子は寄りつかなくなるし、もてないことおびたゞしく、さんざんのしゆびでトレビアンを出ると、「君等は、なんてもてないんだらう、吉田からわざわざ来て、あんなに飲んだつて、何の収穫もなかつたぢやねえか。新田と田邊とぢやあ、僕だけが、もてるにきまつてゐるから、わざといやがらせをやつて嫌はれたんだよ」とクツクツと例の大笑ひをされた。

 〈岡島〉は岡島百貨店。江戸時代後期から茶商、呉服商、両替商をしていた。昭和13年(1938)年9月、甲府の中心街に地上5階の大型店舗を建設し百貨店の営業を始めた。ちょうど太宰が甲府で暮らし始めた頃である。その横の〈トレビアン〉という小さな喫茶店のことも調べてみたのだが分からなかった。当時から岡島の周辺は賑やかで店がたくさんあった。〈田邊〉は「富岳百景」で〈短歌の上手な青年〉として登場している。

 この岡島百貨店の店舗は甲府空襲でも焼けずに残った。その後、改築や増築を繰り返して総合百貨店として山梨県民に親しまれてきたが、2023年2月で閉店し、建物が解体されることになった。現在は近くの商業ビルの三階分のフロアに入り、屋号も〈岡島百貨店〉から〈岡島〉へ改称し営業している。


市制祭の日、街を見て歩き、澤田屋の二階の喫茶店へ這入つた。その日は音楽の話で、「ベエトーベンの第五なんか最も芸術的なものだが、同時に最も通俗的なものだね、あれなら誰だつてわかる筈だ。今やつてゐるあゝいふ俗悪な曲と違ふ」併しその時ラヂオが、やつてゐた俗悪な曲といふのは、丁度第五だつた。「ありやあ、なんだらう、聴いたことが、ある様だねえ」と先生、「あの俗悪な曲が、先生第五ですよ」と僕。「なんだ、さうか」と例の大笑ひ。街を歩き過ぎて疲れ、僕はウトウトと居睡りをしてゐると、激しい調子で先生が、何か言つてゐる。コックが註文したコーヒーを忘れて了つて、いつ迄も持つて来ないのを叱つてゐるのだつた。「余り待たせるんで、疲れて睡つてゐるぢやあないか。可哀さうに、忘れたなんて、失敬な、もういゝよ、出よう、出よう」と澤田屋を出た。僕は恐縮しながら、先生の愛情を感じた。 



 〈澤田屋〉は甲府の和菓子製造の老舗として現在も営業している。黒糖の羊羹でうぐいす餡を包んだ「くろ玉」が有名だ。レトロあまい、とでも言えるような上品な甘みが特徴である。昭和4(1929)年の誕生以来、ほとんど変わらない製法でひとつひとつ手づくりをしているそうだ。ロングセラーのお土産でもある。

 澤田屋のHPに昭和9年頃の澤田屋の写真があったので、ここに掲載させていただく。説明文には〈1階は店舗、2階はレストラン、3階は和室。3階建てのビルは当時珍しかったが甲府空襲によって消失〉と記されている。太宰たちが行った〈澤田屋の二階の喫茶店〉はこの2階を指していると思われる。澤田屋には今もカフェが併設されている。




 太宰が新田や田邊を連れて甲府の中心街を歩き、岡島百貨店横の喫茶店や澤田屋二階の喫茶店に入り、コーヒーを飲んで愉快に話をして楽しく過ごした。僕と妻はシアターセントラルBe館で映画を見るときに、中心街の駐車場に車を駐めて、澤田屋の近くを歩いていくことがよくある。そのとき、太宰がここで青年たちと愉快な時を過ごしたことを想い出す。八十数年の時を隔てているが、甲府の街の同じ場所を歩くといろいろな想像が浮かんでくる。


2025年10月22日水曜日

津島美知子の証言-太宰治と甲府 3

 太宰夫人の津島美知子は、「御崎町から三鷹へ」(八雲書店版『太宰治全集』附録4 昭和23年12月)で、甲府での生活をこう振り返っている。  

 御崎町時代は、朝から午過まで机に向ひ、午後三時ごろからお酒が始まり、酔ひつぶれて倒れるまで飲んで、ときには、とくいの義太夫など出ることもあつた。「お俊伝兵衛」や、「壺坂」「朝顔日記」などがおはこだつた。それで、一月の酒屋の払ひは、二十円くらゐのものだつたから、安心だつた。

 朝から昼過ぎまでの執筆、一息ついて午後三時頃からの飲酒、そして「新樹の言葉」に書かれているように銭湯や豆腐屋に出かけたのだろう。小説を書くことと酒を飲むことが生活の中心にあった。


 このころ、二度、小旅行をした。八十八夜のころ、諏訪から、蓼科の方へまはつた。この時、上諏訪の宿では、酔つて、はめを外してしまつて、むやみに卓上電話を帳場にかけたり、テーブルクロースを汚して、弁償させられたりして失敗だつた。蓼科では、蛇がこはいといつてせつかくの風景をたのしむこともなかつた。大体、野外を歩くことや、樹木、風景などには、興味が無いやうに見えた。六月に、「黄金風景」の賞金五十円で、修善寺、三島の方へ遊んだ。このときは、失敗が無くて助かつた。三島では、なぜか興奮して、きり雨の中に、あやめの咲いてゐる古びた町を、お酒と甘い食物を、探して歩きまはつてゐた。

 新婚時代の二度の小旅行。諏訪と蓼科。修善寺と三島。羽目を外した出来事。太宰が自然の風景を〈たのしむこともなかつた〉〈興味が無いやうに見えた〉とあるが、確かに、太宰の小説には風景描写が少ない。今でも甲府から近くの県外の地に遊びに行く場合、長野の諏訪や松本、静岡の伊豆半島が候補となることが多い。昔も今も変わらない。


 「駈込み訴へ」は十四年の十二月、炬燵に当つて、盃を含み乍ら、全部口述して出来た。この年のものの中では、口述筆記のがかなり多い。「富岳百景」「女の決闘」「アルト・ハイデルベルヒ」のそれぞれ一部、「黄金風景」「兄たち」それからこの「駈込み訴へ」の全部である。太宰は、大てい、仕事にとりかかるまへ、腹案や書出しのきまるまでに手間がかかつたやうだ。「賢者の動かんとするや、必ず愚色あり。」といふのが、その折の口ぐせで、仕事にとりかかるまへ、いつも、さかんに愚色を発揮した。冗談めかしてゐるだけに、遊んでゐても傍のみる目には苦しげに、痛々しくみえた。机に向ふときは、頭のなかにもう、出来てゐた様子で、憑かれた人の如く、その面もちはまるで変つて、こはいものにみえた。「駈込み訴へ」のときも二度くらゐにわけて、口述し、淀みも、言ひ直しも無かつた。言つた通り筆記して、そのまゝ文章であつた。書きながら、私は畏れを感じた。

 津島美智子は太宰の口述筆記をしていた。「富岳百景」の一部もその中に含まれていることがこの文章で判明した。自分自身も登場人物となるこの作品を口述で筆記したときに、津島美智子の胸中にはどんな思いが去来したのだろうか。

 「駈込み訴へ」は〈言つた通り筆記して、そのまゝ文章であつた〉というのは貴重な証言である。

 最後に〈書きながら、私は畏れを感じた〉とあるが、この畏れのようなものが太宰の文学の本質につながるのだろう。


2025年10月19日日曜日

「九月十月十一月」-太宰治と甲府 2

 太宰治「新樹の言葉」冒頭の甲府賛歌。その原型となる文章がある。

 「国民新聞」1938(昭和13)年12月9日から11日まで三日間連載された「九月十月十一月」。〈(上)御坂で苦慮のこと〉〈(中) 御坂退却のこと〉に続いて〈(下) 甲府偵察のこと〉が書かれている。(中)の末尾では〈峠の下の甲府のまちに降りて來た〉〈工合がよかつたら甲府で、ずつと仕事をつづけるつもりなのである〉〈甲府の知り合ひの人にたのんで、下宿屋を見つけてもらつた〉と甲府で暮らし始めた経緯に触れている。


 太宰は〈私は、Gペン買ひに、まちへ出た〉と語り、「甲府偵察」に出かける。長くなるが、(下)の全文を引用したい。 (引用元:青空文庫


(下) 甲府偵察のこと

 きらきら光るGペンを、たくさん財布にいれて、それを懷に抱いて歩いてゐると、何だか自分が清潔で、若々しくて、氣持のいいものである。私は、Gペン買つてから、甲府のまちをぶらぶら歩いた。

 甲府は盆地である。いはば、すりばちの底の町である。四邊皆山である。まちを歩いて、ふと顏をあげると、山である。銀座通りといふ賑やかな美しいまちがある。堂々のデパアトもある。道玄坂歩いてゐる氣持である。けれども、ふと顏をあげると、山である。へんに悲しい。右へ行つても、左へ行つても、東へ行つても、西へ行つても、ふと顏をあげると、待ちかまへてゐたやうに山脈。すりばちの底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思へば、間違ひない。


 太宰の甲府偵察を甲府市民の目で検証してみたい。

〈銀座通りといふ賑やかな美しいまちがある。堂々のデパアトもある。道玄坂歩いてゐる氣持である〉とある。前回も書いたが、戦前、昭和前期までの甲府の街には、規模は小さいが綺麗でモダンな洋風建築も多く、従来の和風建築とも調和が取れた美しい街であったようだ。その洋風と和風の調和のある街並みは甲府空襲でほとんどすべて失われてしまった。もともと、甲府の中心街は甲府城の城下町の跡で発展していった。通りが南北に整備されているので今もその名残はある。戦前の甲府は地方都市としては相対的に人口も多く、活気もあった。

〈まちを歩いて、ふと顏をあげると、山である〉については、当然ではあるが、今も全くその通りである。視線の近くに建物があっても視線をその向こう側に向けると山々が見える。二千から三千メートル級の高い山々が東西南北に連なり、視界を囲んでいる感じがある。良くいえば包まれ感というか安定感があるのだが、悪くいえば窮屈で鬱陶しいかもしれない。


 裏通りを選んで歸つた。甲府は、日ざしの強いまちである。道路に落ちる家々の軒の日影が、くつきり黒い。家の軒は一樣に低く、城下まちの落ちつきはある。表通りのデパアトよりも、こんな裏まちに、甲府の文化を感ずるのである。この落ちつきは、ただものでない。爛熟し、頽廢し、さうしてさびた揚句の果が、こんな閑寂にたどりついたので、私は、かへつて、このせまい裏路に、都大路を感ずるのである。ふと、豆腐屋の硝子戸に寫る私の姿も、なんと、維新の志士のやうに見えた。志士にちがひは、ないのである。追ひつめられた志士、いまは甲府の安宿に身を寄せて、ひそかに再擧をはかつてゐる。


〈甲府は、日ざしの強いまちである〉という箇所は甲府市民の実感にとても合致している。太宰の甲府探索は11月頃であるから晩秋から初冬の日差しである。夏の甲府盆地の酷暑はよく知られている。夏は強烈な日差しにおおわれるが、冬の日差しもけっこう強い。冬の甲府は気温がかなり低くなるが、光の強さは春や夏を思わせるときがある。太宰の観察眼は鋭い。

〈裏まちに、甲府の文化を感ずる〉〈この落ちつきは、ただものでない〉〈爛熟し、頽廢し、さうしてさびた揚句の果が、こんな閑寂にたどりついた〉という指摘は、甲府市民では感じ取ることができないものであろう。〈爛熟〉〈頽廢〉〈さびた〉揚句の果ての〈閑寂〉という感覚は、今の甲府の裏町には感じられないというのが正直なところではあるが、なんとなくほんの少しだけ分からないこともない、とも言える。江戸時代、甲府で流行った芝居は江戸でも流行ると言われていた。山梨は徳川幕府の直轄領であり、甲府城の周辺には甲府勤番の武士が住んでいた。芝居を見る目が優れた人が甲府には多いという定評があった。そのような文化の痕跡が街の表や裏に残っていたのかもしれない。太宰治という外部の視線からの甲府の裏町のこの特徴を記憶にとどめておきたい。

 さらに、〈豆腐屋の硝子戸〉に写った自分の姿が〈維新の志士〉のように太宰には見えてくる。〈追ひつめられた志士〉に自分を重ね合わせ、〈甲府の安宿に身を寄せて、ひそかに再擧をはかつてゐる〉と決意するのは、この時の太宰治の心境をよく表している。太宰にとって甲府は再起の再出発の場所であった。


 甲州を、私の勉強の土地として紹介して下さつたのは、井伏鱒二氏である。井伏氏は、早くから甲州を愛し、その紀行、紹介の文も多いやうである。今さら私の惡文で、とやかく書く用はないのである。それを思へば、甲州のことは、書きたくない。私は井伏氏の文章を尊敬してゐるゆゑに、いつそう書きにくい。

 ひそかに勉強をするには、成程いい土地のやうである。つまり、當りまへのまちだからである。強烈な地方色がない。土地の言葉も、東京の言葉と、あまりちがはないやうである。妙に安心させるまちである。けれども、下宿の部屋で、ひとりぽつんと坐つてみてやつぱり東京にゐるやうな氣がしない。日ざしが強いせゐであらうか。汽車の汽笛が、時折かすかに聞えて來るせゐかも知れない。どうしても、これは維新の志士、傷療養の土地の感じである。

 井伏氏は、甲府のまちを歩いて、どんなことを見つけたであらうか。いつか、ゆつくりお聞きしよう。井伏氏のことだから、きつと私などの氣のつかぬ、こまかいこまかいことを發見して居られるにちがひない。私の見つけるものは、お恥かしいほど大ざつぱである。甲府は、四邊山。日影が濃い。いやなのは水晶屋。私は、水晶の飾り物を、むかしから好かない。


 この箇所では、井伏鱒二が甲府との縁を作ってくれたことに触れている。そして、甲府が〈ひそかに勉強をするには、成程いい土地〉だと思った理由を〈當りまへのまち〉〈強烈な地方色がない〉〈土地の言葉も、東京の言葉と、あまりちがはないやうである〉と述べている。

 この三つの点は的確である。甲府は地方としてはごく普通の街である。〈強烈な地方色がない〉というのもその通りであろう。地理的に東京に比較的近く、江戸時代は幕府直轄領であり、東京の文化との接点もかなりあったことから、地方文化的な強い特色をあまり持っていない。また、甲府の方言、甲州弁は関東弁に近い。(東京の言葉よりは全体的に語気が強くて荒々しい。独自の語彙や言い回しがあるなどのが違いはあるが)この三つの理由から〈妙に安心させるまちである〉と太宰は結論づけている。東京での破綻した生活と行き詰まった作風から脱して再起を期すのに、甲府は適した街だったのだろう。安心して新婚生活と作家生活に入ることが何よりも大切であった。


 「甲府偵察のこと」では甲府を〈すりばちの底に、小さい小さい旗を立てた〉と表しているが、「新樹の言葉」ではその表現は〈当たってない〉として、甲府は〈もっとハイカラである〉ことから、〈シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた〉〈まち〉という洒落た比喩を使って表現している。〈すりばちの底〉から〈シルクハット〉の〈帽子の底〉への変化には、太宰の甲府に対する愛情のようなものがうかがえる。甲府在住の石原美智子との結婚、作家としての再出発を期した場所という背景は大きいが、太宰が甲府をかなり気に入ったことは間違いないだろう。

 太宰治にとって甲府は、文化が綺麗に染み通る〈ハイカラ〉な街であった。〈落ちつき〉のある〈妙に安心させる〉街でもあった。ちょっとくすぐったいような気持ちもあるのだが、甲府市民としてはそのことを嬉しく思う。

2025年10月15日水曜日

「新樹の言葉」-太宰治と甲府 1

 11月3日の〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉を前にして、〈太宰治と甲府〉というテーマで五回ほど連載記事を書きたい。

 第一回目は「新樹の言葉」を取り上げたい。1939(昭和14)年5月、『愛と美について』(竹村書房)に収録されて発表された。前年の1938(昭和13)年9月から太宰は御坂峠の天下茶屋で仕事をしていた。寒さが厳しくなったので11月に御坂峠を降りて、甲府市竪町の壽館という下宿で暮らし始める。翌年1月、石原美智子と結婚し、御崎町に居を構えた。

 冒頭部分、甲府賛歌と呼べるところを引用したい。 (引用元:青空文庫


 甲府は盆地である。四辺、皆、山である。小学生のころ、地理ではじめて、盆地という言葉に接して、訓導からさまざまに説明していただいたが、どうしても、その実景を、想像してみることができなかった。甲府へ来て見て、はじめて、なるほどと合点できた。大きい大きい沼を掻乾して、その沼の底に、畑を作り家を建てると、それが盆地だ。もっとも甲府盆地くらいの大きい盆地を創るには、周囲五、六十里もあるひろい湖水を掻乾しなければならぬ。

 沼の底、なぞというと、甲府もなんだか陰気なまちのように思われるだろうが、事実は、派手に、小さく、活気のあるまちである。よく人は、甲府を、「擂鉢の底」と評しているが、当っていない。甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである。


 甲府は〈派手に、小さく、活気のあるまち〉〈ハイカラ〉であると記されている。歴史研究者によると、戦前、空襲で焼けて廃墟となる以前の甲府の中心街には、和風の建物とともに洋風の綺麗な建築が立ち並んでいた。地方としてはそれなりにモダンな街だったようだ。だから〈シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた〉まちが甲府だという洒落た比喩は、戦前の甲府を的確に表現していると考えてよい。〈きれいに文化の、しみとおっているまち〉も、あながち過剰なほめ言葉でもないだろう。残念ながら、戦後の甲府の方が特色のない街になってしまった。


 「新樹の言葉」の語り手〈私〉は〈青木大蔵〉という名の作家であり、太宰治の分身的存在である。〈私〉の乳兄弟の〈内藤幸吉〉、幸吉の妹、光吉の親友である郵便屋の萩野の三人が登場して物語が展開していく。

 物語の冒頭で郵便屋が〈私〉を訪れ、〈「あなたは、青木大蔵さん。そうですね。」「内藤幸吉さんを。ご存じでしょう?」「あなたは幸吉さんの兄さんです。」〉と謎めいた言葉を投げかける。〈私〉は〈白日夢〉を見るようであった。〈銭湯まで一走り。湯槽ゆぶねに、からだを沈ませて、ゆっくり考えてみる〉と〈不愉快〉になってきて〈むかむかする〉。〈私〉はこう思う。

東京での、いろいろの恐怖を避けて、甲府へこっそりやって来て、誰にも住所を知らせず、やや、落ちついて少しずつ貧しい仕事をすすめて、このごろ、どうやら仕事の調子も出て来て、ほのかに嬉しく思っていたのに、これはまた、思いも設けぬ災難である。〔……〕

 〈私〉が風呂から上がって脱衣場の鏡に自分の顔を写してみると〈いやな兇悪な顔〉をしていた。〈私〉の過去が押し寄せてくるように感じる。

不安でもある。きょうのこの、思わぬできごとのために、私の生涯が、またまた、逆転、てひどい、どん底に落ちるのではないか、と過去の悲惨も思い出され、こんな、降ってわいた難題、たしかに、これは難題である、その笑えない、ばかばかしい限りの難題を持てあまして、とうとう気持が、けわしくなってしまって、宿へかえってからも、無意味に、書きかけの原稿用紙を、ばりばり破って、そのうちに、この災難に甘えたい卑劣な根性も、頭をもたげて来て、こんなに不愉快で、仕事なんてできるものか、など申しわけみたいに呟いて、押入れから甲州産の白葡萄酒の一升瓶をとり出し、茶呑茶碗で、がぶがぶのんで、酔って来たので蒲団ひいて寝てしまった。これも、なかなか、ばかな男である。

 新しく歩み出そうとした人生が再び過去の〈どん底〉に落ち、〈悲惨〉へと再び逆転するという不安に〈私〉はとらわれている。これが「新樹の言葉」の底流にあるモチーフである。その不安を打ち消すために〈甲州産の白葡萄酒の一升瓶〉を飲んで寝てしまう。〈なかなか、ばかな男〉だという自虐もある。〈私〉の不安や自虐がどのように変化していくのか。それが物語のテーマとなっていく。

 この場面の〈銭湯〉のモデルは、太宰治がよく通っていた喜久乃湯温泉である。昭和元年創業で現在も営業しているこの温泉銭湯は甲府の朝日町にある。今年六月、甲府遺産に選定された。太宰ファンが訪れることでも知られている。また、一升瓶の葡萄酒はこの地では今でも飲まれている。「新樹の言葉」のディテールはリアルな甲府を感じさせる。この後の展開はぜひこの作品を読んでいただきたい。青空文庫にも入っている。少しだけ触れるなら、甲府中心街の桜町や柳町界隈、岡島百貨店と思われるデパートなどが舞台となってくる。舞鶴城跡の上の広場で〈私〉が内藤兄妹に心の中で語りかける。この場面を最後にして、この物語は閉じられる。


 太宰治は後にこう述べている。

 「新樹の言葉」は、昭和十四年に書いた。からだも丈夫になつた。すべて新しく出発し直さうと思つて書いた。言ふは易く、実証はなかなか困難の様子である。

 この言葉にあるように、太宰は甲府で生活と文学の両面で新しく出発しようとした。過去へと逆転してしまう不安からの解放。自己と他者を信じること。その勇気を持つこと。

 その強い決意が名作「走れメロス」とつながっていく。もちろん、作家本人が言うように〈言ふは易く、実証はなかなか困難〉であるのだが。


2025年10月12日日曜日

9月の甲府Be館 『早乙女カナコの場合は』『この夏の星を見る』『タンデム・ロード』『ふつうの子ども』

9月の甲府シアターセントラルBe館の上映作はバラエティに富んでいた。四つの映画について少しだけ語りたい。


早乙女カナコの場合は


 監督は山梨出身で在住の矢崎仁司。柚木麻子の小説「早稲女、女、男」の映画化。自意識過剰な早乙女カナコ(橋本愛)と脚本家志望の長津田啓士(中川大志)の大学での出会いから社会人へと至る十年間の恋愛模様を描く。過剰なものを抱えながらそれを持て余している二人は、似た者同士ゆえに惹かれ合いながらもときに衝突する。関係が近くなったり遠くなったりの繰り返し。よくある学生時代から社会人までの変化や成長の物語のように受け取られるかもしれないが、異才の矢崎監督らしくそういう定型には陥らない。橋本愛の演技が秀逸であり、特にラストシーンが素晴らしい。観客に何かを問いかける。
 上映後に監督のトークとサイン会があった。僕は「三月のライオン」(1992年)を見て、その繊細な映像と独自な演出に感銘を受けた。彼が山梨県の鰍沢町生まれと知って親しみも覚えた。それ以来矢崎作品はすべて見ているが、この「早乙女カナコの場合は」はこれまでの作風からかなり自由になり、人間が生き生きと描かれている。矢崎仁司監督の代表作になると感じた。サイン会でそんなことを少しだけ話すことができた。矢崎監督が穏やかな優しい表情をしていたことが印象に残った。後日、この映画のことを再び書いてみたい。

この夏の星を見る


 山梨県出身の直木賞作家辻村深月の同名小説を山元環監督が映画化した。2020年、コロナ禍のなかで茨城の高校の天文部の溪本亜紗(桜田ひより)が提案して、長崎の五島列島や東京都心の高校生とスターキャッチ」という天体観測のコンテストをオンラインで実施する。桜田ひよりの強い眼差しに惹かれた。星空の画像や天空の風景が美しかった。「最高で、2度と来ないでほしい夏。」というキャッチコピーがこの映画の世界を端的に述べている。
 小中学生の頃は天文少年だったので、その頃に見た月や星のことを久しぶりに思い出した。甲府の夜空は今よりずっと綺麗だった。この映画を見てもう一度天体望遠鏡で宇宙を眺めたくなる。


タンデム・ロード


 監督の滑川将人(ナメさん)とパートナーの長谷川亜由美(アユミ)がBMWのバイク1台で世界一周を目指した旅を自分たちで撮影したドキュメンタリー映画。30カ国、427日間、走行距離約6万キロの行程の記録である。映像には土地の人々との心温まる交流、美しい風景、事故や故障などの様々なトラブル、アユミの疲労や葛藤が映し出される。逆に、映像に映らなかった場面についてあれこれと想像してしまった。見ているうちにここ数年の映像ではないことに気づく。特に説明はなかったのだが2013年の撮影のようだ。最後の方で現在のアユミとその子供たちの姿が映る。十二年ほどかけてこの映画は完成されたことになる。
 ポルトガルのロカ岬など、昔訪れたことのある場所の光景が懐かしかった。コロナ以降、一度も海外に出かけたことはないが、再び旅をしてみたい気持ちになった。


ふつうの子ども


 子供を描いた映画の中で稀に見る傑作だと断言したい。監督・呉美保、脚本・高田亮。小学4年生、十歳の上田唯士(嶋田鉄太)、環境問題に高い関心を持つ三宅心愛(瑠璃)、問題児の橋本陽斗(味元耀大)の三人が大騒動を起こす。唯士は心愛を、心愛は陽斗を好きという間柄が背景にある。嶋田鉄太の演技が素晴らしい。ふつうではない力量のある子どもがふつうの子どもを演じている。唯士の母恵子(蒼井優)と心愛の母冬(瀧内公美)も好演している。
 現在の子供たちが子供なりに向き合わねばならない〈行き詰まり〉の感覚が的確に描かれている。この難しい時代を〈ふつうの子ども〉たちはどう乗り越えていくのだろうか。


 『早乙女カナコの場合は』『この夏の星を見る』『タンデム・ロード』『ふつうの子ども』。9月はこの四つの作品によって、小中学生や大学生の頃、旅した時へと、時間を遡ることができた。映画を見る私たちはいつも時間を旅している。


2025年10月7日火曜日

十月の金木犀 [志村正彦LN372]

 今朝、仕事に出かけようと玄関を開けて車に向かった瞬間、全身があの甘い香りに包まれた。記憶のなかの金木犀の香りに間違いない。やっと金木犀の季節が到来したのだ。


 毎年、9月の下旬になるといつ金木犀の香りが漂うのか気になって仕方がない。あたかも〈世の中にたえて金木犀のなかりせば秋の心はのどけからまし〉といった心境なのだ。 気温が下がることによって金木犀は開花する。ところが、今年は九月になっても夏のような気候が続いた。志村正彦は「赤黄色の金木犀」で〈冷夏が続いたせいか今年は/なんだか時が進むのが早い〉と歌った。確かに冷夏が続くと夏が短く感じられ時の速度も早くなるような気がする。6月、7月から8月、9月まで非常に暑い日々が連続した今年の夏はとても長く感じられた。時の速度もゆっくりとしていた。まるで永遠に夏が終わらないようでもあった。


 このブログでは毎年のようにこの時期に金木犀の報告をしてきた。2022年には〈毎年、甲府盆地では9月の26日か27日頃に香り始める〉と書いてある。しかし、2023年は10月15日の日付で〈数日前から、金木犀が香りだした。今年は遅い〉とあり、10月10日頃だったようだ。2024年は10月17日の日付で〈一昨日から、家の周りからあの特別な香りが微かに漂い始めた。例年より二十日以上遅いことになる〉とあるので、10月15日だった。今日は10月7日。ということは去年よりも一週間ほど早かったことにはなる。

 2023年、2024年、2025年と三年続きで10月の第一週から第二週にかけて開花しだしたのは、実感としてはやはり、夏の季節が長く続き、秋の到来が従来より遅くなっているからであろう。


 金木犀が香り始めた今日、志村正彦・フジファブリックの「赤黄色の金木犀」ミュージックビデオ(YouTube フジファブリック Official Channel)と歌詞の全部を紹介したい。




  「赤黄色の金木犀」 (作詞・作曲:志村正彦)



  もしも 過ぎ去りしあなたに
  全て 伝えられるのならば
  それは 叶えられないとしても
  心の中 準備をしていた

  冷夏が続いたせいか今年は
  なんだか時が進むのが早い
  僕は残りの月にする事を
  決めて歩くスピードを上げた

  赤黄色の金木犀の香りがして
  たまらなくなって
  何故か無駄に胸が
  騒いでしまう帰り道

  期待外れな程
  感傷的にはなりきれず
  目を閉じるたびに
  あの日の言葉が消えてゆく

  いつの間にか地面に映った
  影が伸びて解らなくなった
  赤黄色の金木犀の香りがして
  たまらなくなって
  何故か無駄に胸が
  騒いでしまう帰り道


 大学で担当している「日本語スキル」という科目は読解力・思考力・表現力を育成するものだが、後期開始の9月下旬の授業ではここ数年「赤黄色の金木犀」を取り上げている。日本語の詩的表現について考えるためだ。今年も先週行ったが、その際の学生の感想を記したい。


  • 私は金木犀が大好きなので、最初に映し出された時にどんな歌だろうと思ったが、実際に聴いて歌詞を見てみて、志村さんの作詞能力がどれほど優れていたかが伝わった。
  • 「赤黄色の金木犀」は最初と最後が切ない感じでしたが中盤が盛り上がっていてアップダウンが激しい曲だと思いました。
  • 時間が過ぎるのが早く焦り始める気持ちが、今の私と重なる部分がある。
  • 志村正彦さんの作詞力とメロディの乗せ方が上手で、その時代に生きていたかったと思うとともにその才能が存分に発揮されなかったことが非常に悔やまれるなと思った。


 志村正彦の優れた作詞能力、最初・最後・中盤のテンポ、時間と焦りの感覚についての的確な指摘があった。最後の学生は〈その才能が存分に発揮されなかったことが非常に悔やまれる〉と述べている。志村がその短い生涯で才能を十分に発揮したことは言うまでもないが、この学生が言いたかったことはおそらく、志村が今も存命であればその才能をさらに発揮して素晴らしい作品を創造したが、それが現実として叶えられなかったことに対する〈非常に悔やまれる〉想いを伝えたかったのだろう。同じような想いを私も抱いている。


 毎年、この秋の季節に「赤黄色の金木犀」の歌を聴くと、たまらなくなって、何故か無駄に胸が、騒いでしまう。


2025年10月5日日曜日

飯田蛇笏・飯田龍太文学碑碑前祭/「若者のすべて」を詠む短歌 [志村正彦LN371]

  一昨日10月3日は、山梨出身で近代俳句を代表する俳人、飯田蛇笏の命日だった。この日、甲府の「芸術の森公園」で「飯田蛇笏・飯田龍太文学碑碑前祭」が開かれた。蛇笏の孫、龍太の息子である飯田秀實氏が理事長を務める「山廬文化振興会」が主催する会で、今年で十一回目を数える。蛇笏、龍太の碑のそれぞれに居宅だった「山廬」で摘まれた花が供えられた。

 この日のための「碑前祭句会」には国内外から566句の応募があり、最高賞の「真竹賞」には仲沢和子さん(山梨県北杜市)の「雲の峰父子それぞれの文学碑」が選ばれた。応募されたすべての句は冊子に閉じられて文学碑に献句され、俳人の瀧澤和治氏と井上康明氏がおのおの二人を偲ぶ話をされた。関係者や受賞者など60人ほどの参加者が飯田蛇笏と飯田龍太を追悼する特別な場であり、貴重な時間であった。

 

 「山梨県立文学館」の研修室での授賞式の後、私が「飯田蛇笏と芥川龍之介」という題で五十分ほどの講話を行った。飯田秀實理事長からの原稿依頼をいただいて、ここ一年半ほどの間、山廬文化振興会の会報「山廬」に四回に渡って「蛇笏と龍之介」という批評的エッセイを書いてきた。その原稿を元にしてスライドを作成して、二人の交流の軌跡を六つの観点を設定して振り返った。

  芥川龍之介は「ホトトギス」大正7年8月号の雑詠欄に「我鬼」の俳号で「鍼條に似て蝶の舌暑さかな」他一句を投句し、蛇笏が「雲母」大正8年7月号で「我鬼」が龍之介と知らないまま「鍼條に」句を「無名の俳人によって力作さるる逸品」と評価したことを契機として、二人の交流が始まる。手紙のやりとりや書籍・雑誌の贈答を通じてのものだったが、この二人には深いつながりやきずながあった。このテーマについては今後このブログでも書いてみたい。


 * * *


 〈甲府 文と芸の会〉を結成したこともあり、最近は地元の「山梨日日新聞」の短歌・俳句・川柳・詩の投稿欄を読むことを楽しみにしている。ほとんどが山梨県内の愛好者からの投稿であり、山梨の風景や生活に根ざした作品が多い。生活者の眼差しからの言葉に感銘を受けることや学ぶことが少なくない。毎週日曜日に掲載されるので、今日10月5日の朝、投稿欄に目を通すと、選者の歌人三枝浩樹氏に佳作として選ばれたある短歌に目が釘付けになった。


○「若者のすべて」が流れる夕暮れは若者だった頃を思いて   北杜 坂本千津子

 

 三枝氏は選評でこう述べている。


富士吉田市出身のフジファブリック、代表曲の「若者のすべて」の流れる夕暮れ。その歌に耳を澄まして「若者だった頃を」しみじみと想起する坂本さん。名曲は時代を超えて、かく人の心に甦る。


 三枝氏の選評がこの短歌のすべてを的確に語っているので、専門家でもない僕が付言することはないのだが、一つだけ触れるならば、志村正彦・フジファブリックの「若者のすべて」が短歌の中にこのように詠み込まれ、深い感慨を覚えたことである。山梨県北杜市在住の作者坂本千津子さんは「若者だった頃を思いて」とあるので、ある程度の年齢の方だと推測する。年齢や世代を超えたこの歌の広がりを感じる。

 実際、7月の「若者のすべて」と12月の「茜色の夕日」が富士吉田の夕方の防災無線で流れることはほとんど毎回、地元のNHK、YBS山梨放送、UTYテレビ山梨のニュースで放送され、山梨日日新聞に掲載される。山梨県民のかなり多くの方(ほとんどすべて、と言ってもよいくらいに)が志村正彦とその歌の存在を知っている。


 三枝浩樹氏の「名曲は時代を超えて、かく人の心に甦る」という言葉を記憶しておきたい。

 この「かく」はこの歌を聴いたすべての人のおのおのの心のなかにある。時の流れのなかにあるもの、大切なかけがえのない何かを、それぞれの姿で蘇らせる力が「若者のすべて」にはあるのだろう。


2025年10月4日土曜日

11月3日公演の申込者数(10/4 現在)

今日 10/4 現在、 〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉の申込者は、81名になりました。お申し込みいただいた方には感謝を申し上げます。

残席が少なくなってきましたので、参加希望の方はお早めにお申し込みください。

2025年9月25日木曜日

11月3日公演の〈申込フォーム〉設置

11月3日(月・祝日)、こうふ亀屋座で開催される〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉の〈申込フォーム〉をこのブログのトップページに設けました。

この〈申込フォーム〉から一回につき一名のみお申し込みできます。記入欄の三つの枠に、 ①名前欄に〈氏名〉  ②メール欄に〈電子メールアドレス〉  ③メッセージ欄に〈11月3日公演〉とそれぞれ記入して、送信ボタンをクリックしてください。三つの枠のすべてに記入しないと送信できません。特に、メッセージ欄へ何も記入しないと送信できませんのでご注意ください。(その他、ご要望やご質問がある場合はメッセージ欄にご記入ください)

申し込み後3日以内に受付完了(参加確定)のメールを送信しますので、メールアドレスはお間違いのないようにお願いします。3日経ってもこちらからの返信がない場合は、再度、申込フォームの「メッセージ欄」にその旨を書いて送ってください。

*メールアドレスをお持ちでない方はチラシ画像に記載の番号へ電話でお申し込みください。 

*先着90名ですので、ご希望の方はお早めにお申し込みください。よろしくお願いいたします。

2025年9月17日水曜日

11月3日公演情報、「こうふ亀屋座」HPに掲載

 本日9月17日、「こうふ亀屋座」のホームページの「お知らせ・イベント」欄に、 

【2025.11.3】太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会

 の情報とフライヤー画像が掲載されました。

 青字の部分をクリックするとHPが開きます。

「こうふ亀屋座」の御担当者様、どうもありがとうございました。

2025年9月11日木曜日

11月3日(月・祝日)こうふ亀屋座、〈太宰治「新樹の言葉」「走れメロス」講座・朗読・芝居の会〉開催

 11月3日(月・祝日、文化の日)の午後2時から「こうふ亀屋座」で、〈甲府 文と芸の会〉の第1回公演〈太宰治「新樹の言葉」「走れメロス」の講座・朗読・芝居の会〉を開催します。

 〈甲府 文と芸の会〉は、甲府や山梨に関わる小説や詩歌などの〈文〉の講座や演劇・音楽・映画などの〈芸〉のイベントを行うために設立しました。第1回目のテーマは、甲府ゆかりの作家太宰治の小説「新樹の言葉」と「走れメロス」です。このブログでイベントの詳細の説明や申込の受付をします。

 

 太宰治は、1938(昭和13)年の十一月から甲府に住み始めました。翌年一月に甲府の女性石原美智子と結婚して新婚生活を送ります。五月刊行の小説集『愛と美について』に収録された「新樹の言葉」は、甲府の中心街や舞鶴城跡を舞台とする作品です。

 九月、作家としての仕事のために東京の三鷹へ転居しました。翌年五月に代表作「走れメロス」を発表しました。

 「新樹の言葉」と「走れメロス」は、ストーリーは全く異なりますが、登場人物の造形や関係が類似しています。太宰の分身ともいえる存在が、兄・妹・親友という三人の若者の真摯に生きる姿に感銘を覚えて、自らの生き方を変え、再生への道を歩もうとします。

 この公演ではミニ講座・作品朗読・独り芝居の三つのプログラムによって、甲府時代の太宰治を浮き彫りにします。以下、その概要をお知らせします。


日時:2025年11月3日(月、文化の日)
    開場13:30 開演14:00 終演予定 15:30
会場:こうふ亀屋座 (甲府市丸の内1丁目11-5)  
内容:
Ⅰ部 講座・朗読 「新樹の言葉」と「走れメロス」
 講師 小林一之(文学研究[芥川龍之介・山梨ゆかりの作家] 山梨英和大学特任教授)
 朗読 エイコ(有馬眞胤の芝居に津軽三味線で合いの手を入れる活動を中心に朗読や篠笛      も行う)
Ⅱ部 独り芝居 「走れメロス」 
 俳優 有馬眞胤(劇団四季出身。舞台を中心に活動し、蜷川幸雄演出作品に20年間参加した。2005年より文学作品をすべて覚えて独りで演じる「有馬銅鑼魔」の公演を続けている)
 下座(三味線) エイコ

主催:甲府 文と芸の会
料金:無料(事前の申込みが必要です。9月25日から受付を開始します。先着90人)

 *9月25日(木)からこの〈偶景web〉内に申込フォームを設置します
 *先着90人ですので、ご希望の方は早めにお申し込みください
  よろしくお願いいたします。



〈甲府 文と芸の会〉の公式ブログはこの〈偶景web〉 https://guukei.blogspot.com です。



2025年9月8日月曜日

『太陽(ティダ)の運命』佐古忠彦監督/山梨と沖縄

 8月31日、シアターセントラルBe館で佐古忠彦監督の映画『太陽(ティダ)の運命』を見た。この日は佐古監督の舞台挨拶もあった。今日は昨日に続いて、佐古監督の舞台挨拶を含め、この映画について書きたい。


 佐古監督はTBSの元キャスターだからご存じの方が多いだろう。現在は映画監督として、沖縄の歴史と現実をテーマとする『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』(2017年)、『米軍が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』(2019年)、『生きろ 島田叡-戦中最後の沖縄県知事』(2021年)と今回の『太陽(ティダ)の運命』(2025年)の四本の映画を制作してきた。まず、予告編を添付する。


 

 この日の観客は30名ほどでいつもよりかなり多かった。上映後、監督がこの作品について語った。RBC琉球放送の資料室で30年間の映像を見て、映画に使う箇所を探していったそうだ。ニュース映像自体は短く断片的でもあるので、その基になった素材映像を見つけるのも大変なことだっただろう。Be館で語ったことを正確に再現できないので、その三日前に地元のUTYテレビ山梨で放送されたインタビューの記事を紹介したい。


「反目しあっていた2人が長い時を経て、結果同じ道を歩んでいく、そこを紐解くことが、実は沖縄の歴史を見ることにもなり、この国が沖縄に対してどう相対してきたのかの答えがある」

「民主主義だと言って常に少数派の上に多数派があぐらを書き続けている状態が果たして民主的といえるのかどうか、多数派こそが実は考えなければいけない事象がここにあるのではないか」

「複雑な感情を抱えながら人間が物事を動かしてきた歴史だと強く感じる。どんな人間ドラマがあったのか、そこにぜひ注目してほしい。その先にあるのが沖縄という場所であり、丸ごと日本の歴史だというところをぜひ伝えたい」


 佐古監督が沖縄そして日本の歴史や社会、政治の現実をドキュメンタリー映画で一貫して追究している。沖縄と本土、地方自治と国家、日本とアメリカ、民主主義の少数派と多数派という関係のあり方を鋭く問いかける。イデオロギーではなく、人物の生き方を通じて問い続けているところが優れている。

 監督の舞台挨拶の後、パンフレットのサイン会があり、僕もサインしていただいた。その時少し言葉を交わすことができた。穏やかな視線と物腰の柔らかい姿が印象的だった。


 沖縄と山梨にもいろいろな関わりがある。

 戦後、1945年から米軍は富士北麓(富士吉田市と山中湖村)にある「北富士演習場」に常駐していたが、1956年、その大部分が沖縄に移った。その11年の間、現在の沖縄と同様の事件や事故が起きたことを地元紙の山梨日日新聞社の取材班が「Fujiと沖縄」という連載記事で綿密に報道した(2022年1~6月新聞連載、2023年6月書籍『Fujiと沖縄』刊行[山梨日日新聞社]、第22回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞)。つまり、富士北麓の困難や混乱を結果として沖縄に押しつけたことになる。このような事実に無知であった僕は衝撃を受けた。また、北杜市出身の八巻太一は沖縄各地で教員を務め、退職後に私財を投じて私立沖縄昭和女学校を設立し商業教育を推進したことも「Fujiと沖縄」の記事から詳しく知ることができた。

 音楽でも深いつながりがある。

  甲府育ちの評論家竹中労は、『美空ひばり』や『ビートルズ・レポート』など音楽に関する著書が多いが、70年代初頭から琉歌沖縄民謡のレコードをプロデュースし、コンサートも企画して、嘉手苅林昌を始めとする「島唄」を紹介した功績は大きい。また何といっても、甲府出身の宮沢和史・THE BOOMの「島唄」が挙げられる。1992年1月のアルバム『思春期』で発表され、1993年6月シングルとして発売されて大ヒットとなった。この歌によって沖縄戦に関心を持った人は数知れないだろう。リリースから三十数年が経つが、この歌の影響力は非常に強い。


 8月にBe館で見た『マリウポリの20日間』と『太陽(ティダ)の運命』は、ニュースの取材記者や番組のキャスターであるジャーナリストが監督した。ドキュメンタリー映画の持つ、映像の力、時間を記録する力の可能性を強く感じた。『木の上の軍隊』は劇映画だが、実話を元にしているのでドキュメンタリー的な要素があり、そのことが作品に力を吹き込んでいた。

 Be館の小野社長とも少し話ができたが、この8月に『マリウポリの20日間』『木の上の軍隊』『太陽(ティダ)の運命』という作品を上映したのは、やはり戦後80年を意識しての計画だったそうだ。このような企画をするミニシアターが地方にあることには大きな意義がある。

 この映画はBe館では11(木)まで上映している。その他の地域でもまだ上映中の館もある。今後配信されることがあるかもしれないので、機会があったらぜひご覧いただきたい。



2025年9月7日日曜日

8月の甲府Be館 『マリウポリの20日間』『バッド・ジーニアス』『木の上の軍隊』『太陽(ティダ)の運命』

 8月は甲府のシアターセントラルBe館で四本の映画を見た。これらの作品について少し振り返りたい。


   『マリウポリの20日間』


 ロシアがウクライナに侵攻してからマリウポリが壊滅するまでの20日間を記録したドキュメンタリー映画。ミスティスラフ・チェルノフ監督。この映画を見ていると、記憶の中にある、2022年2月の侵攻開始直後にテレビのニュース番組で放送されたAP通信の映像がいくつも使われていた。あの当時はこの映像がどのようにして撮影されたのか全く分からなかったが、この映画は撮影の過程や経緯を教えてくれた。そして、取材班のたぐいまれな使命感や勇気、緊張感や苦悩をあますところなく伝えている。いきなり侵攻が始まり日常が崩壊していく。爆弾が破裂して家や病棟が破壊されていく。その惨状にも関わらず、状況がよくつかめない。不安と絶望が広がる。死者が増えていく。直視することができない凄惨な映像が続くが、私たちが知らなければならない現実である。

 ウクライナ人の記者チェルノフたちの取材班は、やがて、ウクライナ軍の援護によってマリウポリから決死の脱出を図る。そのような過程を経て世界に配信された映像が日本のニュース番組でも見ることができた。それらの映像を元にして作成されたのがこの映画である。2024年、第96回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞を受賞し、ウクライナ映画史上初のアカデミー賞受賞作となった。また、AP通信にはピュリッツァー賞が授与された。


   『BAD GENIUS バッド・ジーニアス』


 2017年のタイ映画「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」をハリウッドでリメイクした作品。J・C・リー監督。貧しい家庭に育った秀才の少女リンは名門高校に特待生として入学し、劣等生たちから持ちかけられて、彼らを救う「カンニング」作戦を指揮するようになる。その方法がなかなか巧みであり、映画として楽しめたのだが、アメリカ社会の移民や貧困の問題にも踏み込んでいるところが単なるエンターテイメント映画ではないことを示していた。


  『木の上の軍隊』



 沖縄の伊江島で終戦に気づかないまま2年の間もガジュマルの木の上で生き抜いた二人の日本兵の実話に基づいた井上ひさし原案の舞台劇を映画化した作品。平一紘監督。

  上官の少尉(堤真一)と沖縄出身の新兵(山田裕貴)がその立場ゆえに距離があるのだが次第に互いを理解していく。飢えに苦しみながら木の上とその周りの森で孤独な闘いをを続ける。時が経つにつれて、二人の心の中で「帰りたい」という想いが強くなる。最後の浜辺の場面で上官の堤真一が微笑みながら山田裕貴に「帰ろう」という場面が秀逸だった。映画はここで終わったが、実際にモデルの二人は故郷に帰ることができたそうだ。それを喜ぶと共に、帰りたくても帰ることが叶わなかった無数の人々のことを考えた。戦場に行くことは帰ることをあらかじめ断念することでもあった。その現実を強く思い知らされた。 


『太陽(ティダ)の運命』


  沖縄県の二人の知事に焦点を当て各々の闘いの軌跡を通じて沖縄現代史を描いたドキュメンタリー映画。佐古忠彦監督。タイトルの「ティダ」は沖縄の方言で太陽の意味、古くは首長=リーダーを表す言葉である。

 沖縄本土復帰後の第4代知事大田昌秀と第7代知事・翁長雄志は、政治的立場が正反対であることから対立しながらも、大田は軍用地強制使用の代理署名拒否、翁長は辺野古埋め立て承認の取り消しを巡って国と法廷で争った。結局、対立していた二人は沖縄の平和を守るために同じ道を歩むことになる。この映画は、本土と沖縄、国家と地方自治、日本とアメリカという関係のあり方を深く問いかける作品だった。


   8月31日、シアターセントラルBe館で佐古忠彦監督がこの映画の舞台挨拶を行うことを知ったので、この映画はその日に見に行った。佐古監督の舞台挨拶を含め、この映画について考えたことを後にあらためて書きたい。


2025年9月3日水曜日

「こうふ亀屋座」の空間/11月3日の公演(太宰治「走れメロス」独り芝居 他)

 この春、甲府城跡(舞鶴城公園)の南側エリアに、歴史文化交流施設「こうふ亀屋座」と交流広場、江戸の町並みをイメージした飲食と物販の店が集まる「小江戸甲府花小路」がオープンした。

 11月3日(月・祝日)午後2時から「こうふ亀屋座」の演芸場で、〈甲府 文と芸の会〉主催の「講座・朗読・芝居の会」を開催する。横浜から招く有馬眞胤(アリママサタネ)さんの太宰治「走れメロス」独り芝居、エイコさんの「新樹の言葉」朗読と「走れメロス」下座の津軽三味線、前座として私のミニ講座が予定されている。

 有馬さんは劇団四季出身で舞台を中心に活動してきた。蜷川幸雄演出作品に20年間参加し海外でも公演した経験豊かな実力派の役者である。彼の独り芝居は、朗読ではなく一篇の小説を全て覚えて声と身体で演じる。文学作品の語りの新しいスタイルを探究している独自性がある。

(この会は無料ですが、事前の申込みが必要です。その詳細は来週お知らせします)

 

「こうふ亀屋座」

交流広場から見た「こうふ亀屋座」




 この会の準備のために先日、演芸場の舞台や客席、プロジェクターや照明の設備を実際に見てきた。江戸時代の芝居小屋を再現したデザインと木材をふんだんに利用した内装が美しい。一階と二階に席がある。120人ほどが定員のこじんまりとした空間ではあるが、木の香りが漂い、すがすがしくなる場だ。独り芝居の舞台としては最高のものだろう。


客席から舞台へ

舞台から客席へ

 この「こうふ亀屋座」は、江戸時代に甲府にあった芝居小屋「亀屋座」をイメージして建設された。 

 演劇研究者の木村涼氏は論文「八代目市川團十郎と甲州亀屋座興行」(早稲田大学リポジトリ)で〈亀屋座は明和二年(一七六五)創設の芝居小屋で、時代を代表する名優が出演している芝居小屋である〉として、七代目と八代目市川團十郎、五代目松本幸四郎、三代目坂東三津五郎、五代目岩井半四郎などが一座を率いて芝居を上演したと述べている。

 江戸時代、甲府で流行った芝居は江戸でも流行ると言われていた。山梨は徳川幕府の直轄領であり、甲府城の周辺には甲府勤番の武士が住んでいた。芝居を見る目が優れた人が甲府には多いという定評があったようだ。

 「亀屋座」は甲府の中心街から少し南に下った現在の若松町にあった。「こうふ亀屋座」は元の場所とは異なるところに建てられたのは、この小屋の演芸場で様々なイベントを実施して、このエリアを人々の集いの場にするためだろう。


 「小江戸甲府花小路」の小路には、食べ物屋、甘味処、カフェ、お土産屋などの店舗がある。小路の向こう側には「甲府城跡」(舞鶴城とも呼ばれる)の石垣や展望台が見える。近くには「舞鶴城公園」もある。甲府の中心街はかなりさびれてきたが、この江戸情緒の街並みや芝居小屋は新しい拠点となる。


小江戸甲府花小路


 このエリアから南に下ると、移転して再オープンした「岡島」やいろいろな飲食店や商店が続いている。この一帯が中心街の散策コースとしてとても綺麗な空間になってきたのが、甲府市民としてはとてもうれしい。 


2025年8月31日日曜日

2024.8.4/2025.2.6 フジファブリック活動休止前の二つのライブ [志村正彦LN370]

 今日で8月が終わるが、真夏のピークは去ることがない。

 気象庁によれば統計的に最も暑い夏になるそうだ。僕の住む甲府は昔から全国でも有数の酷暑の街。猛暑日の日数は今日で53日となり、過去最多の更新が続いている。実感としてもこれまでで最も暑い夏だ。できるだけ外出を避け、家に籠もり、PCに向かうことが多かった。偶景webのリニューアル、〈芥川龍之介の偶景〉シリーズの開始があり、ブログの記事を三日に一度ほどのペースで書いてきた。


 6月25日に、『フジファブリック LIVE at NHKホール』DVD/Blu-rayが発売された。今年2月6日(木)に開催された活動休止前最後のフジファブリックのワンマンライブの映像である。以下の三つの仕様があった。

・完全生産限定盤(Blu-ray 2枚組+48P LIVE写真集) ※大サイズ豪華三方背BOX仕様
・通常盤初回仕様(Blu-ray 2枚組+24P LIVE写真ブックレット) ※トールサイズクリアスリーブケース仕様
・通常盤初回仕様(DVD 3枚組+24P LIVE写真ブックレット) ※トールサイズクリアスリーブケース仕様

 完全生産限定盤と通常盤初回仕様は数に限りがあり、通常盤初回仕様は初回仕様が完売になり次第トールサイズクリアスリーブケースが付属していない通常盤へと切り替わるそうである。つまり、通常版を加えると四つ以上の仕様があるようだ。こんなにも仕様を複数化するのは、ファンへのサービスという面もあるが、ビジネス面での判断があるのだろう。他のアーティストでもこういう傾向があり、DVD・Blu-rayのパッケージソフトが以前ほど売れない現実がある。




  僕が購入したのは通常盤初回仕様のDVD。「24P LIVE写真ブックレット」を開くと、メンバー欄に〈山内総一郎/金澤ダイスケ/加藤慎一/一行開け/志村正彦/一行開け/Support Musician/伊藤大地 drums/朝倉真司 percussion〉、Special thanks to欄は左右の2段あり、左側の最後に〈志村家のみなさま/フジファブリックに関わってくださったみなさま〉右側に〈志村正彦〉一人が掲載されていた。

 活動休止前最後のライブということもあり、本編からアンコールまでMCも入れたほぼ全編の映像が記録されていた。配信にはなかった映像も挿入されて編集されていた。山内・金澤・加藤の姿もクリアに映し出されていたが、その表情はやはり四十代半ばの男性のものだった。時の流れを感じざるを得ない。メジャーデビューから21年の年月が経ったのだ。

 メンバー三人が最後に挨拶をしてステージから去った後、観客が静かなたたずまいのまま力強く拍手を続けていた。フジファブリックのファンならではの姿と拍手の音でエンディングを構成した編集が良かった。


 一年と少し前の2024年8月4日、フジファブリック 20th anniversary SPECIAL LIVE at TOKYO GARDEN THEATER 2024「THE BEST MOMENT」に出かけた。このライブでは特に、志村正彦の音源・大型モニターの映像とステージでの生演奏を複合させた演出による「モノノケハカランダ」「陽炎」「バウムクーヘン」「若者のすべて」と、アンコールでの冒頭で2008年富士吉田市民会館ライブの志村の〈この曲を歌うために僕はずっと頑張ってきたような気がします〉というMCが入った後は志村の声と生演奏だけで構成された「茜色の夕日」に感銘を受けた。映像ではあるのだが、志村正彦の表情とその変化に魅了された。時には強い眼差しで、時には憂いを秘め、時には笑顔で見つめている。片寄明人によると、志村家、メンバー、スタッフの皆で考えた選曲、演出、映像だったようだ。

 この五曲はこのライブのテーマである「THE BEST MOMENT」、最も素晴らしい瞬間、最も重要な時を表現していた。おそらく、この「THE BEST MOMENT」はまさしく、この8月4日のこの瞬間においてのみ存在させるという意図や合意があったのではないだろうか。そのためか、このライブの映像は(少なくとも現時点まで)発売されることはなかった。今、それで良いのだ、「THE BEST MOMENT」はあの時だけのものだ、という気持ちもあるのだが、心のどこかに、あの特別な五曲を含む映像が(どのような形でもよいが)リリースされないことを残念にも思う。


  これまで発売されたフジファブリックのライブ映像を挙げてみる。発売日、パッケージの名称、メディア(DVD or DVD/BD)を示す。また、志村正彦在籍時のものは青字で記しライブの日時を( )内に記す。(他にドキュメンタリー映像の中にライブが入っていることもある)


①2006年 7月12日 『Live at 日比谷野音』DVD (2006年5月3日 日比谷野外大音楽堂)
②2008年12月17日『Live at 両国国技館』DVD (2007年12月15日 両国国技館)
③2010年6月30日 「FAB MOVIES LIVE映像集」DVD[『FAB BOX』所収] (2003年~2009年 各地 全20曲)
④2011年7月20日『フジファブリック presentsフジフジ富士Q -完全版-』DVD/BD
⑤2013年4月17日『FAB LIVE』DVD/BD
(2012年12月11日Zepp DiverCity Tokyo/2011年12月16日Zepp Tokyo/2012年7月19日恵比寿リキッドルーム)
⑥2014年4月16日『Live at 富士五湖文化センター』DVD (2008年5月31日 富士五湖文化センター)
⑦2014年4月16日『Live at 渋谷公会堂』DVD (2006年12月25日 渋谷公会堂)
*2014年4月16日『FAB BOX Ⅱ』DVD ⑥⑦所収
⑧2014年5月21日『FAB LIVE Ⅱ』DVD/BD
⑨2015年4月8日『Live at 日本武道館』DVD/BD
⑩2016年2月17日『Hello!! BOYS&GIRLS HALLTOUR 2015 at 日比谷野音』DVD/BD
⑪2019年7月10日『Official Bootleg Live&Documentary Movies of“CHRONICLE TOUR”』DVD (2009年6~7月 全国9会場10公演)
⑫2019年7月10日『Official Bootleg Live&Documentary Movies of“デビュー5周年ツアーGoGoGoGoGoooood!!!!!”』DVD (2009年9~10月 全国8会場10公演)
*2019年7月10日『FAB BOX Ⅲ』DVD   ⑪⑫所収
⑬2020年2月26日『フジファブリック 15th anniversary SPECIAL LIVE at 大阪城ホール2019 「IN MY TOWN」』DVD/BD
⑭2022年12月7日『フジファブリック LIVE TOUR2022 ~From here~” at 日比谷野音』DVD/BD
⑮2025年6月25日『フジファブリック LIVE at NHKホール』DVD/BD
*なお、2019年8月28日『FAB LIST 1』CD(初回盤)にはライブ音源CD(2005年7月21日渋谷AX)がある。


 20年の活動歴の中でライブ映像は15のパッケージでリリースされている。こうしてまとめてみると、フジファブリックはライブバンドでもあったという事実が見えてくる。卓抜な演奏力があった。そして活動休止前に、2024年8月4日のTOKYO GARDEN THEATERが〈志村正彦のフジファブリック〉のライブ演奏の集大成、半年後の2月6日のNHKホールが〈山内・金澤・加藤のフジファブリック〉のライブ演奏の集大成という意図で開催されたのだろう。


 また、『フジファブリック LIVE at NHKホール』には付録として、最近の五つのMUSIC VIDEOを収録した『FAB CLIPS 5』が付属されたいた。ミュージックビデオとそのメイキング映像などを収録したDVD『FAB CLIPS』は、結局、1から5までリリースされたことになる。フジファブリックはミュージックビデオにも力を入れてきた。

① 2006年2月22日 『FAB CLIPS』(1)
② 2010年6月30日 『FAB CLIPS 2』*「SINGLES 2004-2009」初回生産限定盤の付録
③ 2015年4月8日  『FAB CLIPS 3』
④ 2020年1月29日 『FAB CLIPS 4』
⑤ 2025年6月25日 『FAB CLIPS 5』*『フジファブリック LIVE at NHKホール』の付録


 最後に一人のファンとしての願望を書きたい。

 2024年8月4日の20周年記念「THE BEST MOMENT」TOKYO GARDEN THEATERライブの映像を含めて、いろいろな権限を何とか調整してその他のフェスやスタジオライブなどの映像を収録した『FAB BOX Ⅳ』とでも名付けられる映像集・音源集をリリースしてほしい。そうするだけの価値のある映像である。


2025年8月27日水曜日

「若者のすべて」-夏の終わりに聴きたい“グッとフレーズ”[志村正彦LN369]

 8月22日(金)夜7時からTBSで『この歌詞が刺さった!グッとフレーズ』第21弾の3時間スペシャルが放送された。夏の後半という時期に合わせ「夏の終わりに聴きたい“グッとフレーズ”」の特集があった。

 今回の出演者は、MCの加藤浩次(極楽とんぼ)、アーティストゲストのデーモン閣下(聖飢魔Ⅱ)・田邊駿一(BLUE ENCOUNT)・矢井田瞳、スタジオゲストの影山優佳・川村エミコ(たんぽぽ)・末澤誠也(Aぇ! group)・土田晃之、・矢作兼(おぎやはぎ)、VTRゲストの狩野英孝・橋本環奈・原菜乃華・間宮祥太朗。

 番組の半ば頃に「夏の終わりに聴きたい」というコーナーがあり、ZONEの「secret base~君がくれたもの~」、山下達郎「さよなら夏の日」、フジファブリック「若者のすべて」、米津玄師「灰色と青」(+菅田将暉)、松任谷由実「Hello, my friend」などが選ばれていた。


 「若者のすべて」を取り上げた部分を簡潔に紹介したい。テロップやクレジットの言葉は〈〉で括る。


 街頭インタビューでのコメントの後で、イントロが始まり、〈若者のすべて フジファブリック/ユニバーサル ミュージック〉というクレジットが示され、「若者のすべて」のミュージックビデオが流され、志村正彦が歌う姿が映し出された。歌詞のテロップが横書きに縦書きにと変わり、フォントの大きさも変化した。〈グッとフレーズ〉という字と共に、鮮明な黄色の字で〈ないかな ないよな きっとね いないよな〉が縦書きで、〈会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ〉が横書きで表示された。

 次に下記の歌詞が一面に示され、街頭インタビューのコメントが加えられた。

 

   ―グッとフレーズ-   

 ないかな ないよな      

 きっとね いないよな     

 会ったら言えるかな     

 まぶた閉じて浮かべているよ 

           作詞 志村正彦   


 ここで初めて作詞者の「志村正彦」の名が登場した。やはり作詞者の名は必須である。

  MCやゲストの話の後で、ナレーターが語り始めた。そのテロップを記したい。


〈夏の恋に期待するも〉 
〈結局何もなく終わってしまう〉
〈誰もが共感できる経験を歌詞に〉

〈2番 主人公に嬉しい展開が!〉


 続いて、2番のミュージックビデオと〈ないかな ないよな なんてね 思ってた/まいったな まいったな 話すことに迷うな〉が表示され、この歌詞をまとめた画面に切り替わった。


  ―グッとフレーズ-    

 ないかな ないよな      

 なんてね 思ってた        

 まいったな まいったな    

 話すことに迷うな      

     作詞 志村正彦   


 ナレーターが〈好きな人とまさかの遭遇〉と語った。

 この後、MCやゲストの間でこの場面をめぐっていろいろな話が出るのだが、印象深かった箇所のテロップを書き写す。


加藤浩次  〈これは声をかけたんですかね?〉
末澤誠也  〈どっちでも捉えられる〉
加藤浩次  〈どっちですか皆さん〉
土田晃之  〈この時点では話しかけてない〉
川村エミコ  〈私は話しかけてる〉〈話しかけて一緒に花火を見てる〉
      〈でも何も言えなくて〉〈関係はどうなるのかな?〉
      (変わるのかな)〈同じ空見てるな〉
……
川村エミコ  〈花火の音が間を埋めてくれて〉
      〈助けてくれる情景が浮かぶ〉


 川村エミコの最後のコメントに説得力があった。二人が再会したとしてもあまり言葉を交わすことがなく、その間を花火の音が埋めてくれて、沈黙を助けてくれる。確かにそのような情景も浮かんでくる。


 今回の「若者のすべて」の歌詞考察は、〈ないかな ないよな〉部分のフレーズが1番から2番へ、〈きっとね いないよな〉⇒〈なんてね思ってた〉、〈会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ〉⇒〈まいったな まいったな 話すことに迷うな〉と転換していくことに焦点を当てていた。この転換されたフレーズが「若者のすべて」のキーフレーズの一つであり、この番組で言う〈グッとフレーズ〉であろう。これまで「若者のすべて」の歌詞の素晴らしさに触れた番組はいくつもあったが、今回の番組のようにこの歌詞の転換とそれによる歌詞の意味の展開について取り上げるものはほとんどなかったように思う。


 このシリーズ番組を振り返ると、2022年12月29日放送の『この歌詞が刺さった!グッとフレーズ〜私を支えた歌詞SP2022〜』でも「若者のすべて」が取り上げられた。この時は、ナレーターが「実はこの曲を作詞作曲したボーカルの志村正彦さんはこの曲をリリースした2年後、29歳の若さで亡くなったのですが、生前この曲についてこう語っていました」という説明が入り(テロップでは〈作詞・作曲Vo.志村正彦さん 「若者のすべて」リリースの2年後… 2009年12月24日29歳で急逝〉と表示)、両国国技館ライブでの志村のMC〈センチメンタルになった日だったりとか 人を結果的に裏切ることになってしまった日 色んな日があると思うんですけども そんな日の度に 立ち止まって色々考えてた それはちょっと勿体ない気がしてきて 歩きながら 感傷に 浸るっていうのが 得じゃないかなって思って 止まっているより歩きながら悩んで 一生たぶん死ぬまで 楽しく過ごした方がいいんじゃないかなということに 26、27歳になってようやく気づきまして そういう曲を作ったわけであります〉がテロップで示された。

 ナレータは続けて「そして志村さんはその思いをこの二行のフレーズに込めたといいます」と話した。志村の歌声と次のテロップが表示された。


       ―グッとフレ ーズ―      

     すりむいたまま 僕はそっと歩き出して 


 つまり、2022年12月の番組では、〈すりむいたまま 僕はそっと歩き出して〉が〈グッとフレ ーズ〉に、今回2025年8月の番組では〈ないかな ないよな きっとね いないよな/会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ〉〈ないかな ないよな なんてね 思ってた/まいったな まいったな 話すことに迷うな〉という〈ないかな ないよな〉をめぐる対比的な歌詞が〈グッとフレ ーズ〉にされている。TBS『この歌詞が刺さった!グッとフレーズ』シリーズは毎回「若者のすべて」の歌詞を丁寧に考察していることが分かる。

    

 「若者のすべて」には三つのキーフレーズ、〈グッとフレ ーズ〉があるだろう。TBS番組が示したように〈すりむいたまま 僕はそっと歩き出して〉のフレーズと〈ないかな ないよな〉をめぐる対比的なフレーズ、その二つに〈最後の花火〉〈最後の最後の花火〉という対になるフレーズを加えると三つになる。この三つのフレーズを複合的に交錯させながら、聴き手はこの歌の物語を心の中のスクリーンに投影していく。これが「若者のすべて」の尽きない魅力となっている。



2025年8月24日日曜日

夏季休暇中の山梨への旅(三)八ヶ岳・南アルプス[芥川龍之介の偶景 5]

 7月28日、芥川龍之介と西川英次郎は昇仙峡から甲府に戻り、上諏訪まで汽車に乗った。前回述べたように、この旅程の参考となった徳冨蘆花は青梅街道を通って塩山、甲府、そして昇仙峡に行った後に富士川水運で静岡へ向かったが、中央線が開通したことによって、二人は汽車で長野へ向かうことができた。鉄道という近代のテクノロジーによって、高速で移動する車窓から眺める風景とその変化というパースペクティヴが生まれた。新しいパノラマビューであり、それを記述する主体の眼差しを誕生させた。

 芥川は中央線の車内の人々や車窓から八ヶ岳や南アルプスの山々を興味深く眺めて、次のように描く。

 汽車が驛々で止る每に 必 幾人かの農夫の乘客がはいつてくる。それでなければ自分等と同じ樣な檜木笠の連中がやつてくる。作物の話が出る。空模樣の話が出る。無遠慮な雜談と 氣のをけない髞笑とは 間もなく 彼方にも此方にも起つた。今は〔車〕内は、山家の人の素樸な氣で 充される樣になつた。

 汽車が進むにつれて 目の前には八ケ嶽の大傾斜が開けて來る 落葉松の林 合歡の花 所々に散在する村落。其處から上る白い烟 さては野に牛を飼ふ人の姿。―自分等〔欠字〕 物を眺めながら窓によつて この山間にすむ甲州人の剛健な素朴な生活の事を考へて見た。

 農夫たちが作物や空模様についておそらく甲州弁で話しあっている。芥川は耳をそばだてて聞いていたのだろう。親しいもの同士の遠慮のない雑談や高笑いによって、車内は山国の人々の素朴な気風で満たされる。次第に車窓から八ヶ岳が見えてくるが、山岳の風景だけでなく「この山間にすむ甲州人の剛健な素朴な生活」のことも考える。

 そのうち、南アルプスの山々の荘厳な姿が視界に入ってくる。

 甲信の山々は いづれも頂を力と熟との暗影を持つた 深い銅色の雲に 埋めながら、午後の日の光をうけて 遠いのは藍色に 近いのは鼠色に 濃い紫の皺を縱橫に刻で 綠の野の末に大きなうねりをうたせてゐた。永河の遺跡が見られると云ふのは そこであらう。白根葵の咲くと云ふのは そこであらう。 長へに壯嚴な山々の姿。―雪にうづもれた其頂には宇宙の歷史が祕めてあるのではあるまいか。

 ここで芥川は、「深い銅色の雲」のもとに「午後の日の光」を受けて、「遠いのは藍色」「近いのは鼠色」に「濃い紫の皺」を刻んだ南アルプスの山々を描写している。芥川の眼差しは色と光とその変化に敏感である。「長へに壯嚴な山々の姿」「雪にうづもれた其頂」に「宇宙の歷史」が秘められている、という箇所はこの『日誌』の中で、風景の荘厳さとその悠久な時間への感嘆が最も込められた記述である。


 このあたりの表現は、国木田独歩の「忘れえぬ人々」(『武蔵野』明治34年)の影響を受けているかもしれない。芥川が書いた車中の農夫たち、山間にすむ甲州人は、独歩の言う「忘れえぬ人々」のような存在である。

 独歩は九州旅行で立ち寄った阿蘇山を次のように描いている。 

天地寥廓、しかも足もとではすさまじい響きをして白煙濛々と立ちのぼりまっすぐに空を衝き急に折れて高嶽を掠め天の一方に消えてしまう。壮といわんか美といわんか惨といわんか、僕らは黙ったまま一言も出さないでしばらく石像のように立っていた。この時天地悠々の感、人間存在の不思議の念などが心の底からわいて来るのは自然のことだろうと思う。

 独歩は阿蘇山を見て「天地悠々の感」「人間存在の不思議の念」を思い浮かべる。厳かな風景から漢語的で抽象的な観念や感覚を思い浮かべている。この表現のあり方と芥川が山梨の荘厳な山々に「宇宙の歷史」という観念を見いだした叙述には共通点がある。

 芥川龍之介にとって国木田独歩は特別な存在であった。昭和2年の小説「河童」では尊敬すべき先人としてニーチェ、トルストイ、ゴーギャンらと共に日本人ではただ一人独歩の名を挙げている。同年の文学論「文芸的な余りに文芸的な」では「独歩は鋭い頭脳を持つてゐた。同時に又柔かい心臓を持つてゐた。しかもそれ等は独歩の中に不幸にも調和を失つてゐた。従つて彼は悲劇的だつた」と書き、独歩を「詩人兼小説家」として捉えている。


 柄谷行人は『日本近代文学の起源』で、独歩や芥川が記した荘厳な山岳美について次のように述べている。

 総じて、ロマン派あるいはプレ・ロマン派による風景の発見とは、エドマンド・バークが美と区別して崇高と呼んだ態度の出現にほかならない。美がいわば名所旧跡に快を見出す態度だとすれば、崇高はそれまで威圧的でしかなかった不快な自然対象に快を見出す態度なのである。そのようにして、アルプス、ナイアガラの滝、アリゾナ渓谷、北海道の原始林――などが崇高な風景として見出された。明らかに、ここには転倒がある。 〔……〕

リアリズムとは、たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない。それまで事実としてあったにもかかわらず、だれもみていなかった風景を存在させるのだ。したがって、リアリストはいつも「内的人間」なのである。

 柄谷は、ロマン派やプレ・ロマン派の人間によって、名所旧跡の風景ではなく、山岳などの荘厳で崇高な自然の美が新しい「風景」として発見されたと考えている。そして、そのような風景の発見が、結果的に転倒されて、崇高な自然の美に憧れる「内的な人間」を創り出す。ロマン派的な主体にとって崇高さは至上の観念の一つとなる。芥川も独歩もそのような主体、「内的人間」である。彼らは風景を創出するために、リアリズムの文章を描いていく。紀行文や日誌はそのスタイルの具現化である。


  この後、芥川と西川の二人は長野県の諏訪に入り、小諸、浅間山、軽井沢と移動して、8月1日に東京に帰った。

 8月21日の日誌には、上野の図書館に行き、館上の西の窓から夕暮れの空を見た際に「そゞろに甲斐の山の夕暮もしのばれる」と書いている。山梨の風景については繰り返し想い出したようだ。

 ここで「甲斐の山」という言葉が使われていることにも注目したい。この言葉はやがて、芥川が飯田蛇笏に贈った「春雨の中や雪おく甲斐の山」という俳句に結実していく。


2025年8月21日木曜日

夏季休暇中の山梨への旅(二)甲府・昇仙峡 [芥川龍之介の偶景 4]  

  7月26日の夜、芥川龍之介と西川英次郎は甲府の佐渡幸旅館に泊まった。

 十一時何分かの汽車で 甲府へついて 「佐渡幸」(宿屋)の二階に この日記をつけ終つたのは 丁度二時である。西川君は例の通り「峨眉山月半輪の秋」を小さな聲でうたひながら 疲勞がなほると云つて、ちやんとかしこまつてゐる。

 二人が甲府駅に着いたのはおそらく夜十二時近くだった。その後旅館で律儀にも二時まで日誌を書いた。

 佐渡幸旅館の本店は柳町通りに、支店は甲府駅前にあった。明治後期から昭和前期にかけて、甲府を訪れた文学者がよく泊まっていた宿舎である。当時の絵はがきを入手したのでその画像を添付する。




 翌日の27日には昇仙峡まで歩き、猪狩村の宿に宿泊した。

 昇仙峡は甲府市北部の荒川上流にある渓谷。国の特別名勝にも指定された景勝地である。花崗岩の断崖や奇岩・奇石、清く澄んだ水の流れ、四季折々で変化に富んだ渓谷美を楽しめる。2020年、「甲州の匠の源流・御嶽昇仙峡~水晶の鼓動が導いた信仰と技、そして先進技術へ~」が文化庁の日本遺産に認定された。


 芥川は友人の上瀧嵬に手紙を出し、その文面を日誌で披露する。

 今日はいやにくたびれて 日記をかく氣にもならぬ。上瀧君へ手紙を出す。

 「甲府からこゝへ來た 昇仙峽は流石にいゝ 水の靑いのと石の大きいのとは玉川も及ばないやうだ しかし惜しいことに、こゝ(昇仙峽)の方が眺めが淺いと思ふ 昇仙峽は藤と躑躅の名所ださうな この靑い水に紫の藤が長い花をたらしたなら さだめて美しい事と思ふ  亂筆不盡」

 手紙をかきをはつた時には 山も川も黑くくれて鬱然と曇つた空には 時々電光がさびしく光る。こんな時には よくいろな思がをこるものだ。大きな螢が靑く 前の叢の上を流れてゆく。(二十七日 荒川の水琴をきゝつゝ。)

 16歳という若さゆえの体力があるとはいえ、真夏の季節に甲府の中心街から昇仙峡まで徒歩で歩いたのでかなり疲れたことだろう。昇仙峽は流石にいいが、眺めが浅いと述べている。青い水と紫の藤の長い花の想像、黒い山と川、曇った空、大きな蛍。昇仙峡という美しく静かな渓谷の中で、芥川の心にはいろいろな思いが浮かんできたようだ。旅の《偶景》は人の想いを喚起する。


 そもそも、芥川龍之介と西川英次郎はなぜ青梅街道を歩いて山梨に入る旅を試みたのか。

 西川によると、二人は徳冨蘆花の「甲州紀行はがき便」(『青蘆集』所収、明治35年刊)という紀行文を読み、その行路を辿る計画を立てて実行したようである。日向和田、氷川、丹波山、塩山、甲府、そして昇仙峡という行程までは同じだが、その後、蘆花は鰍沢から富士川を舟で駿河へと下り、東海道線で逗子へ帰ったが、二人は中央線が開通したこともあり、汽車で上諏訪へ向かった。

 また、田山花袋の紀行文の影響もあるかもしれない。明治27年4月、田山花袋は、甲府徽典館の学頭も勤めた林靏梁が奥多摩を描いた文章に感化され、多摩川上流へ徒歩で向かった。その際の「不遇山水」(「多摩の上流」と改題され、『南船北馬』明治32年刊に収録)という紀行文で「山愈奇に水愈美なり」「天然の美のかくまで変化の多きものなるかを感ぜしむ」と書いている。明治後期、花袋は紀行文の名手として知られていた。芥川は学生時代に小説家としてよりも紀行文家としての花袋を評価していたので、この花袋の文章がこの旅程に影響した可能性もある。


 この時代、鉄道をはじめとする交通網が発達した。徳冨蘆花や田山花袋らの紀行文にも影響されて、青年は各地を旅するようになった。そして、作家志望者は旅の日誌や紀行文を書くことを試みた。芥川龍之介もその一人であろう。 

       (この項続く)