公演名称

〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉の申込

公演概要

日時:2025年11月3日(月、文化の日)開場13:30 開演14:00 終演予定 15:30/会場:こうふ亀屋座 (甲府市丸の内1丁目11-5)/主催:甲府 文と芸の会/料金 無料/要 事前申込・先着90名/内容:第Ⅰ部 講座・朗読 「新樹の言葉」と「走れメロス」講師 小林一之(山梨英和大学特任教授)朗読 エイコ、第Ⅱ部 独り芝居 「走れメロス」俳優 有馬眞胤(劇団四季出身、蜷川幸雄演出作品に20年間参加、一篇の小説を全て覚えて演じます)・下座(三味線)エイコ

申込方法

右下の〈申込フォーム〉から一回につき一名お申し込みできます。記入欄の三つの枠に、 ①名前欄に〈氏名〉②メール欄に〈電子メールアドレス〉③メッセージ欄に〈11月3日公演〉とそれぞれ記入して、送信ボタンをクリックしてください。三つの枠のすべてに記入しないと送信できません(その他、ご要望やご質問がある場合はメッセージ欄にご記入ください)。申し込み後3日以内に受付完了のメールを送信します(3日経ってもこちらからの返信がない場合は、再度、申込フォームの「メッセージ欄」にその旨を書いて送ってください)。 *〈申込フォーム〉での申し込みができない場合やメールアドレスをお持ちでない場合は、チラシ画像に記載の番号へ電話でお申し込みください。 *申込者の皆様のメールアドレスは、本公演に関する事務連絡およびご案内目的のみに利用いたします。本目的以外の用途での利用は一切いたしません。

2025年11月1日土曜日

昭和20年7月の別れ-太宰治と甲府 6

 昭和14(1939)年9月、太宰治は甲府から東京の三鷹へ転居したが、その後も何度も甲府を訪れている。妻美智子の実家、湯村温泉の旅館明治、甲府中心街の東洋館などに滞在して小説を執筆した。昭和20(1945)年4月、東京の空襲に遭い、甲府に疎開してきた。

 甲府の詩人一瀬稔は「太宰治点描―太宰治(1)」「追憶の酒―太宰治(2)」(『忘れ得ぬ人びと』甲陽書房 1986)で、その頃の太宰と井伏鱒二との思い出を語っている。まず、「追憶の酒」から引用したい。 

ぼくが太宰さんに初めてお会いしたのは昭和十七年ごろで、その当時太宰さんは、東京の三鷹から水門町の奥さんの実家と湯村温泉に滞在して創作に専念、夜はたいがい市内のどこかで酒を飲んでおられた。そんな時いつも甲運村(現在甲府市に編入)へ疎開されていた井伏鱒二氏がご一緒だったようである。ぼくが特に親しくおつき合いねがったのは、終戦の前の年から、甲府が戦災を受けて太宰さんが津軽の生家へ引き揚げるまでの一年余りの期間である。

 一瀬は太宰や井伏と甲府近郊の川魚料理屋へ行った思い出を語っている。

ぼくらは座敷に通されて、きっそく酒になった。飲むほとに酔うほどに太宰さんはすっかり上機嫌になり、酔った時のいつもの調子でにぎやかにはしゃぎ、「ぼくは今夜こそこの甲州に骨を埋める覚悟を決めましたよ」とくり返し言うのだった。

 一瀬はこの太宰の発言について〈太宰さん特有の大仰なゼスチュアではあるが、それほどその晩の酔い心地は格別だったように思われた〉と述べている。太宰の甲府時代を振り返って、次のように評した。実際に太宰と交流した人の証言でもある。

太宰さんのいわゆる甲府時代というのは約五、六年間であるが、この期間は太宰さんの生涯の中で、生活的にも、精神的にもいちばん安定しており、ばりばりと仕事のできた文字通り脂ののった時期ではなかっただろうか。時代こそ暗かったが、気持ちにかげりがなく、飲めば闊達にはしゃぎ、太宰さんの周りにはいつも明るい雰囲気が漂っていた。

 甲府時代の太宰は精神的にも安定して仕事に打ち込んでいた。作家仲間や地元の青年たちとの交流もあった。川魚料理屋での〈甲州に骨を埋める覚悟〉というのはリップサービスにも聞こえるが、案外、太宰の本音を伝えているのかもしれない。


 「太宰治点描」では、『オリンポスの果実』の田中英光が東京から太宰を訪ねてきた日のことを書いている。その当時、甲府駅の北口側にあった「峠の茶屋」という飲み屋に太宰と甲府の画かきや文学の仲間がよく集っていた。

僕たち四、五人の常連も加わって、その峠の茶屋へ飲みにおしかけた。体の大きい田中さんは、その時学生服を着ていて、酔いが回るにつれてますます元気になり、果てはハチ巻などして、持ち前の蛮声で何やら大気焔をあげていた。太宰さんもこの遠来の愛弟子を加えての酒席がたいへん愉しかったと見え、殊更上気嫌で、「今夜は徹夜でのみ明かそうや」と言って、やんちゃな子供みたいにさかんにはしゃいでいた。その夜はとうとう夜明け近くまで飲みあかし、それぞれ酔いつぶれたような格好で畳の上にごろ寝してしまった。昼近くなって目を覚ましたが、また太宰さんの提唱で、すぐ近くの山へのぼって飲み直すことになった。各自一本ずつブドウ酒の壜をさげて(その頃は高級料理屋以外には清酒がなかったので、僕たちは主にブドウ酒を常飲していた)、同勢はそこから二丁ほど先の愛宕山へくり出した

 太宰治と愛弟子の田中英光、甲府の仲間たちがはしゃぐ姿が目に浮かぶ。ブドウ酒の壜とあるが、山梨では一升瓶のブドウ酒がよく飲まれる。愛宕山は甲府駅のすぐ北側にある。この山に少し登ると周囲を展望できる場所があり、甲府盆地の全景と富士山、御坂山系、南アルプスなどの山々がよく見える。夜景も美しい。昔も今も変わらない風景がある。


 昭和20(1945)年7月6日深夜から7日未明までのあいだ、甲府は空襲された。焼け野原になってしまった日からまもなく、一瀬稔は街中を自転車で走る太宰を目撃する。

 甲府の街が空襲で焼けて間もなくだった。ある日街を歩いていたら、少し離れた車道を、太宰さんが自転車で颯爽と走っていった。その時の太宰さんの服装はいまはっきりと記憶にないが、白い開襟シャツにカーキ色のズボン、それにゲートルを巻いて編上靴を穿いていたようだった。そして背中に空のリュックを背負っていた。その時人道を歩いていた僕は、とっさに声をかけようとしたが、太宰さんは何か急ぎの用事でもあるらしく、傍目もせず真っしぐらに走っていったので言葉をかける間もなかった。僕はその時、何かいつもの太宰さんとはまるで違った人でも見るような気がして立ちどまったまま、颯爽とペダルを踏んでいくそのうしろ姿をしばらく呆然と見送っていた。その時が最後で、太宰さんとはもう二度とお目にかかれなかった。    

 この後まもなく、太宰は家族を連れて故郷の津軽へ帰っていった。一瀬のもとに太宰から「来年になったら、またお会いして、ブドウ酒を飲み、ウナギを食べて文学の談を交わす事が出来るかと思い、たのしみにして居ります」という手紙が来た。

 しかし、結局、太宰治が再び甲府を訪れることはなかった。昭和20年7月が甲府との別れの時となった。


 甲府空襲の後、太宰は故郷津軽の実家へ疎開し、終戦を迎えた。津軽に一年半近く滞在し、昭和21(1946)年)11月、東京に戻った。もしも、という仮定をあえてするが、甲府空襲がなければ戦後もそのまま甲府でしばらくは暮らしていたかもしれない。太宰の人生や文学も異なる軌跡を描いたことだろう。


2025年10月30日木曜日

甲府への疎開と空襲―太宰治と甲府5

 太宰治の一家は、昭和20(1945)年4月、東京から甲府に疎開してきた。その後、7月に甲府で空襲に遭う。この疎開と空襲という体験は「薄明」に綴られている。この作品は昭和21年12月、新紀元社から刊行された作品集『薄明』に掲載された。あくまでも戦後に書かれた小説であり、太宰夫人の津島美智子によると事実とは異なる部分もあるようだ。

 冒頭はこう語り出されている。


 東京の三鷹の住居を爆弾でこわされたので、妻の里の甲府へ、一家は移住した。甲府の妻の実家には、妻の妹がひとりで住んでいたのである。
 昭和二十年の四月上旬であった。聯合機は甲府の空をたびたび通過するが、しかし、投弾はほとんど一度も無かった。まちの雰囲気も東京ほど戦場化してはいなかった。私たちも久し振りで防空服装を解いて寝る事が出来た。私は三十七になっていた。妻は三十四、長女は五つ、長男はその前年の八月に生れたばかりの二歳である。


 誰にとってもそうであろうが、太宰の疎開生活もやはり苦労が多かったようである。

 私たちは既に「自分の家」を喪失している家族である。何かと勝手の違う事が多かった。自分もいままで人並に、生活の苦労はして来たつもりであるが、小さい子供ふたりを連れて、いかに妻の里という身近かな親戚とは言え、ひとの家に寄宿するという事になればまた、これまで経験した事の無かったような、いろいろの特殊な苦労も味った。甲府の妻の里では、父も母も亡くなり、姉たちは嫁ぎ、一ばん下の子は男で、それが戸主になっているのだが、その二、三年前に大学を出てすぐ海軍へ行き、いま甲府の家に残っている者は、その男の子のすぐ上の姉で、私の妻のすぐの妹という具合いになっている二十六だか七だかの娘がひとり住んでいるきりであった。

 義妹も、かえって私たちには遠慮をして、ずいぶん子供たちの世話もしてくれて、いちども、いやな正面衝突など無かったが、しかし、私たちには「家を喪った」者のヒガミもあるのか、やっぱり何か、薄氷を踏んで歩いているような気遣いがあった。結局、里のほうにしても、また私たちにしても、どうもこの疎開という事は、双方で痩せるくらいに気骨の折れるものだという事に帰着するようである。

 疎開する側も疎開を受け入れる側も〈双方で痩せるくらいに気骨の折れるものだ〉というのが太宰の結論だった。太宰はすでに中年に達し自分の家族も持っていた。若い頃とは異なり、それなりの〈気遣い〉人間的な配慮を心がけていたようだ。


 太宰は昭和20年の4月から7月までの甲府での疎開生活を次のように振り返る。

 甲府へ来たのは、四月の、まだ薄ら寒い頃で、桜も東京よりかなりおくれ、やっとちらほら咲きはじめたばかりであったが、それから、五月、六月、そろそろ盆地特有のあの炎熱がやって来て、石榴の濃緑の葉が油光りして、そうしてその真紅の花が烈日を受けてかっと咲き、葡萄棚の青い小粒の実も、日ましにふくらみ、少しずつ重たげな長い総を形成しかけていた時に、にわかに甲府市中が騒然となった。攻撃が、中小都市に向けられ、甲府も、もうすぐ焼き払われる事にきまった、という噂が全市に満ちた。


 甲府の春から初夏へかけての季節感が巧みに描写されている。そして、甲府空襲の噂が広まってきたことを伝えている。その頃、長女は目を患い、病院に通っていた。このまま失明するのでないか太宰は不安になっていた。そのような日々を過ごすなかで、7月6日の夜、空襲が始まる。太宰はその時の様子をこう述べている。


 その夜、空襲警報と同時に、れいの爆音が大きく聞えて、たちまち四辺が明るくなった。焼夷弾攻撃がはじまったのだ。ガチャンガチャンと妹が縁先の小さい池に食器類を投入する音が聞えた。
 まさに、最悪の時期に襲来したのである。私は失明の子供を背負った。妻は下の男の子を背負い、共に敷蒲団一枚ずつかかえて走った。途中二、三度、路傍のどぶに退避し、十丁ほど行ってやっと田圃に出た。麦を刈り取ったばかりの畑に蒲団をしいて、腰をおろし、一息ついていたら、ざっと頭の真上から火の雨が降って来た。


 太宰たちは蒲団をかぶって畑に伏した。蒲団で火焔を押さえつけて消していった。夜が明けると、町外れの焼け残った国民学校の教室で休ませてもらった。太宰は妻と子を教室に置いて、妻の実家を見に出かけたが、屋敷は全焼していた。その日は義妹の学友の家で休ませてもらい、翌日は家の穴に埋めておいた品々を掘り出して大八車に積んで、妹の別の知人のところへ行った。

 甲府は、昭和20年7月6日の夜から7日の未明にかけて、アメリカ軍のB-29爆撃機131機に爆撃された。甲府市内は火の海となり、市街地の74%が焼き尽くされた。死者1127名、被害戸数18094戸という多大な犠牲があった。太宰が文化の綺麗に染み通るハイカラな街と書いた甲府の建物や街並のほとんどが、その一晩で失われてしまったのである。


 太宰夫妻は焼失した県立病院が郊外の建築物に移転したことを聞いて、長女を連れて行く。眼科医はこのままですぐに目は良くなると言った。それでも妻は注射を頼んだ。

 その後の様子を太宰はこう語っている。


 注射がきいたのか、どうか、或いは自然に治る時機になっていたのか、その病院にかよって二日目の午後に眼があいた。
 私はただやたらに、よかった、よかったを連発し、そうして早速、家の焼跡を見せにつれて行った。
「ね、お家が焼けちゃったろう?」
「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している。
「兎さんも、お靴も、小田桐さんのところも、茅野さんのところも、みんな焼けちゃったんだよ。」
「ああ、みんな焼けちゃったね。」と言って、やはり微笑している。


 題名の「薄明」は、この長女の視力が回復したことを表しているのだろうが、甲府空襲の夜から朝にかけての薄明の時の出来事を描こうともしたのだろう。また、戦後の昭和21年に発表された作品であることから、戦後が少しずつ薄明を迎えているという意味合いもあったかもしれない。


 「薄明」の〈「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している〉〈「ああ、みんな焼けちゃったね。」と言って、やはり微笑している〉という場面は、「新樹の言葉」の最後で内藤幸吉兄妹がかつての自分たちの家が燃えているのを微笑して見ている場面と似ている。話者の〈私〉青木大蔵はその微笑を〈たしかに、単純に、「微笑」であった〉と語っている。

 「新樹の言葉」を書いたのは昭和14年、「薄明」を書いたのは昭和21年。その間に戦争による空襲と火災があった。内藤兄妹は虚構の人物であり、太宰の長女は実在の人物である。内藤兄妹はすでに辛酸を舐めるいるが、長女はまだ五歳でまだ何も経験していない。微笑の意味合いは異なるが、それでも、太宰がこの二つの場面で微笑という表現を使っているのはとても興味深い。


 確かでな単純な「微笑」。戦前、戦中、戦後という激変の時代でこのような微笑を太宰治は希求していたのかもしれない。


2025年10月26日日曜日

甲府の名所や街の喫茶店-太宰治と甲府 4

 新田精治は「甲府のころ」(八雲書店版『太宰治全集』附録2 昭和23年9月)で、昭和13(1938)年から14(1939)年までの太宰との思い出について書いている。「富岳百景」に登場する富士吉田の青年〈新田〉は新田精治がモデルになっていると思われる。「富岳百景」を引用する。

新田といふ二十五歳の温厚な青年が、峠を降りきつた岳麓の吉田といふ細長い町の、郵便局につとめてゐて、そのひとが、郵便物に依つて、私がここに来てゐることを知つた、と言つて、峠の茶屋をたづねて来た。

〈新田〉が郵便局勤めで郵便物によって太宰治が天下茶屋にいることを知つたことは、おそらく「新樹の言葉」の郵便屋〈萩野〉の設定と行動に活かされているのだろう。


 新田は甲府で暮らし始めた太宰の家を何度か訪れた。その出来事を次のように回想している。

御崎町のお家は、空襲の時焼けてしまつたさうだけれど、御崎紳社の前あたりの小路を這入つて、一番奥まつた静かなお家だつた。『東京八景』に家賃六円五十銭と書かれてゐる、あのお家だつた。前にさゝやかな庭があり、花壇があつて、大きなバラがアーチみたいに植わつてゐた。陽当りのいゝ手頃なお住ひだつた。横手は桑畑で、街の騒音から遠く、一日ひつそりとしてゐた。御坂以来の静養で、御体の調子も好いらしく、指先なぞもう震へなかつた。(御坂に居られた頃は煙草を吸ふ時なぞ、幽かに指先が震へてゐた。)それに訪間客もなかつたので、僕等はお伺ひすると、湯村やら、武田神社やら遊び歩き、いつも終列車まで御邪魔した。『愛と美について』はこの頃書きためてをられた。

 現在、太宰の家の跡に「太宰治僑居跡」の石碑がある。そのすぐ近くに御崎紳社がある。西の方に歩くと二十分ほどで湯村温泉、北の方に歩くと二十五分ほどで武田信玄を祭神とする武田神社がある。太宰は昭和17年2月と翌年3月に湯村温泉の「旅館明治」に滞在して小説を書いた。この旅館は今年8月にリニューアルされて太宰治資料室も設けられた。

 太宰は青年たちを連れて甲府の名所や中心街を遊び歩いたようだ。『愛と美について』に収録された「新樹の言葉」にもその体験が反映されているだろう。


桜が咲く頃、お訪ねすると、「君等が来ると言ふんで、甲府で一番綺麗なこのゐるうちを探しといたんだよ」と言つて、岡島の横のトレビアンといふ小さな喫茶店に案内して呉れた。十七、八と二十二、三位の女の子が、二人ゐて、どちらも美人だつた。「しつかりやれよ。男はね、一生のうち一人だけ女を騙してもいゝんだよ」と先生は囁いた。併し僕も田邊君も仲々もてなかつた。暫らく飲むと先生はばかに陽気になつて、「ナタアリヤ握手しませう。ナタアリヤ、キスしませう」と女の子の手を握つたり肩を抱かうとしたり、ネチネチからかひ出した。他の客は不安さうに僕等を見るし、女の子は寄りつかなくなるし、もてないことおびたゞしく、さんざんのしゆびでトレビアンを出ると、「君等は、なんてもてないんだらう、吉田からわざわざ来て、あんなに飲んだつて、何の収穫もなかつたぢやねえか。新田と田邊とぢやあ、僕だけが、もてるにきまつてゐるから、わざといやがらせをやつて嫌はれたんだよ」とクツクツと例の大笑ひをされた。

 〈岡島〉は岡島百貨店。江戸時代後期から茶商、呉服商、両替商をしていた。昭和13年(1938)年9月、甲府の中心街に地上5階の大型店舗を建設し百貨店の営業を始めた。ちょうど太宰が甲府で暮らし始めた頃である。その横の〈トレビアン〉という小さな喫茶店のことも調べてみたのだが分からなかった。当時から岡島の周辺は賑やかで店がたくさんあった。〈田邊〉は「富岳百景」で〈短歌の上手な青年〉として登場している。

 この岡島百貨店の店舗は甲府空襲でも焼けずに残った。その後、改築や増築を繰り返して総合百貨店として山梨県民に親しまれてきたが、2023年2月で閉店し、建物が解体されることになった。現在は近くの商業ビルの三階分のフロアに入り、屋号も〈岡島百貨店〉から〈岡島〉へ改称し営業している。


市制祭の日、街を見て歩き、澤田屋の二階の喫茶店へ這入つた。その日は音楽の話で、「ベエトーベンの第五なんか最も芸術的なものだが、同時に最も通俗的なものだね、あれなら誰だつてわかる筈だ。今やつてゐるあゝいふ俗悪な曲と違ふ」併しその時ラヂオが、やつてゐた俗悪な曲といふのは、丁度第五だつた。「ありやあ、なんだらう、聴いたことが、ある様だねえ」と先生、「あの俗悪な曲が、先生第五ですよ」と僕。「なんだ、さうか」と例の大笑ひ。街を歩き過ぎて疲れ、僕はウトウトと居睡りをしてゐると、激しい調子で先生が、何か言つてゐる。コックが註文したコーヒーを忘れて了つて、いつ迄も持つて来ないのを叱つてゐるのだつた。「余り待たせるんで、疲れて睡つてゐるぢやあないか。可哀さうに、忘れたなんて、失敬な、もういゝよ、出よう、出よう」と澤田屋を出た。僕は恐縮しながら、先生の愛情を感じた。 



 〈澤田屋〉は甲府の和菓子製造の老舗として現在も営業している。黒糖の羊羹でうぐいす餡を包んだ「くろ玉」が有名だ。レトロあまい、とでも言えるような上品な甘みが特徴である。昭和4(1929)年の誕生以来、ほとんど変わらない製法でひとつひとつ手づくりをしているそうだ。ロングセラーのお土産でもある。

 澤田屋のHPに昭和9年頃の澤田屋の写真があったので、ここに掲載させていただく。説明文には〈1階は店舗、2階はレストラン、3階は和室。3階建てのビルは当時珍しかったが甲府空襲によって消失〉と記されている。太宰たちが行った〈澤田屋の二階の喫茶店〉はこの2階を指していると思われる。澤田屋には今もカフェが併設されている。




 太宰が新田や田邊を連れて甲府の中心街を歩き、岡島百貨店横の喫茶店や澤田屋二階の喫茶店に入り、コーヒーを飲んで愉快に話をして楽しく過ごした。僕と妻はシアターセントラルBe館で映画を見るときに、中心街の駐車場に車を駐めて、澤田屋の近くを歩いていくことがよくある。そのとき、太宰がここで青年たちと愉快な時を過ごしたことを想い出す。八十数年の時を隔てているが、甲府の街の同じ場所を歩くといろいろな想像が浮かんでくる。


2025年10月22日水曜日

津島美知子の証言-太宰治と甲府 3

 太宰夫人の津島美知子は、「御崎町から三鷹へ」(八雲書店版『太宰治全集』附録4 昭和23年12月)で、甲府での生活をこう振り返っている。  

 御崎町時代は、朝から午過まで机に向ひ、午後三時ごろからお酒が始まり、酔ひつぶれて倒れるまで飲んで、ときには、とくいの義太夫など出ることもあつた。「お俊伝兵衛」や、「壺坂」「朝顔日記」などがおはこだつた。それで、一月の酒屋の払ひは、二十円くらゐのものだつたから、安心だつた。

 朝から昼過ぎまでの執筆、一息ついて午後三時頃からの飲酒、そして「新樹の言葉」に書かれているように銭湯や豆腐屋に出かけたのだろう。小説を書くことと酒を飲むことが生活の中心にあった。


 このころ、二度、小旅行をした。八十八夜のころ、諏訪から、蓼科の方へまはつた。この時、上諏訪の宿では、酔つて、はめを外してしまつて、むやみに卓上電話を帳場にかけたり、テーブルクロースを汚して、弁償させられたりして失敗だつた。蓼科では、蛇がこはいといつてせつかくの風景をたのしむこともなかつた。大体、野外を歩くことや、樹木、風景などには、興味が無いやうに見えた。六月に、「黄金風景」の賞金五十円で、修善寺、三島の方へ遊んだ。このときは、失敗が無くて助かつた。三島では、なぜか興奮して、きり雨の中に、あやめの咲いてゐる古びた町を、お酒と甘い食物を、探して歩きまはつてゐた。

 新婚時代の二度の小旅行。諏訪と蓼科。修善寺と三島。羽目を外した出来事。太宰が自然の風景を〈たのしむこともなかつた〉〈興味が無いやうに見えた〉とあるが、確かに、太宰の小説には風景描写が少ない。今でも甲府から近くの県外の地に遊びに行く場合、長野の諏訪や松本、静岡の伊豆半島が候補となることが多い。昔も今も変わらない。


 「駈込み訴へ」は十四年の十二月、炬燵に当つて、盃を含み乍ら、全部口述して出来た。この年のものの中では、口述筆記のがかなり多い。「富岳百景」「女の決闘」「アルト・ハイデルベルヒ」のそれぞれ一部、「黄金風景」「兄たち」それからこの「駈込み訴へ」の全部である。太宰は、大てい、仕事にとりかかるまへ、腹案や書出しのきまるまでに手間がかかつたやうだ。「賢者の動かんとするや、必ず愚色あり。」といふのが、その折の口ぐせで、仕事にとりかかるまへ、いつも、さかんに愚色を発揮した。冗談めかしてゐるだけに、遊んでゐても傍のみる目には苦しげに、痛々しくみえた。机に向ふときは、頭のなかにもう、出来てゐた様子で、憑かれた人の如く、その面もちはまるで変つて、こはいものにみえた。「駈込み訴へ」のときも二度くらゐにわけて、口述し、淀みも、言ひ直しも無かつた。言つた通り筆記して、そのまゝ文章であつた。書きながら、私は畏れを感じた。

 津島美智子は太宰の口述筆記をしていた。「富岳百景」の一部もその中に含まれていることがこの文章で判明した。自分自身も登場人物となるこの作品を口述で筆記したときに、津島美智子の胸中にはどんな思いが去来したのだろうか。

 「駈込み訴へ」は〈言つた通り筆記して、そのまゝ文章であつた〉というのは貴重な証言である。

 最後に〈書きながら、私は畏れを感じた〉とあるが、この畏れのようなものが太宰の文学の本質につながるのだろう。


2025年10月19日日曜日

「九月十月十一月」-太宰治と甲府 2

 太宰治「新樹の言葉」冒頭の甲府賛歌。その原型となる文章がある。

 「国民新聞」1938(昭和13)年12月9日から11日まで三日間連載された「九月十月十一月」。〈(上)御坂で苦慮のこと〉〈(中) 御坂退却のこと〉に続いて〈(下) 甲府偵察のこと〉が書かれている。(中)の末尾では〈峠の下の甲府のまちに降りて來た〉〈工合がよかつたら甲府で、ずつと仕事をつづけるつもりなのである〉〈甲府の知り合ひの人にたのんで、下宿屋を見つけてもらつた〉と甲府で暮らし始めた経緯に触れている。


 太宰は〈私は、Gペン買ひに、まちへ出た〉と語り、「甲府偵察」に出かける。長くなるが、(下)の全文を引用したい。 (引用元:青空文庫


(下) 甲府偵察のこと

 きらきら光るGペンを、たくさん財布にいれて、それを懷に抱いて歩いてゐると、何だか自分が清潔で、若々しくて、氣持のいいものである。私は、Gペン買つてから、甲府のまちをぶらぶら歩いた。

 甲府は盆地である。いはば、すりばちの底の町である。四邊皆山である。まちを歩いて、ふと顏をあげると、山である。銀座通りといふ賑やかな美しいまちがある。堂々のデパアトもある。道玄坂歩いてゐる氣持である。けれども、ふと顏をあげると、山である。へんに悲しい。右へ行つても、左へ行つても、東へ行つても、西へ行つても、ふと顏をあげると、待ちかまへてゐたやうに山脈。すりばちの底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思へば、間違ひない。


 太宰の甲府偵察を甲府市民の目で検証してみたい。

〈銀座通りといふ賑やかな美しいまちがある。堂々のデパアトもある。道玄坂歩いてゐる氣持である〉とある。前回も書いたが、戦前、昭和前期までの甲府の街には、規模は小さいが綺麗でモダンな洋風建築も多く、従来の和風建築とも調和が取れた美しい街であったようだ。その洋風と和風の調和のある街並みは甲府空襲でほとんどすべて失われてしまった。もともと、甲府の中心街は甲府城の城下町の跡で発展していった。通りが南北に整備されているので今もその名残はある。戦前の甲府は地方都市としては相対的に人口も多く、活気もあった。

〈まちを歩いて、ふと顏をあげると、山である〉については、当然ではあるが、今も全くその通りである。視線の近くに建物があっても視線をその向こう側に向けると山々が見える。二千から三千メートル級の高い山々が東西南北に連なり、視界を囲んでいる感じがある。良くいえば包まれ感というか安定感があるのだが、悪くいえば窮屈で鬱陶しいかもしれない。


 裏通りを選んで歸つた。甲府は、日ざしの強いまちである。道路に落ちる家々の軒の日影が、くつきり黒い。家の軒は一樣に低く、城下まちの落ちつきはある。表通りのデパアトよりも、こんな裏まちに、甲府の文化を感ずるのである。この落ちつきは、ただものでない。爛熟し、頽廢し、さうしてさびた揚句の果が、こんな閑寂にたどりついたので、私は、かへつて、このせまい裏路に、都大路を感ずるのである。ふと、豆腐屋の硝子戸に寫る私の姿も、なんと、維新の志士のやうに見えた。志士にちがひは、ないのである。追ひつめられた志士、いまは甲府の安宿に身を寄せて、ひそかに再擧をはかつてゐる。


〈甲府は、日ざしの強いまちである〉という箇所は甲府市民の実感にとても合致している。太宰の甲府探索は11月頃であるから晩秋から初冬の日差しである。夏の甲府盆地の酷暑はよく知られている。夏は強烈な日差しにおおわれるが、冬の日差しもけっこう強い。冬の甲府は気温がかなり低くなるが、光の強さは春や夏を思わせるときがある。太宰の観察眼は鋭い。

〈裏まちに、甲府の文化を感ずる〉〈この落ちつきは、ただものでない〉〈爛熟し、頽廢し、さうしてさびた揚句の果が、こんな閑寂にたどりついた〉という指摘は、甲府市民では感じ取ることができないものであろう。〈爛熟〉〈頽廢〉〈さびた〉揚句の果ての〈閑寂〉という感覚は、今の甲府の裏町には感じられないというのが正直なところではあるが、なんとなくほんの少しだけ分からないこともない、とも言える。江戸時代、甲府で流行った芝居は江戸でも流行ると言われていた。山梨は徳川幕府の直轄領であり、甲府城の周辺には甲府勤番の武士が住んでいた。芝居を見る目が優れた人が甲府には多いという定評があった。そのような文化の痕跡が街の表や裏に残っていたのかもしれない。太宰治という外部の視線からの甲府の裏町のこの特徴を記憶にとどめておきたい。

 さらに、〈豆腐屋の硝子戸〉に写った自分の姿が〈維新の志士〉のように太宰には見えてくる。〈追ひつめられた志士〉に自分を重ね合わせ、〈甲府の安宿に身を寄せて、ひそかに再擧をはかつてゐる〉と決意するのは、この時の太宰治の心境をよく表している。太宰にとって甲府は再起の再出発の場所であった。


 甲州を、私の勉強の土地として紹介して下さつたのは、井伏鱒二氏である。井伏氏は、早くから甲州を愛し、その紀行、紹介の文も多いやうである。今さら私の惡文で、とやかく書く用はないのである。それを思へば、甲州のことは、書きたくない。私は井伏氏の文章を尊敬してゐるゆゑに、いつそう書きにくい。

 ひそかに勉強をするには、成程いい土地のやうである。つまり、當りまへのまちだからである。強烈な地方色がない。土地の言葉も、東京の言葉と、あまりちがはないやうである。妙に安心させるまちである。けれども、下宿の部屋で、ひとりぽつんと坐つてみてやつぱり東京にゐるやうな氣がしない。日ざしが強いせゐであらうか。汽車の汽笛が、時折かすかに聞えて來るせゐかも知れない。どうしても、これは維新の志士、傷療養の土地の感じである。

 井伏氏は、甲府のまちを歩いて、どんなことを見つけたであらうか。いつか、ゆつくりお聞きしよう。井伏氏のことだから、きつと私などの氣のつかぬ、こまかいこまかいことを發見して居られるにちがひない。私の見つけるものは、お恥かしいほど大ざつぱである。甲府は、四邊山。日影が濃い。いやなのは水晶屋。私は、水晶の飾り物を、むかしから好かない。


 この箇所では、井伏鱒二が甲府との縁を作ってくれたことに触れている。そして、甲府が〈ひそかに勉強をするには、成程いい土地〉だと思った理由を〈當りまへのまち〉〈強烈な地方色がない〉〈土地の言葉も、東京の言葉と、あまりちがはないやうである〉と述べている。

 この三つの点は的確である。甲府は地方としてはごく普通の街である。〈強烈な地方色がない〉というのもその通りであろう。地理的に東京に比較的近く、江戸時代は幕府直轄領であり、東京の文化との接点もかなりあったことから、地方文化的な強い特色をあまり持っていない。また、甲府の方言、甲州弁は関東弁に近い。(東京の言葉よりは全体的に語気が強くて荒々しい。独自の語彙や言い回しがあるなどのが違いはあるが)この三つの理由から〈妙に安心させるまちである〉と太宰は結論づけている。東京での破綻した生活と行き詰まった作風から脱して再起を期すのに、甲府は適した街だったのだろう。安心して新婚生活と作家生活に入ることが何よりも大切であった。


 「甲府偵察のこと」では甲府を〈すりばちの底に、小さい小さい旗を立てた〉と表しているが、「新樹の言葉」ではその表現は〈当たってない〉として、甲府は〈もっとハイカラである〉ことから、〈シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた〉〈まち〉という洒落た比喩を使って表現している。〈すりばちの底〉から〈シルクハット〉の〈帽子の底〉への変化には、太宰の甲府に対する愛情のようなものがうかがえる。甲府在住の石原美智子との結婚、作家としての再出発を期した場所という背景は大きいが、太宰が甲府をかなり気に入ったことは間違いないだろう。

 太宰治にとって甲府は、文化が綺麗に染み通る〈ハイカラ〉な街であった。〈落ちつき〉のある〈妙に安心させる〉街でもあった。ちょっとくすぐったいような気持ちもあるのだが、甲府市民としてはそのことを嬉しく思う。

2025年10月15日水曜日

「新樹の言葉」-太宰治と甲府 1

 11月3日の〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉を前にして、〈太宰治と甲府〉というテーマで五回ほど連載記事を書きたい。

 第一回目は「新樹の言葉」を取り上げたい。1939(昭和14)年5月、『愛と美について』(竹村書房)に収録されて発表された。前年の1938(昭和13)年9月から太宰は御坂峠の天下茶屋で仕事をしていた。寒さが厳しくなったので11月に御坂峠を降りて、甲府市竪町の壽館という下宿で暮らし始める。翌年1月、石原美智子と結婚し、御崎町に居を構えた。

 冒頭部分、甲府賛歌と呼べるところを引用したい。 (引用元:青空文庫


 甲府は盆地である。四辺、皆、山である。小学生のころ、地理ではじめて、盆地という言葉に接して、訓導からさまざまに説明していただいたが、どうしても、その実景を、想像してみることができなかった。甲府へ来て見て、はじめて、なるほどと合点できた。大きい大きい沼を掻乾して、その沼の底に、畑を作り家を建てると、それが盆地だ。もっとも甲府盆地くらいの大きい盆地を創るには、周囲五、六十里もあるひろい湖水を掻乾しなければならぬ。

 沼の底、なぞというと、甲府もなんだか陰気なまちのように思われるだろうが、事実は、派手に、小さく、活気のあるまちである。よく人は、甲府を、「擂鉢の底」と評しているが、当っていない。甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである。


 甲府は〈派手に、小さく、活気のあるまち〉〈ハイカラ〉であると記されている。歴史研究者によると、戦前、空襲で焼けて廃墟となる以前の甲府の中心街には、和風の建物とともに洋風の綺麗な建築が立ち並んでいた。地方としてはそれなりにモダンな街だったようだ。だから〈シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた〉まちが甲府だという洒落た比喩は、戦前の甲府を的確に表現していると考えてよい。〈きれいに文化の、しみとおっているまち〉も、あながち過剰なほめ言葉でもないだろう。残念ながら、戦後の甲府の方が特色のない街になってしまった。


 「新樹の言葉」の語り手〈私〉は〈青木大蔵〉という名の作家であり、太宰治の分身的存在である。〈私〉の乳兄弟の〈内藤幸吉〉、幸吉の妹、光吉の親友である郵便屋の萩野の三人が登場して物語が展開していく。

 物語の冒頭で郵便屋が〈私〉を訪れ、〈「あなたは、青木大蔵さん。そうですね。」「内藤幸吉さんを。ご存じでしょう?」「あなたは幸吉さんの兄さんです。」〉と謎めいた言葉を投げかける。〈私〉は〈白日夢〉を見るようであった。〈銭湯まで一走り。湯槽ゆぶねに、からだを沈ませて、ゆっくり考えてみる〉と〈不愉快〉になってきて〈むかむかする〉。〈私〉はこう思う。

東京での、いろいろの恐怖を避けて、甲府へこっそりやって来て、誰にも住所を知らせず、やや、落ちついて少しずつ貧しい仕事をすすめて、このごろ、どうやら仕事の調子も出て来て、ほのかに嬉しく思っていたのに、これはまた、思いも設けぬ災難である。〔……〕

 〈私〉が風呂から上がって脱衣場の鏡に自分の顔を写してみると〈いやな兇悪な顔〉をしていた。〈私〉の過去が押し寄せてくるように感じる。

不安でもある。きょうのこの、思わぬできごとのために、私の生涯が、またまた、逆転、てひどい、どん底に落ちるのではないか、と過去の悲惨も思い出され、こんな、降ってわいた難題、たしかに、これは難題である、その笑えない、ばかばかしい限りの難題を持てあまして、とうとう気持が、けわしくなってしまって、宿へかえってからも、無意味に、書きかけの原稿用紙を、ばりばり破って、そのうちに、この災難に甘えたい卑劣な根性も、頭をもたげて来て、こんなに不愉快で、仕事なんてできるものか、など申しわけみたいに呟いて、押入れから甲州産の白葡萄酒の一升瓶をとり出し、茶呑茶碗で、がぶがぶのんで、酔って来たので蒲団ひいて寝てしまった。これも、なかなか、ばかな男である。

 新しく歩み出そうとした人生が再び過去の〈どん底〉に落ち、〈悲惨〉へと再び逆転するという不安に〈私〉はとらわれている。これが「新樹の言葉」の底流にあるモチーフである。その不安を打ち消すために〈甲州産の白葡萄酒の一升瓶〉を飲んで寝てしまう。〈なかなか、ばかな男〉だという自虐もある。〈私〉の不安や自虐がどのように変化していくのか。それが物語のテーマとなっていく。

 この場面の〈銭湯〉のモデルは、太宰治がよく通っていた喜久乃湯温泉である。昭和元年創業で現在も営業しているこの温泉銭湯は甲府の朝日町にある。今年六月、甲府遺産に選定された。太宰ファンが訪れることでも知られている。また、一升瓶の葡萄酒はこの地では今でも飲まれている。「新樹の言葉」のディテールはリアルな甲府を感じさせる。この後の展開はぜひこの作品を読んでいただきたい。青空文庫にも入っている。少しだけ触れるなら、甲府中心街の桜町や柳町界隈、岡島百貨店と思われるデパートなどが舞台となってくる。舞鶴城跡の上の広場で〈私〉が内藤兄妹に心の中で語りかける。この場面を最後にして、この物語は閉じられる。


 太宰治は後にこう述べている。

 「新樹の言葉」は、昭和十四年に書いた。からだも丈夫になつた。すべて新しく出発し直さうと思つて書いた。言ふは易く、実証はなかなか困難の様子である。

 この言葉にあるように、太宰は甲府で生活と文学の両面で新しく出発しようとした。過去へと逆転してしまう不安からの解放。自己と他者を信じること。その勇気を持つこと。

 その強い決意が名作「走れメロス」とつながっていく。もちろん、作家本人が言うように〈言ふは易く、実証はなかなか困難〉であるのだが。


2025年10月12日日曜日

9月の甲府Be館 『早乙女カナコの場合は』『この夏の星を見る』『タンデム・ロード』『ふつうの子ども』

9月の甲府シアターセントラルBe館の上映作はバラエティに富んでいた。四つの映画について少しだけ語りたい。


早乙女カナコの場合は


 監督は山梨出身で在住の矢崎仁司。柚木麻子の小説「早稲女、女、男」の映画化。自意識過剰な早乙女カナコ(橋本愛)と脚本家志望の長津田啓士(中川大志)の大学での出会いから社会人へと至る十年間の恋愛模様を描く。過剰なものを抱えながらそれを持て余している二人は、似た者同士ゆえに惹かれ合いながらもときに衝突する。関係が近くなったり遠くなったりの繰り返し。よくある学生時代から社会人までの変化や成長の物語のように受け取られるかもしれないが、異才の矢崎監督らしくそういう定型には陥らない。橋本愛の演技が秀逸であり、特にラストシーンが素晴らしい。観客に何かを問いかける。
 上映後に監督のトークとサイン会があった。僕は「三月のライオン」(1992年)を見て、その繊細な映像と独自な演出に感銘を受けた。彼が山梨県の鰍沢町生まれと知って親しみも覚えた。それ以来矢崎作品はすべて見ているが、この「早乙女カナコの場合は」はこれまでの作風からかなり自由になり、人間が生き生きと描かれている。矢崎仁司監督の代表作になると感じた。サイン会でそんなことを少しだけ話すことができた。矢崎監督が穏やかな優しい表情をしていたことが印象に残った。後日、この映画のことを再び書いてみたい。

この夏の星を見る


 山梨県出身の直木賞作家辻村深月の同名小説を山元環監督が映画化した。2020年、コロナ禍のなかで茨城の高校の天文部の溪本亜紗(桜田ひより)が提案して、長崎の五島列島や東京都心の高校生とスターキャッチ」という天体観測のコンテストをオンラインで実施する。桜田ひよりの強い眼差しに惹かれた。星空の画像や天空の風景が美しかった。「最高で、2度と来ないでほしい夏。」というキャッチコピーがこの映画の世界を端的に述べている。
 小中学生の頃は天文少年だったので、その頃に見た月や星のことを久しぶりに思い出した。甲府の夜空は今よりずっと綺麗だった。この映画を見てもう一度天体望遠鏡で宇宙を眺めたくなる。


タンデム・ロード


 監督の滑川将人(ナメさん)とパートナーの長谷川亜由美(アユミ)がBMWのバイク1台で世界一周を目指した旅を自分たちで撮影したドキュメンタリー映画。30カ国、427日間、走行距離約6万キロの行程の記録である。映像には土地の人々との心温まる交流、美しい風景、事故や故障などの様々なトラブル、アユミの疲労や葛藤が映し出される。逆に、映像に映らなかった場面についてあれこれと想像してしまった。見ているうちにここ数年の映像ではないことに気づく。特に説明はなかったのだが2013年の撮影のようだ。最後の方で現在のアユミとその子供たちの姿が映る。十二年ほどかけてこの映画は完成されたことになる。
 ポルトガルのロカ岬など、昔訪れたことのある場所の光景が懐かしかった。コロナ以降、一度も海外に出かけたことはないが、再び旅をしてみたい気持ちになった。


ふつうの子ども


 子供を描いた映画の中で稀に見る傑作だと断言したい。監督・呉美保、脚本・高田亮。小学4年生、十歳の上田唯士(嶋田鉄太)、環境問題に高い関心を持つ三宅心愛(瑠璃)、問題児の橋本陽斗(味元耀大)の三人が大騒動を起こす。唯士は心愛を、心愛は陽斗を好きという間柄が背景にある。嶋田鉄太の演技が素晴らしい。ふつうではない力量のある子どもがふつうの子どもを演じている。唯士の母恵子(蒼井優)と心愛の母冬(瀧内公美)も好演している。
 現在の子供たちが子供なりに向き合わねばならない〈行き詰まり〉の感覚が的確に描かれている。この難しい時代を〈ふつうの子ども〉たちはどう乗り越えていくのだろうか。


 『早乙女カナコの場合は』『この夏の星を見る』『タンデム・ロード』『ふつうの子ども』。9月はこの四つの作品によって、小中学生や大学生の頃、旅した時へと、時間を遡ることができた。映画を見る私たちはいつも時間を旅している。


2025年10月7日火曜日

十月の金木犀 [志村正彦LN372]

 今朝、仕事に出かけようと玄関を開けて車に向かった瞬間、全身があの甘い香りに包まれた。記憶のなかの金木犀の香りに間違いない。やっと金木犀の季節が到来したのだ。


 毎年、9月の下旬になるといつ金木犀の香りが漂うのか気になって仕方がない。あたかも〈世の中にたえて金木犀のなかりせば秋の心はのどけからまし〉といった心境なのだ。 気温が下がることによって金木犀は開花する。ところが、今年は九月になっても夏のような気候が続いた。志村正彦は「赤黄色の金木犀」で〈冷夏が続いたせいか今年は/なんだか時が進むのが早い〉と歌った。確かに冷夏が続くと夏が短く感じられ時の速度も早くなるような気がする。6月、7月から8月、9月まで非常に暑い日々が連続した今年の夏はとても長く感じられた。時の速度もゆっくりとしていた。まるで永遠に夏が終わらないようでもあった。


 このブログでは毎年のようにこの時期に金木犀の報告をしてきた。2022年には〈毎年、甲府盆地では9月の26日か27日頃に香り始める〉と書いてある。しかし、2023年は10月15日の日付で〈数日前から、金木犀が香りだした。今年は遅い〉とあり、10月10日頃だったようだ。2024年は10月17日の日付で〈一昨日から、家の周りからあの特別な香りが微かに漂い始めた。例年より二十日以上遅いことになる〉とあるので、10月15日だった。今日は10月7日。ということは去年よりも一週間ほど早かったことにはなる。

 2023年、2024年、2025年と三年続きで10月の第一週から第二週にかけて開花しだしたのは、実感としてはやはり、夏の季節が長く続き、秋の到来が従来より遅くなっているからであろう。


 金木犀が香り始めた今日、志村正彦・フジファブリックの「赤黄色の金木犀」ミュージックビデオ(YouTube フジファブリック Official Channel)と歌詞の全部を紹介したい。




  「赤黄色の金木犀」 (作詞・作曲:志村正彦)



  もしも 過ぎ去りしあなたに
  全て 伝えられるのならば
  それは 叶えられないとしても
  心の中 準備をしていた

  冷夏が続いたせいか今年は
  なんだか時が進むのが早い
  僕は残りの月にする事を
  決めて歩くスピードを上げた

  赤黄色の金木犀の香りがして
  たまらなくなって
  何故か無駄に胸が
  騒いでしまう帰り道

  期待外れな程
  感傷的にはなりきれず
  目を閉じるたびに
  あの日の言葉が消えてゆく

  いつの間にか地面に映った
  影が伸びて解らなくなった
  赤黄色の金木犀の香りがして
  たまらなくなって
  何故か無駄に胸が
  騒いでしまう帰り道


 大学で担当している「日本語スキル」という科目は読解力・思考力・表現力を育成するものだが、後期開始の9月下旬の授業ではここ数年「赤黄色の金木犀」を取り上げている。日本語の詩的表現について考えるためだ。今年も先週行ったが、その際の学生の感想を記したい。


  • 私は金木犀が大好きなので、最初に映し出された時にどんな歌だろうと思ったが、実際に聴いて歌詞を見てみて、志村さんの作詞能力がどれほど優れていたかが伝わった。
  • 「赤黄色の金木犀」は最初と最後が切ない感じでしたが中盤が盛り上がっていてアップダウンが激しい曲だと思いました。
  • 時間が過ぎるのが早く焦り始める気持ちが、今の私と重なる部分がある。
  • 志村正彦さんの作詞力とメロディの乗せ方が上手で、その時代に生きていたかったと思うとともにその才能が存分に発揮されなかったことが非常に悔やまれるなと思った。


 志村正彦の優れた作詞能力、最初・最後・中盤のテンポ、時間と焦りの感覚についての的確な指摘があった。最後の学生は〈その才能が存分に発揮されなかったことが非常に悔やまれる〉と述べている。志村がその短い生涯で才能を十分に発揮したことは言うまでもないが、この学生が言いたかったことはおそらく、志村が今も存命であればその才能をさらに発揮して素晴らしい作品を創造したが、それが現実として叶えられなかったことに対する〈非常に悔やまれる〉想いを伝えたかったのだろう。同じような想いを私も抱いている。


 毎年、この秋の季節に「赤黄色の金木犀」の歌を聴くと、たまらなくなって、何故か無駄に胸が、騒いでしまう。


2025年10月5日日曜日

飯田蛇笏・飯田龍太文学碑碑前祭/「若者のすべて」を詠む短歌 [志村正彦LN371]

  一昨日10月3日は、山梨出身で近代俳句を代表する俳人、飯田蛇笏の命日だった。この日、甲府の「芸術の森公園」で「飯田蛇笏・飯田龍太文学碑碑前祭」が開かれた。蛇笏の孫、龍太の息子である飯田秀實氏が理事長を務める「山廬文化振興会」が主催する会で、今年で十一回目を数える。蛇笏、龍太の碑のそれぞれに居宅だった「山廬」で摘まれた花が供えられた。

 この日のための「碑前祭句会」には国内外から566句の応募があり、最高賞の「真竹賞」には仲沢和子さん(山梨県北杜市)の「雲の峰父子それぞれの文学碑」が選ばれた。応募されたすべての句は冊子に閉じられて文学碑に献句され、俳人の瀧澤和治氏と井上康明氏がおのおの二人を偲ぶ話をされた。関係者や受賞者など60人ほどの参加者が飯田蛇笏と飯田龍太を追悼する特別な場であり、貴重な時間であった。

 

 「山梨県立文学館」の研修室での授賞式の後、私が「飯田蛇笏と芥川龍之介」という題で五十分ほどの講話を行った。飯田秀實理事長からの原稿依頼をいただいて、ここ一年半ほどの間、山廬文化振興会の会報「山廬」に四回に渡って「蛇笏と龍之介」という批評的エッセイを書いてきた。その原稿を元にしてスライドを作成して、二人の交流の軌跡を六つの観点を設定して振り返った。

  芥川龍之介は「ホトトギス」大正7年8月号の雑詠欄に「我鬼」の俳号で「鍼條に似て蝶の舌暑さかな」他一句を投句し、蛇笏が「雲母」大正8年7月号で「我鬼」が龍之介と知らないまま「鍼條に」句を「無名の俳人によって力作さるる逸品」と評価したことを契機として、二人の交流が始まる。手紙のやりとりや書籍・雑誌の贈答を通じてのものだったが、この二人には深いつながりやきずながあった。このテーマについては今後このブログでも書いてみたい。


 * * *


 〈甲府 文と芸の会〉を結成したこともあり、最近は地元の「山梨日日新聞」の短歌・俳句・川柳・詩の投稿欄を読むことを楽しみにしている。ほとんどが山梨県内の愛好者からの投稿であり、山梨の風景や生活に根ざした作品が多い。生活者の眼差しからの言葉に感銘を受けることや学ぶことが少なくない。毎週日曜日に掲載されるので、今日10月5日の朝、投稿欄に目を通すと、選者の歌人三枝浩樹氏に佳作として選ばれたある短歌に目が釘付けになった。


○「若者のすべて」が流れる夕暮れは若者だった頃を思いて   北杜 坂本千津子

 

 三枝氏は選評でこう述べている。


富士吉田市出身のフジファブリック、代表曲の「若者のすべて」の流れる夕暮れ。その歌に耳を澄まして「若者だった頃を」しみじみと想起する坂本さん。名曲は時代を超えて、かく人の心に甦る。


 三枝氏の選評がこの短歌のすべてを的確に語っているので、専門家でもない僕が付言することはないのだが、一つだけ触れるならば、志村正彦・フジファブリックの「若者のすべて」が短歌の中にこのように詠み込まれ、深い感慨を覚えたことである。山梨県北杜市在住の作者坂本千津子さんは「若者だった頃を思いて」とあるので、ある程度の年齢の方だと推測する。年齢や世代を超えたこの歌の広がりを感じる。

 実際、7月の「若者のすべて」と12月の「茜色の夕日」が富士吉田の夕方の防災無線で流れることはほとんど毎回、地元のNHK、YBS山梨放送、UTYテレビ山梨のニュースで放送され、山梨日日新聞に掲載される。山梨県民のかなり多くの方(ほとんどすべて、と言ってもよいくらいに)が志村正彦とその歌の存在を知っている。


 三枝浩樹氏の「名曲は時代を超えて、かく人の心に甦る」という言葉を記憶しておきたい。

 この「かく」はこの歌を聴いたすべての人のおのおのの心のなかにある。時の流れのなかにあるもの、大切なかけがえのない何かを、それぞれの姿で蘇らせる力が「若者のすべて」にはあるのだろう。


2025年10月4日土曜日

11月3日公演の申込者数(10/4 現在)

今日 10/4 現在、 〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉の申込者は、81名になりました。お申し込みいただいた方には感謝を申し上げます。

残席が少なくなってきましたので、参加希望の方はお早めにお申し込みください。

2025年9月25日木曜日

11月3日公演の〈申込フォーム〉設置

11月3日(月・祝日)、こうふ亀屋座で開催される〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉の〈申込フォーム〉をこのブログのトップページに設けました。

この〈申込フォーム〉から一回につき一名のみお申し込みできます。記入欄の三つの枠に、 ①名前欄に〈氏名〉  ②メール欄に〈電子メールアドレス〉  ③メッセージ欄に〈11月3日公演〉とそれぞれ記入して、送信ボタンをクリックしてください。三つの枠のすべてに記入しないと送信できません。特に、メッセージ欄へ何も記入しないと送信できませんのでご注意ください。(その他、ご要望やご質問がある場合はメッセージ欄にご記入ください)

申し込み後3日以内に受付完了(参加確定)のメールを送信しますので、メールアドレスはお間違いのないようにお願いします。3日経ってもこちらからの返信がない場合は、再度、申込フォームの「メッセージ欄」にその旨を書いて送ってください。

*メールアドレスをお持ちでない方はチラシ画像に記載の番号へ電話でお申し込みください。 

*先着90名ですので、ご希望の方はお早めにお申し込みください。よろしくお願いいたします。

2025年9月17日水曜日

11月3日公演情報、「こうふ亀屋座」HPに掲載

 本日9月17日、「こうふ亀屋座」のホームページの「お知らせ・イベント」欄に、 

【2025.11.3】太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会

 の情報とフライヤー画像が掲載されました。

 青字の部分をクリックするとHPが開きます。

「こうふ亀屋座」の御担当者様、どうもありがとうございました。