小川洋子の『サイレントシンガー』が志村正彦の歌を喚起させた、と前回書いたが、今回はこの小説の重要なモチーフについて、ストーリーに触れることは最小限にしながら書いていきたい。
「内気な人々」が「アカシアの野辺」と名付けられた土地に集まって暮らしていた。内気な人々は沈黙を愛していた。十本の指を駆使した指言葉でつつましく会話していた。
リリカのおばあさんは長年のあいだ雑用係として「アカシアの野辺」で働き、行方不明となった男の子のために人形をいくつも作った。おばあさんはリリカに「人間は、完全を求めちゃいけない生きものなのさ」「余分、失敗、屑、半端、反故、不細工……。そういう、不完全なものと親しくしておかなくちゃ」と答える。人形の材料はすべて野辺で手に入れた不完全なものだった。
おばあさんは、野辺で売っているお菓子にはわざと小さな「不完全」をしのばせてあるという内緒話もする。この「不完全」というのは、例えば、星形バタークッキーの詰め合わせの中に一つだけヒトデ形が混じっている、という程度のたわいないものだったが、おばあさんはその「不完全」が「ささやかな幸運の印」であり、「野辺の人たちは、完全なる不完全を目指している」と格言めいたことを言う。
リリカはおばあさんに育てられ、歌うことを覚えていく。リリカの歌はどこからともなく評判となり、仮歌の仕事が入るようになった。ケーブルテレビ局のテーマ曲、コンペに出すアイドルソングなど地味な仕事ばかりだったが、リリカに不満はなかった。依頼者が望む声を差し出して、どんなふうにでも歌うことができた。歌に正解はないからだ。それでもときに、依頼側の理想に応えられないで責められることもあった。
話者はリリカの内部の声を次のように語る。その箇所を引用する。
そういう時は、歌は自在に姿を変えられる風なのだから、自分を空っぽにして、その風に身を任せていればいい、と言い聞かせ、一度深呼吸をした。胸を満たすのは野辺の沈黙だった。すると自然に、再び声があふれ出てきた。
自分の歌はどこへ消えてゆくのだろう。スタジオからの帰り、車を運転しながら時折考えた。自分の歌はお手本などと高われるほど立派なものではない。鬱陶しがられないよう、本物の歌手の耳元に潜み、もし必要なら、行き先をほんのわずか照らして差し上げましょうか、とささやくだけだ。レコーディングが終われば、仮歌はもう必要ない。それ以前に、選ばれなかった無数のパターンの仮歌は既に捨てられている。ひととき存在したわずかな証拠も残さないまま、蒸発している。
料金所の彼が忘れ去られた文字を蘇らせるように、仮歌の痕跡をたどる何ものかが、この世界にはいるのかもしれない。不完全さがもたらす善きものを、受け止めようとする誰かが。
リリカは仮歌の歌手であり、本物の歌手からすると「不完全」な存在である。仮歌は常に既に捨てられ、消えていく。それでも、「不完全」な仮歌の痕跡をたどる聴き手がこの世界にいるかもしれない。その聴き手は「不完全さがもたらす善きもの」を受け止めようとするだろう。
「野辺の人たち」が目指している「完全なる不完全」とはどういうものか。「完全」と「不完全」は対立する概念である。その二つを結びつけた「完全」「なる」「不完全」という表現は矛盾しているとも言えるが、「不完全」なものを「不完全」なものとして内包したまま、そのままに、「完全」なものとなっていく過程を示した表現だと考えてみたい。「完全なる不完全」なものが人に「善きもの」を与えることができる。
この「不完全さがもたらす善きもの」という表現について考えているうちに、志村正彦・フジファブリックの作品が思い浮かんできた。完成された彼の歌は、声も言葉も歌い方も完全な水準に達している。しかし、その完全のなかにはある種の不完全が痕跡のようにして刻み込まれている。そして、その不完全さが聴き手に「善きもの」をもたらしている気がする。
(この項続く)